スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (6)

ボートでおバカなことをするより商売の方が面白いと誰が言えるだろうか? そういうことを言う人はボートを見たことがないか商売というものを知らないに違いない。少なくともボートの方が健康にはずっとよいのは確かだ。人間がやるべきは、まず楽しむことだ。金を稼ぐこと以外に、これに対抗できるものはない。あの

          マンモン──そうだ、天から堕ちた天使のうちこれほど
さもしい根性の持ち主もなかったという

(ミルトン『失楽園』平井正穂訳)

あの拝金主義の権化くらいしか一語でもあえて反論しようという者はいないだろう。商売人や銀行家を人類のため滅私奉公する人々とみなし、彼らが取引に没頭しているときに最も貢献しているというのは上っ面のきれい言だ。というのは、人間自身の方がその人の職務より重要だからだ。このロイヤル・ノーティークのクラブ員たちが帳簿以外の何かに情熱をそそぐことができない、希望に満ちた若さというものから堕ちてしまっていたら、彼らがこんないい人でいるはずはないし、夕闇が迫ってからずぶ濡れになってボートを漕いでブリュッセルまでやってきたイギリス人をこれほど暖かく歓迎してくれたりはしないだろう。

ぼくらは服を着替えて、クラブの繁栄のためにペールエール*1で乾杯した。それから、一人がぼくらをホテルまで送ってくれた。彼はぼくらの夕食には加わらなかったが、ワインには付き合ってくれた。情熱というものは非常に疲れるものだ。ぼくは、預言者が地元のユダヤでなぜ人気がないのか、だんだんわかってきた。この若者は三時間ほどぼくらと一緒にいて、ボートやボート競技について語り、帰る際には親切にもぼくらの寝室のローソクを注文してくれた。

ぼくらは何度か話題を変えようとしたが、うまくいかなかった。このロイヤル・ノーティークのクラブ員はぼくらの意図には乗ってこず、質問に答えるとまたしてもボートやボート競技について熱く語りだすのだった。ぼくは話題と言ったが、その話題と彼自身が一体になっていた。アレトゥサ号に乗っているぼくとしては、レースなんてものはすべて悪魔が生み出したものだと思っているくらいだし、ジレンマも感じた。祖国イギリスの名誉のためにもレースについて無知をさらすわけにはいかないし、以前には聞いたこともないイギリスのクラブやイギリスのボート競技者について話を合わせたりした。何度か、とくに一度などは、スライド式のシートという質問で無知がばれそうになった。シガレット号のオーナーはかつて真剣にレースをしたことがあるのだが、今ではそうした行為を若気の至りと思うようになっていたので、ぼくよりもっと大変だった。というのも、ロイヤル・ノーティークの連中が、翌日にクラブ所有のエイト*2に乗って、イギリスの漕ぎ方とベルギーの漕ぎ方を比べてみないかと提案したからだ。その話が出るたびに彼が椅子に座ったまま冷や汗をかいているのがわかった。すると、さらに、ぼくら二人が同じように感じる、もう一つの提案がなされた。カヌーのヨーロッパ・チャンピオンが(他のほとんどのチャンピンと同じく)ロイヤル・ノーティークのクラブ員だということだった。ぼくらが日曜まで待ってくれれば、ぼくらにとってはとんでもない名手が次の航程でぼくらに同行してくれるだろうというのだ。ぼくらには太陽神アポロンの馬と競争しようなんて気持ちはまったくなかった。

この若者が戻っていくと、ぼくらはローソクを消してブランデーと水を注文した。大波が頭上を乗りこえていったようだった。ロイヤル・ノーティークのスポーツマンたちは誰もが出会いたいと思うすてきな若者たちだったが、いかんせん若すぎたし、ぼくらからすれば潮っけがありすぎた。ぼくらは自分が年をとりシニカルになっていると感じさせられた。ぼくらはのんびりするのが好きだったし、あれやこれや、とりとめのない話をするのが好きなので、エイトに乗って必死に漕いだり、四苦八苦しながらもカヌーの選手権者の後塵を拝して祖国に泥を塗りたくもなかった。それで、早い話が、ぼくらはとんずらした。面目ない話だが、せめて心からの称賛を書きつらねたカードで感謝の意を表して埋め合わせようとした。実際、罪の意識を感じる暇もなかった。ぼくらは首筋にまでチャンピオンの熱い息吹を感じたような気がしていたのだった。
脚注
*1: ペールエール - ビールの一種。
*2: エイト - 八人の漕手が乗るのでエイトと呼ばれ、ボート競技では最大かつ最速。これに舵手が一人加わる。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (5)

ロイヤル・スポーツ・ノーティーク

ラーケンの近くで雨がやんだ。だが、すでに日が沈み寒かった。ぼくら二人はずぶ濡れで、しかも厄介な問題に直面していた。アレ・ヴェルトのはずれに近く、いよいよブリュッセルに入ろうかというところまで来ていたのだが、運河を航行する船が水門で列をなして待機しているのだった。上陸しやすそうな場所はなかったし、夜にカヌーを置いたままにできる馬小屋のようなものもなかった。ともかく、なんとか上陸して居酒屋に入ってみた。何人かのパッとしない客が主人を相手に飲んでいた。主人はぼくらには無愛想で、馬車置き場や馬小屋のようなものが近くにあるのか知らなかった。ぼくらが飲みにきたのではないとわかると、追い出したくてたまらない様子だった。客の一人が助け舟を出してくれた。どこかこの付近の端っこに船を着けられる場所があり、他にも何かあるようだと教えてくれた。その話はばくぜんとしていたが、それを聞いたぼくらは、自分たちに都合のよいように解釈した。

