スナーク号の航海(45)- ジャック・ロンドン著

とはいえ、その夜に雨が降った。水が少ないと思うとかえって喉の渇きを強く感じるものだが、自分の割当分の水をすぐに飲んでしまっていたマーチンは、天幕(オーニング)の下縁で大口をあけ、これまで見たことがない勢いで雨水をがぶ飲みしていた。貴重な水がバケツや桶を満たし、二時間もすると、百二十ガロンもの水が蓄えられた。奇妙なことに、それからマスケサス諸島までの航海ではずっと降雨はなかった。あのスコールがなかったらポンプは施錠したままで、残っているガソリンを燃やして蒸留水を作るしかなかっただろう。

魚も釣った。魚を探す必要はなかった。船の周囲にいくらでもいたからだ。三インチの鋼の釣り針を頑丈なロープの端に結び、白い布きれを餌代わりにつけておくと、それだけで十ポンドから二十五ポンドの重さのカツオが釣れた。カツオはトビウオを餌にしていて、うまそうに見える布きれに針がついているとは思いもしないのだろう。引きも強烈で、針にかかると、釣った本人があっけにとられるくらいの勢いで走りだす。おまけに、カツオは獰猛な肉食系の魚らしく、一匹がかかった瞬間、仲間のカツオがそいつに襲いかかるのだ。船上に吊り上げられたカツオには茶碗ほどの大きさの食いちぎられた跡があったことも一度や二度ではなかった。

何千匹ものカツオの群れが昼夜を問わず三週間以上も船についてきた。スナーク号のおかげで、すばらしい漁を堪能できた。やつらは海上を半海里ほどの幅で千五百海里もの距離を帯状についてきた。カツオはスナーク号の両舷に並行して泳ぎながらトビウオに襲いかかった。なんとかかわして空中を飛翔しているトビウオを後方から追跡し、スナーク号を追いこしていく。後方には、砕け波の前の海面下をゆっくり泳いでいる無数の銀色の魚影が見えた。カツオたちは満腹になると船や帆の陰に入ってのんびり泳ぎながら、ほてった体を冷やしているのだ。

とはいえ、かわいそうなのはトビウオだ! カツオやシイラに追いかけられ、生きたまま食われてしまうので、空中に飛び出すしかない。が、そこでも海鳥に急襲されて海に戻るはめになる。この世界に気の休まるところはないのだ。トビウオが空中を飛翔するのは、別に遊んでいるわけじゃない。生死がかかっている。ぼくらは一日に何千回も顔を上げては、そこで演じられている悲劇を目撃した。一羽の海鳥が旋回している。下を見ると、イルカが背びれを海面につき出して突進していく。その鼻先には海中から空中に飛び出したばかりの、糸を引く銀色の筋が見える。今にも息づかいが聞こえそうだ――パニック、本能の指示、生存の欲求にかられた、きらきらした精妙な有機体の飛翔。海鳥が一匹のトビウオをとらえそこなった。すると、そのトビウオはまた凧(たこ)のように向かい風を受けて高度を上げ、半円を描きながら風下の方へと滑空していく。その下では、シイラが通った跡が泡だっている。シイラは頭上の餌を追跡しながら、大きな目で、朝食となるはずの自分以外の生命体が流れるように滑空していくのをじっと凝視している。シイラはそこまで高く飛び上がれないが、そのトビウオが海鳥に食われなければ遅かれ早かれ海に戻るしかないことをこれまでの経験から知っているのだ。そうなれば――朝食にありつける。ぼくらはこの哀れな翼を持った魚に同情した。これほど欲望がむきだしの血にまみれた大量殺戮を見るのは悲しかった。それからも、夜に当直をしていると、あわれでちっぽけなトビウオがメインセールに当たって落下してきたりした。甲板で跳ねていたりすると、ぼくらはすぐに拾い上げ、シイラやカツオのようにむさぼり食った。朝食だ。トビウオはとてもうまいのだ。こんなうまい肉を食べている捕食魚の体がこれほどうまい肉にならないのか不思議でならない。おそらく、シイラやカツオは餌を捕えるためにものすごいスピードで泳ぐので筋繊維が粗いのだろう。とはいえ、トビウオも高速で移動しているのではあるが。

細いロープに鎖のサルカンと大きな釣り針の仕掛けには、ときどきサメがかかった。サメは水先案内をしてくれるし、邪魔になったりもするが、いろんな形で船を利用しようとする生き物でもある。サメには人食いザメとしておなじみのやつが何種類かいるが、トラのような目に十二列のカミソリのように鋭い歯を持っている。ところで、ぼくらはスナーク号ではたくさんの魚を食べたが、焼いてトマト・ドレッシングにつけこんだサメの肉に比肩できるものはないという点で、ぼくらの意見は一致していた。凪(なぎ)のときには、日本人のコックが「はけ」と呼ぶ魚を釣った。また、スプーンで作った針を百ヤードほどの糸につけてトローリングしていると、長さ三フィート以上で直径三インチほどのヘビのような魚が釣れたこともある。アゴには四本の牙があった。ぼくらが船上で食べたうちでは、こいつが最高にうまかった――肉も香りもすばらしかった。

スナーク号の航海 (44) - ジャック・ロンドン著

日光が灰色と紫がかった雲のベールを通して射しこみ、海面は頻発する激しい豪雨にたたきつけられてフラットになったまま泡立っていた。雨が降り風が吹きすさぶ海面のうねりとうねりの谷間を白い水しぶきが満たし、海面はさらに平らになったが、海は前にもまして激しく襲いかかろうと、風と波が収まるのを待っていた。男たちが起き出して甲板に出てきた。そのなかでもハーマンは、ぼくが風をとらえたのを見てニヤッと笑った。ぼくは舵をウォレンに預け、船室に降りようとした。厨房の煙突が波に流されそうにしていたので、それをつかまえようと立ち止まった。ぼくは裸足だったし、つま先はなんでもつかめるようきたえてもあったのだが、手すり自体が緑の海面に没していたので、ぼくはふいに海水に洗われた甲板で尻餅をついてしまった。ハーマンは、それを見て、ぼくがなぜその場所に座ることにしたのかと、妙に落ち着いた口調でたずねた。すると、次のうねりで奴も不意打ちをくらって尻餅をついた。スナーク号は大きく傾き、手すりはまた海水をすくった。ハーマンとぼくは貴重な煙突をつかんだまま風下舷の排水口のところまで流された。ぼくはそれからやっと船室に降りて着替えたのだが、そこで満足の笑みを浮かべた――スナーク号が東進しているのだ。

いや、まったく退屈するなんてことはなかった。ぼくらは西経百二十六度まで苦労して東進し、そこから変向風に別れを告げて赤道無風帯を横切って南へと向かっていた。ここではずっと無風のときが多く、風が吹くたびに、それを利用して何時間もかけて数マイル進んでは喜んだ。とはいえ、そんなある日、一ダースものスコールがあり、それ以上の雨雲にも囲まれた。スコールのたびに、スナーク号は横倒しされそうになる。スコールの直撃を受けることもあれば、雨雲の縁がかすめ通ることもあったが、どこでどんな風に襲ってくるか、わからなかった。スコールは雨を伴う突風だが、天の半分をおおってしまうようなスコールが発生し、そこから風が吹き下ろしてきた。が、たぶん、ぼくらのところで二つに分かれたのだろう。船には被害を与えず両側を通り過ぎて行った。そうした一方、何の影響もなさそうな、雨も風もたいしたことがなさそうなやつが、いきなり巨大化して大雨を降らせ、強烈な風で押し倒そうとすることもあった。それから、一海里も風下の後方にあったやつが、いつのまにか背後から忍び寄ってきていることもあった。と、またスコールが二つに分かれてスナーク号の両側を通りすぎようとした。手を伸ばせば届きそうなところをだ。強風には数時間もするとなれてくるものだが、スコールは違っていた。千回目のスコールでも、はじめてのスコールと同じくらいに興味深い、というより、もっと面白く感じられる。スコールの面白さがわからないうちは素人だ。千回もスコールを経験すると、スコールに敬意を払うようになる。スコールとはどういうものかがわかってくるからだ。

