現代語訳『海のロマンス』93:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第93回)

南海の巨人

満々たる深い蒼波(そうは)の下には、どんな怪異(ふしぎ)や神秘が潜(ひそ)んでいるのだろうとは、東西(もの)も知らぬ幼児(こども)の時から、いわゆる「板一枚下は地獄の生業(しょうばい)」の今日に到るまで未解決の疑問であったが、深海といっても一万フィート(三千メートル強)に余る平均深度*を有するここ南大西洋の蒼い暗い海底には、南北にわたって縦横に跳梁(ちょうりょう)する一火山系のあるのは確かな事実である。

* 大西洋の平均の深さは太平洋やインド洋に比べるとやや浅くなっているが、それでも平均で三七○○メートル(ほぼ富士山の高さ)を超え、最深部はプエルトリコ海溝の八六〇五メートルである。

この火山系が、ある間隔を保って、呼吸(いき)をするクジラのごとく、その黒い醜(みにく)い頭を波の上にもたげている。北にあっては(セントヘレナの北西七百海里にある)緑豊かな火山島のアセンション島となり、南にあっては(セントヘレナの南西千三百海里にある)白雲をつんざく八○○○フィート(約2400メートル)の盾状(たてじょう)火山のトリスタン・ダ・クーニャ島となる。この中間に、標高二七○○フィート(818メートル)のダイアナ・ピークを有する南海の巨人セントヘレナが、しかっつめらしく、すっくと蒼波(そうは)の上に踏ん張っている……、いやどうも、お勇ましいことで……。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』92:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第92回)

その土を踏んで

自分の内部で燃えている古今に例をみない破天荒(はてんこう)で大いなる覇気(はき)と大いなる野心(やしん)に耐えやらず、我(われ)とわが身を絶海の荒廃した島に焼きつくしたかつての英雄の、臨終(いまわ)の無念(むねん)の精霊(おもい)が通じないかとばかりに、醜悪(しゅうあく)な骨相(こっそう)を具備(そな)えた奇岩(きがん)絶壁(ぜっぺき)が水際(みずぎわ)からすっくと突っ立って、崩(くず)れるがごときその黒い陰影(かげ)は青黒く澄(す)む深い湾内の水にさらに一層のものすごさを与えている。

この青い深い海に玩具(おもちゃ)のようなボートを浮かべて最初のセントヘレナ上陸をやる。寄せては返す荒い波が天然の埠頭(ふとう)に砕(くだ)けるなかを、かろうじて上陸すると、花崗石(みかげいし)を積み重ねて築きあげた階段状の坂の、七百段ほどの石畳(ラダーヒル)が六百フィート(二〇〇メートル弱)の中空に向かってムカデのように伸びている。

セントヘレナ島(地図をクリックすることで拡大、移動可能です):ジェームズタウンは島の北西側にあり、島の中央部の Longwood (ロングウッド)とあるところがナポレオンの館があったところです。

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現代語訳『海のロマンス』91:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第91回)

物語の島

ものすごく青く澄んだ深いジェームズタウンの入江に錨を投げこんだのは、三月十五日の朝であった。

おそろしく遠目(とおめ)の利(き)く連中を乗せた練習船は、十四日の正午に、四十海里(マイル)も遠方から、すでに思いこがれたセントヘレナの青い島影をとらえていた。

日付こそ異なるが、五十年後の同じ月に、第二の日本人として、しかも、ゆかしき名と栄(は)えある過去とを有する新興国(日本)唯一の練習船の人として、この偉大なる物語の島を訪問するということがすでに、うるわしい想像をめぐらせ、とかく感傷的になりやすい青年にとっては、胸に満ちあふれる無邪気なる誇りである。柔らかき青年の皮膚の下を流れる純なる紅(あか)き血液(ち)には、偽(いつわ)らざる英雄崇拝(えいゆうすうはい)のどよめきがある。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』90:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第90回)

五十年前の追憶

本船がいよいよセントヘレナ寄港を予定に入れた世界周航の途につこうとする際、海軍の澤(さわ)造船総監から日記のようなものが贈られた。それは総監の厳父(げんぷ)たる澤太郎左衛門氏の直筆によるもので、今からまさに五十年前の文久三年(一八六三年)、氏が、かの榎本武揚(えのもとたけあき)、赤松大三郎、伊藤玄伯(げんぱく)、内田恒次郎(つねじろう。維新後に正雄と改名)らの海国(かいこく)の先覚(せんかく)者とともに、大西洋の一孤島であるセントヘレナ島を訪問したときの日記が書かれていた。中に、こんな記載がある。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』89:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第89回)

キッス・ミー・クワイエット

 一、 二月(ふたつき)あまりも島人(しまびと)は、ぼくらの船を待ったとさ。
道理でバナナの味がよい。
夕風涼しい町並みを、いざそろそろと帰ろうか?

