米窪太刀雄（よねくぼ たちお）著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活（連載の第１２５回）
慈善救済の設備
やれ危ないと思わず心に叫んだときは、もうすでに遅かった。張り子の人形を踏みつぶすように一人の男がペタペタと前輪（くるま）の下にまきこまれて、自動車のドライバーがあわてて飛び降りる様子が、砂塵（すなけむり）もうもうたるなかで遠くかすんで見えた。
電車、馬車、自動車が互いのバンパーをきわどくすれ違わせて激しく往来するキンゼ・ド・ノメムブロの広場（プラサ）である。
時は四月十八日第一上陸日。ファローの埠頭（はと）から浮浪人（ビーチコーマー）の間をすり抜けて一歩進んだ午後の出来事である。
日本で言えば橋梁（きょうりょう）課の技手（ぎしゅ）といった風采（ふうさい）のリオの巡査が、騒がず迫らず悠揚（ゆうよう）と電話ボックスに入ったと思ったら、たちまち一台の救急車（アンブラン）が風を切って駆けつけて来たのには感服した。
感服したのはこれのみならず、当然のことながら加害者であるはずの自動車の運転手が、瀕死（ひんし）の被害者を足下（そくか）に踏みつけたまま平然と車上にそり返っておったことであった。後で聞いた話だが、過失が被害者に存在しうべき状態にあるときは、加害者は治療代さえ支出すれば平然と車上にそり返っていられるそうである。
かくして自動車の運転手と巡査とアンブランの隊員とが鳩首（きゅうしゅ）五分ばかりした後、無造作に車輪の間から引き出された被害者は、アンブランに乗せられて、砂を煙りとどこかへ運びさられた。
自動車の往来が頻繁なリオ市では、かかる出来事は一日に十五件や二十件を下らないそうであるが、かかる被害者はことごとく市立慈善病院とか富豪の資金提供による施療院とかに収容され、手厚い介抱と治療とを受けた後、医療費は請求せずに退院させるので、ある意味から言えば、怠け者の製造機関とも受け取られるが、いかに円満に理想的な社会政策が行使されているか、これを見ても、その一般を知ることができる。
リオ市は一時かの有名なる黄熱病をはじめとして結核や天然痘、梅毒等のあらゆる病毒の巣窟（そうくつ）たる観を呈した時代もあって、歴代の当局者はよほどこれに頭を悩ましたが、オマハルトクロス博士の進言した政策と設計によって、全市内に大規模な下水道を埋設し、各所で滞留した水を下水道またはマンゴ運河に排出するに及んで、まったくこれらの病菌の発生を絶つをえた。これはかつて、かの有名なるメイジョア・アラス博士がインドに用いて、見事にマラリヤ熱を撲滅（ぼくめつ）させた実績から教訓を学んだもので、当初の目的は、メキシコのベヤクルスと並んで世界の二大発生地といわれたブラジルの黄熱病を駆除するにあったのだが、予想外の大成功を博したのであった。この大規模な下水建設と衛生組合の発起とは、リオ市の慈善救済事業および公衆衛生事業の発展させ規律を引き締める上で大いに貢献があったとされる三大事業である。
衛生組合の中で最も顕著なものはリオやビヒア、サン・パウロ、ペルナンブーコ等を一括した「防結核病組合」なるもので、飲酒と喫煙とに課した重税からその費用を支出し、南米一という設備を有する付属大病院がある。この組合と提携して多くの国立、市立、州立、私立の病院組合や慈善病院、施療院などがある。
多くの養育院の中で最も有名なものはインセイン養育院で、そのほかに寺院や修道院に付属する病院は枚挙にいとまが無く、五十余の私立慈善組合は孤児院や養老院や修道院や病院や伝染病隔離所と直接に連絡している。メルシイ姉妹によって一五四五年に創立され、南米一と称せられるサンタ・カサダ・ミセリコルドイア病院はその白眉（はくび）たるものである。
故（ゆえ）に、リオにおいては行き倒れになった病人は慈善病院へ、家貧（ひん）にして捨てられたた子は孤児院へ、扶養してくれる子のない老人は養老院へ、堕落（だらく）して不良児童となった少年少女は修道院へ送られる。その社会組織の完備せることは傍目（わきめ）にもうらやましきほどである。
公衆衛生に関しては、サンセバスション病院や伝染病専門のラハグランデ病院などの施設があるのに加えて、ボタファゴに大消毒所があって、クレイトン装置*を持つ十二艘（そう）の船は検疫官の命令で伝染病流行地より入港せる船舶に対し、ただちに消毒を行うことができるようになっている。
* クレイトン装置 二〇世紀初頭に使われていた、穀物等の輸入貨物にひそむネズミを駆除する装置。
故（ゆえ）に、ちょっとリオの郊外を散歩しても見い出す広壮な建築物はことごとく病院である。