米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第116回)
なんだかわけのわからない音楽
それはそれは実にやかましい。
細く割った竹を束ねたササラのように、すさんだ神経の末端まで、「しゃくにさわるという一念」が恨(うら)めしく行き渡るほどに、やかましい。
名実ともに美しい都リオの情景から得た好感情、好印象は、この騒音にたちまち徹底的に破壊せられてしまった。
本船と並んで正横の距離(ビーム・ディスタンス)約二ケーブル*(約三百六十メートル)のところに、ブラジル共和国秘蔵のド級戦艦サンパウロが尻も重たげにどっしりと停泊している。停泊している分はまだまだ辛抱できるが──などと言ったら、それこそ居候(いそうろう)の分際でとんでもない心得違いだと叱られるかもしらんが、その上甲板から騒然かつ乱雑に絞(しぼ)りだされる無作法な音響にはまったく参らざるをえない。実にやかましい。
* ケーブル: 長さの単位で一海里(1852m)の十分の一。
嘘だと思うなら、せめて一日でいいからリオの大成丸へ来て、サンパウロの二重砲塔(ダブルタレット)の脇から響いてくる、吠え狂う太鼓の音や、悲鳴のような笛の音や、絞(し)め殺されるラッパの音を、わずか三町(さんちょう)*の間隔で聞いてみるがよい。
* 町(ちょう): 長さの単位で、約109m。
例の怪しげな黄色い「地球に星」の国旗を上げ下げする大統領礼式(?)のときはもちろん、その他にも朝から晩まで、起床だと言っては吹き、掃除だと言っては鳴らし、はては芋が煮えた、キャプスタンバーが転んだで吹きならす。実にやりきれない。あるいは、平素(ふだん)聞きなれたブラジル人の耳には、あんがい極楽にいるというカリョウビンガという鳥の美しい鳴き声とか海の怪物サイレーンの妖(あや)しい音楽とも響いて、マストの塵もとぶという最高の境地をさまようことができるできるかも知れないが?!
それが、今日はことにインスピレーションの雷火(らいか)に打たれて油が乗ったと見え、さっきから同じ曲を繰り返すこと、これで三十五回目である。
ところが、やっと朝の十時である。静かな夜の楽境に達するまでにはまだ十時間もある。いよいよ助からない。激高し憤慨したあまり、イライラして神経にさわり、そのたびごとに身体(からだ)はどんどん衰弱していくようだ。どうかすると、今晩までの命が危ない。漬物の味が変わるということを聞いたが、これでは魂の味が変わりそうだ。
命の方はなんとか助かったとしても、こう耳元で、機械工場の真ん中で腹の減った赤子に出会ったような騒音を聞かせられては、半死半生の大病人にならないまでも三年ぐらいの寿命を棒に振らねばなるまい。
思いは誰も同じと見え、こらえかねたというように隣の室(へや)の船窓(スカッツル)から首を出した一人が、こっちも先方に劣らぬ破壊的な蛮声を張り上げて、しかも流暢(りゅうちょう)なる日本語で、何をどなったかと思うと、大喝一声、「やかましいぞ──、いい加減にやめろう──」
思わずおかしくなって、どんな具合かと船窓(まど)からのぞくと、汚いネズミ色の作業着(ジャンパー)を来た水平が五、六人ずつ一組になって、かわるがわる二重砲塔の脇に並んで、懸命に軍楽(マーチ)の稽古をしている。なんでも三組か四組あるのが入れ替わり立ち代わり、いわゆる恨むがごとく訴えるがごとくをやらかすのだから、聞く者こそまったく泣きたくなってしまう。
これでおしまいか、ヤレヤレうれしやと蘇(よみがえ)った気持ちになって油断している聴覚神経を不意打ちするような勢いで、ピーヤピーヤ、ドンドカドカドカドンと、すべての統一と総合と諧調と音程とを無視した怪音がまたも無遠慮に襲来してくる。
昔、スコットランドの王様が、そのときめける頃、ふだん口癖のように、「願わくは朕(ちん)に超自然力を与えよ、憎きハエと憎きクモとをこの世界より一掃しさらんものを」と仰せられたが、栄枯盛衰(えいこせいすい)は世の習いで、ひとたび悪人どものために国運が傾き、都をさけて漂泊の寂しき月日を送らるるうちに、はしなくもハエとクモとのために敵の毒手を免れたという故事はかねて聞き及んだ話である。