  二、 待ちたまえ、君、あの婆さんが、ぼくらに花をくれるとさ。
色もめでたきこの島の、花に霊(れい)あり夢に入(い)り、
島物語(しまものがたり)をするそうな。

 三、 もらった花はこのように、胸に抱(いだ)いているけれど、
ついぞぼくら見たことも、名さえ聞いたこともない。
そこらでちょっと尋(たず)ねよう。

 四、 青いエルムの涼しい木かげ。
はずかしそうに目をパチつかせ、かわいい娘が立っている。
手にせる絵はがき買ってやろ、ついでに花も聞いてやろ。

 五、 なんと言っても言わないよ。
さても内気な、君、娘じゃないか。
さらば乙女よ、この絵はがきへ、ちょっくらちょっと書いておくれ。

 六、 何と?! Kiss me quiet!!
とてもやさしい花、やさしい娘。
顔赤らめて微笑(ほほえ)める、娘が彼方(あっち)へ逃げていく。

セントヘレナまで

 一、 海の男は吾(われ)を好む。
ゆるぎなき風力(ちから)と、真面目なる性質(さが)とを。
白雲は高く輝き、蒼海(あおうみ)は深く澄みたり。
帆をかすむる貿易風(トレード)の雲、船首(みよし)を洗う熱帯の海。

 二、 力強くわれ息吹(いぶき)するとき、
デッキよりトラックに、ジブよりスパンカーに
大帆(たいはん)はペガサスのごとく踊り、
波分けて船は矢のごとく。

 三、 海を越えて吾渡るとき、若き舟子(ふなこ)の耳に歌えば、
喜悦(よろこび)は彼の胸に、勝ちどきは彼の唇に、
絶え間なく吹く風で索具とすれる帆に、
口笛を残して吾は過ぎゆく。

 四、 夜と言わず、昼とも言わず、吾は過ぎゆく。
猟犬のごとバークを追いて、
銀(しろがね)の涙そぼ降る月の夜に、
変化(へんげ、フェアリー)のごとく吾はひらめく。

 五、 広さも広し、わが渡る海路(うみ)、
吹きくたびれて吾やまんかな、
無風(カーム)のささやき、やがて来たらん、
さらばわが船、また邂逅(あ)わん。

-古船調(シャンティ)

ケープタウンからセントヘレナに到る千七百海里(マイル)の航海は、南東の貿易風帯を利用して、帆は張りっぱなし、ブレース(帆桁につけたロープ)は引きっぱなしで、寝ながらにして楽々と走りすぎてしまう予定が立てられる航路だ。はたして、船は二十七日の午後から心丈夫な涼しい快活な貿易風を右舷後部(クォーター)に受けて、すこぶる好(い)いご機嫌となって走っている。

鉄もとろけるという赤道直下の海は、あわれにも春夏秋冬を通じて一日も、熾烈(しれつ)なる太陽の直射から逃れることができない。この沸き立つ油のごとき赤道の海面から、霧のごとく、幻のごとく立ち上る水蒸気は空をおおいつくさずばやまぬ勢いである。このように加熱(かねつ)膨張(ぼうちょう)し立ち昇っていった後の下層の大気の空虚(うつろ)をうめようとして、南極付近の冷たい重い大気が横着な黒い翼をはばたきして、まっしぐらに赤道さして一直線に押し寄せる。ところが一方、地球は西から東へと一時間八百海里(マイル)の急速力で回転しているため、いきおいこれら北国の黒鷲(くろわし)どもも、はて面妖(めんよう)なという風に、正南(せいなん)または正北(せいほく)の原針路から西方へと偏する。かくて北半球では北東、南半球では南東の二つの貿易風帯が生ずるのである。

