米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第42回)
闘牛見物(その一)
九月十四日正午、前回のサン・ペドロへの航海で大変なご厄介をかけた佐野氏とその友人の福島氏とが二百二十五浬(マイル)の道を遠しとせず、わざわざロサンゼルスから南下して来て、明日、メキシコのティファナ市の闘牛(ブルファイト)にご招待しようという。
故国(くに)を出るときから、アメリカはかのパトリック・ヘンリーの有名なる自由独立の大演説*1より以来、遠慮や辞退はすべきではないという国柄(くにがら)だと聞く。思わせぶりや、うわべだけの遠慮は百二十年の昔に振り捨てて、今はいちずに直情径行(ちょくじょうけいこう)の道にいそしむ国民だと聞く。その国へ来て、かかる国民に接する現今(いま)は、たとえ相手が在留邦人であろうが、小笠原流の挨拶(あいさつ)や遠州流の作法では肝胆(かんたん)相照(あいて)らすわけにはゆくまいと考えた。そこでさっそく、かたじけない御意の変わらぬうちにと、委細合点、ありがたし、かたじけなしとお受けしてしまった。
*1: パトリック・ヘンリー(1736年~1799年)は米国の弁護士で政治家。雄弁で勝訴率の高いことでも知られた。
イギリスのアメリカ支配に抵抗し──やがては独立戦争へとつながっていく──「私に自由を与えよ、さもなくば死を!」と結んだ演説が広く知られている。
血を塗った人魂(ひとだま)のような太陽(ひ)が地平線からちょっと顔を出したと思ったら、もうだめだ。何千年何万年前から同じ太陽(ひ)を同じ状態において迎え入れてきた大陸の空気は、小気味(こきみ)いいくらいに乾(ひ)からびて、さわればカサカサと鳴るのではないかと疑われるほど、うるおいのあるものは見られない。この奇怪な大気が容赦なくたちまち太陽(たいよう)の熾烈(しれつ)で旺盛(おうせい)なエネルギーを伝導して、すぐに天も地も釜の中にいるようになってしまう。いつものように、今日もなかなか暑い。市の中央のプラザにある気象観測所の温度の変化を見ると、午後八時から午前六時の日の出までの夜間の温度は華氏六十度(摂氏15.5度)*2を示し、その描く線は一定で変化がないにもかかわらず、午前七時からは急に上昇して八十度(約26.7度)を示している。なるほど暑いわけであると思いながら、第五街(フィフスストリート)の停車場(ステーション)に行くと、九時四十分、メキシコ行きの列車がまさに発車しようとしている。
*2: 華氏 - 米国で一般に用いられている温度の単位。
通常の大気圧で、摂氏は水が氷になる凝固点を0度、沸騰する温度(沸点)を100度とし、華氏はそれぞれ32度と212度としている。摂氏1度の変化は華氏1.8度の変化に等しい。
目安となる温度について、摂氏と華氏の対応はこうなっている。
摂氏 0度 10度 20度 30度 40度
華氏 32度 50度 68度 86度 104度
日本の軽便鉄道(けいびんてつどう)に毛の生えたくらいのボロ汽車がひどくデコボコした軌道の上を走るのだから、乗っている者は災難である。いつなんどきひっくり返らないともしれないという不安と、縦動(ピッチング)横動(ローリング)斜動(ヒービング)等のいろいろの振動衝撃からくる不快を忍びながら、見渡す限りただ荒涼たる砂漠を進む。点々と群生しているシュロやメキシコ人の集落が見えるが、鉄軌(てつき)の両側に盛り上がっている砂漠の果てしもなく広がった風景を眺めながら、兵営(バラック)に住んでのんきそうにニワトリと大根をひっさげて歩いているアメリカの傭兵を見たりしていると、十時半ごろ国境の停車場(ステーション)に着いた。
国境! いかにその響きの、われら島国の民の耳には不思議で、しかも好ましく、珍しく聞こえることか。同じ風土と同じ気候と同じ地質と同じ空気を持つ大陸の一部を、無遠慮に、あさはかな人間の猿知恵で、杓子定規(しゃくしじょうぎ)にせまく区切り定めた境界線は、いかなる姿でわれらの眼前に展開するのだろうか。国境停車場の両側にあるアメリカとメキシコ両国の税関および移民取調局──もっともメキシコ側にはそれがない。日本に来て植民しようという米国人がいないのと同様に、アメリカからメキシコに移民として向かう者も絶無であるからだろう。ともかくも米国は移民の楽園である──を通過したとき、そこに小さい自然石が鉄柵に囲まれて記念碑のように立っていた。これがすなわち、アメリカとメキシコの国境を表す境界線の一基石で、見渡せば、これから目もはるかに悠々としてゆるやかに起伏している連山を超えて、北東と南西の方に地を掘り、草を割(さ)いて、細い一条の直線が通っている。これがすなわち、ある場合にはすこぶる重大な外交的紛争を惹起(じゃっき)する国界線かと思ったら、いささかばかばかしく感じた。
このシンプルな一条の線を境に、享楽歓喜の国と内乱紛争の国とが互いに背中合わせに、異なる施政に異なる努力に異なる信仰に異なる道を採用していると思ったら、親兄弟にさえ異なる考えをそれぞれに与えた造物主の力を偉いと感じた。この記念碑の前で撮影したとき、このような無雑作な垣根だから、メキシコにいる在留日本人がこっそり飛びこんで来て物議をかもしたり、マデロとオロスコの内乱闘争*3には見物人がこれを超えて隣の庭先に無断侵入したのだろうと三度(みたび)感じた。
*3: フランシスコ・マデロ(1873年~1913年)は、1910年に起きたメキシコ革命を主導した政治家。
亡命先の米国テキサス州から武装蜂起を呼びかけて当時のディアス大統領を辞任、亡命へと追いこみ、大成丸が世界周航に出発する前年の1911年、メキシコ大統領に就任した。
パスクアル=オロスコ(1882年~1915年)は、マデロの武装蜂起の呼びかけに応じた革命家。
この航海記は新聞に連載されたこともあって、当時の国際情勢についての最新ニュースが散りばめられてもいる。
さても幾年月の間、積りに積もったのか、白楊(はくよう、別名はこやなぎ)の葉に白い砂ぼこりが厚くつもって、生ぬるい大陸の微風が吹き渡るごとにシラシラとひるがえる様子は、銀葉(シルバーツリー)のように見える。さても砂深き道よ。われらは今しも国境の停車場からティファナ市へと一マイル余の道をメキシコの馬車に乗ってたどりつきつつある。
名も知らぬ草花が砂の中に悲し気に咲き出でている。ところどころにまだ頭の毛のついた牛の頭蓋骨が無造作に散らばって、強い熱帯の光線(ひ)が眼窩(がんか)や口腔(こうこう)に当たって、ものすごいほどに暗い陰影(かげ)を作っている。癇(かん)の強そうな気のきくメキシコ馬に、手綱(たづな)のさばきも豊かにまたがっている二人の粘液質のムードを表現する現地の人が、疑い深い眼をしばたたいて、通り過ぎていく自分らの馬車を見送っている。