スナーク号の航海 (40) - ジャック・ロンドン著

馬の通れる道といっても、それほど広いわけではない。これを造った技師のように、道自体が何にでも果敢にいどんでいるのだ。ディッチ(水路)は山塊を突き抜け、乗りこえ、峡谷を飛びこえたりしているのだが、馬の道──これからはトレイルと呼ぶが──も、この水路をうまく利用していて、その上を横切ったりしているのだ。この無造作に作られたトレイルは、平気で断崖を上り下りしているし、壁を掘削してできた狭い通路を抜けると、轟音をたてて白い水煙とともに落下している滝の裏側や滝の下に出たりする。頭上は数百フィートもの切り立たった断崖で、足元はと見れば千フィートもの深い谷になっているのだ。ぼくらが乗っているすばらしい馬たちも、トレイルと同様に、そんなことにはおかまいなしだ。足元は雨ですべりやすくなっているのだが、馬の自由にさせておくと、当然のように後ろ足をすべらせたりしながらも駆けていこうとする。このナヒク・ディッチのトレイルについては、豪胆かつ沈着冷静な人しか勧められない。同行しているカウボーイの一人は、ぼくらが宿泊した牧場では一番の勇者だと思われていた。生まれてからずっと、このハレアカラ火山のけわしい西斜面で馬に乗ってすごしてきたのだ。その彼がまず馬をとめた。他の者も当然のことながら前進をやめた。というのも、彼は牛小屋に野生の雄牛が迷いこんでいたら、平気でそれに立ち向かうような男だからだ。彼には名声があった。とはいえ、それまで、このナヒク・ディッチに馬を乗り入れたことはなかった。そうして、彼の名声はここで失われた。髪の毛が逆立つような最初の水路で、それに沿った道は細くて手すりもなかった。頭上で滝が轟音をたてているし、真下には別の滝があって、奔流が何段にもなって落ちている。一帯に水しぶきが舞い上がり、轟音が振動とともに伝わってくる──というようなところで、勇者たるカウボーイは馬から降り、おれには女房も子供もいると言い訳しながら、馬を引きながら歩いて渡ったのだ。

水路が地下深く潜っているところはともかく、峡谷で唯一救いになるのは断崖があることで、そして断崖で唯一救いになるのは峡谷にあるということだ。ぼくらは一度に一頭ずつ、もろくて流されてしまいそうな、左右に揺れる原始的な丸木橋を渡った。白状すると、ぼくは最初にそういう場所に馬で乗り入れるとき、最初のうちはあぶみから足を浮かせていた。垂直な断崖にあぶみが接触しそうになると、意識して足を谷側に寄せ、今度はその足が千フィートも落ちこんでいる谷につき出ているのを見てしまうと山側に寄せたりしていた。「最初のうちは」と断ったが、すぐになれてしまうのだ。クレーターの中ですぐに大きさの感覚が麻痺してしまったように、ナヒク・ディッチでも同じことが起きた。そのうち、ぼくらは深い谷について心配しなくなった。とほうもない高さと深さが延々と繰り返されているところでは、そういう高さも深さも普通に存在するものとして受け入れるようになる。そして、馬上から切り立った崖下を見ても、四、五百フィートは普通で、スリルがあるとも感じなくなってしまうのだ。トレイルにも馬にも無頓着になったぼくらは、目もくらむような高いところを通ったり、落ちこんでいる滝を迂回したり突き抜けたりして進んでいった。

とはいえ、なんという乗馬体験だろうか! いたるところで水がふりそそいでくる。ぼくらは雲の上や雲の下を、さらには雲の中を馬に乗ってつき進んだ。ときどき日が差し、眼下に口を開けた峡谷や火口縁の高さ何千フィートもある鋒が照らしだされたりした。道を曲がるたびに、一つの滝、あるいは一ダースもの滝が空中に何百フィートも弧を描いて流れ落ちている光景が目に飛びこんでくる。キーナ渓谷で最初の宿営をしたのだが、そこから見えるだけで滝の数は三十二もあった。この荒野では、植物も繁茂していた。コアとコレアの森があったし、キャンドルナッツの木もあった。オヒアアイと呼ばれる木もあったが、これは赤いマウンテンアップルの実をつけていた。豊潤で果汁も多く、食べてもうまい。野生のバナナもいたるところで育っていて、峡谷の両側にしがみついていた。トレイルのいたるところで、熟した果実の大きな房が落ちて道をふさいでいた。森の向こうには樹海が広がっていて、多種多様なつる性植物が、あるものは一番上の枝から茎を軽やかに宙に伸ばし、あるものは巨大なヘビのように木々にまきついていた。エイエイと呼ばれるツル性植物はとにかく何にでも登っていき、太い茎を揺らして枝から枝へ、木から木へと伸びていっては、自分が巻きつくことで当の木々を支えているといった格好だった。樹海を見あげると、頭上はるかに木生シダが群葉を広げ、レフアの木が誇らしげに赤い花を咲かせている。ツル性植物の下では、数は少ないが、米国本土では温室でしかお目にかかれないような珍しい暖色系の奇妙な模様をした植物が育っていた。つまり、マウイ島のディッチ・カントリー自体が巨大な温室のようなものなのだ。なじみのある多種多様なシダ類が繁茂し、小さなクジャクシダのようなアジアンタム属のシダ類から、もっと大きくて繁殖力旺盛なビカクシダなど、あまりなじみのないものまで、さまざまな種が入り乱れていた。このビカクシダは林業作業者にとっては厄介きわまりなくて、さまざまにからみあっては巨大化し、五、六フィートの厚さで数エーカーもの広さをおおいつくしてしまうのだ。

二度とできないような体験だった。これが二日続き、やっとジャングルを抜けて普通の起伏のある土地に出た。実際に荷馬車が通る道をたどり、ギャロップで駆けて牧場まで帰り着いた。こんなにも長くて厳しい旅の最後に馬を駆けさせるのは残酷だとわかっていたが、抑えようと必死にたずなをしめても無駄だった。ここハレアカラで育った馬は、そういうものなのだ。牧場では、牛追いが行われ、焼き印をつけたり、馬を調教したりする楽しい行事があった。頭上ではウキウキウとナウルが激しくせめぎあい、そのまたはるか上方には、陽光をあびた壮大なハレアカラ火山の頂上がそびえていた。

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羊毛のような貿易風の雲が、ウキウキウに駆りたてられて割れ目からわき上がっては消えていく。