強くもなく弱くもなく、一定不変の速力(ちから)を有する風が吹き出て、ライトブルーの海は梨の花のごとき可憐(かれん)な波頭をかぶり、濃い浅黄色(あさぎいろ)の空に、かの絹層雲(Cs)が飛翔するようになったらもうしめたものである。泊(とまり)に急ぐ船人(ふなびと)は品良く膨(ふく)らんだ帆の湾曲率(カーバチュア)を見て、風の寿命(いのち)の永からんことを希(こいねが)う。古い船人(ふなびと)は、こういう航海を子供でもできる航海と小馬鹿にするであろう。しかし、ぼくらには心ゆくばかりののどかさと気楽さとを感じさせてくれる。

一定の安定した性質を持つ貿易風は、ことにぼくの好むものである。この頃の世の中にはつくづく愛想(あいそ)がつきるものばかりだ。なまこのように節操のない男、米の粉を練って作ったしんこ細工(ざいく)のように実質(み)のない男、自分をよく見せようと余念なき虚栄の女、男を見下そうと懸命になっているすさまじい女。いやはや、しらばっくれた男やふざけた女がうんざりするほどいる。軽佻浮薄(けいちょうふはく)は彼らの金科(きんか)であって、強い者への追従(ついしょう)は彼らの玉条である。

こう見てくると、陸上に住んでいるのが一つの苦痛である。こんな輩(やから)を十把(ぱ)一からげにマストのてっぺんに吊し上げて、この一定不変にして、かつてムラ気とか移り気とかいうものは微塵(みじん)もない貿易風に思うさま吹かせてやりたい。

連日連吹(れんすい)していた貿易風もようやくくたびれてきたのか、雨雲(ニンバス)のはびこる水平線の彼方に消え去って、あぶらを流したようなカームがついに来た。

セントヘレナ島の長大な大波(ローラー)は世に有名なものである。ナポレオン帝で名を売ったセントヘレナは、またこの恐ろしいローラーで評判である。その影響か、今宵(こよい)の海は普通一遍のありふれたカームではない。ただごとならぬ空恐(そらおそ)ろしい静けさである。月のまだ出ぬ灰色の薄暮(イブニング)の海面(うみづら)を、美しくしとやかなヴィーナスの影がスラスラとこなたに急ぐ様子は、数知れぬ幾千万の小さな銀の蛇の群れを見るようである。

これほどまでに鮮やかに星の姿を映している静かな海は、今宵(こよい)がはじめてである。風上舵手(ウェザーヘルム)の重要な職務中、瞳(ひとみ)は羅針盤(コンパス)の上に、両手は舵輪(ホイール)にあるのだが、海と大気と船の静寂(しずけさ)は、舵取りの心に限りなきゆとりを与える。

宵(よい)の明星(ヴィーナス)は美人薄命の連想(おもい)を旅人の胸に残しつつ黒い水平線のかなたに沈み去り、やがて十六夜(いざよい)の月が涼しき波を浴びて、そのあでやかな姿を現す。

たった今、風が死んで静まりかえっていた大気は、二度(ふたたび)活気を呈して、だらしなく垂れ下がっていた帆には、袈裟(けさ)のように風の跡が見えた。右舷から左舷に風が変わったのである。

ブレイル、イン。スパンカー!!*

* ブレイル: 帆を絞る綱。
スパンカー: 後側のマストの縦帆。

久しぶりに士官の口から号令が出た。実(げ)にさやけき月光しずくして、涼しい静けさの流るるがごとき良夜(りょうや)である。

ブレイル、イン、スパンカーと復唱する風下当番の反響(エコー)が後甲板のぼくの耳に聞こえてくるのも速い。

ツバメのごとくひらりと一つの影が黒く丸く、明るいデッキの上に飛び出す。続いて二つ三つと数える間にさっきの奴は、月の光を厭(いと)うリスのごとく、さっとデッキを区切っている帆の黒い陰に隠れてしまう。

足もとどろにバラバラと当直二十余人の足音が耳元近く聞こえたのは、消えるがごとく闇に座っていた、たくましい面魂(つらだましい)の面々が、再び明るい月の下に躍進しつつある時であった。

帆は何の会釈もなくスラスラと予定のごとく絞られた。

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現代語訳『海のロマンス』88:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第88回)

