米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第149回)
五、激烈なる排日熱
ぼくの記憶がしっかりしていて確かならば、かつて在シドニー日本総領事の齋藤氏は、休暇で帰国する途中、オーストラリアにおける排日思想の傾向について、すこぶる楽観的な説を述べられていたようである。しかし、それは政府の立場から概括的に、つまり、全オーストラリアとして見た場合の抽象的な所感のようである。
「王侯は山河を見、田舎者は畑の生育具合を見る」である。
二十日あまりのフリーマントル停泊中に、親しく在西オーストラリアの労働者から聞いた当地の日本人に対する感情は、さすがにいろいろ考えさせられるものであり、得るところも多かった。
「まず第一に驚くのは、西オーストラリアでは、日本人の手からすべての職業鑑札(ライセンス)を取り上げる」と、口を切った一人の在留同胞(ざいりゅうどうほう)は、悲しげに、しきりと豪州の官憲および労働組合(ユニオン)の横暴を憤慨(ふんがい)する。
彼らは日本人と見れば、あたかも仇敵(かたき)にめぐりあったかのように、すべての職業に就(つ)くことを妨害する。日本人には一切の機械を扱わせない。電車、汽車、自動車、工場等には黄色い顔の一つすら認めない。
洗濯屋以外の独立した商売はいつも、白人の労働組合(ユニオン)の間接または直接の妨害のために失敗する。たとえば、日本品を輸入していざ雑貨店を開くとなると、非買同盟(ボイコット)はもちろん、白人の労働者が店先に群集して顧客(とくい)の出入りを妨害する。
「いやはや、実に……なんとも……」と語りながら、われとわが境遇を蔑(さげす)み嘲(あざけ)るように、われ知らず微笑(ほほえみ)を漏らした彼は、「次に驚くのは、西オーストラリアでは(白人の)保証人がないと、日本人はホテルに宿泊(とま)ることができない」と、語り続ける。もちろん家を貸す者はなく、耕地を貸す者もなく、金鉱区で使おうという者もない。
過酷な人頭税はひしひしと在留同胞の頭に課せられ、生まれた子はただちにシンガポール付近に送るべく命令され、一九〇六年の法令*発布以後、日本人は妻を迎えることを禁じられたという次第。ことに近年、日本人は絶対的にその入国を禁止され、事実において、在西オーストラリアの日本人はブルーム地方(真珠の産出地)**在住の千人あまりに限定されているような悲しい境遇にある。
* オーストラリアの白豪主義の法的根拠となったのは、一九〇一年制定の移民制限法と太平洋諸島労働者法で、これは頻繁に細かい改正が繰り返されたので、その一つを指すと思われる。
** ブルーム地方はインド洋に面した西オーストラリア北西部にあり、真珠の世界的産地である。
御木本幸吉が確立した真珠養殖の技術がブルームにもたらされた際に、パール・ダイバーと呼ばれる真珠養殖の潜水士として、多くの日本人も移住した。
学童問題や土地所有権問題で怒りを爆発させている在米同胞などは、オーストラリアの現状を踏まえて相対化して見れば、まだまだ贅沢(ぜいたく)な方じゃないかと、自暴(やけ)半分の啖呵(たんか)をきって、その男はカラカラと笑った。
なお、聞くところによれば、同じ黄色人種でも、日本人はまだまだ迫害の程度は少ない方で、インド人、中国人に至っては、見るも気の毒なほどの冷遇を受ける。
既得の土地や家屋は評定価格で政府が買い上げ、どんどん行政的に退去処分をする。所有の果樹園はこっそりと薬品で枯らしてしまう。金鉱地はもちろん居住地を中心として六十マイルの圏外に踏み出すことさえ禁止されている。
一方、白人の移民はすこぶる歓迎され、政府支弁の旅費のもとに、わずが五十円の「見せ金」で二十エーカー(約八万平米、東京ドーム二個分弱)の土地を無料で借地することができる。この「白人」のうちには、欧州人が異端視するトルコ人さえ含まれていたというに至っては、いかにオーストラリアにおける日本人の待遇が低いかを思い浮かべることができよう。
かかる迫害排斥の原因は、おおよそ三種に分けることができる。
第一は、ヤンキー気質(かたぎ)の私淑(ししゅく)である。
西オーストラリアでは実に不思議なほど米国人を優待し、ヤンキーイズムに憧憬(あこが)れている。その結果、米国製品は何らの課税なく輸入され、米国に「排日」が起こると、たちまちその波動は西オーストラリアの山野に反響するのである。
第二は、例のさもしい「殖民根性」である。
今日、西オーストラリアで大臣、参議といっている輩(てあい)の素性を洗えば、元はみな「五十円の見せ金」で黒パン片手にやってきた連中なので、労働問題から排日という着想を得るのは珍しいことではない。
第三は、女性に好かれていないということ。
元々、西オーストラリアは女が少なく、また、その少ない女連中の鼻息が荒いところである。
すべての宿六(やどろく)はその座布団であるといっても差しつかえない。
ところがどうした加減か、その御台所(みだいどころ)がまたそろって日本人がお嫌いとある。
となると、どういう結果になるかは容易に推測がつく。
* 白豪主義 一八世紀後半に大英帝国(当時)がオーストラリア大陸を植民地化して以降、一九七五年に人種差別禁止法が制定されるまで、現在では想像もできないが、歴史的事実として、オーストラリアでは白豪主義と呼ばれる極端な白人優遇政策が採用されていた。
植民地化の当初から、英国をはじめとする入植者には、有色人種に対する反感が強く、アボリジニと呼ばれる原住民との軋轢(あつれき)や迫害も多かった。
日本人観光客にも人気のハミルトン島やグレートバリアリーフなどがある北東部のクイーンズランド州が連邦裁判所で敗訴し、原告のアボリジニ等に謝罪して賠償の支払に同意したのは、つい最近、二〇一九年のことである。
大英帝国は一八三三年に奴隷制を廃止したが、その一方で、一八五一年にオーストラリアで金鉱が発見されると、西オーストラリアを含む各地でゴールドラッシュがはじまり、労働力不足の解消が植民地政府の最大の課題となった。
広大な国土と豊かな天然資源の開発、それに必要な労働力確保のため、インドや中国からの移民が急増する。
日本からも移民が増えたが、これは主に真珠貝の採取や砂糖農園の労働者として、だった。
大量の移民によって仕事を失う人々の感情や、宗教や文化、習慣、肌の色の違いに起因する対立は、現在でも、オーストラリアに限らず、各国で起きている。また、現代の日本においても見られる現象である。
この航海記には寄港先で見聞した「排日」についての記述も多いが、実際には、日本に的を絞った運動というよりは、広くアジア系やアフリカ系の有色人種に対する排斥感情によるものであることが多い。
第二次世界大戦の際には、オーストラリアは自国も一員であった連合国の、同盟関係にあった米軍に対し、黒人部隊の上陸を拒否したほどである。