スナーク号の航海(39) - ジャック・ロンドン著

ぼくらは火口壁を登り、ちょっと無理かなと思われるところまで馬を乗り入れた。岩を落下させたり、野生のヤギを撃ったりした。ぼくはヤギは狙わなかった。しょっちゅう岩を落下させていたからだ。ある場所のことは今でも忘れない。そこでは、馬ほどの大きさの岩を落下させてしまったのだ。ぐらぐらしていて簡単に転がりだしたが、途中でとまりそうになった。と、岩は二百フィート(約六十メートル)も宙を舞った。火山礫の斜面にぶつかり、くだけたり割れたりしながら小さくなっていく。驚いたジャックラビットが猛ダッシュで黄色の砂塵をまきあげながら逃げていくようだった。だれかが岩がとまったと言ったのだが、割れて小さくなっただけだった。つまり、岩は転がりながら割れていき、上からは見えないほど小さくなってしまったのだ。それほど遠くまで転がって行ってしまったというわけだった。とはいえ、まだ転がっているのが見えると言う者もいた──ぼくだ。あの岩はいまもまだ転がりつづけていると、ぼくは信じている。

クレーターですごした最後の日、ウキウキウが強くなった。ナウルを押し返し、太陽の家を雲でおおいつくしたので、ぼくらも雲に飲みこまれてしまった。ぼくらの雨量計は、テントの小さな穴の下に置いた半リットルほどの容量のカップった。この嵐の夜に雨水でカップが一杯になり、毛布の上にまでこぼれてきたので、それ以上は降雨を測定できなかった。雨量計は使えなくなったし、もうここにとどまっている理由もない、というわけで、ぼくらは夜明けの湿っぽい薄暗がりのなかでキャンプを撤収し、溶岩が流れた跡を東にあるカウポ・ギャップへと向かった。火口縁にできた巨大な割れ目から雲がわいているところだ。東マウイは、はるかな昔、カウポ・ギャップを流れて落ちていった膨大な溶岩流そのものでできていた。この溶岩流の上を進んだのだが、海抜六千五百フィート(約二千メートル)の高地から、あるかないかの道をたどりながら、ゆっくり降りていく。これは馬にとっても一日仕事だった。危険な場所で安全を確保するため、急がず、あわてず歩をすすめ、そうやって平坦地に出ると、馬は駆けだす。道がまた悪くなって駆けられなくなるまで、馬をとめようとしても無駄だったし、いつとまるかは馬自身が判断した。馬たちはそうやって来る日も来る日もきつい労働をしてきたのだ。ぼくらが眠っている夜に草を探して食べていた。そうやって苦労しながら、その日は二十八マイルも進み、仔馬の群れのようにハナに駆けこんだ。ハレアカラ火山の風下側の乾いた土地で育った馬も何頭かいて、蹄鉄をつけたことのない馬も含まれていた。一日中ずっと、蹄鉄をつけず、背中には人間という余計な重量物を乗せて、ぎざぎざした溶岩の上を進んだのだったが、そういう馬のひづめは蹄鉄をつけた馬のひづめよりも状態がよかった。

カウポ・ギャップと呼ばれる山塊の割れ目が海に落ちこんでいるヴィエイラスとハナとの間を通過するのに半日かかった。が、そこの景色は一週間、いや一カ月かける価値があるほどすばらしかった。荒々しく美しい。とはいえ、ハナとホノマヌ渓谷の間にあるゴム園の向こうに広がっている不思議な世界に比べれば、色は淡く、規模も小さい。そのすばらしい土地はハレアカラ火山の風上側にあるのだが、そこを踏破するのに二日もかかった。地元の人々は「ディッチ・カントリー(水路の国)」と呼んでいる。あまり魅力的な名前とは言えないが、その呼び方しかないのだ。観光でここまで来た人はだれもいないし、ぼくら以外にそれについて知っているよそ者もいない。仕事でやってくる一握りの男たちを別にすれば、だれもマウイのこのディッチ・カントリーのことは聞いたことがないのだ。とはいえ、水路は水路であるし、泥だらけだし、ここを横切るのは面白くもなく、景色も単調だろうと思われるのだが、どうして、このナヒク・ディッチはそんじょそこらの用水路とは違うのだ。ハレアカラ火山の風上側は切り立った断崖になっていて、そうした断崖から無数の水流が奔流となって海まで流れ落ちている。海までの間に大小無数の滝ができていた。ここの降水量は世界のどこよりも多く、一九〇四年の降水量は四百二十インチ(約一万ミリ)だった。水といえばサトウキビの栽培に不可欠だが、それでできる砂糖がハワイの屋台骨を支えているのだ。ナヒク・ディッチと呼ばれる水路は単なる一本の用水路ではなく、水路網になっていた。水は地下を流れ、山峡を飛びこえるときだけ出現する。目もくらむような峡谷の上を空高く放出されて対岸の山肌に飛びこんでいく。このすばらしい水路が「ディッチ」と呼ばれているのだが、これはクレオパトラの金色に輝く豪華船を貨車と呼ぶようなもので、その真の魅力を示してはいない。

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底なしの穴へと続く道を進む

この水路の国では馬車の通れるような道はない。ディッチが造られる前、あるいは掘削される前には、馬が通れる道もなかったのだ。肥沃な土壌にふりそそぐ年間何百インチもの降水と熱帯の日差しを受けて、植物が流れに沿って生い茂るジャングルを作り出しているのだ。徒歩でここを切り開きながら進むとすれば一日に一マイルくらいは進めるだろうが、一週間もすれば疲労困憊してしまう。自分が切り開いてきた道が植物に覆い隠されてしまう前に戻りたいと思えば、はってでも急いで戻らなければならないだろう。オーショネッシーはこのジャングルと渓谷を征服した勇気ある技師だったが、この水路と馬の通れる道を造ってくれた。コンクリートと石で、世界的にも注目に値する灌水施設を造り上げたのだ。小川や水の流れるところから地下水路で水が主水路まで運ばれる。降水量が非常に多いときには、余分な水は無数の放水路から海へと流れこんでいく。

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幅一マイル半もある割れ目にクサビ状になって進入してくる雲。その向こうに見えているのは正真正銘の海だ。

スナーク号の航海 (38) - ジャック・ロンドン著

その昔、島で放牧されていた牛を夜間に囲っておくために使われた石囲いの中で ビーフジャーキーとかためのポイで昼食をとった。半マイルほどクレーターの縁を迂回してから、火口の中へ降りていく。火口底は二千五百フィート(約七百五十メートル)下にあり、そこに向かう急な斜面に火山灰が降り積もっている。馬は足をすべらせそうになったり、ずり落ちそうになったりもしたが、足どりはしっかりしている。黒っぽい火山灰の表面が馬のひずめで踏み割られると、黄土色の酸性の粉塵がはげしく舞い上がって雲のようになった。運よく見つけた風穴の入り口まで、平坦なところをギャロップで駆けていく。火山灰の雲に包まれながらも降下は続いた。噴石丘のある一帯では灰が風に舞った。噴石丘はレンガ色をしているが、古いものはバラ色だったり、紫色がかった黒だったりした。荒れた海の大波のような無数の溶岩流をこえ、くねくね曲がった道を進んだ。が、いつのまにか頭上はるかに火口壁がそそりたっている。溶岩流はかちかちに固まっていたが、荒海の波のようにノコギリの歯状になっていて難儀した。どちらの側にもぎざぎさした壁や噴気孔があり、すばらしい景観を形成していた。ぼくらがたどっている踏み跡は昔できた底なしの穴に向かっていたが、一番新しい溶岩流がそれに沿って七マイルも続いていた。