(前回までのあらすじ)南アフリカのケープタウンに寄港していた大成丸は、いったん西に引き返す形で大西洋をセントヘレナ島まで北上することになります。ナポレオンが流罪となり没した島です。

ケープタウン出港に際して、同地で縁ができた人物二人についても述べ、練習船の山あり谷ありの世界周航記は、今回から後半となります。

九、古谷駒平*氏

二月十二日に入港して東埠頭(ひがしふとう)に船を横づけしたとき、ぼくらはあまたの「ビーチ・コーマー」や「ショワー・ハッガー」**の間にまじって、ナポレオン帽に麻の洋服を着た一人の紳士の花束を持った姿を見落とすわけにはいかなんだ。これが今、南アフリカで日本を代表して盛んに成功している古谷(ふるや)さんだなとすぐ気がつく。

* 古谷駒平(ふるやこまへい、1870年~1923年): 実業家。明治時代にケープタウンで「ミカド商会」という日本の雑貨や東洋の古美術などを取り扱う事業を立ち上げ、アフリカで最も成功した日本人と呼ばれた。
十七歳でアメリカに渡り、サンフランシスコを経てハワイで雑貨商となったが、アヘンの密売に関与したとして逮捕されて帰国。二十七歳のときに妻を伴ってアフリカに移り、ケープタウンに「ミカド商会」を開いて成功した。
第一次世界大戦後に帰国し、関東大震災で死亡した。享年五十五。

** ビーチ・コーマー: 海岸で漂着物などを探す人。
 ショワー・ハッガー: 外洋を目指さず沿岸から離れない船乗り。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』87:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第87回)

五、スコット大佐の弔慰(ちょうい)祭

ぼくらの船がケープタウンに入港した際、最も人気のある重要な時事問題は、議会の開会とスコット大佐*の哀悼(あいとう)会であった。

* スコット大佐: ロバート・ファルコン・スコット(1868年~1912年)。英国の海軍軍人・探検家。
大成丸が世界周航に出発した一九一二年、スコット隊は二度目の南極大陸探検で南極点に到達したものの、先着争いでは犬ぞりを使ったノルウェーのアムンセンに敗れ、その帰途に遭難し死去した。

スコット大佐はその最後の偉大なる航海に出る前、その航海準備のため長い間、ケープタウンのそばのサイモンス湾に滞在し、自然にケープタウン人士とも密接に往来していたため、極地におけるその悲壮なる最後は甚大(じんだい)なる痛ましき反響をケープタウン及び付近の人心に与えて、同情や哀悼(あいとう)の声はいろいろの行事において具体的に現れた。二月十四日、カテドラル寺院の弔慰祭(ちょういさい)もその具象化した哀悼(あいとう)の表現の一つであった。宰相ボタ将軍以下の内閣大臣、市長ハリブ氏、アドミラル(提督)キングホール、ゼネラル(将軍)ヒックマンという陸海の両将軍等、南アフリカの重要人物が参列し、重々しく厳粛(げんしゅく)な宗教儀式が行われた。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』86:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第86回)

三、温和な気候

さすがに鳥の悲しさである。客観的に考えることのできない春のヒバリは、自分ほど上手に歌いうる者はなかろうと信ずるゆえに、身も世もなく空で短い春の日を惜しんで鳴き続ける。自分ほどに空高く舞い上がりうる者はあるまいと信ずるゆえに、薄き翼の焦(こ)げるのも忘れて、春の太陽(ひ)近く飛ぶ。ケープタウンの住民が、ケープタウンの気候は温和(モデレート)だと自賛するのも、このヒバリに似たところがある。彼らは言う。

「およそ世界広しといえども、ケープタウンおよびその周囲のごとく、一年を通じて気候より来たる生活状態の障害を度外視(どがいし)することのできる土地はあるまいと」

うぬぼれるのは各人勝手である。ただ人間は現に自分がうぬぼれつつもなお、わが信ずるところが単なるうぬぼれにすぎないと他人から笑われたくないという矛盾した思いを抱えているため、ただちにこの問題を他人の判断に訴え、なるだけ色よい賛成の返事を得てようやく安堵しようと努める。勝手なものである。ここにおいてか、お世辞(せじ)迷惑なるものが起こり、巧言令色(こうげんれいしょく)なるものが生じる。

