米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第69回)
ロンドン行きが中止になった真相
青年の心理(こころ)として、とかく直覚的判断がおもしろいほどに的中するときがある。事件が発生し、進行した後に事実をまげて訳知り顔に語るというのではないが、実際に、ぼくらは今度の「ロンドン行きは中止」について、すでに四カ月前のサンディエゴ停泊中に、絶対的にそうなると推断したわけではないが、少なからずそれを懸念していたし、また全然予想しないわけでもなかったのだ。
十月十日の午後七時、サンディエゴ港に停泊中、練習船上に迎えた小関(こせき)新船長の、日に焼けた、心配の多そうな、くたびれた顔を見たとき、さては……と思った。
その夜、まぶしいばかりに輝いた右舷のカーゴーランプの下で聞いた新船長の就任の挨拶(あいさつ)は「予定の航海を続行する」というのみで、何らの不安を暗示させるものは含まれていなかった。が……気をまわしやすいぼくは、まず何事もなく済んだというような友達の安堵した顔を見たときに、なかば疑わしいような、なかば気の毒のような感に打たれた。
二月六日、一等航海士から「糧食(りょうしょく)、石炭、清水(せいすい)を補充するため臨時にケープタウンへ寄港する」との訓示を受けたときも、つい猜疑心や気をまわしすぎる癖があるぼくは、船長が日本を出帆するときに携えてきた内命の一部を、予定のごとく行動するのだと推測していた。
ケープタウンに着いた日、船から入港電報を学校に打った。そのオウム返しに何か学校から変電が来たと聞いて、こいつは怪しいぞと、心の準備をした。
二月十三日午後七時、全員、学生大食堂に集合せよとの訓示がくだったときは、万事休す、とうとう来たなと思った。
総員が食堂に集まったとき、船長は「学校の今日の返電はおおよそ「無事寄港を祝す、航路の予定はどうか? 本年度の練習船経常費(七万二千八百円)のうち約一割を減額予定……」というものであった。目下(もっか)、各方面に対してそれを補う方法を講じているのだが、適当と思える手段がない。そもそも金子(かね)の話であり、下世話(げせわ)にも、ない袖はふれないということがある。で、はなはだ君らにとっては残念であろうが、ロンドン行きは中止にする……。また航海日数が延びて甲組学生は学校の在籍日数がだいぶ超過するようであるから……」と。
ともかくも少なからずしゃくにさわる。百二十余人は実に気の毒なほど、無念の色を、失望せる顔に漂わせている。さっそく甲組の学生が集まって相談した結果、少しくらい在籍日数が延びても、ぜひこの航海の目的港である英国の首都には行きたいものであると、中止の原因の一つに数えられた日数超過の問題にはこだわらない旨の決議を船長以下に伝えたものの、冷ややかに、けんもほろろの拒絶を受けたという。
さて、船内は大変である。
あちらに一団、こちらに一群れというように、不平党やブーブー連が集まって盛んに密儀をこらしている。今や船内は不平病の患者や、怒り狂った病者でいっぱいである。
「船長は「ない袖は振れない」と言った。しかし、なあ、君! 下世話(げせわ)に「乗り出した船……」という言葉もあるぞ。横浜を出帆(で)るときの元気はどうだった。この航海はただの世界一周じゃないぞ。ロンドン行き……の、という鼻息だったじゃないか。それがたった七千円で世界が注目している真ん中で恥をかくとは何事だ」
「ぜんたい、学校がけしからん。経常費一割削減だというが、それはただの見込みにすぎない。よしんば一歩譲って十中八、九そう決まるにしても、ロンドン行きは期日こそ今年の四月にまたがるだろうが、費目(ひもく)はすでに昨年の十二月からの議会で、既定の経常項目として確定しているではないか。いいか、さらにもう一歩譲って、新たに今年の四月からの未定の遠洋航海費目にロンドン以降の帰港の途につく費用が含まれていたとしても、逓信省(ていしんしょう)*1が商船学校における何かの費用の名目でどうとでも都合できるはずじゃないか。これこそ乗り出した船を、外国人の前で、勝手にしろと放り出すようなものである」