一番どきどきするような出来事が起きたのは赤道無風帯でだった。十一月二十日、ぼくらはちょっとした手違いで残っていた真水の半分を失ってしまった。ハワイのヒロを出発してから四十三日目だったので、残っている水も多くはなかった。その半分を失うというのは破滅的だ。割当量から推して、残りの水で二十日は持つだろう。とはいえ、場所は赤道無風帯である。南東の貿易風がどこにあるのか、どこから吹き出しているのかすらわからなかった。

ポンプには直ちにカギをかけ、一日に一度だけ割当分の水をくみだすようにした。ぼくらには一人当たり一クォート(一リットル弱)の水が割り当てられ、料理に八クォート使った。心理状態をみてみると、最初に水が不足していることがわかるとすぐに、喉のかわきにひどく悩まされるようになった。ぼくについて言えば、人生でこんなに喉のかわきを覚えたことはなかった。割り当てられたわずかな水は一息で飲んでしまえそうだったし、そうしないようにちびちび飲むには強い意志が必要だった。それはぼくだけじゃない。みんなが水のことを話し、水のことを思い、眠っているときも水のことを夢に見た。窮地を脱するため近くに水を補給できるような島がないか海図を調べた。が、そんな島はなかった。マルケサス諸島が一番近かったが、赤道を超えた向こう側、赤道無風帯を超えた先にあるのだ。そう簡単にはいかない。ぼくらは北緯三度にいた。マルケサス諸島は南緯九度、経度で十四度も西にある――距離にして一千海里を超えるのだ。熱帯で風がなく、うだるように暑い大海原で苦境に陥っている一握りの生物、それがぼくらだった。

ぼくらはメインとミズン二本のマストの間にロープを渡し、雨が降ったら前の方に雨水を集められるように、大きな天幕を後ろを高くして張った。海上ではあちこちでスコールが通り過ぎていった。ぼくらは、このスコールの動向を一日ずっと、右舷も左舷も前方も後方も見張っていたが、近づいて雨を降らしてくれるものはなかった。午後になると大きなスコールがやってきた。海一面に広がって接近してくる。ものすごい量の雨水が海水に流れこんでいるのが見えた。ぼくらは天幕に注目してずっと待った。ウォレン、マーチン、ハーマンは生気を取り戻した。連中は一団となって索具を持ち、うねりにリズムを合わせながら、スコールを見つめた。緊張、不安、そして切望の念が全身から感じられた。彼らの脇には乾いた空っぽの天幕があった。だが、スコールは半分に割れ、一方は前方を他方は後方を風下へと去っていき、彼らの動きはまた気の抜けたものになった。

snark-page146
これがジョーズだ

スナーク号の航海 (43) - ジャック・ロンドン著

ミズンセールを引きこみ、しっかりたたんだ。夜になると、風がなくなり、うねりだけが残っていたが、索具がマストに当たる嫌な音もしなくなり、空気を震わせる不気味な音もなくなった。だが、大きなメインセールはまだ張っていたし、ステイスルやジブ、フライングジブ*1も展開していたので、船がうねりでゆれるたびに、パタンパタンと音をたてた。満天の星だった。ぼくは幸運を祈って、ハーマンとは反対の方向に舵をいっぱいに切り、背中をもたれて星を見上げた。他に何もすることがない。広漠とした凪(なぎ)の海で揺れているだけの帆船の上では、何もすることがないのだ。

それから、ほほにかすかな風を感じたが、ほんとにかすかで、すぐに消えてしまった。が、次の風を感じ、さらに次の風が感じられ、ついには本物と思える風が吹き出した。スナーク号の帆がどれほどその風を感じたのかはわからないが、風を受けたのは間違いなくて、どうやら動き出した。というのも、羅針盤の針がゆっくり回転したからだ。実際に針がまわっているわけではない。羅針盤の針はアルコールで密閉された容器の中に浮かんだデリケートな装置で、地球の磁力にとらえられて動かないので、向きを変えたのはスナーク号の方だ。

というわけで、スナーク号は本来の進路に戻った。風の息が大きくなる。スナーク号は風の圧力を感じるようになり、実際に少しヒールした。頭上をちぎれ雲が流れていく。雲で星が見えなくなりはじめた。暗黒の壁のようなものがこっちに接近してきて最後の星が見えなくなってしまうと、この闇は手の届くいたるところにあるように感じられた。闇の方に顔を向けると、かすかに風が感じられる。その風はとぎれることがなくなり、ミズンセイルをたたんでいてよかったと思った。おっと! 今のは強かった! スナーク号は風下側の舷が海水をすくうほど傾き、太平洋の海水がどっと入りこんできた。突風が四、五回続き、ぼくはジブとフライングジブをおろそうかと思った。また海に生気がよみがえり、風はますます強く頻繁になり、空中にしぶきが舞うようになった。こうなると風上に向かおうとしても無理だ。暗黒の壁は腕を伸ばせば届くところにある。ぼくはそれを凝視し、どうしてもスナーク号に打ちつける風の強さを測ろうとせずにはいられなかった。風上には何か不吉な脅威と感じられるものがあり、ずっと長く見つめていればわかるのではないかと感じたのだ。無駄だった。突風と突風の合間に、ぼくは舵を離れて船室に通じるコンパニオンウェイまで走っていき、マッチで火をつけて気圧計を確認した。「29-90」を指していた。この繊細な計器では索具が低い音を立てている騒ぎまでは教えてくれない。舵に戻ったところで、次の突風が吹いてきた。これまでで一番強い風だ。とはいえ、横方向からの風なので、スナーク号は進路を保ったまま東進した。悪くはない。

ぼくが悩んでいたのはジブとフライングジブをどうするかだ。この帆をおろしたかった。そうすれば風にも対処しやすくなるし、危険も減る。風のうなりとともに、雨がパラパラと散弾銃のように降ってきた。総員を甲板に招集すべきだとは思ったのだが、次の瞬間には、すこし延期した。おそらく風はこれでやむだろうし、全員を起こしても無駄になりそうだったから、そのまま眠らせていた方がいいと思ったのだ。ぼくはスナーク号の進路を放棄し、闇から抜け出そうと暗闇とは真逆の方向に向けたが、風の音とともに豪雨がやってきた。それから、この暗闇をのぞき、すべてが平穏に戻った。全員を起こさなくてよかったと思った。

風がやんだと思ったら、波が高くなった。もう白波がたっている。船はコルクのように持ち上げられては放りだされる。そうして、闇の中から、それまでより強い風が激しく吹いてきた。風上方向の闇の中に何があるのか知っていさえしたら皆を招集して手を借りられたのに! スナーク号は嵐に遭遇していた。風下側の舷がますます海水をすくうようになった。風の音はいよいよ激しく大きくなった。こうなれば寝ている連中を起こすしかない。よし、総員を招集するぞと決意した。と、雨は激しくなったものの風は弱まったので、ぼくは招集をかけなかった。とはいえ、闇の中で風の咆哮を聞きながら一人ぼっちで舵を握っていると心細くなる。ストレスを受けている状態で、眠っている仲間のことを考えながら、この小さな世界の表面でまったく一人きりでいるというのは責任感のなせるわざだ。突風がさらに吹きつのり、海が荒れてくるにつれて、海水は手すりを乗りこえ、水しぶきがコクピットまで飛びこんでくる。さっきまでの責任感がひるむ。海水は体には奇妙に暖かく感じられたが、幽霊のようなリン光を貫いてたたきつけてくる。ぼくは縮帆するため総員を甲板に出てくるよう招集すべきなのだろう。連中をなぜ寝かせておくのか。こんな状況でも良心の呵責(かしゃく)にかられるのはバカだ。ぼくの理性は心の迷いに異議をとなえる。心が反論する、「あいつらは寝かせておいてやろうや」と。賛成。だが、その判断をくつがえすのも、ぼくの理性なのだ。理性はその判断をくつがえさせる。そうして、その命令をいよいよ出そうという間際になって、突風がやんでしまうのだ。現実のシーマンシップに体を休ませてやりたいという配慮が入る余地はない、とぼくは思慮深くも賢明な結論を出す。だが、次に突風が続いて来たときに呼ぼうという心の迷いに譲歩し、連中を招集することはしない。というわけで、結局のところ、吹きつのる強風にスナーク号が耐えられるか判断しながら、ぼくの理性も、もっと強い風が吹いたら招集しようと先のばしにしているのだ。

snark-page142
シイラが釣れた

訳注
*1 帆船の艤装では、一口に帆(sail)といっても、時代によって船によって役割によってセール/セイル/スルのように表記が異なる場合があるが、どれが正しくどれが誤りというようなものではない。ここでは、一般的と思われる表現にしてある(写真は進水時のスナーク号)。
snark-originalphoto