「ケープタウンの気候(ようき)はどうお考えになりますか」と聞かれたとき、汽車にロハ(無料)で乗せてもらったり食事に招(よ)ばれたりしている身には、「はい。しごく結構で快適な気候(ようき)です」と、相手に調子をあわせるより他は答えようもない。ところが、上着一枚下は滝のような汗をかいており、ワイシャツもカラーも汗が染み出して目も当てられないしだいである。

ある本に、こういうことが書いてある。

「模糊(もこ)たる水平線のかなたにテーブル・マウンテンの青い姿を見いだした人々の胸には、炎暑地(ヒート・アショア)として名高いケープタウンがすぐに想起された。あそこはどんなに暑いだろうと期待する人々も五、六マイルの近距離に近づいてなお依然(いぜん)として涼しくて爽(さわ)やかであるのを知ると、おやっとばかり驚いた。

しかし、この驚きと喜びは単に一時的なものであった。船がビクトリア・ベイスンの桟橋に着いたとき、燃えるような南半球の太陽の直射が激しく青い蒼穹(そら)から降ってきて、たちまちのうちに、人々に熱せられた釜の中にいるような苦しみを与えた。乗組員が三ヶ月も海の上に浮かんで得られる黒さを、わずか十五分間ほどの間に桟橋で焼きつけられたのである。

この急激なる温度の変化は、太陽の直射をさえぎる層雲が、海岸線から五、六海里ほど離れた海上から内側のケープタウンの空に発生すること希(まれ)なることに基づくのである。」

ケープタウンの住人の言葉に信用を置くべきか、この本の言うところに従うべきかは疑問であるが、二週間の停泊中、これぞという爽快感を味わわず、なるほどヒート・アショアだなと感じたのは確かである。

四、フラワーデー

水曜日と土曜日とは花を買う日(フラワーデー)と決められていて、植民地の雑(ざっ)ぱくな空気も少なからず融和(ゆうわ)され美化されて、道路から受ける直線的な印象も、そのために一種の余裕のある丸みを帯び、閉塞(へいそく)しかかった市民の情緒をほぐれさせるように見える。

例のアスファルトの歩道と、木口(きぐち)を並べて車道との境を画する縁石(カーブ・ストーン)に寄せかけて、ヒース(エリカ)、ベリーダイサ、カイゼル・クラウン、エヴァーラスティング・フラワー(永遠に続く花、いわゆるドライフラワー)など、紅紫(こうし)とりどりの花が朝の沈んだ空気の中に、気高い花の香りを放ちながら、もったいなくも粗末なカゴの中に同居している。中には「ベテルヘムの星」とか「テーブル・マウンテンの誇り」とか、あるいは「化粧(よそお)える淑女(レディー)」とか、なかなか上品な気どった名前をいただいているものもある。

こう書いてくると、想像力の強い読者は美しい花にふさわしい田舎娘のしとやかさを連想するだろうが、ここのは少し毛色が違って、花売り娘でなくて花売り男である。それもただの男ではなく、目と歯に鮮やかな白い色を見せた顔の黒い、アフリカの人口のほぼ半分を占めるバントウー族である。しかし、商売が商売であるからあまり無鉄砲に野郎状態を表した者はなく、破れたりといえども多くは中折れ帽か鳥打ち帽(ハンチング)をかぶり、牛皮の靴をはいている。時によると、頭からスポリと白い布(きれ)の袋をかぶったズールー娘の黒い手に、赤いフューシアの花が売られているのを見ることもある。無心の花が亡国*の少女の手に抱かれて、白人の客間を飾るべく塵(ちり)の多い街頭に売られているところは、なかなか豊かな気分に富んだ図である。

花で思いついたが、一九一〇年に南アフリカ連邦から輸出した「押し花」**の総価格は、七万五千円***という侮りがたい巨額に及んだそうである。

* 亡国: ズールー王国はアフリカ大陸のインド洋岸(東部)にあった君主国。
一八七九年、イギリスとのズールー戦争に敗(やぶ)れて南アフリカ連邦に組み込まれた。
** 押し花: 現在も輸出されているドライフラワーなど、何らかの保存加工を施した花卉(かき)類を指す(と思われる)。
*** 一九一〇年当時の七万五千円を日本の消費者物価指数(CPI)の推移に基づいて現在の価額に換算すると約2億6千万円になる。