確かに水門付近の隅に船を着ける場所があった。一番高いところにボート競技用の服を着た容姿端麗な男が二人いた。ぼくがアレトゥサ号で近づいて聞くと、一人がここにぼくらのカヌーを置いても何の問題もないと言った。もう一人は口からタバコを抜きとり、そのカヌーはサール&サン社製かいと尋ねた。この名前をきっかけに、ぼくらは互いに同類だとわかった。他にも五、六人がロイヤル・スポーツ・ノーティーク*1という看板があるボートハウスから出てきて話に加わった。彼らはとても礼儀正しく、おしゃべりで、熱心だった。会話には英語のボート用語がまじり、イギリスのボート・ビルダーやクラブの名前も出てきた。恥ずかしいことに、ぼくは自分の母国で自分がここにいるのと同じ数の人々に暖かく迎えられる場所はないのではないかと思う。ぼくらがイギリスのボート乗りだというだけで、ベルギーのボート乗りたちは歓迎してくれたが、迫害を逃れて英仏海峡をわたってきたフランスのユグノー教徒*2を、イギリスの新教徒たちはこんなに暖かく迎えてくれたのかなとも思ったりした。とはいえ、どんな宗教も、共通のスポーツほど人々を結びつけることはないのではないだろうか?

ぼくらのカヌーはボートハウスに運び込まれ、クラブの従業員が水洗いしてくれた。帆は干され、すべてが見事に整頓された。一方、ぼくらは知り合ったばかりの同胞に二階へと案内された。同胞というのは、彼らがぼくらをそう呼んだのだが、洗面所も自由に使っていいと言ってくれた。一人は石鹸を、一人はタオルを、三人目と四人目はぼくらが荷物を下ろすのを手伝ってくれた。その間ずっと、質問攻めで、敬意と共感が示されたのだった! こんなありがたいことはなかったと言っておきたい。

「そう、そう。このロイヤル・スポーツ・ノーティークはベルギー最古のクラブなんですよ」

「会員は二百人いるんだ」

「ぼくらは」──ここで引用している発言は、言われた言葉そのままではなく、たくさん話をした後で、ぼくの記憶に残ったものを述べているのだが、彼らは若々しくて率直で愛国心にも満ちていた──「ぼくらはすべてのレースに勝ったんですよ。フランスの連中にだまされたのを除けばね」

「濡れたのは、ここに置いとけば乾くよ」

「なあ兄弟! イギリスのどんなボートハウスでも、ぼくらと同じことをしてくれると思うよ」(そうであってほしいと心から願っている)。

「イギリスでは、シートはスライド式だよね?」

「ぼくらは昼間は商売をやってるけど、夜になれば、こんな感じで真剣に取り組んでいるってわけ」

こうした発言があった。彼らは全員が昼間はベルギーでビジネスに従事していたが、夜は人生にとって大切なことに取り組む時間を確保していた。ぼくは分別というものについて誤った考え方をしているのかもしれないが、これはとても賢い考えだと思う。文学や哲学に関係する人々は手垢にまみれた考えや偽の基準を排除しようと日々懸命になっている。そういう人は、頑固なまでに信念をつらぬき、自分にとって以前の新鮮な人生観を復活させ、自分がもともと本当に好きだったことと必然的に耐えることだけを学んだこととを区別するのが仕事だ。このクラブの連中は心の中で、それを明確に区別できていた。何がすばらしくて何が悪いのか、何が面白くて何が退屈なのかを明確に認識していた。年をとってくると、そんなのは幻想だと言うようになる。中年の悪夢のような勘違い、人の精神から生命を徐々に絞りとろうとする習慣の力は、こうした幸福の星をちりばめた若いベルギー人たちにはまだ影響しはじめていないのだった。彼らはまた、ボート競技に対する自発的で長く続いている愛情に比べれば、自分が仕事に抱いている関心など些事にすぎないと知っていた。世間がそうすべきだというものに疑問を持たず首肯するのではなく、自分が何が好きなのかを知ることが自分の魂を生かし続けることになるのだ、と。そんな人は心も広く、商売の才覚とは違った何かに正直でいられるだろう。友人は自分の意志で選び、個人として共感をもって愛し、友人をその地位の添え物と考えたりはしまい。要するに、自分の本能に従って行動し、神が作りたもうた自分自身の姿を維持し、自分がよくわかりもしない原則に従って大切に思ってもいない目的のため社会という巨大な機関の歯車になっていない人、そんな人たちだ。

*1: ロイヤル・スポーツ・ノーティーク - 1865年に設立されたベルギーでも古参のスポーツクラブ。当初はボート競技が中心だったが、現在は他のスポーツも含めた総合スポーツクラブになっている。

*2: ユグノー教徒 - フランス宗教改革におけるカルビン主義の改革派。十六世紀後半、大量虐殺などの弾圧を受け、イギリスを含む諸外国に亡命した。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (4)