(1) メインセイル(メインスル)、(2) ミズンセイル(ミズンスル)、(3)フライングジブ、(4) (ロアー)ジブ

スナーク号はガフリグ・ケッチで、二本のマストにつける帆に加えて、船首に三枚の帆を張ることができる(この写真では二枚に見えるが)。

ガフリグとは、マストにつけた縦帆が今風のヨットのように三角形ではなく四角形になっていて、上縁に斜桁(ガフ)がついている。その上部にも小さな帆(トップスル)を張ることができるようになっている。

というわけで、帆の数が多いので、基本的に一人や二人で操船するのは無理。

ちなみに、次の図では、左が約百年前の初版本の表紙に使用されていた絵
右がその元になった白黒写真(*1の写真はこれを説明用に加工したもの)
snark-coverdrawing-and-originalphoto

スナーク号の航海(42) - ジャック・ロンドン著

すべきことは一つだけだ──北東貿易風の南側に抜けて、変向風のところまでいく、それだけだ。ブルース船長がこの海域で風が変化する場所を見つけられなかったのも、「右舷から風を受けても左舷から風を受けても東には行けなかった」のも本当だ。一定方向の風しか吹かない貿易風帯のようなところではなく、風向が変わりやすいエリアに遭遇できるか否か、ぼくらはブルース船長より運に恵まれるよう祈った。変向風は貿易風と赤道無風帯の間にあるとされるが、赤道無風帯で温められて上昇する大気の動きに影響される。高層では貿易風と反対方向に流れていて、それが海面まで降りてくると、変向風として認識されるわけだ。この風は貿易風と赤道無風帯の間にくさび状に入りこんでいて、その風の吹くエリアでは、日によっても季節によっても風向が変化するのだ。

ぼくらはこの変向風を北緯十一度で見つけ、北緯十一度から離れないよう慎重に進んだ。それより南は赤道無風帯になっている。これより北には北東貿易風がある。来る日も来る日もスナーク号はずっと北緯十一度のラインと平行に進んだ。変向風が観察されるエリアでは、本当に風が変化した。真向いから軽風が吹いてくると思っていたら、風がなくなり、凪(なぎ)の海で丸二日も漂ったりした。そうしているうちに、また真正面から風が吹いてきて、それが三時間も続くと、また丸二日間は無風になる、といった調子だ。そうして──ついに!──西から風が吹き出した。強い。かなり強く、スナーク号はしぶきをあげて飛ぶように走り、後方には長い航跡が一直線にのびていった。風下帆走用の巨大なスピンネーカーを揚げる準備をしていると、半時間もしないうちに、風は息切れし、消えてしまった。またも無風だ。ぼくらは五分もいい風が吹くと、そのつど楽観的になるのだが、すべて裏切られた。どの風も同じように消えてしまうのだ。

だが、例外もあった。定常的な風が吹かない場所でずっと待っていると、何かが起きるのだ。ぼくらは食糧も水もたっぷり積んでいたので、じっくり待つことができた。十月二十六日には実際に東に百三海里も進めたのだが、それについては数日後に話をして確認した。ぼくらは南からの強風をつかまえたのだが、その風は八時間吹き続けてくれたので、その日の二十四時間で東に七十一海里も進むことができた。風がなくなったと思ったら、今度は真逆の北の方向から吹いてきて、さらに東に進むことができたのだ。

長い間、このコースを選択しようとした帆船はなかった。そのため、太平洋のこの地域では、ぼくら以外の船には出会わなかった。ぼくらは六十日間もこのコースを帆走したのだが、水平線上に他の帆影や蒸気船の煙は見なかった。この見捨てられた世界では、動けなくなった船がどれほど長く漂流していても、救助の手がさしのべられることはないだろう。救助の手がのびてくる唯一の機会があるとすれば、それはスナーク号のような船からだろう。ぼくらは水路誌をろくに読みもしないでコースを決めていたので、こんな行き当たりばったりの船と偶然に出会うようなことでもなければチャンスはない、というわけだ。人が甲板に立って水平線を眺めたとすれば、見える範囲は自分の目から水平線まで、直線距離にして三海里半になる*1。つまり、自分を中心にして直径七海里の円の範囲の海である。ぼくらはその円の中心にいて、たえずある方向に移動しているため、それだけ多くの円を見渡したことになるのだが、すべての円は同じように見えた。樹木の生い茂った小島もなければ、灰色の岬が見えてくることもなく、はてしなく広がる丸い水平線の向こうに陽光をあびて光っている白い帆も見えなかった。この広大な円の縁から雲がわき出ては、上昇し、流れ、通りすぎ、反対側の縁の下に消えていった。

何週間も経つうちに、世界は色あせていった。ついには、七人の魂を乗せて広大な海面を漂っているスナーク号という小さな世界以外の他の世界の意味が薄れていった。世界についてのぼくらの記憶、あの偉大な世界は、ぼくらがスナーク号の船上で誕生する前に生きていた以前の生命体としてみた夢のようなものになった。新鮮な果物がなくなった後、ぼくらは父親が自分の少年時代の消えたリンゴについて話すのを聞いたように、あの世界のことを話したりした。人間は習慣の生き物であり、スナーク号船上のぼくらはスナーク号という習慣になっていった。当然のことながら、船と船上生活すべてが重大なものとなり、それが破られるといらいらし攻撃的になったりした。

あの偉大な世界が復活してくる気配はなかった。ベルは時間を告げるが、訪問者はなかった。食事のゲストもなかったし、電報もなければ、耳ざわりな電話が私生活に割りこんでくることもなかった。ぼくらには守るべき約束もなく、乗るべき汽車もなく、朝刊もないので、自分以外の五十億もの人間に起きている出来事を知ろうとして時間を無駄にすることもなかった。

とはいえ、退屈ではなかった。ぼくらのささやかな世界の出来事は規律に従ったものでなければならなかったし、あの偉大な世界とは違って、ぼくらの世界はそれ自体が広大な空間を旅していかねばならなかった。また、混乱しとまどうような出来事もあったが、この大きな地球に影響するほどの摩擦はなく、無風の空間を進んでいった。ときには、次に何が起きるのかわからないこともあった。刺激も変化も十二分にあった。いまは午前四時だが、ぼくは舵を握っているハーマンに交代を告げる。

「東北東」と、やつはぼくに方角を告げた。「方向が八ポイントずれてるが、舵もきかない」

小さなおどろき。こんな無風状態で舵のきく船など存在しない。

「ちょっと前まで風があった──たぶん、また吹いてくるだろう」と、ハーマンは希望的観測を述べると、寝床のある船室に向かった。

snark-page138
これがジョーズだ

[訳注]
*1 海の真ん中では見渡す限り365度、水平線が広がっているが、その水平線までの距離は、目標物の標高と観察者の目の高さによって変わってくる。その距離を光達距離という。
 灯台の設計で光がどこまで届くかは重要な問題で、理想的な条件下で光が見える距離を光学的光達距離という。
 現実には、眼高(観察者の目の海面からの高さ)と灯高(海面から灯台のライトまでの高さ)で簡易に計算できる地理的光達距離が用いられる。

 眼高(h 単位:メートル)と灯高(H 単位:メートル)の平方根の和に、係数2.083をかけると地理的光達距離が計算できる(出てきた数値の単位は「海里」)。

2.083(√h + √H)