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現代語訳『海のロマンス』85:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第85回)

ケープタウン雑記
一、博物館

すこぶる古色を帯(お)びた大小さまざまな石塊(いしころ)の表面に、かすれた横文字の跡が、かすかに、かすかに匂(にお)っている。インスクライブド・ストーンといって石に文字を刻んだもので、昔、テーブル湾を訪れた船が記念として書き残していったものだという。突拍子(とっぴょうし)もない気まぐれな事柄(ことがら)について、つじつまの合う連想を加える癖のあるぼくは、このときどこかに「美しいビクトリア、ときにはそのかわいらしい口元であどけないくしゃみをしておくれ」といった風な文句がありはしないかと夢や幻を探すように見まわした。が、事実は冷淡にして無愛想であって、そんな空頼(からだの)みはよせよせと忠告されて、従順(すなお)に左側の部屋へと入りこんだ。暑い夏の午後の光線(ひかり)は南アフリカ博物館の年とった玄関番の顔を残酷に照らしている。

向かいの部屋で盛装した二人の婦人(レディ)が日頃のたしなみをすっかり忘却したという体(てい)で、腰をまげてキャッキャと笑っている。重要な用件がある風を装って海産物を陳列した部屋を急ぎ足に通り抜けて先へ行ってみると、ズールー、ブッシュ等のアフリカ原住民の身体やその習性・風俗を示す器具などが配列されている室内の一隅に、かつて地理の先生から聞いたアフリカ最古の住民といわれるコイコイ人の女性が六体ほど安置されていた*。二階にはマンモスやシマウマやムースの大きな剥製(はくせい)の獣(けもの)が並べてあったが、直径六寸(約十五センチ)を超える大きな二本の角を持った犀(さい)はちょっとうらやましかった。

* 原文には身体的特徴についても述べられていますが、現代の基準に照らして割愛しました。

帰りがけに金剛石(ダイヤモンド)室をのぞいたら、黒いの白いのとさまざまな小さな石がキチンと台に乗って勢揃(せいぞろ)いをしている。中に「アフリカの星」とかいうエンドウ豆大のやつが王様然と幅をきかせて光っておった。この手で例の貫一*を悩ましたかと思ったら、そういうものとは関わるまいと目をおおってそこそこに退却した。ただ左側の二番目の部屋に「一七三〇年オランダ・インド会社の総督イメリード、これを持ち帰る」とかいう掲示の下に、青銅製の蝶番(ちょうつがい)が見る影もなくさびついた一つの書類箱(キャビネット)が大事そうに置いてあったことが記憶に残っている。

* 貫一: 尾崎紅葉の小説『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の主人公。
熱海の海岸での間貫一(はざまかんいち)と富豪に嫁(とつ)ぐお宮とのやりとりは何度も芝居化され、よく知られている。
この作品は大成丸が世界周航に出航する十年ほど前まで読売新聞に連載されていたが、作者死亡により未完となった。

二、美術館

博物館の後方にあるアート・ギャラリーをのぞいてみると、階下は有名な植民地の画家の作品を並べた部屋と、大理石、石膏等の塑像(そぞう)を陳列した部屋とに仕切ってあって、階上の明るい部屋はただ一面に大小色々の額が所狭しと陳列されていた。

ここには博物館のような陽気な見学者は一人もなく、分別くさい顔をした若い男や静寂(しとや)かにふるまう淑女(レディ)の静かな群れが、軽いかかとを静かに青い敷物(カーペット)の上に落としているばかり。

船に帰っての下馬評では「プリウ・ガウン」と題した貴婦人の肖像と「禁じられた果物(フォービドン・フルーツ」というエデンの想像画が最も人気が高かった。

テーブル・マウンテンの中腹にヘンリー・ハッチンソンとウッド・ヘッドという二つの貯水池(リザーバー)がある。堅固な花崗岩(みかげいし)をコンクリートで固めた厚いダムが四方に延び、すこぶる念入りにできている。この貯水池こそケープタウンの十万人の喉(のど)を潤(うるお)し、なお余ったものをボタニカル・ガーデンその他の花畑に供給する水源である。

