ヨーロッパをカヌーで旅する 79:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第79回)
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むろん、橋に到達すれば、そこには集落があるはずだ。実際に、そこではまさしくドナウ川のゲーグリンゲンで起こったのと同じ光景が繰り返されることになった。暗くなって川岸にカヌーを着けて引き上げ、水滴をふきとった後、ぼくは土手の上に見える家まで登っていき、ドアをたたいた。窓が開き、夜着を来た立派な夫婦が顔を出した。夜分の侵入者を確かめるように、ローソクを手にしている。このうえなく喜劇的な光景だ。男の方が「これは悪ふざけか?」と聞いてくる。こんな時刻に、こんなところまで、まさかイギリスからの旅人がのこのこやってくるとは想像もしていなかったのだろう。だが、事情がわかると相手はすぐにぼくに手を貸し、近所の小さなレストランまでカヌーを運ぶのを手伝ってくれた。そこでは十人ほどの男たちが飲んでいたが、カヌーを見ようとランプを持って押し寄せてくる。それから、ぼくらは暗い通りを抜けて別の家までカヌーを運んだ。そこでもまた別の酒のみ連中が引き継いでくれて、カヌーをそこの庭に置かせてくれた。翌朝、好奇心にかられた人々が、旗をひらめかせているカヌーを壁ごしに見ようとやってきた。妻を寝かせたまま濡れたカヌーの運搬を手伝ってくれた家のご主人には五フランを謝礼として渡した。喜んでくれた。物価の安いこのあたりでは五ポンドの価値はあるはずだ。夜が明けると、前日に悪戦苦闘した場所をたどってみた。闇夜に手探りで進んできたさまざまな水路を逆にたどっていくのはとても興味深かった。

この町で、一人のフランス人紳士と出会った。陽気で快活な人だったが、あの、楽しくもあり、無分別でもあり華々しくもあるパリと比較して、国境に近いこの町が大きな工場の城下町のようになっていることを嘆いていた。氏によれば、パリでは何日もベッドで眠ることなく舞踏会や芝居見物やパーティーに明け暮れるのだそうだ。その人はご親切に、その大きな製塩工場に連れていってくれた。そこで精製された塩はヨーロッパ中に送りだされているらしい。ここの岩塩は石炭の鉱脈のように地下深くで採掘され、坑道から運び出される。坑道は長くて、高さもあった。水槽に水がためてある。それに岩塩を入れて溶解させる。そこから平たい釜に流し入れる。炉の熱で水分が蒸発し、吹きだまりの雪みたいな乾いた塩のかたまりができる。重量単位で販売する塩にはまた水をかけて湿らせ、容積単位で売る塩は結晶化させて、すきまだらけのいびつな形にして可能な限り大きなスペースをとるようにしてある。なかなか商売上手である。

この場所にも運河があった。川はとても浅いので、カヌーはこの人工の水路に浮かべた。強く絶好の風が吹いているので、すぐに帆走した。この運河は行き交う船が多く、ロックは数えるほどしかなかった。だから退屈することはなかった。ロックでは許可証の提示を求められた。ぼくとしては、これまでと同様に、笑顔の顔パスで通ろうとした。が、運河沿いを巡回していた運河の係員が重大な規則違反だとみなし、ロックでは「通行証」を作る必要があると言ってきかなかった。最後の手段として、ぼくは相手にもう何度も人に見せてすりきれかけているスケッチブックを見せた。すると、彼はすぐに興味を示してページをめくった。規則違反の容疑者のスケッチに大笑いした後に、まじめな顔をして罰を言い渡すことはできない──というわけで、なんとか通してもらった。

不思議なことに、地方の人々はちょっとしたスケッチでも本当に喜んでくれる。なにかと邪魔をしてくる人には、ときどきスケッチを見せたりする。相手は必ずといっていいくらい他の連中にも見せようとその場を離れる。で、彼らが戻ってきたときには、こっちは影も形もないという寸法だ。一度、女の子にぼくの弟の似顔絵を渡したことがある。すると、彼女は翌朝にその絵を戻してくれたのだが、なぜかしわくちゃだった。母親によれば、その娘は一晩中ずっとその絵を握りしめていたのだという。