クレーターの一番低い方の端にあるオラーパとコーリアの木が茂る小さな林でキャンプした。千五百フィート(約五百メートル)もの垂直に切り立った火口壁の根元で、クレーターの縁から少し離れたところだ。ここには馬が食べる牧草はあるが水がない。それで、まずぼくらは道をそれて溶岩流を一マイルほども横切り、水があるとわかっているクレーターの壁のくぼみのところまで行った。水たまりはカラだった。しかし、割れ目を五十フィート(約十五メートル)ほども登ると、ドラム缶八本分ほどの水たまりが見つかった。手桶でくみ出すと、この貴重な水は岩を伝って下の水たまりに滴り落ちた。そこに馬が集まってくるので、カウボーイたちはそれを追い返すので忙しかった。というのも、狭くて一度に一頭しか飲めないからだ。それから壁の根元ぞいにキャンプ地まで戻った。野生のヤギの群れが集まってきて騒々しい。テントを立て、ライフルをぶっぱなした。食事のメニューはビーフジャーキーとポイに子ヤギの焼き肉だ。火口の上空、ぼくらの真上に、ウキウキウに吹き流されてきた雲海が広がっている。この雲の海はたえず頂上にさしかかり、それを乗りこえて進もうとするのだが、月はずっと見えていたし、雲に隠されることはなかった。というのも、火口の上空にさしかかった雲は、火口からの熱で消えてしまうからだ。月あかりの下でのたき火に魅せられたのか、クレーターに住み着いている牛がのぞきこむ。下草にたまった露くらいしかなくて、水はほとんど飲んでいないはずなのだが、よく肥えていた。テントのおかげで、夜露をしのげる寝室が確保できた。疲れを知らないカウボーイたちが歌うフラの歌を聞きながら、ぼくらは眠りについた。連中にはたしかに勇敢な先祖たるマウイの血が脈々と流れている。

太陽の家をカメラで再現することはできない。撮影した写真が嘘をつくわけではないが、すべての真実を語っているわけでもない。コオラウ・ギャップと呼ばれる割れ目は網膜に映ったとおりに忠実に再現されているが、写真ではどうしても、あの圧倒的なスケール感が伝わってこない。高さ数百フィートに見えるこうした壁は数千フィートもあるのだ。そしてそこから侵入してくるクサビ状になった雲は、割れ目の幅いっぱいに一マイル半も広がっているし、この割れ目の向こうには本物の海があるのだ。噴石丘の表面や火山灰の外見は形が崩れて色もないように見えるが、実際は赤レンガ色、赤褐色、バラ色と色彩も変化に富んでいる。それに、言葉でもうまく表現できないし、ちょっとむなしい。火口壁は二千フィートもの高さがあると言葉で表現すれば、ちょうど二千フィートの高さということになるが、火口壁には単なる統計上の数字をこえた、圧倒的な量感があるのだ。太陽は九千三百万マイル離れたところにある。が、われわれのように死すべき存在にとって、実感としては隣の郡の方が太陽などより遠くにある気がする。こうした人間の脳の弱点は太陽に対してひどくなるし、太陽の家に対しても同様だ。ハレアカラ火山を何か代わりになるものを使って伝えることはできない、美や驚異という人の魂に向けてのメッセージを発しているのだ。コーリコリはカフルイから六時間のところにある。カフルイはホノルルから一晩船に乗れば行ける。ホノルルは読者諸君がいるサンフランシスコから六日のところにあるのだ。

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半マイルほど下方に見える火口底の墳石丘。小さいもので高さ四百フィート(約百二十メートル)、最大のものは九百フィート(約二百七十メートル)ある。

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運よく見つけた風穴の入り口まで、平坦なところをギャロップで駆けていく

スナーク号の航海 (37) - ジャック・ロンドン著

また朝になり、ブーツをはき、馬に乗り、カウボーイと荷馬を伴って頂上に向かった。荷馬は五ガロンの袋を左右に振り分けて合計二十ガロンの水を運んだ。クレーターの縁から数マイル北東の地域は世界のどこよりも大量の降水があるのだが、クレーターの内側にはほとんどないので水は貴重なのだ。上方に続く道は無数の溶岩流をこえていて、道の痕跡などは残っていないが、十三頭の馬はこれまで見たことがないほど見事に歩を進めた。馬たちはシロイワヤギのように着実かつ冷静に垂直な場所を上ったり下ったりしたが、一頭も落ちたりためらったりはしなかった。

人里離れた山に登る人々がみな体験する、よく知られた奇妙な錯覚がある。それは高く登るほど、広範囲の景色が見えるようになのだが、登る側からすると水平線が上り坂の向こうに見えるのだ。この錯覚はハレアカラ火山で特に知られている。というのも、古い火山が海から直接にそびえていて、周囲に壁や続いているエリアがないためだ。そのため、ハレアカラ火山のおそろしいほどの斜面を一気に登っていくと、ハレアカラ火山自体も自分たちも、周囲にあるものすべてが深い奈落の底に向かって沈みこんでいるような気がしてくる。自分たちより上に水平線があるように思える。海は水平線から自分たちの方へと下ってきているように見える。高度を上げるにつれて、自分たちが沈みこんでいき、はるか頭上は空と海が出会う水平線まで続く急激な登り勾配になっているように感じられる。薄気味が悪く、現実のものとも思えないが、北極海の水が地球の中心に流れこんでいるシムズ・ホールや、ジュール・ベルヌが地球の中心に向かって旅したときに通った火山のようだという思いが脳裏をよぎった。

そうこうしているうちに、とうとうこの巨大な山の頂上に達した。頂上は宇宙の大きな穴の中心に逆さにして置いた円錐の底のようだった。ぼくらの頭上はるかで、水平線が天となってぐるりと取り囲み、山の頂上があるはずのところは、ぼくらのはるか下方にあり、そこに深くくぼんだ巨大なクレーターとなっている太陽の家があった。クレーターの壁は二十三マイルも延々と続いている。ぼくらはほぼ垂直な西側の壁の端に立っていたのだが、クレーターの底は半マイルほども下にあるのだった。底部は溶岩流が噴出した噴石丘になっている。燃え盛る炎の消えたのがつい昨日のように赤くて、露出したばかりで浸食されていないようにも見えた。この墳石丘は小さいもので高さ四百フィート、大きいもので九百フィートあり、よくある砂丘のようにも見えるのだが、できたときの激しさはすさまじいものだったろう。深さ数千フィートもある二本の割れ目がクレータの縁にできていて、この切れ目を通して、ウキウキウが貿易風の雲を進入させようと無駄な努力をしている。この切れこみからうまく入りこんだとしても、クレーターが熱いために薄い大気に消散してしまい、どこにもたどり着けないのだ。