ウィレブルークとヴィルボールデの途中で、地主の館へと続く道のように美しい運河のところで、ぼくらは昼食にしようと上陸した。アレトゥサ号には卵二個とパン、ワイン一本があり、シガレット号には卵二個とエトナ製のコンロを積んでいた。シガレット号の相棒は上陸する際に卵一個をつぶしてしまった。とはいえ、そいつは薄焼き卵にすればいいとなって、フランドル語*1の新聞がついたままコンロに放り込んだ。晴れている間に上陸したが、二分もしないうちに風が強くなり、雨が音を立てて降りだした。ぼくらはコンロにできるだけ体を近づけた。燃料のアルコールがいきおいよく燃え上がり、一、二分ごとに炎が草に燃えうつるので、それを踏み消さなければならなかった。ぼくらはまもなく何本か指をやけどした。こんな騒動をした割に、料理の方はパッとしなかった。二回も火をつけてみて、やっとあきらめたが、割れなかった方の卵は生暖かいままだし、紙がついた卵といえば印刷のインクと割れた殻を一緒に煮こんだ、いかにもまずそうなフリカッセ*2みたいだった。ぼくらは残りの卵二個を燃えているアルコールの方に押しやるようにして焼いたが、こっちはなんとかうまくいった。それからワインのコルクを抜き、溝の縁に座ってカヌーのスプレースカートを膝に広げた。雨は激しくなった。まずい状況だ。正直、不快ではあるのだが、不快すぎてしかめっつらもできない。屋外でびしょ濡れになり感覚もなくなってしまうと、ただ笑うほかはない。そう考えれば、食べるつもりだった紙まじりの卵も一興ではある。とはいえ、こうしたことは笑いとばすことで、なんとかしのぐことはできるが、もう一度やれと言われたって繰り返す気にはならない。というわけで、それ以降、エトナのコンロはシガレット号の奥深くしまわれたままになった。

昼食を終えたぼくらが、またカヌーに乗りこんで帆を上げたとたんに風がなくなったことは言うまでもない。ヴィルボールデまでの残りの旅では風に恵まれなかったが、帆は上げたままにしておいた。ときどきは風も吹いたし、それが途切れると、水門から水門まで両側に規則正しく並んでいる木々の間を漕いでいった。

緑ゆたかな風景だった。というか、村と村をつなぐ緑の水路のようだった。ずっと長く人が住んできた、落ち着いた土地のようだった。ぼくらが橋の下に差し掛かると、坊主頭の子供たちがよそ者に対する敵愾心を発揮してつばをはきかけた。だが、もっと保守的なのは釣り人で、浮きに集中し、ぼくらが通りかかっても一顧だにしなかった。彼らは橋脚の水切りや補強部のでっぱり、土手の斜面に座って静かに釣りに没頭していた。生命のないものが流れていくように、ぼくらには無関心だった。古いオランダの版画の中の釣り人のように、彼らはまったく動かなかった。葉が風にそよぎ、川面にさざ波がたっても、国法で設立された多くの教会のように、彼らも微動だにしなかった。連中の無邪気な頭の一つ一つに穴を開けてみても、頭蓋骨の下には巻いた釣り糸しか見えないのではないか。インドゴム製の長靴をはきマス釣りの竿を手に山岳地帯の急流に立ち向かう屈強な釣り師なんかどうでもいいが、こうやって穏やかで人影もまばらな水面で釣れもしない釣りに打ち込んでいる連中は嫌いではない。

ヴィレボールデをすぎたところにある最後の水門には、上手なフランス語をはなす管理人の女性がいて、ブリュッセルまで二リーグ(約十キロ弱)ほどだと教えてくれた。その場所で、また雨が降り出した。雨粒はまっすぐ平行線を描いて落ちてきて、川面は雨に打たれて無数の小さく透明な噴水でおおわれた。近くに宿屋はなかった。ともかく帆をたたみ、雨の中をひたすら漕いだ。

時計があり鎧戸を閉めた窓がたくさん並んでいる田舎の美しい館や、林や通りに立つ立派な老木を見ていると、運河の岸辺に降り続く雨や深まっていく夕闇とあいまって、豊かで厳粛な雰囲気がもたらされてくる。版画でも同じ効果を持つものを見たことがあるような気がする。豊かな風景が迫りくる嵐のために見捨てられた印象を与えるやつだ。そうして、運河を進んでいる間ずっと、運河沿いの道を速足で進む幌のついた一台の粗末な荷馬車と一緒だったが、ほぼ同じ距離でついてくるのだった。

脚注
*1: フランドル語 - 広い意味のオランダ語。特にベルギーで使用される言語を指す。
*2: フリカッセ - フランスの家庭料理。白いソースの煮込み料理。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (3)