これは君らにも有効だよ、若いカヌーイストたち。不運な浮浪児となかよくなるには、子供向けの冒険の本でもあればいい。子供たちには物乞(ものご)いするのではなく、稼(かぜ)ぐことを教えよう。色のあせた茶色っぽいボロ服ではなく、靴磨きの子のように明るい赤いコートや少年水夫のような明るい青い上着に変えさせよう。そうして「チチェスター」みたいな川岸に設置された浮浪児の収容施設に声援を送ろう。本の読み方を教え、「イギリスの働く人々」や「少年新聞」、「少年少女文学」とか「おしゃべりっ子」とかを渡し、ゴミみたいな新聞は破り捨てよう。

カヌーに乗っているときは、姿勢をただし、ゆったりと座ろう。

そして、こうした子供たちみんなのために祈ろう。でなければ、君のやっていることは意味がない*1。祈るときは膝まづけという偉そうな「説教」など気にすることはない。ずっと下流では、君やぼくに伸ばされる力強い腕が待っている。少年少女たちがお互いに恵まれない境遇のぼくらに声援を送ってくれるのだ。

*1: 著者のジョン・マクレガーは自設計のカヌーによる航海を行う一方、ロンドンの法廷弁護士として活動し、キリスト教に基づく貧者救済のフィランソロピスト(社会奉仕活動家)としての側面も持っていた。
当時のベストセラーとなったロブロイ・カヌーによる航海記の印税はすべて、難破船の海員協会と王立救命艇協会に寄付されている。

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現代語訳『海のロマンス』64:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第64回)

ケープホーンからケープタウンへ

一、トビウオとボースン鳥とイルカ

世界で最も有名な岬を回航し、「肩の重荷から逃れた船乗り」の欣喜(きんき)と安心と失神とを推察することができるかと思われるほどに、平安にして気高く、力抜けを感じる日が幾日となく続いた。

ケープホーンの寒い風と冷たい雨を遠く南の海に振り捨てて虎口(ここう)を逃れた練習船(ふね)は、うれしそうに身震いしながら一時間に十海里ほどの速力で、追手(おって)のかからぬうちにそれ逃げろやれ逃げろと、ただひたすらに北へ北へと突っ走る。

寒さは皮をはぐように一日ごとに暖かくなる。晴れやかな周囲の状況の展開に応じた、快(こころよ)いのどかな心理の動きである。

こんな風に船が快(こころよ)く走るとき、こんな風に心理が心よく推移するとき、うん、もっともじゃ、もっともじゃ、俺もしごく同感じゃと、その欣喜(きんき)と快(こころよ)い心理とを分かち楽しもうというように、海ではイルカが踊り、トビウオが飛び、空にはボースン鳥(オオグンカンドリ)とアホウドリとケープ・ビジョン(マダラフルマ・カモメ)とが舞っている。

すべてが海洋(うみ)の荘厳美と雄大美と情感美とを飾る好個(こうこ)の書割(かきわり)である。オーシャン・スピリットを象徴する好個(こうこ)の脇役(わきやく)たちである。

イルカはかつてハーシュースの母アイオロスをユーノーの嫉妬(しっと)の手から救ってから、またとないネプチューンの忠僕(ちゅうぼく)となった*1。つるつるとすべっこい鼻頭(はながしら)をうれしそうに青い波間に現わして、ジャブジャブと白い泡をたたせながら一列横隊に梯形(ていけい)をなして突進して来るところは、勇ましいというようり、むしろ自覚せぬ滑稽(こっけい)である。

