米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第128回)
ペトロポリス行
電車でプライア・フホルモサという停車場に行く。
案内してくれるのは、公使館の書記生の大谷さんである。
四月二十二日、左舷直員*はペトロポリス日本公使館**に招待される、とある。そのプログラムをこうやって実現しつつあるところなのだった。
* 左舷直員 大成丸の生徒は、航海中、見張り当番に関して、右舷担当と左舷担当に二分されていた。
** ペトロポリス リオ北東の山間部にある避暑地としても人気の古都。
当時、日本を含む外国公館の多くが集中していた。
左下隅がリオデジャネイロのあるグアナバラ湾
白い檳榔樹(ロイヤルパーム)の花が悠揚(ゆうよう)と雫(しずく)するマンゴの運河を渡ったぼくらの電車が、景気よく停車場の構内にすべるように入って、ピタリとペトロポリス行きの汽車と相対するプラットホームの片側についたのはなかなか気の利いた処置であったが、停車場そのものは、一国の首都とブラジル国一の別荘地とを連絡する門戸としては、あまりに心細いものであった。
木目がささくれだったプラットホームのつきるところに、粗末な荒削りの急造の建物がチョコナンと立っている。真ん中に申し訳程度の事務所があって、その隣の Buffet (ビュッフェ)兼新聞総覧所には、婆さんが青や赤など、いろいろの酒を売っていたのは、ちょっと奇妙に思われた。
涼しそうな籐椅子に身をもたせて、精水濾器(フィルター)の鎖が汽車の振動につれて瀬戸物にさわる音を聞いていると、隣の車両から景気のよい笑い声がさかんに洩れてくる。行ってみると、大谷さんが例の怪気炎(かいきえん)をさかんに燃やしている。
各列強のブラジル国内における利権樹立の競争から、イタリア人は現在百五十万人もいて、農業一切を独占しているとか、サンパウロの珈琲(コーヒー)の話から、植民の模様、一九一二年十二月三十一日にイタリア国王室は勅令をもって自国民のおびただしい数にのぼる自発的な移民を禁止する必要をすら認めたほどの勢いでイタリア人が移住してきているとか、話はそれからそれへと飛んで、カリフォルニアの土地所有権問題から霞ヶ関の外交方針の棚卸(たなおろ)しに及んだとき、汽車はアシやヨシの生い茂る草原帯に入った。
すると、このくらいの土地は時価一町五円から十円くらいのものだとか、東京シンジケート*は先年、移民輸入の斡旋(あっせん)に対する報酬として、五万町からの肥沃(ひよく)な土地をうまうまとただで貰ったとか、しきりとしゃべっているうちに、汽車はやがてオルト・ダーセラというセラ・ダ・エスツレラ山中の一小駅に着いた。
* 東京シンジケート 米国留学経験を持つ青柳郁太郎(一八六七年~一九四三年)が設立した、ブラジル移民を推進するための企業組合。
本文に記載された内容は、大成丸が世界周航に出発する直前の一九一二年三月、サンパウロ州政府と東京シンジケート間で、五万ヘクタールの州有地を無償提供する契約が締結されたばかりのことを指し、当時の最新ニュースでもあった。
この翌年、ブラジル移民事業はブラジル拓殖株式会社に引き継がれる。
まず土地を確保したことで、移民になればお金がなくても農地が持てるという夢の実現が可能となり、これをきっかけに日本人のブラジル移民事業が発展していくことになる。
ペトロポリスはこの山脈を登りきった海抜二千八百フィート(標高約八百メートル)の高原地にあるのだが、その間の一マイル半はアプト式*になっているため、リオ・デ・ジャネイロから二十七、八マイルを二時間で突破してきた汽車も、ここからはエンヤラエンヤラと、さも苦しげに登っていく。一マイル半を半時間もかかるのはウンザリするが、のろいので、シダ類がものすごく繁茂している深山幽谷のたたずまいを、心ゆくばかり眺めることができた。
* アプト式 急こう配の線路で車輪が滑らないよう歯車をかみ合わせて登る方式の軌道。
十時半頃、ペトロポリスに着いた。
いかにもブラジル国第一の避暑地の名に恥じぬ幽遠(ゆうえん)で静かな地である。暑苦しいリオに比べると、薫風に乗じてオーブンの中から新緑したたらんばかりの緑陰に転居したのかの観がある。南半球で日本とは季節が逆になる夏の十一月から三月までの三伏(さんぷく)の候(こう)には、大統領をはじめリオの上流階級や政治財政の中心が一時に移ってしまうのも無理はないと思う。しかし、例の大下水改築後、あの恐ろしい黄熱病もなくなり、リオも案外よい健康地となったから、北米合衆国、ポルトガル、アルゼンチンのごとき密接な利害関係を有する国では、率先してその公使館をリオ首都に移し、他の列強もようやくそれにならおうとする傾向を持っている。