これらの貯水池では三月から九月にわたる雨季(ウェット・シーズン)に水があふれるほどに蓄えられて、太い鉄管で処理場に送られる。飲用水はそこの処理装置で濾過(ろか)したものを用いるのであるが、いろいろな化学成分が十分に除去できないためか、決して清冽(せいれつ)とか透明とかいう形容詞を冠することはできない。少なくとも、胡椒(こしょう)を振った水くらいには混濁している。

本船でもその水を多少は積み込んだが、気味の悪い赤い色を見ては、喉(のど)の括約筋(かつやくきん)が反射的に飲むのを拒絶するほどの不人望(ふじんぼう)極(きわ)まる種類のもので、やむなくこれを洗濯用に使ったほどであった。ケープタウンに住む人々もこれにはさぞかし苦しんでいるだろうと想像したのであるが、あるいは案外に平気かもしれない。今頃は先生たち、「必要は発明の母であって、なんでも臨機応変(りんきおうへん)に対応しなけりゃ」とかなんとかと言っているかもしれない。

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現代語訳『海のロマンス』84:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第84回)

グルート・シューア(続き)

グルート・シューアの部屋はいずれもさほど大きくない。客間の鏡板(パネル)は実に見事なインド産チークでできていた。すこぶる神秘的な構図の大きな織物のタペストリーが壁にかかっている食堂には、十五、六人も並べるような大きな長方形の食卓が置かれてあった。

「日曜休日ごとに市民に庭園を公開したローズはまた、その食卓で食事することの名誉と愉快とを彼らに与えた」と本に書かれているのは、これであろう。また歓談(かんだん)笑語(しょうご)のうちに本国からわざわざ下ってきた名士と南アフリカの政策を議論したのもここであろうし、イエズス会の一長老の金剛石(ダイヤモンド)発見の風変わりな新しい方法を揶揄(やゆ)したのもここであろう。

そもそもローズは食卓において自分から話を進める人ではなくて、客が意見や理想を述べるのを微笑をもって静かに聴取するといったタイプの人柄であった。

彼の治世と事業と人格とを生みだした研鑽(けんさん)の部屋、つまり図書室は居間の次にある。布張りの本や革装の本、山羊皮を使った本などが色々の美しい背皮を厚いガラス窓の奥に輝かせ、ギッシリと大きな本棚に積んである。

日頃からローズはギボンの不世出の名著たる『ローマ帝国衰亡史』を読んで、シーザーの人となりや彼に心躍らせていたとのことである。そして一方、彼の寝室にナポレオン大帝が使用したと伝えられる古色蒼然たる時計(クロック)と、ナポレオンの立像とが飾られてあるのを見れば、英雄崇拝(えいゆうすうはい)の傾向がある人々の系統について、面白い事実を発見することができる。

遊戯室の二階はローズの寝室で、その大きな張り出し窓(ベイウインドウ)は人間界の巨人が朝な夕な天然界の巨人たるテーブル・マウンテンに親しんだところだという。

もともと日本人は偉人ゆかりの跡とか、一族存亡の跡とかいう歴史的に著名な場所に到(いた)ると、たちまちインスピレーションに感銘して、むやみに感慨にふけり、むやみに憧憬(どうけい)し、追憶して、同情的にかられた涙もろい気分に陥(おちい)ってしまうのが癖(くせ)である。

ところがこの第一の癖(くせ)に次いで、その強烈な感興(かんきょう)も決して長持ちがしないという第二の癖(くせ)を十分に発揮するので、はたの者は幸いにしてあまり当てられずにすむ。まことに淡泊な、あっさりしたよい気象である。どんな偉人でも、護国救世(ごこくきゅうせい)の大人物でも等しくお宮や銅像で葬(ほうむ)り去られたが最後、きれいに忘れられてしまう。これでようやく義理がすんだというようにすましてしまう。古い昔のことは言うに及ばず、今日この頃の谷垂(たにだれ)の墓地*を訪問した者はなるほどと合点するであろう。

* 谷垂(たにだれ): 現在の東京都品川区西大井。初代内閣総理大臣・伊藤博文の墓所がある。

こういう気象から論じていくと、キンバレーの金剛(ダイヤモンド)鉱を英人の権力内に収め、かのローデシアを創出し、北方のいわゆる国土拡大(グレイト・エキスパンション)に努力し、ケイプ植民地の首相となってはよく善政をしいたローズのために、デビルス・ピークの中腹に広壮な一大記念堂を設立して、どんな男でもいざとなるとローズ、ローズと口癖のようになつかしがる南アフリカの英人は、執拗(しつよう)なネチネチした思いきりの悪い国民かも知れない。