*1: ローマ神話から。ネプチューンはギリシャ神話のポセイドンに当たる。

トビウオとイルカは、海神ネプチューンが有する性格中のユーモアなる一半面を象徴する海のひょうきん者であると、ぼくは信じている。

ドブンと沈んではひょっこりと青い海の上に現れる。沈むやつに浮き上がるやつ!! 船の上から見ると、実にのどかな眺めである。なんとなくお人よしのバカ息子のような可愛さが感じられる。

このイルカに一段と輪をかけた滑稽(こっけい)なものがトビウオである。海洋に生まれ育ったくせに、空を飛ぼうというのがすでにひょうきん者である。インド洋あたりでは、このひょうきん者が時々、月明かりで南風が吹く良夜に、こっそりと甲板に忍びこんで、流れるような月光の下で、その白い腹を銀色に輝かせて狸(たぬき)寝入りをしている。そこへ来かかったのがあわてものの水夫で、「誰だ? 危ない!! こんなところへ小刀(メス)を捨てているとは?!」などと、一人でぶつぶつ怒りながら、この小刀を拾おうとすると、そのとたん、この狸(たぬき)寝入りの横着者(おうちゃくもの)はキラリと跳(は)ねて、あっとばかり、水夫をして腰を抜かせることも珍しくないという。

アホウドリのことはすでに書いた。

ケープ・ピジョンとは、ケープホーン付近に特有の、ねずみ色の小さい体と、雄勁(ゆうけい)な羽翼(はね)とを持って、カワウソのようにピョンピョンピョンピョンと荒天(しけ)のなかを飛んでくるやつである。ウミツバメ(ストームペトレル)と共に、時化(しけ)の前兆といわれている。

「おい、ちょっと見い。この寒空に絣(かすり)」を着ている鳥がいるぞ!!! ずいぶん物好きなやつだなあ……」と、一人の友に肩をたたかれて振り向くと、暗い空と灰色の海との間を黒白(こくびゃく)の斑点(ぶち)入りの羽(はね)を持った鳥が、喜び飛んでいる。これがボースン鳥である。

なぜボースン鳥というのか? それはわからない。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 78:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第78回)
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びっくりした後には、家族の情というものに接することになった。

川岸に、どう見ても心配しきりという様子の三人の女性がいた。母親と娘とお手伝いさんで、魚釣りに出かけたきり何時間経っても戻ってこない男の子二人を探しているのだった。

女たちは二人を見なかったかと、ぼくにしきりに聞き、何か気づいたことはないかと涙ながらにすがってくる。ぼくとしても、なにか安心するようなことを言ってやりたいのだが、そういう男の子は見ていないのだ! 川を下りながら、釣りをしている子供を見た記憶はなかった。女たちはとり乱した様子で去っていったが、ぼくの方にはやりきれない思いが残った──女の涙、特に母親の涙を見て、せつなく感じない者などいないだろう。とはいえ、岩場のど真ん中で必死でパドルを漕ぎながら、不意に、そういえば、彼女たちの説明する姿格好に当てはまる男の子を目撃したことを思い出した。

それで、すぐさま上陸し、おろおろしている母親たちを走って追いかけ、「その子供たちなら一時間前には無事でしたよ」と伝えた。二人には男の召使が付き添っていたのだが、お守りの男は釣りに夢中になっていて、子供たちはといえば、釣りに飽きてヤギと遊んでいたのだ。幼い息子たちが無事だと聞いた母親は喜びのあまりまた泣きだした。それを見て、こっちも自分の学校時代が鮮やかによみがえってきた。子供時代、自分が無分別に遊びまわり、そのことで母親をどれだけ心配させたのかということが。

そういうことがあってからは、川の様子や景観のイメージが一変した。ありきたりの埃っぽい街道やガタンゴトンとうるさい列車での出来事に比べれば、はるかに生き生きとした世界で、存分に楽しむことができた。

