ヨーロッパをカヌーで旅する 76:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第76回)
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このときは、他の場所でも一、二度、大変な目にあった。具体的にいうと、陸路で迂回する際に生垣を超えたりするのだが、そういうときはカヌーの舳先を生垣の上に押し上げておき、反対側にまわって引き下ろす。そうやって力仕事をした後で、実は下ろす場所が違っているとわかり、逆の順序でカヌーをまた元の場所に戻し、一からやり直すといったことだ。しかも、それがすべて一日のうちに起きた。とはいえ、そういうのは一晩ぐっすり寝るとか、おもしろい激流下りの冒険があったりすれば忘れてしまう程度のことではある。

モーゼル川の水は澄みきっていて、ぼくはずっと水面下の様子に見入っていた。あるところでは川幅が広く、それがかなり続いていた。長く続いた日照りのために浅いところもありはしたが、ちょっとありえないほど水深のあるところがあって、しかもシーンと物音ひとつしない。ぼくはカヌーに乗ったまま、水中にいる巨大なマスを目で追っていた。

と、いきなり巨大な石が川底から出現した。よくみると、水中に大きくて立派な石柱が立っていて、石はその最上部だったのだ。その石まで少なくとも水深十フィート(約三メートル)はあった。石柱はギリシャ風の装飾を施してあるようにも見えた。近くには別の石柱もあった。巨大な崩れた切妻のようなものも見えた。白大理石の土台のようなものもあった。ぼくはその場所の両岸を入念に調べた。この水中遺跡がどうやってこんな変なところまで運ばれてきたのか、そのヒントになるローマ風の邸宅や橋や遺跡がないかと思ったのだ。その後に到着したシャルムの町でも、この件についていろいろ聞いてまわった。みんなすごく興味を示してくれるのだが、これという情報は得られなかった。ただ、ローマ人がこの川のどこかに砦(とりで)を作っていたらしいという話は耳にした(場所は特定されていない)。のんきに水中の魚を眺めていたら、思いがけず誰にも知られていない、好奇心をそそる過去の歴史の断片を見つけてしまったというわけだ。この彫刻をほどこした柱は何世紀も前に引き倒され押し流されてきたものなのかもしれない。

モーゼル川の源流に近く、カヌーを浮かべる水量がやっとあるところからカヌーを漕ぎ続けてきたわけだが、シャルムまで来ると、川も大きくゆったりと流れていて、さすがに刺激がなく退屈になった。ローマ帝国以来、戦闘などで一万余の兵士──飢え死にするか虐殺された死者──を弔ってきた、このうるわしい川に別れを告げることにした。

つまり、モーゼル川の支流のムルト川の方からブランヴィルまで行こうと決めたのだ。支流の方が新しい興味深い景観が見つかるかもしれないと思った。というわけで、カヌーは別便の貨車で送った。カヌーと離ればなれになるのは、この三カ月間で初めてだ。貨車に横に傾けて積まれたカヌーは、ぼくをとがめているように見えた。カヌーの華奢なフレームに生じるであろうあらゆる事故を想定していたが、実際にはスポンジ一個が紛失しただけだった。スポンジはカヌーを拭いてきれいに乾かしたいときの必需品で、この後にバルチック海を航海したときもしょっちゅう盗まれた。

駅では陽気で笑い上戸のポーター二人が、駅から水辺までカヌーを運んでくれた。新しい川でまた元気に川下りを再開した。ムルト川の景色や特徴はモーゼル川とはまた異なっていた。この川は柔らかな土壌の豊かな平原を曲がりくねって流れていた。岩や石ころも少ない。浅いところでは長い苔のような草が水面下をおおっている。これは非常にやっかいだった。というのも、パドルに水中の草がからみつくのだ。流れていく先に草があることはカヌーからはよく見えない。といって草が少ないところは岩や石が多い。そういうところは水面が波立っているので、水路図を見るように水深も数インチ単位でわかる。ここを通ればよいという場所の判断がなかなかつかない。おまけに、下流になびいている長い水草にからみとられて動けなくなると、からまった髪はクシですきにくいように、後戻りするのもむずかしい。

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