現代語訳『海のロマンス』95:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第95回)

ミセス・プリッチャー

はじめのうちは、ちょっと物知りそうに見える男をつかまえては、まず試験的に、今からちょうど五十年前にこの島を訪問した日本のサムライが立ち寄った家というのを知っているかと尋(たず)ねてみたものだ。

しかし、どれもこれもちょっとまごついては、やがて恐(おそ)ろしく思慮(かんがえ)深(ふか)そうな顔をして、じっと考えこむ様子を見せるのだが、まるで「年譜(ねんぷ)や記録じゃあるまいし、そんなことまで知るものか、しかし、先方は外国人のことだし、できるだけ同情した風な表情を見せてやれ」くらいの了見(りょうけん)で、苦しいながらもさも親切な風に見せようと、なんとか努力をしているのだと知れたので、罪なことだと、それ以来、聞かぬことにした。実際、そのうちの一度のごときは、十五、六の子供に五十年前の古くさい歴史を尋(たず)ねたのであるから、豆鉄砲をくった鳩のように、目ばかりパチクリさせていたのはまったく不憫(ふびん)であった。

ぼくはかく思いきりよくきれいさっぱりと悟(さと)ってしまったが、一緒に行った友だちの心まで同じように支配することができなんだのは遺憾(いかん)であった。いつぞや船長の話に、澤太郎左衛門(さわたろうざえもん)氏の記(しる)した「セントヘレナ島感想日記」のなかにしばしばロングウッド訪問の案内とか、停泊中のいろいろの肝(きも)いりとかにとても厄介をかけたミスター・プリッチャー及びミセス・プリッチャーの名前が出てくることを思い出した友だちは、「なあ君、ミセス・プリッチャーで聞いてみようじゃないか」と、半ばなだめるように相談してきた。そうさ、それもよかろう、このごろ日本から来た新聞を見たら、「六十年前の恋物語」とかなんとかいって、ベルー提督配下の一水兵の甘い懐旧談(かいきゅうだん)も出ておったくらいだからなあと答えたぼくは、次の「どんな珍しい話があるかも知らん」との一句は、腹のなかで言った。会話の蛇足(だそく)と敷衍(ふえん)を防いだつもりで。

友の機知(きち)は見事に奏功(そうこう)して、とうとうカンブリアン・コテージのミセス・プリッチャーの宅を町の上手に見つけだした。もう六十に手の届く、人あたりのよさそうな、しかし心も体もあまり丈夫でなさそうな一人のお婆(ばあ)さんが、日当たりの激しい窓を避けて、少し暗く涼しい部屋の椅子に座っていた。

日記にあるミス・プリッチャーは今はミセス・プリッチャーとなってケープタウンにおり、当時わずか七、八歳であったこのセントヘレナ島のミセス・プリッチャーはその家の三女であることがわかった。子供心にも、いかめしくちょんまげを結って、ぶっ裂き羽織に袴(はかま)という異形の出で立ちをした一行はすこぶる深刻な印象を与えたという。ことに物騒(ぶっそう)な長短二本の帯刀は、いかにも珍奇(ちんき)で、いかにも殺伐(さつばつ)に見えたなどという。

そのとき一人の日本士官の書いたものだといって、アルバムの一ページを占領した記念の花押(シグネチュア)を見せてくれた。

長さ八寸、横六寸のページのまわりには唐草模様(からくさもよう)がからみあって、その中央にまずオランダ語で我々は文久三年の二月十一日(旧暦)にこの島を訪問したと記(しる)し、その下には右に年月日を、左に赤松、澤、伊東、内田四氏の署名があって、最後に異なる筆跡で(たぶんミセス・プリッチャーだろう)一八六三年の三月二十六日(西暦)および同月二十八日セントヘレナのカンブリアン・コテージを訪問した日本士官の署名とただし書きがあった。

榎本武揚(えのもとたけあき)氏の消息がわからないのは残念だが、五十年前の同月に祖国海軍のお歴々、ぼくらの先覚者(せんかくしゃ)が踏(ふ)んだ足跡を、国運の隆々たる二十世紀の今日、世界最強の一海国民(いちかいこくみん)として、有史以来の傑物で偉大なナポレオンの配所に見いだしたということは、主観的にも客観的にもすこぶる意味のある、すこぶる数奇(すうき)なる運命の歴史物語(ロマンス)のごとき事実である。

だから船乗りはやめられぬわいと、友は意味ありげに肩をすぼめて笑った。

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