 水平線を高さゼロ(H=0)とし、スナーク号から見える範囲が本文のとおり直径7海里として、この式から逆算すると、スナーク号の眼高は約2.8mになる。
 海面から甲板までが1m前後、身長を1.7~8mとすれば、ジャック・ロンドンの計算はほぼ正確だとわかる(文系の作家があてずっぽうで書いているのではなく、ちゃんと航海法を勉強したということがわかる)。
 この計算式を応用すれば、海をわたって目指す島のてっぺんが見えたときに、その島までの距離を計算できる。島の標高が1000mで、眼高がスナーク号と同じだとすれば、島までの距離は約67海里になる。
 航海記でよくある「島が見えたぞ」という感動的な陸地初認は、毎日天測で位置をだしている航海士や船長には、少なくとも前日に天測で現在の位置を出した時点で、いまの針路と速度を維持すれば翌日の何時ごろに見えてくるか、ほぼ正確に予測できているはずだ。

スナーク号の航海 (41) - ジャック・ロンドン著

第9章

ハワイから南太平洋へ

 サンドイッチ諸島(ハワイ諸島の旧称)からタヒチへ ── 貿易風にさからうことなるこの航海は過酷だ。捕鯨船の連中などは、サンドイッチ諸島からタヒチへ向かうというコース選定には懐疑的だった。ブルース船長は、目的地に向かう前に、まず風が吹き出しているところまで北よりに進むべきだと述べている。船長が一八三七年十一月に航海したときには、南下する際に赤道付近で風が変化することはなく、なんとか東に向かおうとしたが、どうしてもできなかった。

南太平洋を帆走で周航するコースの選定については、そう言われているし、それが定説になっている。疲れた航海者にとって、この長い航海でこれ以上に役立つ助言はない。ハワイから、タヒチよりさらに八百海里ほど北東にあるマルケサス諸島までの航海についても同じことが言えるが、条件はさらに悪くなる。そういうコース選定が推奨されない理由として、ぼくは風上に向かう航海が続くと船も人も疲弊してしまうからだと思っているが、これは本当に大変なことなのだ。だが、無理だと言われて尻尾を巻くようなスナーク号ではない ── というより、ぼくらは出発するまで、帆走でのコース選定についての指南書をほとんど読んだことがなかったのだ。十月七日にハワイのヒロを出帆し、十二月六日にマルケサス諸島のヌク・ヒバ島に着いた。カラスが飛ぶように一直線に行けば二千海里の距離だが、実際には到着するまでに四千海里以上を走破した。二点間の最短距離が直線とは限らないということが、今回も証明されたわけだ。ダイレクトにマルケサス諸島を目指していたら、五、六千海里も帆走することになっていたかもしれない。

ぼくらが決意していたことが一つあった。それは、西経百三十度より西で赤道をこえるようなことは決してしない、ということだ。その地点より西で赤道をこえてしまうと、南東貿易風のためにマルケサス諸島の風下側に流されてしまう。どんなに頑張っても、そこから風上にのぼっていくのはむずかしい。また、赤道海流もあなどれない。場所によっては、一日に十二海里から七十五海里もの速さで西に流れているのだ。目的地の風下に流されてしまうと、この海流が牙をむいてくるので、にっちもさっちもいかなくなってしまう。だから、西経百三十度より西で赤道をこえるわけにはいかないのだ。とはいえ、南東貿易風は赤道の五、六度北あたりからあるとも予測されているため(つまり、そのあたりで南東か南南東の風が吹いているとすれば、ぼくらは南南西に向かわざるをえなくなるので)、赤道の北側ですでに南東貿易風が吹いているのであれば、少なくとも西経百二十八度に達するまでは東に向かう必要があるのだ。*1

ぼくは、七十馬力のガソリンエンジンが例によって動かないと言うのを忘れていた。だから、風に頼るしかないのだ。進水時のエンジンも動かなかった。エンジンの話をすれば、照明や扇風機、ポンプを動かすはずだった五馬力のエンジンも故障していた。ぼくの脳裏には、魅力的な本のタイトルがちらついている。いつかそれにまつわる本を書き、『三台のガソリンエンジンと妻一人との世界一周』と題するのだ。とはいえ、そんな本を書くことはないだろうとは思う。というのは、スナーク号のエンジンで骨を折ってくれたサンフランシスコやホノルル、ヒロの若い紳士諸君の気分を害するおそれがあるからね。

机上のプランとしては簡単そうだ。現在、ぼくらはヒロにいて、目的地は西経百二十八度だ。北東貿易風が吹いているため、二点間を結ぶ直線を進むことができるだろうし、強いて風上ぎりぎりに船をのぼらせることもあるまい。しかし、貿易風で大きな問題の一つは、その風がどこから吹きはじめ、どの方向に吹いているのかがわからない、ということだ。ぼくらはヒロの港を出てすぐに北東貿易風をつかまえたが、この風は頼りなくてすぐに東よりになってしまった。おまけに、大河のように西に向かって力強く流れている北赤道海流があった。小さな船で逆風と逆波を乗りこえて風上に進もうとしても、いくらも進めない。帆をすべてピンと張りつめ、風下側に傾き、波にたたきつけられ、波しぶきをあげながらも、何とか進もうとする。それを繰り返す。船が進みはじめたと思っても、すぐに山のような波におそわれて止まってしまう。スナーク号は小さいので、貿易風や強力な赤道海流に逆らって東進しようとしても、どうしても南よりにしか進めない。真南に向かうことだけは避けたが、日ごとに東に進める距離が減ってきた。十月十一日は東に四十海里進んだが、十月十二日は十五海里になり、十三日はゼロだった。帆走してはいるのだが、経度上は東にはまったく進めていない。十月十四日、三十海里、十月十五日、二十三海里。十月十六日、十一海里。十月十七日になると西の方向に四海里押し戻されてしまう。といった調子で、一週間に百十五海里だけ東に進んだのだが、平均すると一日に十六海里になる。ヒロから西経百二十八度までは経度で二十七度、距離に換算すると約千六百海里もあるのだ*2。一日に十六海里のペースだと、この距離を走破するのに百日かかってしまう。しかも、ぼくらの目的としている西経百二十八度は、北緯五度での話だ。マルケサス諸島のヌクヒバ島は南緯九度で、それよりさらに十二度も西にあるのだ!*3

snark-page136
人食いザメ
[訳注]
*1 太平洋の一般的な海流・貿易風(図は、クリックすると拡大)
map03

海流や貿易風は、強さ/速さや位置を含めて、ほぼ安定しているが、常に同じというわけではなく、局地的にみると変動している。
赤道付近では北側で北東貿易風、南側で南東貿易風が卓越し、それにはさまれたところは両者が収束するように見えるところから熱帯収束帯(低圧帯)とされ、一般に風が弱く、赤道無風帯(ドルドラム)としてヨット航海記にも出てくることがある。季節によって太陽の位置が変わると、この収束帯も南北に移動する。

*2 地球はほぼ球体なので60進法(度・分・秒)と相性がよく、距離の1海里(1852m)はほぼ60の倍数なので、船上での計算では、キロメートルより海里の方が直感的にわかりやすい(船酔い気味の頭でも「比較的」楽に計算できる)。覚えておくと便利なのは、
経度15度 = 時差1時間
赤道での経度1度の距離 = 60海里
速度1ノット = 1時間に1海里進む(= 時速1.8キロ)
風速(時速)1ノット = 風速(毎秒)0.5メートル