二度か三度、浅瀬でカヌーを引きながら歩いて渡ったり、カヌーが川底にぶつかったりした。「堰(せき)」も一つ二つあった。が、夕方までは快適に川下りを楽しめた。しかし、流れは遅く、遠くの地平線にセント・ニコラスの塔群が見えているのに、それが一向に近づいてこない。それどころか、横にずれていく。ということは、この川はとんでもなく蛇行しているということだ。カヌーを精一杯の速さで漕いだものの、夕闇が迫ってくるのも早かった。ボートに乗った二人組を追い越した。フランス人が運動のためにボートを漕いでいるのを、このときはじめて見た。ボートはカヌーについてこれなかった。川底につかえたのだ。そのまま置いてけぼりにしたものの、連中はあわてず騒がず、なかなか座礁したところから動かない。それで引き返して離礁を手伝ったりした。

その後で、高さが十五フィート(約三メートル)はありそうな大きな堰(せき)があった。これまで出会ったなかで一番の高さだ。ため息が出た。丸一日ずっと漕いできた挙句に、カヌーを下り、暗い中でカヌーを土手に引っ張り上げて堰(せき)を超えなければならない。おまけに、その下流では浅い迷路のようなところに入りこんでしまった。灯りもなく、どうやってそこを通り抜ければよいのか見当もつかない。一休みして立ちどまると、周囲を闇と沈黙が支配し、動くものは何もない。やっと流れのあるところに出る。が、喜ぶ元気もない。ぼくはカヌーを引っ張って渡渉し、そこでまたカヌーに乗り、さらに半マイルほど進んだ。すると、右岸で見張りをしていた男が大きな声をかけてくれた。「前方、風下側に橋と家があるよ!」と。われながら、思わず歓声を上げた。この最後の一時間の悪戦苦闘は、ほんの数行でまとめることができるかもしれない。流れはなく、危険もなかった。退屈極まりなく、水に濡れ、灯りもなく、ずっと気がめいるようなことが続いた、と。それで、ぼくはその間はずっと歌を歌ったり口笛を吹いたりしていた。

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現代語訳『海のロマンス』63:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第63回)
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下、ケープホーンについて

こうした十分すぎる強迫観念にとらわれながらも期待していたケープホーンを、はなはだあっけない平凡な時化(しけ)のなかで通りすぎた。これは、一面からいえば、海に完全に慣れた結果であるかもしれないが、他の一面からいえば、単調な、いわゆるドッグライフの中毒である。欲求の刺激を受けない、のらくら生涯の満足である。波乱も起伏もない行事を日一日と送迎する生活にひたりきった結果である。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 77:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第77回)
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フランスの大きな川では釣りが盛んだ。ドイツではほとんどいないのに、フランスの川では、ここぞというところには必ず釣り師がいる。とはいえ、釣りなんてものは、さわがしいフランス人より寡黙なドイツ人に向いているのではないかとまだ思っている人がいるかもしれない。だが、ここでは何百人ものフランス人が、男も女も、毎日釣りをしていて、小さなウキやエサのバッタをじっと見つめている。ときどき親指くらいの魚を釣り上げでもすれば、それで大満足なのだ。こうした釣り師ですら、ぼくが話をした誰一人として毛針を見たことはないらしい。

釣り師は一般に単独行だ。ぼくはホテルでよく「カヌーに一人で乗っていてさびしくはないのか」ときかれたりするのだが、こう答える。「釣り人をごらんなさい。あの人たちは自分の意思で何時間も一人でいるんですよ。ずっと釣りに集中してるんです。ぼくもそれと同じですよ」と。

とはいえ、ときには一隻のボートに何人もが乗り合わせている場合もある。家長みたいな親父が満足そうに座っていて、釣果は気にしない風で、針に餌をつけたり、パイプをくゆらせたりしてすごしている。川岸の方でもまったく同じで、草の上に寝そべり、果報は寝て待てといった風に、あくせくしていない。一方、若い男の方は竿先の反応に全神経をそそいでいるが、水中のすれっからし魚が釣り師をからかってエサをつっついたりし、釣り師があわててそっくり返るのを青い目をぱちくりさせて眺めていたりする。女たちは、魚がかかったかどうかなんかそっちのけで、おしゃべりに興じている。そのうちの一人が(かなりの美人だ)陸に上がり、そこで針に餌をつけたり、しなをつくって周囲の取り巻き連中にこびた笑いを浮かべたりもしている。