ウィレブルーク運河

翌朝、ぼくらはウィレブルーク運河に入ったが、雨が激しく降って寒かった。こんなに冷たい雨が降りそそいでいるのに、運河の水は紅茶を飲むのにちょうどよいくらいの温かさだったので、水面から蒸気が立ち上っていた。あいにくこんな状態だったが、出発するときの高揚した気分もあったし、パドルでこぐたびにカヌーが軽快に動いてくれるので、苦にはならなかった。雲が流れて太陽がまた顔を出すと、家に引きこもっていては感じられないくらいに、ぼくらの気分も高揚してきた。風は音をたてるほど吹き、運河ぞいの木々が揺れていた。葉もかたまりとなって揺れ動き、陽光に輝いたり影になったりしている。目や耳にはセーリング日和という感じだったが、土手にはさまれた川面までおりてくる風は弱く、気まぐれに強く吹いたりするものの、ちゃんと帆走できるほどではなく、速くなったり遅くなったりムラがあった。かつて船乗りだったと思われるひょうきんな男が船を曳いて歩く道からぼくらの方に向かって「速いな、だが先は長いぞ」とフランス語で声をかけてきた。

運河の交通量は多かった。ときどき緑色の大きな舵柄のついた列をなす船と行き会ったり追い越したりした。船尾が高く、舵のいずれの側にも窓があり、そうした窓の一つには水差しや花瓶が置かれたりしていた。船尾から小さなボートを曳航し、女性が食事の準備に忙しそうだったり、子供がいたりした。こうした荷船は二十五か三十もあっただろうか、牽引ロープでつながれ、風変わりな構造の蒸気船に曳航されていた。牽引している蒸気船には外輪もスクリューもなかった。機械工学の心得のないものには理解できないような装置があるのだろう。その船は運河の川底に敷かれた細い鎖を光を反射させながら引き上げては船尾から降ろしていき、そうすることで鎖の輪をたどって積み荷を搭載した平底船の列を進めているのだった。この謎を解くカギを見つけるまでは、前進しているのを示すものはなにもないのに、こうした荷船の列が穏やかに水面を進み、横を流れる渦が航跡の中に消えていく様子には、どこか厳粛ではあるが妙に落ち着かないものがあった。

商業目的で作られたあらゆるもののうちで、運河の荷船ほどあれこれ考えさせることができて楽しいものはない。帆を展開して水路橋をわたったり緑のトウモロコシ畑を通り抜けたりすると、その帆が木々や風車ごしに見えるし、水陸両用のものでは最も魅力的だ。また、まるで世の中にそんな商売はないとでもいうように、馬が並足で歩きながら船を引き、ぼんやりと夢うつつで舵柄を持っている男は一日ずっと水平線に同じ尖塔を見ているのだ。こんなペースで荷物をどうやって目的地に運べるのかと不思議にもなってくる。さらに水門で荷船が順番を待っているのを見ると、これが世の中だと教えられもする。こうした船に乗っている人々には自分の生活に満足している人が多いはずだ。というのは、こういう船での生活は、旅をすることと家にいることの両方を兼ねているからだ。

進んでいくと、夕飯の支度をする煙が煙突から立ちのぼる。運河の土手からの景色が少しずつ展開していき、荷船は大きな森のそばに浮かんでいたり、公共の建築物があったり夜に街灯のきらめく大都会を通り抜けたりしていく。船頭にとって荷船は浮かぶ家であり「旅の寝床」でもある。他人の話を聞いたり関心のない絵本のページをめくっていくようなものだ。運河の土手に上がればそこは外国だし、そこで午後の散歩をし、それから家に戻って自分の炉端で夕食をとってもよいのだ。

こんな生活は、健康という観点からは、運動が十分とはいえない。とはいえ高い健康意識は健康でない人々に必要なだけだろう。病気でも健康でもない怠け者はこんな感じで静かな人生をすごし、そうやって安らかに死んでいくのだ。

ぼくは通勤の必要があるどんなよい地位につくよりも、荷船の船頭でいたほうがいいと思っている。呼び出されることはほとんどないし、暮らしに困らないようにするために断念する自由が少なくてすむからだ。荷船の船頭は船に乗っているが、自分の船だ。自分が上陸したいと思えばいつでも上陸できるし、ロープが鉄のように固く凍りつく寒い夜に一晩中、風上帆走しつづけることもない。ぼくにわかる範囲では、就寝時間や夕食の時間はあるものの、時間はほとんど静止している。荷船の船頭には死んだりする理由もあまりなさそうだ。

夫婦でヨットによる世界一周へ

この6月(2017年)に四国から夫婦でヨットでの世界一周に出発した花丸(池川富雄さん)のご紹介。

ヨットの世界では木造ヨットの製造で有名な人ですが、子育ても終わったとして、65歳で5年をかけての世界一周への挑戦です。

すでに太平洋横断や縦断(ニュージーランド)を経験しているベテランです。

ホームページはこちら(航海中も毎日更新予定)
https://ikegawa-yacht.com/
現在地・航跡を示すサイトはこちら
https://forecast.predictwind.com/tracking/display/Hanamaru
出発時の動画(テレビのローカルニュース)
https://www.youtube.com/watch?v=08BdS4mpj7c&feature=youtu.be

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (2)

川の上は快適だった。一、二隻の干し草を積んだ荷船と行き過ぎた。川の両岸にはアシや柳が生えていて、牛や灰色の年老いた馬がやってきた。土手ごしに頭を出してこちらを眺めている。木々に囲まれた感じのよい村には活気のある造船所があり、芝生に囲まれた館も見えた。風に恵まれてスケルト川をさかのぼり、ロペル川までやってきた。さらに追い風を受けて先へと進むと、はるか遠く右岸にボームのレンガ工場が見えてきた。左岸はまだ草の生い茂った田園地帯で、土手ぞいに並木が続いている。あちこちに船着き場の階段があり、婦人が肘を膝に乗せて座っていたり、銀縁メガネをかけてステッキを持った老紳士がいたりした。だが、ボームとそこのレンガ工場群に近づくにつれて、すすけた印象となり、みすぼらしくもなったが、時計台のある大きな教会や川にかかる木の橋のあたりまで来ると町の中心という感じになった。