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石がこいの中で、ビーフジャーキーとタロイモを蒸して作ったポイで昼食をとる

広大だが、わびしく荒涼とし、けわしくて人を寄せつけないが、それでも魅了されずにはいない、というような景観だった。ぼくらは火と地震が由来する場所を見おろしていた。眼前に地球のあばら骨がむきだしになっていた。天地創造のときから自然はここで作られてきたのだ、と思わせるようなところだ。あちこちに、原始の地球のころの岩でできた巨大な堰があり、地球という鉢から溶けた岩石が一直線に流れ出て、ついさっき冷却したばかりのようだった。とても現実のものとは思えないし、信じられない。見上げると、頭上はるかに(実際には、自分たちより低いところに)ウキウキウとナウルによる雲のせめぎあいが展開されている。奈落のような斜面を目で登っていくと、雲のせめぎあいのさらに上空に、ラナイ島とモロカイ島が浮かんでいる。クレーターの南東方向には、やはり上にあるように見えるのだが、青緑色の海がある。その向こうにハワイの海岸に押し寄せる白い波が見えている。貿易風による雲の列の先に、八十マイルほど離れた空のかなたに、冠雪した巨大なマウナケア山とマウナロア山の頂上が天の壁よりさらに上方にそびえている。

伝説によれば、はるか昔、現在の西マウイにマウイという名の男が住んでいた。男の母親はヒナと呼ばれていたが、木の皮でカパと呼ばれる布を作っていた。作るのはいつも夜だ。昼間はカパを天日に干して乾燥させなければならないからだ。来る日も来る日も朝になると、母親は苦労して木の皮でこしらえた布を日光に当てた。しかし、太陽は速足で通りすぎてしまうため、すぐに夜になり、しまいこまなければならなかった。というのも、当時は昼の時間が今より短かったからだ。マウイは母親のむくわれない努力を見ていて気の毒に思い、どうにかしてやろうと決意した。むろん、カパを吊るしたり、とりこむのを手伝うということではない。もっと根本的な解決を求めたのだ。つまり、太陽の運行をもっと遅くしようとしたのだ。おそらく彼はハワイで最初の天文学者だった。島の各地で太陽を観察した。そこで得た結論は、太陽はハレアカラ火山の真上を通るということだった。ヨシュアと違って、彼は神に助けを求めなかった。大量のココナッツを集め、繊維を編んで丈夫なヒモを作り、現代のハレアカラのカウボーイがするように一方の端に輪をこしらえた。それから太陽の家に登り、寝ながら待った。太陽が顔を出し、いつもの道を一気に駆け抜けようとしたとき、この勇敢な若者は太陽から出ている最も強く最も幅広い光束に投げ縄をかけた。太陽の速度はいくぶんか遅くなり、太陽の光束はちぎれて短くなった。それでも彼はロープを投げては光束をちぎりとり続けたので、とうとう太陽がこらえきれず、なぜそんなことをするのかと問うた。マウイは講和の条件を示した。太陽はそれを受け入れ、以後、もっとゆっくり運行することに同意した。というわけで、ヒナはカパ布を乾かすのに十分な時間を確保できるようになったが、これが今の方が当時より昼間の時間が長くなっている理由なのだ。この言い伝えは現代の天文学の教えとも一致している。

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クレーターの縁で

スナーク号の航海 (36) - ジャック・ロンドン著

第八章

太陽の家

 たえず動きまわる精霊のように、海や陸の絶景や自然の驚異や美を求めて地球上を旅している多くの人々がいる。そういう人々はヨーロッパにあふれている。フロリダや西インド諸島、ピラミッドやカナディアンロッキーやアメリカのロッキー山脈でも出会うことがある。とはいえ、そういった人々は、この太陽の家では絶滅した恐竜のように稀だ。ハレアカラは「太陽の家」という意味のハワイの言葉だ。壮大な景観の地で、マウイ島にあるのだが、これを眺めてみようという観光客は少ないし、現地まで自分の足で行ってみようとする人はもっと少ない。ほぼゼロだ。だが、自然の美や驚異を求める自然愛好家であれば、ハレアカラ火山では、他のどこにも勝るとも劣らない、すごいものが見られると、あえて言っておこう。ホノルルへは、サンフランシスコから汽船に乗って六日で着く。マウイには、ホノルルから一晩の船旅で着いてしまう。さらに六時間もあれば、海抜一万三十二フィート(約三千五十五メートル)の太陽の家の入口まで行ける、急いだらの話だが。観光客はそこまでは来ないし、ハレアカラ山の斜面には人のいない壮大なパノラマが展開されている。

ぼくらは観光客じゃないので、スナーク号でハレアカラまで行った。この怪物のような山の斜面には、五万エーカー(約二百平方キロ)ほどの牛の牧場があり、ぼくらは高度二千フィートのその場所で一晩すごした。翌朝、ブーツをはき、馬に乗って、カウボーイや荷馬と一緒にウクレレまで登った。ウクレレという名の山荘で、標高五千五百フィート(約千六百七十メートル)のところにある。気候は温暖だが、夜には毛布が必要だし、居間の暖炉には火が焚いてある。ところで、ウクレレというのは、ハワイ語で「ジャンプするノミ」のことだが、ギターを小さくしたようなハワイの楽器でもある。この山荘は楽器の方にちなんで命名されたのだろう。ぼくらは急いでいるわけではないので、その日をウクレレですごし、高度と気圧計について知ったかぶりの議論をし、論拠を証明する必要があるときには気圧計を振りまわしたりした。ぼくらの持っている気圧計は、いままで見たなかで最も優雅で頑丈な道具だ。また、ぼくらは山に自生しているラズベリーを摘んだ。ニワトリの卵かそれより大きなやつだ。ぼくらのいるところから四千五百フィート上にあるハレアカラの山頂まで牧草におおわれた溶岩の斜面が続いていて、それを眺めたり、明るい陽光をあびたぼくらの足元に広がる、雲の激しいせめぎあいを眼下に見てすごした。

