米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第135回)
大成丸の世界周航が行われていた当時、ブラジルへの移民は日本においても世界においても最も注目を集める出来事の一つであったため、この航海記でも現地からの報告がもうしばらく続きます。
来年(2021年)一月から、オーストラリア経由で帰国の途に就く航海がはじまります。
三、各国からの移民の状況
ブラジルの移民には、自由移民と契約移民との二種がある。その名のごとく、後者は共和国または州との契約の下に行われるものであるが、前者はプロパガンダ(カトリック)教徒*に対する奨励を受けて欧州から入国し、過去の統計において最も多数を占めている。一九〇八年にこの種の移民で成功者として帰国した者がリオ州に四万六千人、サンパウロ州で四万人もあった。
* プロパガンダ 現在は特定の主義主張の宣伝戦略活動の意味で使われるが、カトリックの布教宣伝機関がプロパガンダ(布教聖省)という名称であったことから、カトリック教徒を指す言葉として使われた。
その後、特定の思想や信条を宣伝・勧誘すること自体をプロパガンダと呼ぶようになった。
一九一〇年に入国した欧州移民は総計八万八千六百人である。そのうちの四分の一はイギリス船で、五分の一はフランス船。各一割八分はドイツおよびイタリアの船で、一割五分はブラジル船で渡航した。
これを見ると、その国の南米に対する海運業の状況がわかる。しかして、六万二千人の自由移民の三分の一は家族をなすもので、二万六千人の契約移民の六割は家族同伴である。これは、日本からの移民関係者にとって大いに参考となるだろう(今後の移民は家族同伴で、事実上、永住する決心を要することになる)。さらに、八万八千人のうちの約四割は大工であることも、また別の意味で興味深い現象である。いかに高い工賃(大工一日の報酬は三円ないし六円)に苦しめられているブラジル人が外国からの大工の供給を切望しているかを物語っている
一九〇七年の統計によれば、欧州移民の合計は六万八千人で、ポルトガル人が二万五千六百人、イタリア人が一万八千二百人、スペイン人は九千二百人、トルコ人は一万五百人という順序である。この番付が一九一〇年になると、だいぶ変化してきていて、スペイン、ドイツ、オーストリア、ロシア、イギリス、フランス等がめきめきと頭角を現し、次のような数を示している。
国名 | 人数 |
---|---|
ポルトガル | 30857 |
スペイン | 20843 |
イタリア | 14163 |
トルコ | 5257 |
ドイツ | 3902 |
オーストリア | 2900 |
ロシア | 2462 |
フランス | 1134 |
イギリス | 1087 |
北米 | 344 |
最近における移民供給国の番付はこんなものだが、ブラジル国内における入国民の分布はどうなっているのだろうか。
交通上の便・不便、気候、資源、土地が肥沃かやせているか等の事情でむげに断言できないが、今のところ、また近い未来においても、最も多く入国していてまた歓迎する傾向を示しているのは、ブラジル国二十州のうち最大の勢力を持つサンパウロ州である。これは同国における交通の便利、珈琲(コーヒー)の栽培気候の良好にもよるだろうが、同州が一八八四年に率先して奴隷廃止を行い、鋭意外国移民の輸入に努めたのと、同州の対海外門戸となっているサントス港における輸入移民を待つ設備の完備とが最大にして最有力なる要素をなしたものらしい。
海外発展において先天的にも後天的にも、卓絶する手腕を有するお隣の中華民国の国民はとみれば、いやもう、お早いことでござる。日本人よりもすでに三十五年前の一八七四年に千人近い数が入国している。
現にリオでも、在留同胞は七名に足りないのに、中国人は五百名の多きに達し、それらが皆、日本人でござる、大和商行(やまとしょうこう)でござるなどと、盛んに大和(やまと)という看板を売りにしているというに至っては驚かざるをえない*。
* 日清戦争後に締結された下関条約(一八九五年)により台湾は清国から日本に割譲され、第二次世界大戦終了まで日本の統治下にあった。商行は大きな会社などを指す。
日本人はといえば、一九〇九年に八百二十七人、一九一一年に千二百人、一九一二年に千五百人、一九一三年に三千人、都合六千五百人の入国民を数えるにすぎないが、その成績はすこぶる良好で、近年最も歓迎の態度を示しているのはやはりサンパウロ州である。
このように毎年十万人ほどの移民が入国しているにもかかわらず、ブラジル国の最も便利な海岸地方(四千マイルにわたる)でさえ、一平方マイルわずかに十人の人口密度を有するにすぎない。