タウンからワインバルグ行きの汽車に乗る人は終始(しゅうし)右側の車窓を通じて、縦線が特に目立つ白い建物を、うっそうたるデビルス・ピークの緑葉の間に見いだすであろう。

ゆるやかな傾斜をもって隠れたる技巧と努力をしのばせる、美しく加工されたけわしい山道が、のどかな春の光陰(ひかり)にのんびりと浮かれ出た蛇(くちなわ)のように延々と山をうねり登る。

快い肺の拡張と、生ぬるい身内の汗とを意識しつつ登り登りて、ホッと軽い息をついたとき、目の前に「肉体(フィジカル)の精華(エナジー)」の像が出現し、それを仰(あお)ぎ見ながら、なるほど評判に聞いたとおり勇ましい武者ぶりだと褒(ほ)めたくなった。見るからに荒馬然とした精悍(せいかん)なる裸馬(はだかうま)に、いわゆる眼光するどく引き締まった体の男が、これもまた裸体(はだか)のまま著(いちじる)しく身体を左方にねじ向けながら危うげに踏みまたがって、拳闘家(けんとうか)に見るような、たるみのない隆々たる筋肉美を、新緑の炎を吐くという盛夏(せいか)の大気のうちに匂わしている。

ギリシャ神話の女怪物ゴルゴン・メドゥーサを斬ったというペルセウスの腕もかくやと思うような手を、精悍(せいかん)の気あふれるばかりにただよう眉間(みけん)に添えて、不敵(ふてき)な面魂(つらだましい)を北の方なるローデシアへと向けている。

なぜ「心霊の精華(スピリチュアル・エナジー)」と呼ばずして、フィジカル・エナジーと呼びならわしたかはわからない。こういうときには、あれこれ考えこんだりせず、あるものをそのまま素直に受け入れる性格の人がうらやましい。

この騎馬像(エケストリアン)は、かの英国はロンドンのケンジントンにある像と同じくワッツ*の作であって、グレイ伯とワッツ夫人との承諾のもとにここに飾られたという話だ。

* ジョージ・フレデリック・ワッツ: 英国の画家・彫刻家(1817年~1904年)。フィジカル・エネルギーと題する騎馬像は南アフリカのセシル・ローズにささげられた。鋳造された作品は二体あり、それぞれロンドンのケンジントンと南アフリカのローズ・メモリアルに設置されている。

夕闇(ゆうやみ)の空に美しくちりばめられた星のように光る多くの鉱物を含む花崗岩(みかげいし)を重ねた、コロシアム式に太い円柱(コリーム)の列群と二つの翼房(ウイング)とを持つ、いわゆる「殿堂」に通じる石燈(せきとう)の左右には、スワンの作と伝えられる八つのいかつい獅子(しし)の像がある。

「殿堂」の中にはベイカーの作とされる、テーブルにもたれてまさに来るべき飛躍(ひやく)を夢見つつ瞑想(めいそう)にふけっているローズの胸像(バスト)がある。すこぶる陰気(グルーミー)な表情をしているが、最もよくローズを表しているとの評判である。

像の上の碑文に To the Spirit and Life work of Cecil John Rhodes who loved and served South Africa (南アフリカを愛し奉仕したセシル・ジョン・ローズの精神と生活に捧げる)と彫られてあるのを見て、意味もなく気まぐれな悲哀が胸に満ち、そぞろに涙ぐむ心地がした。

この心地は、グルート・シューアの一部を占めるジェイムソン博士の邸宅のほとり、深い涼しい松並木や美しい花の冠をいただく生け垣の間を、かわいい目つきをしたリスの幾群れかが飛び交う平和な郊外の風光にふれてきたことによる複雑な気分から来たのか、またはこの山腹から茫漠(ぼうばく)として涯(はて)しなきテーブルのように平らな夕暮れの夢幻的な情趣(じょうしゅ)――それは泰西(たいせい)の風趣(ふうしゅ)に一貫して独特なる――にかられたためか、いまだに疑問である。

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