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五ガロンの袋に分け入れた二十ガロンの水を荷馬で運ぶ

このはてしない雲のせめぎあいは毎日続いている。ウキウキウというのが、北東から吹きこんできてハレアカラにぶつかる貿易風の呼び名だ。ハレアカラ火山はとても巨大で標高も高いため、貿易風はこの山を迂回することになる。そのため、ハレアカラの風下側では、貿易風はまったく吹いていない。それどころか、北東の貿易風とは反対方向の風が吹いている。この風はナウルと呼ばれている。昼も夜もたえずウキウキウとナウルはぶつかりあい、優勢になったり劣勢になったり、脇にそれたり曲がったり、渦を巻いたり旋回したり、よじれたりしている。この風が衝突する様子は、そこで湧き出た雲同志のせめぎあいとして見ることができる。この山岳の周囲に雲が押し寄せ、ぶつかりあっているのだ。ときには、ウキウキウが強い突風となって、ハレアカラ山頂にかかる巨大な雲を吹き払ってしまうこともある。ナウルがそれをうまく利用して新しい雲の戦隊を編成し、古くからの永遠の好敵手を打ち負かしてしまうこともある。ウキウキウは山の東側に巨大な雲を送りこみ、側面からまわりこむ。しかし、ナウルは風下側の隠れ家から、側面の雲を集めては引きこみ、ねじったり引きずったりして編隊を整えて、山の西側周辺からウキウキウに対抗する。その間ずっと、海へと続いている斜面の高いところにある主たる戦場の上でも下でも、ウキウキウとナウルはたえず雲同志の小競り合いを繰り返しているのだが、そうした雲は木々の間や渓谷を抜けて地面に広がり、いきなり互いに襲いかかったりするのだ。ウキウキウとナウルがふいに巨大な積雲を作り出し、あちらこちらでの小競り合いを飲みこみ上空高く舞い上げて、何千フィートもの垂直に伸びた巨大な渦を作ることもある。

とはいえ、主たる戦闘が続くのはハレアカラ火山の西側斜面である。ここで、ナウルの雲は最大になり、圧倒的な勝利をおさめる。ウキウキウは午後遅くになるにつれて弱くなる。貿易風にはそういう傾向があり、反対側から吹いてくるハウルのために吹き払われてしまうのだ。ナウルの方が卓越するようになる。ナウルは終日、雲を集めては送り出しているのだ。午後も進むにつれて、はっきりとした積雲ができ、先端は鋭さを増し、長さ数マイル、幅も一マイル、厚さ数百フィートにも達する。この巻雲は少しずつ前進してウキウキウとの戦闘に参加してくるため、ウキウキウは急速に弱まって雲散霧消してしまう。しかし、いつも簡単に白旗をあげているわけではない。ウキウキウが荒れ狂い、無限ともいえる北東風の支援を受けて雲が次々に誕生し、ナウルの積雲を一気に半マイルも撃退し、西マウイの方まで一掃してしまうこともある。この二つの勢力が入り混じってしまい、その結果として一つの巨大な垂直にのびた渦ができ、それが空高く何千フィートも積み重なって、ぐるぐるまわることもある。ウキウキウの本流が雲を低く密集させ、地面近くからナウルの下部にもぐりこむように前進させる。ナウルの巨大な中央部はその一撃を受けて上昇するものの、通常は押し寄せてきた雲を押し返して粉砕してしまう。そうして、その間ずっと、あちこちで小競り合いをしていた迷い雲や切り離された雲が木々や谷間を抜けて草地を進み、いきなり出くわして互いに驚くことになる。はるか上空では、沈みゆく太陽の穏やかだがものさびしい光をあびたハレアカラ山が、この雲の衝突を見おろしている。そうやって夜を迎える。だが、朝になると、貿易風はまた勢いを取り戻し、強い風を集めたウキウキウがナウルの雲を押し戻し、敗走させる。来る日も来る日も、そんな雲のせめぎあいが続く。ここハレアカラ山の斜面では、ウキウキウとナウルが永遠に競いあっているのだ。

スナーク号の航海 (35) - ジャック・ロンドン著

ハンセン病には弱い接触感染性があるが、どうやって伝染するのだろうか? あるオーストリアの医師は自分と助手たちにハンセン菌を植えつけてみた。が、失敗した。だが、断定するにはいたらない。有名なハワイの殺人者の例があるからだ。こいつはハンセン菌を植えつけることに同意したため死刑判決が終身刑に減刑されている。菌を植えつけてまもなく症状が出て、ハンセン病者としてモロカイ島で死んだ。とはいえ、これで結論がでたわけではない。というのも、植菌された当時、彼の家族の何人かがこの病気でモロカイ島に収容されていたためだ。この家族から感染した可能性もあり、この殺人犯は、正式に植菌された頃にはすでに罹患していて潜伏期間だったとも考えられるのだ。患者の体を清めるためモロカイ島に行ったダミエン神父という教会の偉人のケースもある。神父がどうやって罹患したのかについては諸説あるが、本当のところは誰にもわからない。本人も知らなかった。だが、彼が島を訪れるたびに、現在も居住地に住んでいるある女性がたずねてきていたことは確かだ。その女性は長くそこに住んでいて、五度結婚しているが、夫はいずれの場合もハンセン病患者で、彼らの子も産んでいた。そして、その女性は現在にいたるまで病気になってはいないのだ。

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モロカイ島。ダミエン神父の墓。

ハンセン病の謎はまだ解明されていない。この病気についての知識が深まれば治癒する可能性も大きくなる。ハンセン病の感染性は弱いため、有効な血清が発見されれば、この病気は地球上から消えることになるだろう。そうなれば、この病気との闘いは長くはかからず急展開を見せるだろう。とはいえ、その一方で、どうすれば血清やそれ以外の思いもよらない治療法が発見されるのだろうか。それが急務の問題なのだ。現在、インドだけで、隔離されていないハンセン病患者が五十万人いると推定されている。図書館や大学など、カーネギーやロックフェラーの寄付金の恩恵を受けている研究は多いが、そうした寄付金はどこに行っているのだろうか。たとえばモロカイ島のハンセン病患者の居住地には届いているのだろうか。まったくわからない。居住地の住民は運命に翻弄されている。彼らはこの不可解な自然の法則の身代わりとされ、ほかの人々がこのおぞましい病気にかからないよう隔離されいるのだが、なぜ彼らがこの病気にかかったのか、どうようにしてかかったのかについては皆目わからないのだ。単に患者のためだけでなく、将来の世代のために、ハンセン病治療や血清研究のため、あるいは医学界がハンセン菌を根絶させることができるような思いもよらない発見のために、そうした寄付金はハンセン病治療のまともで科学的な研究にも投入されてもらいたいものだ。お金を寄付したり思いやりで手を差し伸べるのにふさわしい場所というものがあるのだ。

