現代語訳『海のロマンス』51:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第51回)

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無風帯(ドルドラム)

一、風神の横神破り──南西の季節風(モンスーン)

十一月二日、北緯八度五十二分、西経百二十四度二十一分。

昨日からなんど風向(かぜ)が変わって、何度「帆の開き(タック)」が変わったかわからぬ。しかも、風力(かぜ)といえば、子供の髪をそよがすほどの力もない。いよいよ船はソロリソロリと例の赤道無風帯(ドルドラム)へと忍びこむらしい。

暑い。苦しい。じっとしておっても身体の肉が溶けて流れ出すかと思うほどに、気味悪い脂汗(あぶらあせ)が毛穴をつんざいてスラスラとあふれ出る。

ときどき人の苦しみと暑さと疲労とを誘うような、重々しいスコールがやってくる。このスコールとスコールとの間は、思い切りの悪いネチネチした小雨が、いらいらした人々の心をさらに鬱陶(うっとう)しく思わせるように降りしきる。かくして、梅雨期に見るような、不愉快な大気(たいき)がもやもやと部屋いっぱいにみなぎる。そうして、この横柄な大気に包まれて、人間の汗から発散する熱気と、きたない排泄ガスとのにおいが、どこにも逃げ場のないようにうづくまる。

実にやりきれない。下甲板の実情はかくのごとく苦しい。上甲板の状況もまたこれに劣らぬ騒ぎである。今朝まで南南西の風を右舷一杯開きに受けて真東へ走っていた船は、十時にはたちまち真西となり、午後もまた二回の「上手まわし(タッキング)」を敢行したが、ついに失敗に終わって、からくも「下手小まわし(ボックス・ホーリング)」*1で針路を南東微東*2とする。

*1: 下手小まわし(ボックス・ホーリング) - 帆船特有の、ちょっと特殊な方向転換。
手順を単純化すると、

 

1.上手まわし(タッキング)を試み、意図的に失敗させて帆に裏風が入る(裏帆)状態にする。

 

いわば、ヨットのヒーブツー(船首が風軸をこえたところで回転をとめてジブを裏帆にする)といった感じ。

 

で、この場合は、ヨットと異なり、全帆を裏帆にする。

 

2.船は風に押されて停船し、少しずつ後退しはじめる。

 

3.それに合わせて舵を切って、方向を変える

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*2: 方位 - 自分のいるところを中心に、ぐるっと一回りすると、ちょうど360度になるが、これを四等分したものが、基本となる四方位。

 

地軸の方向に北と南、自転の方向に東と西)となる(90度間隔)

 

その間をさらに二等分したものが八方位(北、北東、東、南東、南、南西、西、北西、北)(45度間隔)

 

その間をさらに二等分したものが十六方位(北、北北東、北東、東北東、東、……)(22.5度間隔)

 

日常生活では、これでほぼ用が足りるが、目標とする山や地形がない大海原の航海では、

 

十六方位をさらに半分にした三十二方位を用いることが多い(間隔は11.25度)。

北と北北東の中間を「北微東」(北からやや東という意味)、北北東と北東の間を北東微北(北東からやや北)というように「やや、ちょっと」を微(英語で minute )で示す。

 

ちなみに、現代では、北は 0 度、東は90度、南は180度という風に度で示すのが一般的。

船には今南西の季節風(モンスーン)が祟(たた)っているのだ。この南西の風の祟(たた)りは第五次のチリ航海のときにも出現して、そのために船はいたずらに真東へ走って、ついに西経百〇八度で赤道を通過したから、たちまち南東の貿易風と真南のアメリカ沿岸風とを受けて、その航跡(トラック)は航海日数九十日という大弧線を描くにいたった。

第六次の世界周航のときも、またこの辺に跳梁(ちょうりょう)する季節風におびやかされて、流れ流れて西経百三十八度という西の端で赤道を通過したから、ついにソシエテ諸島のタヒチへ吹き寄せられてしまった。

本船は今度はぜひとも西経百二十度と百二十五度との間で赤道を超えて、ツアモツ諸島にも突き当らず、南米の西海岸にも吹き寄せられず、できるだけ真南に向かう最短コースを通って偏西風帯に入ろうという作戦計画であるが、こんな具合ではあぶないものである。「風神の横紙破り」のもてあそび物となりそうである。

南米大陸最西端であるペルーのパリナ岬とツアモツ諸島(西経百三十五度)との間は、南太平洋で島が点在していない海域であり、その距離は三千海里からある。この三千海里の広い海をわずかに幅八間に足らぬ船が無難に通り抜けることのできぬとは、天下の奇観であり、海洋の神秘である。帆船生活の苦しみもここにあり、面白みもここにある。航海術と運用術の必要と錬磨もここにある。

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