*3 風と海流は、ヨットによる外洋航海に大きく影響する。
日本でヨットといえば「太平洋横断」が頭に浮かぶが、これは日本からアメリカへ行くよりも、逆にアメリカから日本に来る方がずっと早いし楽だとされている。
というのは、北米大陸西岸の港を出てから南下し、ほぼ東から西に吹いている北東貿易風帯に入ってしまえば、風速七、八メートル~十メートルの安定した追い風で日本近海まで来ることができるからだ。
おまけに北赤道海流も東から西に流れているので(台風や嵐に遭遇した場合は別として)、ある意味、動く歩道に乗っているようなものかもしれない。
逆に、日本から出発する場合、風向や風速にむらがあり、なかなか安定した風にめぐまれず、黒潮を利用して距離を稼いでも、そのままだと北上しすぎて低気圧の墓場といわれる北太平洋まで持っていかれかねない、、、
ヨットは、原則として、風下方向には自由にコースを選んで帆走できるが、風の吹いてくる方向(風上)にはダイレクトに進むことができないため、ジグザグにタッキングしながら(帆船風にいうと「間切り」ながら)進むことになる。その角度は一般には45度とされている。この角度でジグザグに帆走したとすれば、三平方の定理を使った計算で、帆走距離は約1.4倍になる──というように、セーリングにはベクトルや三角比の初歩的な計算がついてまわる。
いまどきのレース艇は30度くらいまでは上れるが、それにつれて速度が落ちてくるため、スピードと角度のどちらを優先するかは悩ましい問題になる。とはいえ、スナーク号は船型や艤装から推すと、風上への上り性能はせいぜい50度くらいだろうから、本文にもあるように、貿易風にさからって東に向かうのは簡単ではない。にもかかわらず、風下の島に目的地を変更せず、意固地に東へ東へと向かうところがジャック・ロンドンらしいといえばいえる。
「ばっかじゃねえの」という人もいるかもしれないが、そもそも人間とは、ばかなこと、むだなことをする生き物なのだ。

スナーク号の航海 (40) - ジャック・ロンドン著

馬の通れる道といっても、それほど広いわけではない。これを造った技師のように、道自体が何にでも果敢にいどんでいるのだ。ディッチ(水路)は山塊を突き抜け、乗りこえ、峡谷を飛びこえたりしているのだが、馬の道──これからはトレイルと呼ぶが──も、この水路をうまく利用していて、その上を横切ったりしているのだ。この無造作に作られたトレイルは、平気で断崖を上り下りしているし、壁を掘削してできた狭い通路を抜けると、轟音をたてて白い水煙とともに落下している滝の裏側や滝の下に出たりする。頭上は数百フィートもの切り立たった断崖で、足元はと見れば千フィートもの深い谷になっているのだ。ぼくらが乗っているすばらしい馬たちも、トレイルと同様に、そんなことにはおかまいなしだ。足元は雨ですべりやすくなっているのだが、馬の自由にさせておくと、当然のように後ろ足をすべらせたりしながらも駆けていこうとする。このナヒク・ディッチのトレイルについては、豪胆かつ沈着冷静な人しか勧められない。同行しているカウボーイの一人は、ぼくらが宿泊した牧場では一番の勇者だと思われていた。生まれてからずっと、このハレアカラ火山のけわしい西斜面で馬に乗ってすごしてきたのだ。その彼がまず馬をとめた。他の者も当然のことながら前進をやめた。というのも、彼は牛小屋に野生の雄牛が迷いこんでいたら、平気でそれに立ち向かうような男だからだ。彼には名声があった。とはいえ、それまで、このナヒク・ディッチに馬を乗り入れたことはなかった。そうして、彼の名声はここで失われた。髪の毛が逆立つような最初の水路で、それに沿った道は細くて手すりもなかった。頭上で滝が轟音をたてているし、真下には別の滝があって、奔流が何段にもなって落ちている。一帯に水しぶきが舞い上がり、轟音が振動とともに伝わってくる──というようなところで、勇者たるカウボーイは馬から降り、おれには女房も子供もいると言い訳しながら、馬を引きながら歩いて渡ったのだ。

水路が地下深く潜っているところはともかく、峡谷で唯一救いになるのは断崖があることで、そして断崖で唯一救いになるのは峡谷にあるということだ。ぼくらは一度に一頭ずつ、もろくて流されてしまいそうな、左右に揺れる原始的な丸木橋を渡った。白状すると、ぼくは最初にそういう場所に馬で乗り入れるとき、最初のうちはあぶみから足を浮かせていた。垂直な断崖にあぶみが接触しそうになると、意識して足を谷側に寄せ、今度はその足が千フィートも落ちこんでいる谷につき出ているのを見てしまうと山側に寄せたりしていた。「最初のうちは」と断ったが、すぐになれてしまうのだ。クレーターの中ですぐに大きさの感覚が麻痺してしまったように、ナヒク・ディッチでも同じことが起きた。そのうち、ぼくらは深い谷について心配しなくなった。とほうもない高さと深さが延々と繰り返されているところでは、そういう高さも深さも普通に存在するものとして受け入れるようになる。そして、馬上から切り立った崖下を見ても、四、五百フィートは普通で、スリルがあるとも感じなくなってしまうのだ。トレイルにも馬にも無頓着になったぼくらは、目もくらむような高いところを通ったり、落ちこんでいる滝を迂回したり突き抜けたりして進んでいった。

とはいえ、なんという乗馬体験だろうか! いたるところで水がふりそそいでくる。ぼくらは雲の上や雲の下を、さらには雲の中を馬に乗ってつき進んだ。ときどき日が差し、眼下に口を開けた峡谷や火口縁の高さ何千フィートもある鋒が照らしだされたりした。道を曲がるたびに、一つの滝、あるいは一ダースもの滝が空中に何百フィートも弧を描いて流れ落ちている光景が目に飛びこんでくる。キーナ渓谷で最初の宿営をしたのだが、そこから見えるだけで滝の数は三十二もあった。この荒野では、植物も繁茂していた。コアとコレアの森があったし、キャンドルナッツの木もあった。オヒアアイと呼ばれる木もあったが、これは赤いマウンテンアップルの実をつけていた。豊潤で果汁も多く、食べてもうまい。野生のバナナもいたるところで育っていて、峡谷の両側にしがみついていた。トレイルのいたるところで、熟した果実の大きな房が落ちて道をふさいでいた。森の向こうには樹海が広がっていて、多種多様なつる性植物が、あるものは一番上の枝から茎を軽やかに宙に伸ばし、あるものは巨大なヘビのように木々にまきついていた。エイエイと呼ばれるツル性植物はとにかく何にでも登っていき、太い茎を揺らして枝から枝へ、木から木へと伸びていっては、自分が巻きつくことで当の木々を支えているといった格好だった。樹海を見あげると、頭上はるかに木生シダが群葉を広げ、レフアの木が誇らしげに赤い花を咲かせている。ツル性植物の下では、数は少ないが、米国本土では温室でしかお目にかかれないような珍しい暖色系の奇妙な模様をした植物が育っていた。つまり、マウイ島のディッチ・カントリー自体が巨大な温室のようなものなのだ。なじみのある多種多様なシダ類が繁茂し、小さなクジャクシダのようなアジアンタム属のシダ類から、もっと大きくて繁殖力旺盛なビカクシダなど、あまりなじみのないものまで、さまざまな種が入り乱れていた。このビカクシダは林業作業者にとっては厄介きわまりなくて、さまざまにからみあっては巨大化し、五、六フィートの厚さで数エーカーもの広さをおおいつくしてしまうのだ。

二度とできないような体験だった。これが二日続き、やっとジャングルを抜けて普通の起伏のある土地に出た。実際に荷馬車が通る道をたどり、ギャロップで駆けて牧場まで帰り着いた。こんなにも長くて厳しい旅の最後に馬を駆けさせるのは残酷だとわかっていたが、抑えようと必死にたずなをしめても無駄だった。ここハレアカラで育った馬は、そういうものなのだ。牧場では、牛追いが行われ、焼き印をつけたり、馬を調教したりする楽しい行事があった。頭上ではウキウキウとナウルが激しくせめぎあい、そのまたはるか上方には、陽光をあびた壮大なハレアカラ火山の頂上がそびえていた。

snark-page131
羊毛のような貿易風の雲が、ウキウキウに駆りたてられて割れ目からわき上がっては消えていく。

スナーク号の航海(39) - ジャック・ロンドン著

ぼくらは火口壁を登り、ちょっと無理かなと思われるところまで馬を乗り入れた。岩を落下させたり、野生のヤギを撃ったりした。ぼくはヤギは狙わなかった。しょっちゅう岩を落下させていたからだ。ある場所のことは今でも忘れない。そこでは、馬ほどの大きさの岩を落下させてしまったのだ。ぐらぐらしていて簡単に転がりだしたが、途中でとまりそうになった。と、岩は二百フィート(約六十メートル)も宙を舞った。火山礫の斜面にぶつかり、くだけたり割れたりしながら小さくなっていく。驚いたジャックラビットが猛ダッシュで黄色の砂塵をまきあげながら逃げていくようだった。だれかが岩がとまったと言ったのだが、割れて小さくなっただけだった。つまり、岩は転がりながら割れていき、上からは見えないほど小さくなってしまったのだ。それほど遠くまで転がって行ってしまったというわけだった。とはいえ、まだ転がっているのが見えると言う者もいた──ぼくだ。あの岩はいまもまだ転がりつづけていると、ぼくは信じている。

