ジョン・マクレガー著
(緑色)現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第86回)
次に立ち寄ったのは「ラ・フェルテ・スー・ジュアール」である。かなり距離があった。ラ・フェルテという名のつく町はいくつかある。これはイギリスで、語尾が「カスター」や「セスター」となる町が多いのと同じだろう。ここのラ・フェルテの特産は石臼(いしうす)だ。高品質の石臼は五十ポンドもするし、大量に輸出されている。ここの石にはもとから穴が開いていて、それが臼(うす)の刻み目として利用できるので、その分の加工が不要になるという利点がある。ラ・フェルトでは、干し草小屋にカヌーを置かせてもらった。宿の食事では、パリから来ていた頭のいい腹をすかせたブルジョワ氏も一緒で、マナーもおかまいなしの食欲旺盛な女房殿を同伴していた。彼らの向かいの席には、町の噂話をあれこれしゃべり続ける人がいた。他人のやること、言うこと、失敗話、儲け話など、なんともつまらない馬鹿話を際限なくぺちゃくちゃやっている。とはいえ、ぼくを含めてこの四人の客のテーブルで、まったく毛色の違う二つの話が同時進行で展開されたのも、まあ面白くはあった。一方は延々とラ・フェルテの人間の噂話を披瀝(ひれき)し、他方は話題を靴やスリッパに向けようと懸命になっている。それというのも、このブルジョア氏は、各地を旅しながらブーツを売り歩いているのだ。結局のところ、ぼくらの日常生活における会話というのも多くは似たようなものだろう。イギリスの内閣にとって些事(さじ)にすぎないことでも、ホノルルでは高尚な政治問題だったりするわけだ。
翌日は早朝に出発した。が、特に思いあたる理由もないのだが、どうも体が重い。腕が疲れているし、はなからエネルギーが不足している気がした。この一週間というもの、連日、けっこう長い時間を漕ぎ続けてきたので、疲労が蓄積しているのだろうか。おまけに、風がいきなり北向きに変わってしまった。こうなってくると、極端ということのない英国の気候がなつかしい。一般に夏の北風は冷たくて元気を取り戻すと思われている。地中海では風が南に変わると、あの憎むべきシロッコになるのだが、これが吹くと、たしかに旅行者の気力はすぐになえてしまう。先週の風は東寄りで、ボージュ山脈をこえて来るので暑さもやわらげられていた。今日、マルヌ川で吹いてきた風は、北風といっても、二カ月もの間、灼熱の太陽にさらされて暑くなり乾燥した大平原を渡ってきているのだ。日曜は休むことにしているので、どうしても今日のうちに四十二マイル離れた宿泊予定の町まで行っておきたかった。肩は重いし、がんがん漕ぎまくる元気もない。ともかく、そうこうしながら十二マイルほど進んだところで、ぼくは川が大きく湾曲しているのに気がついた。カヌーを陸に上げて荷馬車にでも積んで運べば、川下りの距離を大幅に短縮できると思った。さっそく荷馬車を見つけることにする。一リーグ(三マイル)ほどの距離を運んでもらい、運賃として三シリング四ペンスを支払うということで話がついた。荷馬車の爺さんは話好きだったので、道中は誰でも興味があるような話題に花が咲いた。
曲がり角のところに来ると、一台の荷場車がひっくり返っていた。周囲には人だかりができている。地面は血の海のように赤く染まっている。よく見ると、血ではなくワインだった。荷馬車が立ち木に衝突し、その衝撃でワイン樽が破裂したのだ。たちまちワインが流れ落ち、ひどく驚いた馬が荷馬車をひっくり返してしまったらしかった。そこを過ぎてまもなく川に出た。カヌーをまた浮かべることができた。景色もよく、非常に楽しめた。船着き場に一人の老兵士がいた。ぼくにワインを持ってきてくれた。その後で、彼と彼の妻は水漏れのする平底の緑色に塗った小舟に乗りこんだ。ぼくらはすぐに仲良くなった。老兵士はフランス軍によるアルジェリアのコンスタンティーヌ侵攻に参加したことがあった。コンスタンティーヌは周囲を峡谷に囲まれた要塞都市で、攻め入るなどまったく不可能に思えるようなところだ。だが、堅牢不落に見える要塞であっても、それは見る者の眼を欺(あざむ)くもので、実際はそうではなかった。外見だけで判断のつかないことはいろいろある。ハンガリーのドナウ川にほど近いコマーロムには要塞があるのだが、外からわからないよう隠されているため、コマーロムがコンスタンティーヌより手ごわいと思う者など誰もいないようなものだ。
そうこうしているうちに風が強くなってきた。ぼくはモーまで風に吹きとばされるように進んだ。それで、この日は不吉な感じで始まったのだが、その後は特に難所もなく、楽しみながら漕行を終えることができた。
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