スナーク号の航海 (34) - ジャック・ロンドン著

ひとつ確かなのは、居住地の患者は、ここ以外の場所で隠れて生活している患者よりはるかに恵まれているということだ。そういう患者は他人と交わることもなく、病気が露見しないか、少しずつ確実に悪くなっているのではないかと不安を抱えて生きている。ハンセン病の進行は一定していない。この病気になると体がむしばまれるが、潜伏期間はさまざまだ。五年や十年、四十年も症状が悪化せず、元気に生活できることもある。とはいえ、まれに最初の兆候で死に至る場合もある。腕のいい外科医が必要だが、隠れている患者には医者も呼びようがない。たとえば、最初の兆候として足の甲に穿孔性潰瘍ができる場合がある。それが骨にまで達すると壊死が起きる。患者が隠れていれば手術を受けられない。壊死は足の骨まで広がってしまい、短時間に壊疽や他の合併症で死亡することもある。一方、そんな患者がモロカイ島にいたとすれば、外科医が足の手術を行って潰瘍を切除し、骨を消毒し、病気の進行を完全にとめてしまう。手術後ひと月もすれば、患者は馬にも乗れるようになるし、徒競走したり波打ち際で泳いだり、マウンテンアップルを探して谷間の急な坂も歩けるようになる。すでに述べたように、この病気は潜伏しているときは五年、十年あるいは四十年も症状が出ないこともあるのだ。

かつてハンセン病の恐怖とされていたものは、手術で消毒をしなかった時代、グッドヒュー博士やホルマン博士のような医師たちがこの居住地に住みこむようになるより前にまでさかのぼることになる。ゴッドヒュー博士はこの地で先駆的な役割を果たした外科医で、彼の気高い功績はいくら賞賛しても賞賛しすぎることはない。ある日の午前、ぼくは手術室で彼の執刀する三件の手術に立ち会ったのだが、そのうちの二人は新しくつれてこられた男性で、ぼくと同じ蒸気船で到着したのだ。いずれの場合も、病気にやられたのは一か所だけだった。一人はくるぶしにかなり進行した潰瘍ができ、もう一人は脇の下に似たような進行した症状が出ていた。二人とも居住地外にいたので治療を受けておらず、かなり進行していた。どちらの患者の場合も、グッドヒュー博士はすぐに症状の進行を完全にとめ、この二人は四週間もすると元気になり、病気にかかる前のように丈夫になった。この二人が君やぼくと違う唯一の点は、彼らの病気は潜伏し、将来のいつか再発する可能性があるということだけだ。

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モロカイ島。ダミエン神父の教会。

ハンセン病は人類の歴史と同じくらい古い。文字による最古の記録にも出てくる。そして、病気の解明ということになると、現在でもなお当時と比べてあまり進歩していない。昔からとくに接触伝染性があることはよく知られていて、患者は隔離すべきとされてきた。昔と今との違いは、患者はもっと厳格に隔離され、人間らしく扱われて治療されているということだ。しかし、ハンセン病自体はやはり大変な病気だし、まだ解明されていないことも多い。あらゆる国の医師や専門家の報告を読むと、この病気の不可解な特徴が明らかになってくる。こうしたハンセン病の専門家たちは病気のどの段階についても、わからない、という点で口をそろえている。かつては軽々しく独断的に一般化されていたこともあるが、現在ではもう一般化して言われることはない。実施されたすべての調査から引き出しうる唯一可能な一般化は、ハンセン病は接触伝染性があるということだけだ。だが、この伝染性は弱いということは、ほとんど知られていない。ハンセン菌そのものは専門家により分離されている。ハンセン病か否かは細菌検査で判定できる。だが、この病原菌が患者でない人間の体にどうやって入りこむのかは、まだわかっていない。潜伏している期間の長さもわかっていない。あらゆる種類の動物にハンセン菌を植菌しようとした試みも失敗つづきだ。

この病気と闘うための血清を発見しようという努力も成功していない。専門家のあらゆる努力にもかかららず、まだ手がかりも治療法も見つかっていない。ときどき原因が解明され治療法が見つかったと希望の炎が燃えさかることもあるが、そのたびに失敗という闇に吹き消されてしまう。ある医者は、ハンセン病の原因は長期にわたって魚を食べたためだと主張し、自説を大々的にふりかざしたが、それも、インドの高地の医師が、自分の地域の住民にもハンセン病にかかっている者がいるのだが、それはなぜか、と問うまでだった。インド高地に住む住人は先祖代々魚を食べたことがなかったからだ。患者を一種の油や薬物で治療し、治癒したと発表した人もいたが、五年後、十年後、四十年後に再発した。治癒したという主張は、この潜伏した状態を治癒したと勘違いしていたことになる。確かなのは、本当に治ったという事例はまだない、ということだ。

スナーク号の航海 (33) - ジャック・ロンドン著

この原稿を書いている時点で、ホノルルに知っている靴磨きが一人いる。アフリカ系アメリカ人だ。マクベイ氏がぼくに語ってくれたところによれば、まだ細菌検査が行われるようになるずっと前に、彼はハンセン病患者としてモロカイ島に送られてきたのだった。彼は病室でも血気盛んで、悪さばかりしていた。長い間、そういうちょっとしたいたずらが繰り返されていたのだが、ある日、彼は検査でハンセン病ではないと宣告されたのだ。

「なんとまあ!」 マクベイ氏は笑いだした。「ということは、君を厄介払いできるってことだ! 次の蒸気船で島を出してやろう。君は自由の身だ!」

しかし、この黒人は行きたがらなかった。すぐにハンセン病の末期段階にある老婦人と結婚し、衛生局に、病気の妻を介護するため引き続き滞在する許可を与えてくれるよう嘆願した。自分ほど妻の世話をやける者は他にいない、と泣きついたのだ。だが、衛生局の連中にとって、彼の魂胆はお見通しというわけで、彼は蒸気船に乗せられて自由の身となった。しかし、彼はモロカイ島に舞い戻った。モロカイ島の風下側に上陸すると、夜にまぎれてパリに入りこみ、居住地にある自宅にもぐりこんだのだ。彼は逮捕され、裁判で不法侵入のかどで有罪を宣告され、少額だが罰金も科せられ、蒸気船で退去させられた。こんど不法侵入したら罰金百ドルに加えて、ホノルルの刑務所行きだと警告された。というわけで、このたびマクベイ氏がホノルルにやってくると、この靴磨きは氏の靴を磨きながらこう言った。

「ねえ、旦那。オレにはあの楽しかった家がなくなっちまいましたよ。ああ、なつかしいなあ」 それから内緒話でもするように声を潜めて、こう言った。「ねえ、旦那。また戻れませんかね? 戻れるように手配してもらえませんか?」

彼はモロカイ島に九年も住んでいたのだが、それ以前もそれ以後も、島での暮らしほど楽しい時はなかったのだ。

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モロカイ島のカラウパパ村。背後のパリの断崖は標高二千フィートから四千フィート。

ハンセン病自体に対する不安については、ハンセン病患者も患者以外の人々も、居住地ではそういう気配は見せなかった。ハンセン病に対する激しい恐怖は、ハンセン病患者を見たことがない人々や、この病気について何も知らない人々の心の中にあるのだ。ワイキキのホテルで、ぼくが居住地を訪問する料金の支払をしていると、ある女性が心底驚いていた。話をすると、彼女は生まれも育ちもホノルルで、ハンセン病患者を自分の目で見たことがないのだ。アメリカ本土にいたぼくは、そうじゃない。米本土ではハンセン病患者の隔離はゆるくて、ぼくは大都市の通りで何度も患者を見たことがある。