ボームはすてきな場所というわけではなく、唯一の取柄は、住人の大多数が自分は英語を話せると思っていることだった。が、実際はそうではない。話をしても、何を言っているのか、よくわからない。宿をとったオテル・デ・ラ・ナヴィガシオンについて言えば、この場所の悪いところが全部でているようなところだ。通りに面して休憩室があり、床には砂をまいてあって、一方の端にはバーがあった。別の休憩室はもっと暗く寒々としていて、飾りといえば空っぽの鳥かごと三色旗をつけた寄付金用の箱があるだけだ。ぼくらはそこで愛想のない技師見習い三人に寡黙なセールスマンと一緒に食事をすることになった。ベルギーではよくあることだが、食事はなんの変哲もないものだった。実際、この感じのよい国民の食事に、人を喜ばせる何かを見つけだすことは、ぼくにはできなかった。ここの連中はたえず何か食べ物をつまんだり口に入れたりしているのだが、およそ洗練されているとは言えず、フランス風ではあるが根はドイツ、どっちつかずの中途半端という代物だった。

空の鳥かごはきれいに掃除され飾りもつけられていた。が、鳴き声を聞かせていた鳥の姿はなく、角砂糖をはさむため押し広げられた二本の針金が残ったままで、宴の後のようなもの悲しさがあった。技師見習いたちはぼくらに声をかけようとはしなかったし、セールスマンにも何も言わず、声をひそめて話をするか、ガス灯の明かりにメガネを光らせながら、こっちをちらちら見ていた。顔立ちはよいのに全員がメガネをかけていた。

このホテルにはイギリス人のメイドがいた。国を出て長いので、いろんなおかしい外国の言いまわしや奇妙な外国の習慣が身についてしまっていた。そうした変な流儀について、ここで書いておくことはあるまい。彼女は手慣れた様子で独特の表現を使ってぼくらに話しかけ、イギリスで現在はどうなっているのかと情報を求め、ぼくらがそれに答えると、親切にもそれをいちいち訂正してくれるのだった。とはいえ、ぼくらの相手は女性なのだし、ぼくらが提供した情報は思ったほどは無駄にならないのかもしれない。女性はなんでも知りたがるし、教えてもらう場合でも自分の優越性は保とうとするものなのだから。それは、こんな状況では賢明なやりかただし、そうする必要があるともいえる。というのは、女性が自分をほめているとわかると、たとえそれが道をよく知っているという程度のことであっても、男はすぐに調子にのって鼻の下を長く伸ばしたがる。この手の図に乗った男をあしらうには、女の立場としては、たえず肘鉄をくらわせるようなことをしていくしかないわけだ。男なんて、ハウ嬢やハーロー嬢*1が述べているように「そんな侵入者」なのだ。ぼくは女性を支持している。幸せな結婚をした夫婦は別として、狩猟する女神の神話ほど美しいものはこの世に存在しないと思っている。男が森で苦行しようとしても無駄だ。ぼくらは実際にそうした男を知っている。聖アントニウスもずっと前に同じことをやって悲惨な目にあったではないか。しかし、女性には男の最高の求道者にもまさる、自分に満足できる者がいて、男の顔色をうかがうこともなく、寒冷の地で気高く生きていくことができる。ぼくは禁欲主義者というわけではないが、女性にこうした理想があるということには感謝している。ただ一人を除き、どんな女性に自発的にキスされたとしても、それ以上に、こういった女性という存在がいることに感謝している。自主独立してやっている人々を見ることほど勇気づけられるものはない。スリムで愛らしい娘たちがダイアナ*2の角笛の音に駆られて一晩中森の中を走りまわり、そうした木々や星あかりのように、男たちの熱い息吹やどたばた騒ぎにわずらわされず、オークの老木の間を縫って動きまわっているのを想像すると──ぼくにとってもっと好ましい理想は他にもたくさんあるが──そういう様子を思い浮かべるだけで、ぼくの胸は高鳴ってくる。そうした生き方はたとえ失敗したとしても、なんと優美な失敗だろうか! 自分が後悔しないものを失ったところで、それは失ったことにはならない。それに──ここでぼくの内なる男がでてきてしまうのだが──こっちを軽蔑している相手をなんとか説き伏せていくのでなければ、どこに恋愛における喜びがあるというのか?
脚注
*1: ハウ嬢やハーロー嬢 - 英国の小説の祖と言われるサミュエル・リチャードソンの書簡体小説『クラリッサ』の登場人物。
*2: ダイアナ - ローマ神話の月や狩猟の処女神ディアーナ。ギリシャ神話では月と貞潔と狩猟の女神のアルテミスとなり、鹿の角と関係が深い。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (1)