そういう人々とは別に、網を持った漁師もいた。そういう人たちはたいてい一隻の、船首と船尾が上を向いたボートに三人で乗っている。まわりの人々は皆、ボートが転覆するんじゃないかと気がかりな様子で見つめている。というのも、そういうボートはルネサンス期の画家ラファエルの絵に描かれたヨハネ福音書の「奇跡の漁」とうり二つで、男たちに比べてボートがなんとも小さいのだ。

V&A - Raphael, The Miraculous Draught of Fishes (1515)

川の石をひっくり返し、ザリガニや淡水エビを捕る子供や若者たちもいる。たくさんとれてはいるが、手間がかかる割に食料になる肉は少ししかない。こうした釣り人たちの近くでは、カワカマスが水面下をものすごい速さで突っ切ったりしている。ときには、その鼻先の長い捕食者から逃れようと、かわいそうに小さなマスが空中に飛び出したりする。それを追って、捕食者も空中に跳びあがり、大きな口を開けてガブリとやる。こうした魚のライズに加えて、中洲の間をすべるように進んできたぼくのカヌーがふいに出現したりするものだから、周囲に目を配りながら流れを泳ぎ下っていたガモの群れのリーダーが警戒音を発した。と、群れのカモすべてがぶしつけな侵入者に対し怒ったように叫びだす。自分たちのいる場所が安全ではないとわかると、一声鳴いて羽ばたき、水面を蹴る。イギリスの変な闖入者(ちんにゅうしゃ)が来ないような落ち着ける場所を求めて、彼らは一団となって飛び去った。

チリンチリンと鐘が鳴る。川の対岸に住んでいる渡し船の船頭を呼ぶ音だ。船頭はそれを聞くと、ちょっと不格好な渡し船に飛び乗る。川の両岸間に滑車つきのワイヤーが張られていて、それにボートのロープが結んである。船頭がオールを軽く漕ぐと、ボートは流れに乗ってすぐに対岸に着く。

そこからさらに先までカヌーで漕ぎ下ったところで、(カヌーに話しかけたそうな)船頭がいたので、ちょっと話をした。その直後、ある現象が生じた。

一軒の大きな、新築の二階建ての家が見えていたのだが──それが現実に動いたのだ!

ぼくらは少し前からその家に気づいてはいた。それが建っているはずのところから移動していく。びっくりして見つめていると、なんと、家全体が消えてしまった。

まもなく、川のその先のカーブを曲がったところで、謎が解けた。その家──川に浮かぶはしけの上に建てられた大きな木製の水浴び「施設」は、蒸気船に曳航されて川を上って来ていたのだった。

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サイトのSSL化 (http:// → https://)

セキュリティ強化のため、サイトのSSL化を予定しています。

サイトの URL が https://kaiyoboken.com/ から https://kaiyoboken.com/

に変更になります。

4月13日(月曜)からの予定です。

リンク等に一時的に不具合が生じるかもしれませんが、あしからずご了承ください。

現代語訳『海のロマンス』62 練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第62回)

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海上の墓場 上、マゼランの世界一周

……かくして世界周航の針路は、パタゴニアの西海岸に沿って北寄りに進み、次に西北、次に真西に向かい、羅針盤の針はマリアナ諸島を指している。


……さても浅はかな人知で察することができない、広大無辺(こうだいむへん)の海洋(うみ)のたたずまいよ!!!
白雲は悠々(ゆうゆう)たり! イルカは嬉々(きき)たり!!!
船は風に送られ雲に導かれて、洋上に出没する太陽を見ること九十八日に及んだ。