クレーターですごした最後の日、ウキウキウが強くなった。ナウルを押し返し、太陽の家を雲でおおいつくしたので、ぼくらも雲に飲みこまれてしまった。ぼくらの雨量計は、テントの小さな穴の下に置いた半リットルほどの容量のカップった。この嵐の夜に雨水でカップが一杯になり、毛布の上にまでこぼれてきたので、それ以上は降雨を測定できなかった。雨量計は使えなくなったし、もうここにとどまっている理由もない、というわけで、ぼくらは夜明けの湿っぽい薄暗がりのなかでキャンプを撤収し、溶岩が流れた跡を東にあるカウポ・ギャップへと向かった。火口縁にできた巨大な割れ目から雲がわいているところだ。東マウイは、はるかな昔、カウポ・ギャップを流れて落ちていった膨大な溶岩流そのものでできていた。この溶岩流の上を進んだのだが、海抜六千五百フィート(約二千メートル)の高地から、あるかないかの道をたどりながら、ゆっくり降りていく。これは馬にとっても一日仕事だった。危険な場所で安全を確保するため、急がず、あわてず歩をすすめ、そうやって平坦地に出ると、馬は駆けだす。道がまた悪くなって駆けられなくなるまで、馬をとめようとしても無駄だったし、いつとまるかは馬自身が判断した。馬たちはそうやって来る日も来る日もきつい労働をしてきたのだ。ぼくらが眠っている夜に草を探して食べていた。そうやって苦労しながら、その日は二十八マイルも進み、仔馬の群れのようにハナに駆けこんだ。ハレアカラ火山の風下側の乾いた土地で育った馬も何頭かいて、蹄鉄をつけたことのない馬も含まれていた。一日中ずっと、蹄鉄をつけず、背中には人間という余計な重量物を乗せて、ぎざぎざした溶岩の上を進んだのだったが、そういう馬のひづめは蹄鉄をつけた馬のひづめよりも状態がよかった。

カウポ・ギャップと呼ばれる山塊の割れ目が海に落ちこんでいるヴィエイラスとハナとの間を通過するのに半日かかった。が、そこの景色は一週間、いや一カ月かける価値があるほどすばらしかった。荒々しく美しい。とはいえ、ハナとホノマヌ渓谷の間にあるゴム園の向こうに広がっている不思議な世界に比べれば、色は淡く、規模も小さい。そのすばらしい土地はハレアカラ火山の風上側にあるのだが、そこを踏破するのに二日もかかった。地元の人々は「ディッチ・カントリー(水路の国)」と呼んでいる。あまり魅力的な名前とは言えないが、その呼び方しかないのだ。観光でここまで来た人はだれもいないし、ぼくら以外にそれについて知っているよそ者もいない。仕事でやってくる一握りの男たちを別にすれば、だれもマウイのこのディッチ・カントリーのことは聞いたことがないのだ。とはいえ、水路は水路であるし、泥だらけだし、ここを横切るのは面白くもなく、景色も単調だろうと思われるのだが、どうして、このナヒク・ディッチはそんじょそこらの用水路とは違うのだ。ハレアカラ火山の風上側は切り立った断崖になっていて、そうした断崖から無数の水流が奔流となって海まで流れ落ちている。海までの間に大小無数の滝ができていた。ここの降水量は世界のどこよりも多く、一九〇四年の降水量は四百二十インチ(約一万ミリ)だった。水といえばサトウキビの栽培に不可欠だが、それでできる砂糖がハワイの屋台骨を支えているのだ。ナヒク・ディッチと呼ばれる水路は単なる一本の用水路ではなく、水路網になっていた。水は地下を流れ、山峡を飛びこえるときだけ出現する。目もくらむような峡谷の上を空高く放出されて対岸の山肌に飛びこんでいく。このすばらしい水路が「ディッチ」と呼ばれているのだが、これはクレオパトラの金色に輝く豪華船を貨車と呼ぶようなもので、その真の魅力を示してはいない。

snark-page127
底なしの穴へと続く道を進む

この水路の国では馬車の通れるような道はない。ディッチが造られる前、あるいは掘削される前には、馬が通れる道もなかったのだ。肥沃な土壌にふりそそぐ年間何百インチもの降水と熱帯の日差しを受けて、植物が流れに沿って生い茂るジャングルを作り出しているのだ。徒歩でここを切り開きながら進むとすれば一日に一マイルくらいは進めるだろうが、一週間もすれば疲労困憊してしまう。自分が切り開いてきた道が植物に覆い隠されてしまう前に戻りたいと思えば、はってでも急いで戻らなければならないだろう。オーショネッシーはこのジャングルと渓谷を征服した勇気ある技師だったが、この水路と馬の通れる道を造ってくれた。コンクリートと石で、世界的にも注目に値する灌水施設を造り上げたのだ。小川や水の流れるところから地下水路で水が主水路まで運ばれる。降水量が非常に多いときには、余分な水は無数の放水路から海へと流れこんでいく。

snark-page129
幅一マイル半もある割れ目にクサビ状になって進入してくる雲。その向こうに見えているのは正真正銘の海だ。

スナーク号の航海 (38) - ジャック・ロンドン著

その昔、島で放牧されていた牛を夜間に囲っておくために使われた石囲いの中で ビーフジャーキーとかためのポイで昼食をとった。半マイルほどクレーターの縁を迂回してから、火口の中へ降りていく。火口底は二千五百フィート(約七百五十メートル)下にあり、そこに向かう急な斜面に火山灰が降り積もっている。馬は足をすべらせそうになったり、ずり落ちそうになったりもしたが、足どりはしっかりしている。黒っぽい火山灰の表面が馬のひずめで踏み割られると、黄土色の酸性の粉塵がはげしく舞い上がって雲のようになった。運よく見つけた風穴の入り口まで、平坦なところをギャロップで駆けていく。火山灰の雲に包まれながらも降下は続いた。噴石丘のある一帯では灰が風に舞った。噴石丘はレンガ色をしているが、古いものはバラ色だったり、紫色がかった黒だったりした。荒れた海の大波のような無数の溶岩流をこえ、くねくね曲がった道を進んだ。が、いつのまにか頭上はるかに火口壁がそそりたっている。溶岩流はかちかちに固まっていたが、荒海の波のようにノコギリの歯状になっていて難儀した。どちらの側にもぎざぎさした壁や噴気孔があり、すばらしい景観を形成していた。ぼくらがたどっている踏み跡は昔できた底なしの穴に向かっていたが、一番新しい溶岩流がそれに沿って七マイルも続いていた。