ロバート・ルイス・スティーヴンソン著
明瀬和弘訳

原著の序は本文の末尾に掲載します。

アントワープからボームまで

アントワープ*1のドックではちょっとした騒ぎになった。港湾作業の監督一人と荷役人たちは二隻のカヌーをかつぎ上げると船着き場に向かって駆け出し、おおぜいの子供たちが歓声をあげながらそれを追った。まずシガレット号が水しぶきをあげて水面に突進し、アレトゥサ号がすぐにそれに続いた。ちょうど外輪式蒸気船がやってきたところで、船上の男たちは大声で警告し、監督や荷役人たちも波止場からどなっていた。とはいえ、ぼくらのカヌーはひとかきふたかきしただけで、軽々とスケルト川*2の中央部まで進んだ。行き交う蒸気船や港湾作業の人々、陸の喧騒はすぐにはるか後方に遠ざかった。

太陽はきらきらと輝き、上げ潮が時速四マイルでいきおいよく流れていた。風は安定していたが、ときおり突風が吹いた。ぼくはこれまでカヌーで帆走したことはなかった。正直、この大河のど真ん中で初めて経験するという不安はあった。この小さな帆に風を受けたらどうなるのだろう、と。最初の本を出版したり結婚に踏み切ったりするのと同じで、未知の世界に乗り出していくようなものだろう。とはいえ、ぼく自身の不安はそう長くは続かなかった。五分もすると、ぼくは帆を操るロープをカヌーに結びつけていた。

これには自分でも少なからず驚いた。むろんヨットで他の仲間と一緒にいるときには、帆を操るロープはいつも固定していたが、こんな小さく転覆しやすいカヌーで、しかも、ときおり強風が吹くような状況で、同じやり方をする自分が意外だった。それまでの自分の人生観がひっくり返るような感じでもあった。ロープを固定しておけば、たばこだって楽に吸えるが、ひっくり返るかもしれないという明らかな危険があるときに、のんびりパイプを吹かそうという気になったことは、これまで一度だってない。実際にやってみるまで自分でもよくわからないというのは、よくあることだ。だが、自分で思っている以上に自分が勇敢でしっかりしているとわかって自信が持てたという話は、あまり人の口からは聞こえてこない。似たようなことは誰でも経験しているだろうが、妙な自信を持ってしまうと、この先で自分に裏切られるかもしれないという不安があるので、そういうことをあまり人に吹聴しないのではないか。もっと若いころに人生に自信を持たせてくれる人がいてくれたら、危険は遠くにあるときにこそ大きく見えるが、人間の精神の善なるものはそう簡単には屈服しないし、いざという時に自分を見捨てることは稀か決してないと教えてくれる人がいてくれたらと、心から思う。そうであったら、ぼくはどれほど救われていたことだろう。とはいえ文学では誰もセンチメンタルになるし、こんな勇気を鼓舞するようなことを書いてくれることはないだろう。

脚注
*1: アントワープ - ベルギー北部の都市(オランダ語ではアントウェルペン)。
*2: スケルト川 - 源流はフランス北部。ベルギーのフランドル地方を流れて北海にそそぐ国際河川。スヘルデ川、エスコー川(フランス語)とも呼ばれる。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行

ジャック・ロンドンの『スナーク号の航海』に続いて、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『欧州カヌー紀行』(新訳)の連載を開始します(6月4日から毎週日曜日)。

R.L.スティーヴンソンは『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』などの作品で知られる十九世紀イギリスの作家で、晩年(というか、四十四歳で死亡しているので短すぎる人生の後半)は療養をかねて南太平洋のサモアに移り住み、その地で没しました。

この紀行は二十代の若きスティーヴンソンが友人と二人で大陸(ヨーロッパ)にカヌーを持ちこんで旅した記録です。

カヌーといっても、セーリングカヌーです。一人乗りですが、一人では持ち運べない重さがあるようなので、現代の感覚ではディンギー(機関や船室のない小型ヨット)に近いかもしれません。

スティーヴンソンの母国のイギリスもそうですが、ヨーロッパは船が航行できる大小の川とそれを結ぶ水路が縦横に張り巡らされていて、ほとんどすべての地域を国境をこえて航行することができます。高低差があってもロック(水門)を利用すれば低地から高地へ行くことも可能です!

本作には故吉田健一の名訳(岩波文庫)がありますが、現代の若い人々には旧字体を含めてとっつきにくい印象があるため、現代感覚の新訳でお届けします。

スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 〜 スモールボート・セイリング(その8)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

Small-Boart Sailing (8)

ジャック・ロンドン

私は古い人間で、ガソリンの時代より前に育った。その結果、古い流儀がしみついてしまっている。モーターボートよりヨットの方が好きだし、セーリングする方がエンジンで走るより美しくもあり難しくもあり、揺るぎない技術が必要とされると信じている。ガソリンエンジンは誰でも扱える。サルでもエンジンで走れると言えば言い過ぎになるだろうが、エンジンは誰にだって動かせる、というのは正しい。ヨットを帆走させるとなると、そうはいかない。技術も知性ももっと必要だし、途方もない訓練も必要になる。少年や若者や大人にとって、これほどすばらしい訓練の場はない。子供が小さければ、小さくて快適な小舟を与えればよい。あとは自分でなんとかするものだ。教えてやる必要はない。すぐに三角の帆を張り、オール一本で舵を取れるようになる。それから、キールやセンターボードについて語りだし、毛布を持ち出して船に泊まりたくなるだろう。