ハンセン病は恐ろしいもので、それから逃れることはできないが、この病気や伝染性について、ぼくには多少なりとも知識があった。ハワイに滞在する残りの日々をどうすごそうかと考えていて、結核療養所を訪問するよりはモロカイ島ですごしてみようかと思ったのだ。米本土の都会や田舎の貧しい人々のための病院や外国の似たような施設では、モロカイ島で目撃するような光景を目にすることができるが、もっとひどい状態だ。残りの人生をモロカイ島で暮らすか、ロンドンのイーストエンドや、ニューヨークのイーストサイド、シカゴのストックヤード*で暮らすかを選択しなければならないとしたら、ぼくはちゅうちょせずモロカイ島を選ぶだろう。イーストエンドやイーストサイドのような堕落と貧困に満ちた土地で五年もすごすくらいなら、モロカイ島で一年をすごすほうがいい。

モロカイ島では、人々は楽しそうだ。そこで目撃した七月四日の祝日の様子を、ぼくは決して忘れない。朝六時、「身の毛もよだつ」人々が外に出てくる。着飾って(自分の所有する)馬やラバ、ロバにまたがり、居住地中を跳ねまわるのだ。二組のブラスバンドも出ていた。三、四十人ものパウを着た者たちもいた。すべてハワイ人の女性で、民族衣装を着こなしている。馬に乗るのもうまく、二、三馬ずつだったり集団だったりで駆けまわっている。午後、チャーミアンとぼくは審判席に立ち、乗馬の技術やパウを着た衣装に賞を贈呈した。周囲にいるのはすべてハンセン病患者で、頭や首や肩に花冠や花のリースをつけて楽しそうだ。丘の上や草原には派手に着飾った男女が見え隠れし、飾り立てた馬を走らせたり、着飾った騎手たちが歌ったり笑ったりしている。ぼくは審判台に立ち、こうした様子をすべて目撃したが、そのとき思い出したのはハバナのハンセン病の病院だ。そこには二百人ほどのハンセン病患者や囚人がいて、四方を壁に囲まれた場所で死ぬまで閉じこめられているのだ。ぼくは何千という土地を知っているが、ずっと住む場所を選ぶとなったら、モロカイ島にするだろう。夕方、ぼくらは患者の集会所の一つに行った。集まった聴衆を前にして、合唱団のコンテストがあった。夜になり、最後はダンスになった。ぼくはホノルルのスラム街に住むハワイ人を見たことがあるのだが、再検査のため居住地から連れてこられた患者たちが口をそろえて「モロカイ島に戻りたい!」と叫ぶ理由がよくわかる。

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モロカイ島のダミエンロード

 

[訳注*]
ロンドンのイーストエンド、ニューヨークのイーストサイド、シカゴのストックヤードには、現在と異なり、一部にスラム化した集落が集中し、犯罪や貧困の温床/代名詞とされていた。

ジャック・ロンドンの意図は、実態が知られず恐怖ばかりが先走り、先入観に満ちた扇情的な報道で世間からは地獄のように思われているハンセン病患者の隔離された居住地に実際に住んでみて、ありのままを伝えようというところにある。

現在では、ハンセン病をめぐる状況も大きく変化し、隔離政策についても問題のあることが知られているが、後出しじゃんけんのように現代の基準で断罪したりはせず、執筆当時の著者の意図を尊重し、できるだけ忠実に訳出している。

 

スナーク号の航海(32) - ジャック・ロンドン著

モロカイ島では、宣告されたハンセン病患者は再検査を受ける権利があり、患者はそのために継続的にホノルルに戻っている。ぼくがモロカイ島に渡るときに乗った蒸気船には、そうやって戻った患者が二人乗っていた。どちらも若い女性で、一人は自分の所有する財産を整理するためにホノルルに行っていて、もう一人は病気の母親に会うためだった。二人ともカリヒに一カ月滞在していた。

モロカイ島の居住地は新鮮な北東貿易風が吹き抜ける島の風上側にあるため、気候はホノルルよりずっと快適だ。景色もすばらしい。一方には青い海があり、他方にはパリの断崖がそびえていて、そこここに美しい渓谷がある。いたるところ緑の牧場が広がり、患者たちが所有する何百頭もの馬が放牧されている。馬車や荷馬車、二輪の軽量馬車を持つ患者もいる。カラウパパの小さな港には何艘かの漁船と小型蒸気船が係留されている。どれも患者が所有し操船している。むろん、海上にも境界が決められていて、船で行ける範囲は限定されているが、それ以外に制限はない。獲れた魚は衛生局に売り、代金は自分の稼ぎになる。ぼくが滞在していた間、一晩の稼ぎは四千ポンドだった。

漁をする者がいるように、農業をする者もいる。あらゆる事業が行われている。生っ粋のハワイ人の患者は塗装業の親方だ。八人を雇い、衛生局から建物の塗装を請け負っている。カラウパパ・ライフル・クラブに入会していて、ぼくも会ったことがあるが、ぼくなんかよりずっと立派な身なりをしていた。同じような境遇の男がもう一人いて、こっちは大工の棟梁だ。衛生局が運営している店の他にも民間の小さな店があり、商売っ気のある者が経営している。監督補佐のワイアマン氏は立派な教育を受けた有能な人物だが、生っ粋のハワイっ子で患者でもある。バートレット氏はいまは店主をやっているが、この病気にかかる前はホノルルで商売をしていたアメリカ人だ。この人たちの稼ぎはすべて自分のものになる。働けない者は地域で面倒を見てくれる。食べ物や住むところ、衣服が与えられ、治療も受けられる。衛生局は農業経営も行っていた。地元向けの畜産や酪農で、働きたい者には全員、適正賃金の雇用が与えられる。とはいえ、隔離された地域で、労働を強制されているわけではない。子供や老人、肢体不自由者には住むところも病院も確保されている。

リー少佐はインターアイランド汽船会社の造船技師を長く務めたアメリカ人で、ぼくが会ったときは蒸気を使う新しいタイプのクリーニング屋で働いていた。機械の据え付けで忙しそうだった。その後も彼とはよく会ったが、ある日、ぼくにこう言った。
「おれたちがここでどうやって生きているのか、ちゃんと伝えてくれよ。頼むから、ありのまま書いてくれよな。あんたは、みんながおぞましい腐った地獄と思いこんでいるところに足を踏み入れちまったんだ。おれたちだって誤解されたままでいるのはいやだし、感情を持った人間なんだ。ここでどう暮らしているのか、本当のことを世の中の連中に伝えてくれ」

ぼくがこの居住地で会った連中は、男も女も、口をそろえて同じような感情を吐露した。これまで事実に反する嘘をまじえて誇張して伝えられていることに憤慨しているのは、患者自身だった。