……かかるうち、飢餓(きが)と壊血病(かいけつびょう)は人々を襲い、ついには大枚二円八十銭にて一匹のネズミ(船倉などにいる)を買って食うのは、孔雀(くじゃく)の舌よりも、大牢(たいろう)の美食よりもぜいたくなり、と噂されるにいたれり……

と、マゼランの世界周航記に書いてある。

マゼランが自分の名前が冠せられることになるマゼラン海峡を発見して通過を開始した第一日は一五二〇年の十月二十一日で、当日は聖(セント)ウルスラの祝日*1であったから、海峡の右岸は「一万一千の聖女の峰」と名づけられた。左岸の陸地には、ちょうど焚火の火が見えていたことから、ティエラ・デル・フェゴ(火山の島)と彼らは呼んだ。

*1: 聖ウルスラの祝日とは、ドイツ・ケルン地方に伝わるキリスト教徒の聖処女伝説の聖女ウルスラを崇敬する日である。
現在は実際に存在していたのか疑問視され、カトリック教会の典礼暦からは削除されている。

かくて三十八日間の探検の後、彼らの船は、いまだ旧世界の船舶が訪れたことのない新しい海に浮かび出た。雨に風にさんざんに大西洋の時化(しけ)に苦しんできたポルトガルの船乗りは、意外にも平和な海を見て、嬉しさのあまり「太平なる海、太平洋」と命名した。

後年、ある詩人がこの「この偉大なる海の人」を賛美して、

風はおだやかに吹き、泡立つ海は白く散る
白き波頭、快(こころよ)き海風
われこそは、この静かなる海へ
浮かび出でたる第一人者なれ

しかし、ぼくはこのメル・パシフィコ(太平洋)には異論がある。ぼくらのいままでの経験によると、同じ気候(冬ならば冬)という条件下では、太平洋といえど、その時化(しけ)の苛烈(かれつ)さにおいて、ことさら大西洋に劣るものではない。

「風が吹けば、海が荒れ狂う」という諺(ことわざ)さえある。北部にはストームがあって、南部や西部にハリケーンや台風が存在する太平洋は、その面積が広いだけ時化(しけ)方もまた大変である。察するところ、豪胆(ごうたん)にして、しかも一方で思慮に富んでいたマゼランは、後輩たちが他日安心してその生命と船舶とを信頼させるにたる十分な効果をもたらそうとひそかに考えて、この美しく泰平なる名前をつけたのであろう。

中、ケープホーン回航

一月六日。南緯五十六度十八分、西経七十度二十五分。ディエゴ・ラミエズ島(ケープホーンの西南六十海里)まで五十五海里となった。

風は相当に強いが、心持ちは極めて爽快である。「ロワーゲルン*2下ろせ」の士官の号令も勇ましく、「バントラインで帆をたため」の笛の音もまた勇ましく、緊張したリーサイド(風下舷)の伝令にこたえて、当直員の興奮した復令(アンサーバック)が一瞬の油断を示さぬいきおいで、りりしく甲板(デッキ)に湧く。

*2: ロワーゲルン - 帆船の横帆の一種。帆の名称は、マストの上からロイヤル、アッパーゲルン、ロワーゲルン、アッパートップ、ロワートップ…と続く。
ちなみにゲルンは、(トップ)ギャラン(topgallant)がなまったもの。
帆船の種類や艤装によってマストや帆の数や名称も変わることが多い(セールトレーニングが行われている現代の帆船でも、船ごとに名称が微妙に異なっていたりする)。

パラパラと白い服の練習生たちが動いて、帆は絞(し)め殺されるニワトリの羽のごとくバタバタと揺れ動く。リギンを伝う黒い五、六の姿が見えたと思う間もなく、なにくそっというように帆桁(ヤード)の上で赤い太い手が一斉に動いたと思ったら、帆は意気地なくもスラスラと巻きつけられる。なんとなく頭脳(あたま)は興奮し、身内の肉が引き締まるような気分である。