だからといって心配することはない。危険をおかすだろうし事故に遭うかもしれないが、忘れてもらってはこまる、海の上と同じように託児所でも事故は起きるのだということを。大小の船で死ぬより温室育ちのために死んでしまう子供が増えているが、子供は芝生でクロケットをしたりダンス教室に通ったりするよりも、ヨットでの帆走を経験した方が強くて信頼できる大人になるだろう。

それに、一度ヨットのなんたるかを身につけてしまえば、生涯ヨット乗りでいられるのだ。潮気が薄れることはない。ヨット乗りは年をとらず、あえて風や波と格闘することもいとわない。私はそのことを自分で体験し身にしみて知っている。いまは牧場を経営し、海が見えない場所に住んでいるのだが、牧場にいて海から長く離れていると、そう数ヵ月も経つと、何かしら落ち着かなくなるのだ。前回の航海での出来事について白日夢を見たり、ウィンゴ・スラウの川ではもうシマスズキが泳ぎまわっているだろうかと案じたり、カモの最初の北帰行のレポートに熱心に目を通したりしているのだ。そのうち不意に思い立って大急ぎでスーツケースに荷物を詰めこみ、道具類の点検修理をすませてヴァレーホに向けて出かけていくのだ。そこには小さなローマー号が係留され、私を待ってくれている。そう、主人の足舟が寄って来るのを、ギャレーのストーブに点火されるのを、そうして帆を固縛しているロープがとかれ、メインセールが風に揺れ、リーフポイントがカタカタ音をたて、ちょっと停船し、風を受けてまた動きだし、舵輪がまわされ、湾内を突き進んでいくのを、いつも待ってくれているのだ。

ソノマ・クリークのローマー号船上にて
一九一一年四月十五日

● 用語解説
キール: 竜骨。船首から船尾まで船の中央下部を貫く構造材。外洋ヨットではキールと呼び、一般に横流れ防止と横倒しになっても復元するための重しを兼ねている
センターボード: ヨットで横流れ防止用に船底から下に出ている板。一般に小型ヨットでは前部を軸にして下側に回転するものを指し、レーザー級などのディンギーで上から差しこむ矩形の板はダガーボードと呼んで区別される
ウィンゴ・スラウ: ミズーリ州(米国中西部)の地名
ヴァレーホ: カリフォルニア州(米国西海岸)の地名
ギャレー: 調理をする区画。いわゆる厨房
ストーブ: 小型ヨットでは、暖房用のストーブではなく煮炊き用のコンロを指すことが多い

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スナーク号の航海 (95) - ジャック・ロンドン著

あとがき

スナーク号は水線長四十三フィートで全長は五十五フィート、船幅十五フィート、喫水が七フィート八インチだ。二本マストのケッチで、帆はフライングジブにジブ、フォアステイスル、メインスル、ミズン、スピンネーカーがある。船室の高さは六フィートで、甲板は手すりで囲まれたところと平らで何もないところに分かれている。水密区画は四つ。七十馬力の補助ガソリンエンジンを動かすのに、一マイル当たり約二十ドルの経費がかかる。五馬力のエンジンは故障していなければポンプを動かしてくれるが、サーチライトの電源にも二度ほどなってくれた。船載の十四フィートのボートのエンジンはたまには動くようだが、ぼくが乗ろうとすると決まって動かない。

だが、スナーク号は帆船だ。どこへでも帆走で行く。二年間航海したが、岩や暗礁、浅瀬で座礁したことはなかった。船内にバラストは積んでいない。鉄製のキールは五トンの重量があり、喫水は深く乾舷も高い。非常に頑丈だ。フルセールで熱帯のスコールに遭遇すると舷縁も甲板も波に何度も洗われるが、粘り腰があって転覆するまでには至らない。操船は容易だ。舵から手を放しても、風上航だろうが真横からの風だろうが、昼夜を問わず、きっちり走ってくれる。斜め後方からの風では、帆をきちんと調節しておきさえすれば方向のずれは二点内に収まるし、真追っ手の風では勝手に操舵させておいても三点とずれることはない*1。

スナーク号は途中まではサンフランシスコで建造された。キールの鋳造にとりかかろうとした日の朝に、あの大地震が起きたのだ。そこで混乱が生じた。建造は六カ月も遅延し、ぼくはスナーク号をほぼがらんどうのまま、エンジンを船底にくくりつけ、材料は甲板に固縛した状態でハワイまで回航して仕上げをした。サンフランシスコにとどまって完成させようとしていたら、今も進水できていなかっただろう。完成する前からコストは当初の予定の四倍にもふくれあがった。

スナーク号は最初からツキがなかった。サンフランシスコでは訴訟を起こされたし、ハワイでその請求書は詐欺だと抗弁したものの、ソロモン諸島では検疫違反を理由に罰金を課せられた。いろんなしがらみにとらわれた新聞は真実を書かなかった。役立たずの船長を解雇すると、やつがぼろぼろになるまでぼくが暴力をふるったと報道された。一人の若い乗組員が学業を続けるため帰国すると、ぼくは常にウルフ・ラーセン*2みたいな暴君で、とんでもない乱暴者なので、乗組員はみな長続きしないと報じられた。実際に殴ったのは一度だけだ。船長がコックを乱暴に扱ったからだ。この船長は経歴を詐称して乗りこんできたとわかったので、フィジーで解雇した。チャーミアンとぼくは運動をかねてボクシングをしたが、どちらも誰かを本気で殴ったことなどない。