彼らが病気にかかっているのは事実だが、ハンセン病患者たちは自分の置かれた境遇で生活を楽しんでいる。居住地は二つの村に別れ、多くの田舎風の家や海沿いの家に、ほぼ千人が暮らしている。教会は六つあり、キリスト教青年会の建物や集会場もあれば、演奏会場や競技場、野球場、射撃場、スポーツジムもある。多くのグリークラブが活動し、吹奏楽団も二つある。

「ここではみんな満足しているので」と、ピンカム氏がぼくに言った。「ショットガンでも追い払うことはできないでしょうな」

そのことは、後でぼく自身が確認した。この年の一月、病気の再検査のためホノルルに行くことになった十一名の患者が、それを拒否してひどく抵抗したのだ。彼らは行くのを嫌がった。検査で菌陰性化がわかれば自由にどこでも行けるようになるのだが、自由になりたくないのかと聞かれると、全員が「モロカイ島に戻りたい」と答えたのだ。

かつてハンセン菌が発見される前、さまざまな、まったく異なる病気で苦しんでいる男女が小数ではあったがハンセン病と判断されて、モロカイ島に送られてきた。それから何年も経て、細菌学者が、彼らはもはやハンセン病にかかっていないし、そもそもその病気ではなかったと宣言したとき、彼らは逆に狼狽した。モロカイ島から外に出されるのを嫌がり、衛生局から仕事をもらって、そのまま居住地にとどまったのだ。現在、看守を務めているのはそのうちの一人である。ハンセン病ではないと宣言された彼は、島外に送られないように、有給で看守の仕事を引き受けたのだった。

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モロカイ島、患者の漁師たちと船着き場

スナーク号の航海(31) - ジャック・ロンドン著

ハンセン病の接触による伝染性は想像されているほどではない。ぼくは妻同伴でこの居住地に一週間滞在したが、感染するという不安はまったくなかった。ぼくらは長手袋もはめなかったし、患者から離れていようともしなかった。逆に、何も考えず自由に一緒にいたし、ここを去るときには、顔と名前で病歴もわかるようになっていた。単に清潔にしていれば、予防措置としては十分のようだ。医師や監督官など患者以外の者が患者と別れて自分の家に戻るときに、消毒用の石鹸で顔と手を洗い、上着を着替えるだけだ。

とはいえ、ハンセン病患者は不潔だという声も根強い。この病気についてほとんど知られていないため、ハンセン病患者の隔離措置が厳守されている。過去にはハンセン病患者は恐ろしいものとされ、ぞっとするような治療が行われたが、そういったものは不要であるし残酷でもある。ハンセン病をめぐって人口に膾炙した誤解のいくつかを一掃するため、ぼくはハンセン病患者と患者以外の者との関係について、自分がモロカイ島で観察したことを述べておきたい。到着した朝、チャーミアンとぼくはカラウパパ・ライフル・クラブの大会に参加した。そしてそこで、この疾病にまつわる苦痛と、それが緩和されていく民主主義的兆候を目撃することになった。このクラブは、マクベイ氏が寄付したカップをめぐる賞品つきの大会を開始したばかりだった。マクベイ氏や研修医のグッドヒュー医師、ホールマン医師もクラブの会員だった(両医師とも奥さんと一緒に居住地に住んでいる)。射撃用ブースでぼくらのまわりにいる者は、全員が患者だ。患者も患者以外の者も同じ銃を使用し、限られた空間で肩を並べていた。患者の多くはハワイの原住民だった。ベンチでぼくの隣に座っているのはノルウェー人だった。真正面の砂の上に立っているのは南北戦争で南部連合国軍側で戦ったアメリカ人で、いまはもう退役していた。彼は六十五歳だが、腕はまだ鈍っていなかった。大柄なハワイの警察官、患者、カーキ色の軍服姿の連中が射撃をした。ポルトガル人もいれば中国人もいた。居住地で働いている患者以外の現地人もまじっていた。午後、チャーミアンとぼくはパリの二千フィートある崖に登って居住地を眺めたのだが、監督官や医師も、病人も病人じゃないのも入り混じって野球の試合に興じていた。

中世のヨーロッパでは、ハンセン病はおそろしい病気とされ、患者はひどく誤解された扱いを受けた。当時、ハンセン病患者は法的にも政治的にも死んだものとみなされた。患者は葬式行列で教会へと連れていかれ、そこで礼拝をつかさどる聖職者が患者のために模擬葬儀を挙行するのだ。読経のあとで土をすくって患者の胸に落とす。生きたまま死者となるのだ。この厳しい処置の大半は不要なものであったが、それによって一つのことがわかる。ハンセン病は十字軍の兵士たちが帰還してくるまで、ヨーロッパでは知られていなかった。そしてそこから少しずつ広がって、ある時点で一気に拡大したのだ。これは明らかに接触で罹患する病だった。接触伝染病だ。と同時に、隔離すれば根絶できるということも明らかだった。当時のハンセン病患者の扱いはひどく、醜悪なものであったが、隔離効果が知られるようになり、それを手段として用いることでハンセン病は撲滅されるようになった。

ハワイ諸島では現在、こうした隔離政策によりハンセン病は減少している。が、モロカイ島に患者を隔離することは、イエロージャーナリズムが扇情的に書きまくっているような、恐ろしい悪夢なのではない。そもそも、ハンセン病患者は家族から無慈悲に引き裂かれてはいないのだ。病気が疑われた者は、衛生局からホノルルのカリヒにある施設に来るよう呼ばれる。料金や経費はすべて支払われる。まず衛生局の細菌学の専門家による顕微鏡検査を受ける。ハンセン菌が見つかると、患者は五名の検査医からなる審査会による審査を受ける。ここでハンセン病と判明すれば、病名が告げられ、衛生局が正式に確認し、患者はモロカイ島に送られる。状況に応じて徹底した検査が行われるが、患者には、自分を担当する医師を選ぶ権利がある。ハンセン病と宣告された後でも、すぐにモロカイ島に送り込まれるわけではない。何週間か何カ月かの猶予が与えられ、カリヒに滞在している間に、自分の商売などすべてを清算したり話をつけたりすることになる。モロカイ島では、親戚や商売の代理人などの面会も認められるが、患者の家で食べたり寝たりすることは認められない。そのため、訪問者用の「清潔」な住宅が確保されている。

衛生局のピンカム局長とカリヒを訪れたとき、ぼくは罹患した疑いのある人に対する徹底した検査について説明を受けた。このときの疑いのある人は七十歳になるハワイの原住民で、三十四年間、ホノルルで印刷会社の印刷工として働いていた。専門家がハンセン病だと診断したが、審査会は判断に迷っていて、その日に全員がカリヒに集合して別の検査をしたというわけだった。

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モロカイ島、七月四日朝、パウを着た騎手