何たる男性的な作業であろうぞ。

展開している帆(ほ)は、前帆(まえほ)とミズンの下(した)トップスルの二枚だけである。

さすがにケープホーンの風と海とは「海上の墓場」だけにものすごく吹き、ものすごく荒れる。風力は十一(時速八十マイル、風速三十五メートル)*3に達し、波はそのひとつの「山と谷」とをもって十分前帆(まえほ)を超えるほどに大きい。夏でさえこれである。一日の四分の三は暗黒(やみ)の海を行く冬季のケープホーン航海!!! 考えてみただけでもぞっとする。

*3:現代では、風の強さは「ビューフォート風力階級表」を用いる。これに換算すると時速八十マイルは最高ランクの十二を余裕で超え、台風並みである。
ちなみに日本で海上風警報が発令されるのは風力七、十を超えると海上暴風警報になる。

油が四か所から流され、ハッチはとっくの昔に閉鎖されている。ライフラインは縦横に引かれ、補助エンジンが点火され、「大成丸式荒天準備」はいかんなく準備された。

かくして四時間交代の半舷当直(ワッチアンドワッチ)の夜は明けて、一月七日の午前二時となる。

「海上の墓場」として船乗りに恐れられ、船乗り稼業の「免許皆伝道場」として海の子に親しまれ、「海のアルプス」として海洋詩人に歌われたケープホーンを、大正二年正月七日午前二時、その十八マイル沖をかわして無事通過した、らしい。

なるほど通過したのは間違いない。夏季(かき)のケープホーン沖は、海上一面にもやが立ちこめ、水平線もケープホーンも見えたものではない。

なんとなく物足りないケープホーン「通過」である。これが命を賭(と)して、一か八かのサイコロを振るところとはとうてい思われない。これが英国の海事会社で海員の志願者に課する試験項目のうちで最も大切なものとして「なんじはこれまで何度ケープホーンを通ったか?」とという質問が出るほどに、船乗りが誇りとするところだとは思われない。

現実に、網膜の上に灰色の岩塊を映じてフフーンと合点するまでは、実感が持てないし、なかなか納得できそうもない。

かくして、息のつまるような風と、むやみに荒れ騒ぐ波と、陰気な気持ちの悪い霧雨との間を、一時間七マイルぐらいの速力でしゃにむに乗り切った船は、午後三時ごろ、ズルロードの仮泊地に近づく。

近づくに従い、海はようやくおさまり、風ようやく死に去って、薄暮当直(イブニングワッチ)に立つ頃は、いままでの修羅場はどこへやら、しとしと細かいやわらかい雨が帆のない裸マストに降りそそぐなかで、船はユラリユラリとすましてござる。

ここにおいてか、ケープホーンの偉さ加減、恐ろしさ加減が、なんとなくしみこんでくる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 76:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第76回)
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このときは、他の場所でも一、二度、大変な目にあった。具体的にいうと、陸路で迂回する際に生垣を超えたりするのだが、そういうときはカヌーの舳先を生垣の上に押し上げておき、反対側にまわって引き下ろす。そうやって力仕事をした後で、実は下ろす場所が違っているとわかり、逆の順序でカヌーをまた元の場所に戻し、一からやり直すといったことだ。しかも、それがすべて一日のうちに起きた。とはいえ、そういうのは一晩ぐっすり寝るとか、おもしろい激流下りの冒険があったりすれば忘れてしまう程度のことではある。

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現代語訳『海のロマンス』61:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第61回)
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南太平洋の元旦

青海原に暮れ行く今年かな

明治四十五年と大正元年との両面を有する、記念多き、変化多かりし一年は、静かに広大な青い海の水平線のかなたに暮れていって、悲しい、嬉しい、華やかにして暗い、さまざまな色のぼくの記憶もまた、一緒に伴って去ろうとしている。いまさらに強い哀惜(あいせき)の念が胸に湧く年の暮れである。

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