現代語訳『海のロマンス』151:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第151回)

海洋の日没美 ――故山のT君へ――

T君――海を恋し、俗世の束縛(そくばく)にしばられない船乗りの生活をうらやみ、広く青い海洋(うみ)で人知れず生まれては消え、散っては砕ける白い雲の運命に悲しき思いをはせるT君よ。

八月二十三日にフリーマントルを辞した練習船は、折からの南東風を受けて、日夜走り続け、シケと無風との境で、今や航海三昧(ざんまい)に入りました。

神秘の多い南インド洋の海を飾るこの頃の日没美は、平素、自然美に対してさしたる反発も興奮も起こらない免疫性の船乗りにとっても、賛嘆のあまり、その色彩は、強く美意識を刺激する十分な力があります。

白い日本アルプスの冠(かんむり)が蒼(あお)い空の中(うち)にかすかに溶け入る夕暮れの景色にまたとない愛着を持っている君が、今、私と一緒に練習船の上からこの海洋(うみ)に輝く空の色を味わうことができないのは、どれほど口惜(くちお)しいことでしょう。実に、昨日今日の夕暮れは、ぜひ君に見せてやりたいほどのものでした。

あの古い、偉大な太陽が、大自然界と照応(しょうおう)し折衝(せっしょう)して生じる天と地の間の活力現象のうち、私は夜が明ける一日の誕生と黄昏(たそがれ)時の臨終とをもって、最も力強い印象と憧憬(しょうけい)とを与えるものだと思います。

しかし、私の性質として、光明の希望と輝きとを思わせる夜明けの荘厳美よりも、哀愁と神秘と端正かつ厳(おごそ)かな、感傷を抱かせる日没美を好みます。私があの御堂関白(みどうかんぱく)*の豪奢(ごうしゃ)極(きわ)まる栄華よりも、秋風が吹き、もの寂(さび)しい平家の都落ちを好み、美都「リオ」の甘いカクテルよりも、貧しき聖島(せいとう)**のマンゴの果実を選ぶのも、これと同じ耽美(たんび)の基準から来るのです。

* 御堂関白  平安時代中期に栄華を極めた藤原道長(ふじわらのみちなが)。
娘を天皇の后(きさき)にし、自身は太政大臣にまで登り詰めた。
ちなみに、関白(天皇の補佐)にはなっていないものの、なぜかこう呼ばれています。
** 聖島  南大西洋のセントヘレナ(聖ヘレナ)島を指すと思われるが、未確認。

この頃、この海洋(うみ)では、太陽(ひ)は六時に沈みます。

涼しい貿易風に身体(からだ)の汗をぬぐった私は、野心も競争も恐怖も――陸上に見るようなすべての人生の葛藤から生じる暗い影を捨てたというような、ゆったりとした心持ちで部屋に入っていきます。このとき、部屋に一歩足を踏み入れた私の視神経を驚かすように、美しい夕焼けが舷窓に近く燃えております。

私は、思わず「美しいなあ」と、うめくのみで、今ここにその片鱗(へんりん)すらうまく君に知らせる能力のないのを悲しみます。

もとより私は詩人でもなければ画家でもありませんから、心のどけき紺碧(こんぺき)の大空を、六十度くらいの視角距離で区切っているあたりに、湧きあがっている、さまざまに入り乱れた色彩の変化を、詩のごとくに、あるいは絵のごとくに言い表すことはできませんが、あの、微妙から微妙に続く中間色の序列! 複雑にして、しかも総合されている色彩のパノラマ!! どうかして、これを君にリアルに再現して見せたい。

紺碧(こんぺき)の大空が、やや浅黄色(あさぎいろ)に薄められたと見えるあたりから、瞬(またた)き一つ許さぬ速さと容量と多種多様とをもって、色々のデリケートな空の色が、すべるがごとくなめらかに一つから他へと変化し、上から下へと輝いていく様子は、誠に偉大なる活力現象であります。

網膜(もうまく)の上には、確かに人間界では決して見られないような中間色や補色(ほしょく)が数限りなく落ちていたことは間違いないでしょうが、恍惚(こうこつ)として酔ったように震えている視神経には、ついに中空の浅黄色(あさぎいろ)から――強いて貧しい色の用語を陳列すれば――御納戸色(おなんどいろ)に、古代紫(こだいむらさき)に樺赤色(かばせきしょく)に、橙黄色(とうこうしょく)に、卵黄色(らんおうしょく)に、そして藤黄(とうおう、ガムボージ)に*。

* 色を言葉で表現するのはむずかしいですね。
参考までにHTMLカラーコード(# + 6桁の英数字)を示しておきます。
  御納戸色:緑色を帯びた深い青色(カラーコード:#007083)
  古代紫 :やや赤みを帯びたくすんだ紫色(カラーコード:#8C6589)
  樺赤色:赤みを帯びた黄色(カラーコード:#C5591A)
  橙黄色:だいだい色(カラーコード:#EE7800)
  卵黄色:卵の黄身の色(カラーコード「:#FFDF85)
  藤黄: 山吹色に近い黄色(カラーコード: #F7C114)

この美しい自然の絹地に一層の絢爛(けんらん)を添えるものは、その間に浮かんでいる雲とその下に沈める夕暮れの海の色であります。

軽い軟らかな白雲が夢のように気楽に浮いている。重い蒼い海が波もたてず、ただ黙々と脈拍をうちながら、ドッシリとうす暗く沈んでいる!! なんと好個(こうこ)の裾模様(すそもよう)ではありませんか。

しかし、この空も! この海も――ああ、またこの雲も! わずかに一瞬の栄光と生命の後に、暗い夜のとばりの中に葬られさるのは、悠遠(ゆうえん)なる大自然に存在する哀傷的な一象面(フェーズ)ではありませんか。


(source: sunset-gcf3b81b0e_1920.png)
* 日没は何度見てもあきない自然美の極致ですね。
実際に航海に出て眺めるのが一番でしょうが、こちらの写真で気分だけで……]

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