この航海は、ぼくらが楽しみのために発想したものだ。スナーク号を建造したのはぼくだし、費用も経費はすべてぼくが支払った。ぼくはある雑誌と三万五千語の航海記を書く契約を結んだ。稿料はそれまで書いていた原稿と同じだ。雑誌はすぐに、ぼくを世界一周に派遣すると宣伝した。潤沢な資金を持つ雑誌だった。仕事でスナーク号と取引をした誰もが、この雑誌なら負担してくれるだろうと、三倍の値段を吹っかけた。南太平洋の島々にまでこの神話が伝わっていて、ぼくはそれに応じた割高の料金を払った。今になっても、雑誌が経費を払い、ぼくはこの航海でひと財産つくったと誰もが信じこんでいる。ああいう派手な宣伝の後では、航海すべてを自分の楽しみのためだけにやったのだとわかってもらうのは難しい。

ぼくはオーストラリアで入院した。病院で五週間すごした。それからホテルで五カ月も療養していた。悩みの種だった両手の病気は、オーストラリアの専門家の手にも終えなかった。医学文献にも記載されていないのだ。こんな症例はどこにも報告されていない。症状は両手から両足にひろがっていき、子供同然に、まったく力が出せなくなることもあった。大きさで言うと、通常の二倍くらいにふくれたりもした。同時に七カ所で皮膚が死んで皮がむけた。足指の爪の厚みが二十四時間で長さと同じくらいにもなった。それをヤスリで削り落としても、また二十四時間すると、内側から前と同じ厚さの爪が生えてきた。

オーストラリアの専門家たちは、この病気は非寄生性で、慎重に扱わなければならないということで意見は一致したが、いっこうに改善しないので、そのまま航海を続けることはできなかった。続けたとしても、ぼくは寝床に力なく寝たきりで、両手で何かを握ることもできず、小さな揺れる船を動きまわることもできなかっただろう。船はたくさんあるし、航海もたくさん行われているが、自分の両手や足の爪には代替品がないのだと、自分に言い聞かせた。さらに、気候のよいカリフォルニアに戻れば、ずっと落ち着いていられるとも考えて納得し、こうして戻ってきたわけだ。

戻ってきてから、ぼくはすっかり回復した。そして、自分の何が問題だったのかがわかった。合衆国陸軍のチャールズE・ウッドラフ中佐の書いた『熱帯の太陽光が白人に与える影響』という本にめぐりあい、それでわかったのだ。その後、ぼくはウッドラフ中佐にも会い、中佐も同じような症状に見舞われたことを知った。中佐自身は陸軍軍医で、フィリピンで同じような病気になったとき七名の陸軍軍医に診てもらったものの、オーストラリアの専門家と同じようにサジを投げられてしまった。簡単に言うと、ぼくは熱帯の太陽光線による組織破壊性の疾患にかかりやすい傾向があったのだった。X線の照射を何度も受けるみたいに、紫外線にぼくの体は痛めつけられてしまったのだ。

ちなみに航海を放棄せざるを得なかった別の病気について述べると、その一つは正常人の病気、ヨーロッパのハンセン病、聖書のハンセン病などとさまざまな呼び方をされているものだった。本当のハンセン病とは違い、この不可解な病気については何もわかっていない。自然治癒は記録されているが、この症例を治癒させたと言う医者は存在しない。治療方法がわからないのも無理もない。なぜこの病気にかかるのか自体がわかっていないのだ。薬を使用しなくても、ただカリフォルニアの気候に満たされた環境にいただけで、ぼくの銀色がかった皮膚は消えてしまった。医者がぼくに対して持っていた唯一の希望が自然治癒の可能性だったが、ぼくはそのとおりに治ってしまった。

最後に、航海という試練について述べておこう。これは、ぼくにとっても誰にとっても十分に楽しいものだったと言える。とはいえ、それを証言するには、ぼくらよりも適任者がいる。最初から最後まで同行した一人の女性だ。病院で、カリフォルニアに戻らなければならないとチャーミアンに告げると、彼女の眼には涙があふれた。幸福な楽しい航海を放棄するしかないと知ると、彼女は二日間ショックに打ちのめされた。

グレン・エレン(カリフォルニア州)にて
一九一一年四月七日
脚注
*1: 帆船時代の船舶では、360度の方位を32等分したものを1点(11度15分)としていた。2点は22度30分、3点は33度45分になる。
沿岸航海では風向は変わりやすいが、外洋では同じ方向から安定した風が吹いていることが多く、しかも、スナーク号は船底の前後方向にキールが伸びたロングキールで、舵から手を放しても同じ進路を保つ傾向が強いため、こういうことが可能になる。
キールが縦に細長い現代風のヨットでも似たようなことはできるが、こううまくはいかない。その代わり、ウインドベーンやオートパイロットなど、便利な自動操舵装置が開発され利用されている。

*2: ウルフ・ラーセン - 海洋冒険ものの大作『海の狼』(ジャック・ロンドン著)の主人公で、帆船ゴースト号を暴力で支配する船長。