クレーターの一番低い方の端にあるオラーパとコーリアの木が茂る小さな林でキャンプした。千五百フィート(約五百メートル)もの垂直に切り立った火口壁の根元で、クレーターの縁から少し離れたところだ。ここには馬が食べる牧草はあるが水がない。それで、まずぼくらは道をそれて溶岩流を一マイルほども横切り、水があるとわかっているクレーターの壁のくぼみのところまで行った。水たまりはカラだった。しかし、割れ目を五十フィート(約十五メートル)ほども登ると、ドラム缶八本分ほどの水たまりが見つかった。手桶でくみ出すと、この貴重な水は岩を伝って下の水たまりに滴り落ちた。そこに馬が集まってくるので、カウボーイたちはそれを追い返すので忙しかった。というのも、狭くて一度に一頭しか飲めないからだ。それから壁の根元ぞいにキャンプ地まで戻った。野生のヤギの群れが集まってきて騒々しい。テントを立て、ライフルをぶっぱなした。食事のメニューはビーフジャーキーとポイに子ヤギの焼き肉だ。火口の上空、ぼくらの真上に、ウキウキウに吹き流されてきた雲海が広がっている。この雲の海はたえず頂上にさしかかり、それを乗りこえて進もうとするのだが、月はずっと見えていたし、雲に隠されることはなかった。というのも、火口の上空にさしかかった雲は、火口からの熱で消えてしまうからだ。月あかりの下でのたき火に魅せられたのか、クレーターに住み着いている牛がのぞきこむ。下草にたまった露くらいしかなくて、水はほとんど飲んでいないはずなのだが、よく肥えていた。テントのおかげで、夜露をしのげる寝室が確保できた。疲れを知らないカウボーイたちが歌うフラの歌を聞きながら、ぼくらは眠りについた。連中にはたしかに勇敢な先祖たるマウイの血が脈々と流れている。

太陽の家をカメラで再現することはできない。撮影した写真が嘘をつくわけではないが、すべての真実を語っているわけでもない。コオラウ・ギャップと呼ばれる割れ目は網膜に映ったとおりに忠実に再現されているが、写真ではどうしても、あの圧倒的なスケール感が伝わってこない。高さ数百フィートに見えるこうした壁は数千フィートもあるのだ。そしてそこから侵入してくるクサビ状になった雲は、割れ目の幅いっぱいに一マイル半も広がっているし、この割れ目の向こうには本物の海があるのだ。噴石丘の表面や火山灰の外見は形が崩れて色もないように見えるが、実際は赤レンガ色、赤褐色、バラ色と色彩も変化に富んでいる。それに、言葉でもうまく表現できないし、ちょっとむなしい。火口壁は二千フィートもの高さがあると言葉で表現すれば、ちょうど二千フィートの高さということになるが、火口壁には単なる統計上の数字をこえた、圧倒的な量感があるのだ。太陽は九千三百万マイル離れたところにある。が、われわれのように死すべき存在にとって、実感としては隣の郡の方が太陽などより遠くにある気がする。こうした人間の脳の弱点は太陽に対してひどくなるし、太陽の家に対しても同様だ。ハレアカラ火山を何か代わりになるものを使って伝えることはできない、美や驚異という人の魂に向けてのメッセージを発しているのだ。コーリコリはカフルイから六時間のところにある。カフルイはホノルルから一晩船に乗れば行ける。ホノルルは読者諸君がいるサンフランシスコから六日のところにあるのだ。

snark-page123
半マイルほど下方に見える火口底の墳石丘。小さいもので高さ四百フィート(約百二十メートル)、最大のものは九百フィート(約二百七十メートル)ある。

snark-page125
運よく見つけた風穴の入り口まで、平坦なところをギャロップで駆けていく

スナーク号の航海 (37) - ジャック・ロンドン著

また朝になり、ブーツをはき、馬に乗り、カウボーイと荷馬を伴って頂上に向かった。荷馬は五ガロンの袋を左右に振り分けて合計二十ガロンの水を運んだ。クレーターの縁から数マイル北東の地域は世界のどこよりも大量の降水があるのだが、クレーターの内側にはほとんどないので水は貴重なのだ。上方に続く道は無数の溶岩流をこえていて、道の痕跡などは残っていないが、十三頭の馬はこれまで見たことがないほど見事に歩を進めた。馬たちはシロイワヤギのように着実かつ冷静に垂直な場所を上ったり下ったりしたが、一頭も落ちたりためらったりはしなかった。

人里離れた山に登る人々がみな体験する、よく知られた奇妙な錯覚がある。それは高く登るほど、広範囲の景色が見えるようになのだが、登る側からすると水平線が上り坂の向こうに見えるのだ。この錯覚はハレアカラ火山で特に知られている。というのも、古い火山が海から直接にそびえていて、周囲に壁や続いているエリアがないためだ。そのため、ハレアカラ火山のおそろしいほどの斜面を一気に登っていくと、ハレアカラ火山自体も自分たちも、周囲にあるものすべてが深い奈落の底に向かって沈みこんでいるような気がしてくる。自分たちより上に水平線があるように思える。海は水平線から自分たちの方へと下ってきているように見える。高度を上げるにつれて、自分たちが沈みこんでいき、はるか頭上は空と海が出会う水平線まで続く急激な登り勾配になっているように感じられる。薄気味が悪く、現実のものとも思えないが、北極海の水が地球の中心に流れこんでいるシムズ・ホールや、ジュール・ベルヌが地球の中心に向かって旅したときに通った火山のようだという思いが脳裏をよぎった。

そうこうしているうちに、とうとうこの巨大な山の頂上に達した。頂上は宇宙の大きな穴の中心に逆さにして置いた円錐の底のようだった。ぼくらの頭上はるかで、水平線が天となってぐるりと取り囲み、山の頂上があるはずのところは、ぼくらのはるか下方にあり、そこに深くくぼんだ巨大なクレーターとなっている太陽の家があった。クレーターの壁は二十三マイルも延々と続いている。ぼくらはほぼ垂直な西側の壁の端に立っていたのだが、クレーターの底は半マイルほども下にあるのだった。底部は溶岩流が噴出した噴石丘になっている。燃え盛る炎の消えたのがつい昨日のように赤くて、露出したばかりで浸食されていないようにも見えた。この墳石丘は小さいもので高さ四百フィート、大きいもので九百フィートあり、よくある砂丘のようにも見えるのだが、できたときの激しさはすさまじいものだったろう。深さ数千フィートもある二本の割れ目がクレータの縁にできていて、この切れ目を通して、ウキウキウが貿易風の雲を進入させようと無駄な努力をしている。この切れこみからうまく入りこんだとしても、クレーターが熱いために薄い大気に消散してしまい、どこにもたどり着けないのだ。

snark-page118
石がこいの中で、ビーフジャーキーとタロイモを蒸して作ったポイで昼食をとる

広大だが、わびしく荒涼とし、けわしくて人を寄せつけないが、それでも魅了されずにはいない、というような景観だった。ぼくらは火と地震が由来する場所を見おろしていた。眼前に地球のあばら骨がむきだしになっていた。天地創造のときから自然はここで作られてきたのだ、と思わせるようなところだ。あちこちに、原始の地球のころの岩でできた巨大な堰があり、地球という鉢から溶けた岩石が一直線に流れ出て、ついさっき冷却したばかりのようだった。とても現実のものとは思えないし、信じられない。見上げると、頭上はるかに(実際には、自分たちより低いところに)ウキウキウとナウルによる雲のせめぎあいが展開されている。奈落のような斜面を目で登っていくと、雲のせめぎあいのさらに上空に、ラナイ島とモロカイ島が浮かんでいる。クレーターの南東方向には、やはり上にあるように見えるのだが、青緑色の海がある。その向こうにハワイの海岸に押し寄せる白い波が見えている。貿易風による雲の列の先に、八十マイルほど離れた空のかなたに、冠雪した巨大なマウナケア山とマウナロア山の頂上が天の壁よりさらに上方にそびえている。