であるから、現ブラジル大統領で元帥のエルメス・ダ・フォンセカ閣下があっぱれ古人の失敗を繰り返さない聡明な君主であるならば、やかましいこと彼のハエに劣らぬこの軍楽(マーチ)も、他日の利用効果を第一の心あてに、うるさいながらも寛大かつ聡明な考えがあって黙認しているかもしらん。
その波長において、その振幅において、その音色において、到底共に相容(あいい)るるを許さざるいろいろの振動数を有する騒音が、互いに乱れあい、もつれあい、かみ合って、おそろしく雑然として完全なる不協和(ディスコード)のうなりを提供する。
一秒間三万ないし四万の振動数を有するもろもろの音響が、最も不規則なる干渉を形づくったまま、調和も提携も一致も団結も顧慮することなく、黄色い声、重い声、とがった声、怒った声が、おのがじし勝手な効果と共鳴、音響と速度とをもって無遠慮に容赦なく突貫してくるさまは、すこぶる悲壮である。
もっとも、器楽(オーケストラ)の原則として、騒音といえども、一秒間三十二の差音(さおん)*を有する多くの音響が集合連続して発せられるときは楽音となるとのことである。現に、一八七六年にワーグナーがバイロイトの楽劇部で行ったオーケストラには百九人の楽手が出場して大喝采を博したというし、一八八〇年に英国の水晶宮(クリスタルパレス)で行われたというオーケストラには四百二十一人という大衆が参加して寸毫(すんごう)の狂いもなかったというから、パカパカとたたけばたたくほど、ピーヤピーヤと吹けば吹くほど、こんな不自然なバンドでもワーグナーの領域に近づくこととなるかもしれぬ。
* 差音: 周波数の異なる2つの音を同時に出したときの周波数の差に等しい音。これが、いわゆる「うなり」となる。
ところで、何のためにこんな厄介極まるオーケストラを朝から晩まで恐れ気もなく演奏するのかと、あれこれ手をつくして調べてみたところ、こういうことがわかった。
一昨年(おととし)のこととか、服務時間の超過とか報酬不足とかでミナス・ゲラエスの下士官や兵卒など下級兵士による反乱が起こった。それがサンパウロに伝播したと見る間に、たちまち反乱組は両鑑の将校などの上官を放逐(ほうちく)してこれを海軍省に幽閉(ゆうへい)し、これら二つのド級艦は他の十五、六隻の巡洋艦や駆逐艦と陸上の砲台とを相手に一か八かの戦闘をなすべく港外に出動した。
その日から、陸(おか)と海とで実弾射撃の交換があって、ために砲手はだいぶ腕をあげたとのことであるが、おかげで市中は大混乱に陥り、目立った建築物は格好の標的としてハチの巣のようになった。
で、この面白い一幕は大統領が要求を承諾するという大譲歩でおさまったが、それ以来、戦々恐々たる海軍当局者は、二度とこれで手を焼かない用心に、昼間はこのように笛や太鼓でいとも陽気に享楽的に騒ぎ立て、晩は晩で士官の細君連を招待して舞踏会(ボール)を開催するやら上甲板で活動写真をするやらで、ひたすら兵員の謀反(むほん)を防ぐ策や脱走を阻止する策に日も夜もない状態だとのことである。現に旗艦ミナス・ゲラエスでは、楽隊入りで映写する活動写真の画面における舞姫の艶(あで)やかな踊りぶりは、本船の上甲板から望遠鏡で望見できたとのことである。
原注
ちなみに、一九一三年調べのブラジル海軍は、
戦艦五隻、うち二隻は三千トン型
巡洋艦七隻、うち四千トン以上のもの二隻
水雷砲艦三隻
駆逐艦十一隻、六百五十トン型、速力二十七ノット
通報艦五隻
水雷艇八隻
砲艦五隻
潜航艦三隻
練習船三隻、すべて木造にして、うち一隻は帆船
とである。
艦隊の主力はむろんサンパウロ型二隻
一万九二五〇トン、二一ノット、一二インチ砲一二門、六インチ砲十八門
と、
現在は英国より回航中の新超ド級戦艦リオデジャネイロ
(二万八千トン、二十二ノット、七砲塔、十二インチ砲十四門、六インチ砲二十門、パーソンタービン式、その建造費三千万円)とである。