片側によくきれいに片づいた運河を控えた、細長い「十一月十五日(ルア・キンゼ・ドノベンブロ)の大通り」*を進んでいくと、ドンジュアン王以来のクラシカルな気分が涼しい山間の都市に特有な、しんみりした大気と一緒になって、清新な印象に飢えている船乗りの心に快く響いた。
* 十一月十五日 ブラジルの共和制宣言記念日。ブラジルの祝日の一つ。
「十一月十五日の大通り」から分かれて静かな屋敷町となった小路が、大きなだだっ広い公園に突き当たろうとする角に、花模様の鉄柵で広々とした宅地を取り込んだ一構(ひとがま)えが目指すところの日本公使館である。
鉄柵の隙間からきれいな草花がチラホラと目に入ったが、漂泊流転(ひょうはくるてん)の船乗りがその愛国懐郷(あいこくかいきょう)の思慕の念を注ぐべき唯一の日章旗はあいにく旗竿(はたざお)に見えなんだ。秦(はた)新任公使がまだ来ないためだろう。
公使館は粗末なプラスター(漆喰)塗りの木造家屋で、板(プランク)の合わせ目が波模様をしているのが強い印象を残した。三方にベランダをめぐらし、楣石(リンテル)*には楕円形の板の真ん中に燦爛(さんらん)たる菊花(きくか)の御紋章があって、「日本公使館」 “Legação do Japão” 上下二行の金文字が記されてあった。一八九七年と台石(だいいし)に建造年時を刻んだポルチコ(ポーチ)を上って右手の応接室に入ると、なんだかくすんだ色の服の上に、紋羽二重(もんはふたえ)の紋付きを賑やかに羽織(はお)った奥さんが出て丁寧(ていねい)に挨拶(あいさつ)される。
* 楣石(リンテル) まぐさ石とも呼ばれる、窓や出入口の上に水平に渡した石。
十一時頃、裏庭で一同撮影したのち、目もさめるような熱帯植物の涼しき木陰で、ブラジルゼミの不思議な鳴き声を聞きながら、かねて設(しつら)えた戸外食卓(こがいしょくたく)で、いろいろのごちそうになる。有名なブラジル柿とブラジル羊羹(ようかん)とで、そぞろに懐旧の念をやりながら、慎ましやかに物語られる奥様のお話をうけたまわる。シカゴ市に一番長くおられたとか、ブラジル語のにわか稽古には困られたとか、今年でもう二年になるが、まだ一度もリオに行ったことがないとか、ペトロポリスにある婦人連の会合にはいつも日本服で行くとか、外交官の奥様にはふさわしからぬことを仰(おお)せられる。
ちょっと散歩に参りましょうと誘われるままに末義(すえよし)君と一緒に市中見物に出かける。
末義(すえよし)君は当年とって六歳(むっつ)。黄金にも玉にも替えがたい奥さんの秘蔵っ子である。したたらんばかりの愛嬌(あいきょう)を持った愛くるしい唇から、ときどきひげ面の大男の肝を潰(つぶ)すような、年長(ませ)たことを言う。
「坊ちゃんは散歩がお好き?」と聞くと、水兵帽を戴いた頭を傾けながら、「エ、私(わたくし)毎朝父様(とうさん)と散歩します。今日は皆様(みなさん)と一緒に方々歩きますから、夜はよく寝られますでしょう」などとやる。
どうもやりきれない。一人と一人ではとても太刀打ちができそうもない。河の向こう側を歩いている友だちにさっそく援兵(えんぺい)を頼む。チョコチョコと河端に駆けてゆくので、危険(あぶな)いと友が注意すると、「いえ、ちっともご心配にはおよびません」などと、たちまち凹(へこ)ませる。この坊ちゃんの案内で、帝政時代にドンビードロ王の宮殿に用いられた宗教学校に行って、質朴(しつぼく)英邁(えいまい)な賢主(けんしゅ)の跡を訪ね、荘厳な大統領の避暑官邸を眺めた後に、大谷さんが好(い)い物を見せてやるからというままに、ペトロポリス中学校に行くと、かわいらしい子供が楽手(がくしゅ)や鼓手(こしゅ)を先頭に一列また一列、分列式を序列して敬意と歓迎の気持ちを示してくれた。
すっかり満足した結果、いささか招待疲れの気味で、うつらうつらと気持ちよい夢心地に遊んだ一同を乗せた列車は、三時半にリオに向かってこの懐かしい古都を離れた。
バラバラという爽やかな軽い水音に驚かされて目を開けると、汽車は下り路の勢い急にもう平地に出ている。熱帯地方のさっぽりした夕立が、広葉樹の青い広い葉の一枚一枚に墜ちて、葉末から葉末へとしたたり墜ちる涼しい雨が最後にポタリポタリと樹下の静かな小川にこぼれる、という情緒のある光景が汽車の窓を眺める目に飛び込んできて、思わず体中に脈々たる壮快味の行き渡るを覚えた。