伝説によれば、はるか昔、現在の西マウイにマウイという名の男が住んでいた。男の母親はヒナと呼ばれていたが、木の皮でカパと呼ばれる布を作っていた。作るのはいつも夜だ。昼間はカパを天日に干して乾燥させなければならないからだ。来る日も来る日も朝になると、母親は苦労して木の皮でこしらえた布を日光に当てた。しかし、太陽は速足で通りすぎてしまうため、すぐに夜になり、しまいこまなければならなかった。というのも、当時は昼の時間が今より短かったからだ。マウイは母親のむくわれない努力を見ていて気の毒に思い、どうにかしてやろうと決意した。むろん、カパを吊るしたり、とりこむのを手伝うということではない。もっと根本的な解決を求めたのだ。つまり、太陽の運行をもっと遅くしようとしたのだ。おそらく彼はハワイで最初の天文学者だった。島の各地で太陽を観察した。そこで得た結論は、太陽はハレアカラ火山の真上を通るということだった。ヨシュアと違って、彼は神に助けを求めなかった。大量のココナッツを集め、繊維を編んで丈夫なヒモを作り、現代のハレアカラのカウボーイがするように一方の端に輪をこしらえた。それから太陽の家に登り、寝ながら待った。太陽が顔を出し、いつもの道を一気に駆け抜けようとしたとき、この勇敢な若者は太陽から出ている最も強く最も幅広い光束に投げ縄をかけた。太陽の速度はいくぶんか遅くなり、太陽の光束はちぎれて短くなった。それでも彼はロープを投げては光束をちぎりとり続けたので、とうとう太陽がこらえきれず、なぜそんなことをするのかと問うた。マウイは講和の条件を示した。太陽はそれを受け入れ、以後、もっとゆっくり運行することに同意した。というわけで、ヒナはカパ布を乾かすのに十分な時間を確保できるようになったが、これが今の方が当時より昼間の時間が長くなっている理由なのだ。この言い伝えは現代の天文学の教えとも一致している。

snark-page121
クレーターの縁で

スナーク号の航海 (36) - ジャック・ロンドン著

第八章

太陽の家

 たえず動きまわる精霊のように、海や陸の絶景や自然の驚異や美を求めて地球上を旅している多くの人々がいる。そういう人々はヨーロッパにあふれている。フロリダや西インド諸島、ピラミッドやカナディアンロッキーやアメリカのロッキー山脈でも出会うことがある。とはいえ、そういった人々は、この太陽の家では絶滅した恐竜のように稀だ。ハレアカラは「太陽の家」という意味のハワイの言葉だ。壮大な景観の地で、マウイ島にあるのだが、これを眺めてみようという観光客は少ないし、現地まで自分の足で行ってみようとする人はもっと少ない。ほぼゼロだ。だが、自然の美や驚異を求める自然愛好家であれば、ハレアカラ火山では、他のどこにも勝るとも劣らない、すごいものが見られると、あえて言っておこう。ホノルルへは、サンフランシスコから汽船に乗って六日で着く。マウイには、ホノルルから一晩の船旅で着いてしまう。さらに六時間もあれば、海抜一万三十二フィート(約三千五十五メートル)の太陽の家の入口まで行ける、急いだらの話だが。観光客はそこまでは来ないし、ハレアカラ山の斜面には人のいない壮大なパノラマが展開されている。

ぼくらは観光客じゃないので、スナーク号でハレアカラまで行った。この怪物のような山の斜面には、五万エーカー(約二百平方キロ)ほどの牛の牧場があり、ぼくらは高度二千フィートのその場所で一晩すごした。翌朝、ブーツをはき、馬に乗って、カウボーイや荷馬と一緒にウクレレまで登った。ウクレレという名の山荘で、標高五千五百フィート(約千六百七十メートル)のところにある。気候は温暖だが、夜には毛布が必要だし、居間の暖炉には火が焚いてある。ところで、ウクレレというのは、ハワイ語で「ジャンプするノミ」のことだが、ギターを小さくしたようなハワイの楽器でもある。この山荘は楽器の方にちなんで命名されたのだろう。ぼくらは急いでいるわけではないので、その日をウクレレですごし、高度と気圧計について知ったかぶりの議論をし、論拠を証明する必要があるときには気圧計を振りまわしたりした。ぼくらの持っている気圧計は、いままで見たなかで最も優雅で頑丈な道具だ。また、ぼくらは山に自生しているラズベリーを摘んだ。ニワトリの卵かそれより大きなやつだ。ぼくらのいるところから四千五百フィート上にあるハレアカラの山頂まで牧草におおわれた溶岩の斜面が続いていて、それを眺めたり、明るい陽光をあびたぼくらの足元に広がる、雲の激しいせめぎあいを眼下に見てすごした。

snark-page114
五ガロンの袋に分け入れた二十ガロンの水を荷馬で運ぶ

このはてしない雲のせめぎあいは毎日続いている。ウキウキウというのが、北東から吹きこんできてハレアカラにぶつかる貿易風の呼び名だ。ハレアカラ火山はとても巨大で標高も高いため、貿易風はこの山を迂回することになる。そのため、ハレアカラの風下側では、貿易風はまったく吹いていない。それどころか、北東の貿易風とは反対方向の風が吹いている。この風はナウルと呼ばれている。昼も夜もたえずウキウキウとナウルはぶつかりあい、優勢になったり劣勢になったり、脇にそれたり曲がったり、渦を巻いたり旋回したり、よじれたりしている。この風が衝突する様子は、そこで湧き出た雲同志のせめぎあいとして見ることができる。この山岳の周囲に雲が押し寄せ、ぶつかりあっているのだ。ときには、ウキウキウが強い突風となって、ハレアカラ山頂にかかる巨大な雲を吹き払ってしまうこともある。ナウルがそれをうまく利用して新しい雲の戦隊を編成し、古くからの永遠の好敵手を打ち負かしてしまうこともある。ウキウキウは山の東側に巨大な雲を送りこみ、側面からまわりこむ。しかし、ナウルは風下側の隠れ家から、側面の雲を集めては引きこみ、ねじったり引きずったりして編隊を整えて、山の西側周辺からウキウキウに対抗する。その間ずっと、海へと続いている斜面の高いところにある主たる戦場の上でも下でも、ウキウキウとナウルはたえず雲同志の小競り合いを繰り返しているのだが、そうした雲は木々の間や渓谷を抜けて地面に広がり、いきなり互いに襲いかかったりするのだ。ウキウキウとナウルがふいに巨大な積雲を作り出し、あちらこちらでの小競り合いを飲みこみ上空高く舞い上げて、何千フィートもの垂直に伸びた巨大な渦を作ることもある。

とはいえ、主たる戦闘が続くのはハレアカラ火山の西側斜面である。ここで、ナウルの雲は最大になり、圧倒的な勝利をおさめる。ウキウキウは午後遅くになるにつれて弱くなる。貿易風にはそういう傾向があり、反対側から吹いてくるハウルのために吹き払われてしまうのだ。ナウルの方が卓越するようになる。ナウルは終日、雲を集めては送り出しているのだ。午後も進むにつれて、はっきりとした積雲ができ、先端は鋭さを増し、長さ数マイル、幅も一マイル、厚さ数百フィートにも達する。この巻雲は少しずつ前進してウキウキウとの戦闘に参加してくるため、ウキウキウは急速に弱まって雲散霧消してしまう。しかし、いつも簡単に白旗をあげているわけではない。ウキウキウが荒れ狂い、無限ともいえる北東風の支援を受けて雲が次々に誕生し、ナウルの積雲を一気に半マイルも撃退し、西マウイの方まで一掃してしまうこともある。この二つの勢力が入り混じってしまい、その結果として一つの巨大な垂直にのびた渦ができ、それが空高く何千フィートも積み重なって、ぐるぐるまわることもある。ウキウキウの本流が雲を低く密集させ、地面近くからナウルの下部にもぐりこむように前進させる。ナウルの巨大な中央部はその一撃を受けて上昇するものの、通常は押し寄せてきた雲を押し返して粉砕してしまう。そうして、その間ずっと、あちこちで小競り合いをしていた迷い雲や切り離された雲が木々や谷間を抜けて草地を進み、いきなり出くわして互いに驚くことになる。はるか上空では、沈みゆく太陽の穏やかだがものさびしい光をあびたハレアカラ山が、この雲の衝突を見おろしている。そうやって夜を迎える。だが、朝になると、貿易風はまた勢いを取り戻し、強い風を集めたウキウキウがナウルの雲を押し戻し、敗走させる。来る日も来る日も、そんな雲のせめぎあいが続く。ここハレアカラ山の斜面では、ウキウキウとナウルが永遠に競いあっているのだ。