米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第152回)
美果が実る南洋の島 一、ロムボク海峡
八月二十七日に汽走をやめて、勢いのある南東貿易風に総帆(そうはん)を展開した練習船は、昼は海洋(うみ)のひょうきん者のトビウオを伴侶(とも)とし、夜は南十字星(サザンクロス)やオリオン座のさやけき星光(せいこう)に輝くノクチフホリスの海を眺めて、すこぶる平穏で刺激のない航海を続けた。
しかし、一瞬の安らぎも許さぬ海洋(うみ)の変化は、この貿易風帯の航海にも長く続く平穏を与えてはくれず、南東の恒常風(こうじょうふう)が強東風に偏向するに及び、船の針路は世にも物騒(ぶっそう)なものとなり、いかに「一杯開き」にしても、とうてい北オーストラリアの突角(とっかく)を右にまわれそうもない姿となった。
* 水色の点線が当初予定の進路。
こういうときには決まって根拠のない憶測や噂話が飛び出すもので、ロムボク海峡を通過してジャワのスラバヤに寄港するだろうとか、セレベスのマカッサに錨を投(い)れるだろうという者があれば、いや違う、スンバワのビマ港だと打ち消す者がある。勝手気ままの憶測が勝手気ままに勢いに乗って横行する。
九月四日に総帆(そうはん)をたたんで汽走に移るとき、一等航海士が訓示した。最後の寄港地たるアムボイナに着く前に、都合でスンバワ島のビマ港にちょっと立ち寄ると……。
九月五日。午前八時半にヌザボンディテ島を左舷船首(バウ)二点に見る。続いて、右舷船首(バウ)にロムボク島を。
本船は今、かの有名なウォーレス線(アジア系とオーストラリア系の動植物分布の境界線)が通っているロムボク海峡にさしかかっている。
この海峡は、それ以外にもさらに、深い水深(平均二百メートル余)と強い南方海流(一時間に三海里の流速)とで有名である。
ことに、その海流の勢いはものすごく、音を立て波(リップル)を生じさせて狭い水道を南に力強く流れ出ているため、本船は折からの風を利用し、六枚のトップスルを展(か)けて、ようやく無事に通過することができた。
ウォーレス線の発見者たるウォーレス博士は、かのダーウィンと並び称される世界の二大博物学者で、一八五四年にマレー群島に渡航し、前後八年にわたって、七十五にあまる現地の方言の研究から、人種学上の関係を推理し、大型の類人猿や極楽鳥(ごくらくちょう)の習性から両大陸系の動物の分類を試みた結果、ついに一八五八年、ターネイトにおいて、かの有名な論文 “On the tendency of varieties to depart indefinitely from the Orginal type”(原種から無限に逸脱する変種の傾向を論ず)を上梓(じょうし)するに到った*。
* 上梓するは「出版する」という意味ですが、ここでは、著書ではなく、生物学・博物学の研究を推進しているリンネ協会発行の動物学専門誌に掲載された論文を指すようです。
ちなみに、ウォーレスは生涯に747篇の論文を書き、22冊の本を発表しています。
二、ビマの水郷
なるほど、いるわ!! いるわ!! ようやくの思いで多年渇(かつ)えておったその好奇的欲求を満足させたというように、うちさわぐ人々の視線を追って、眼(まなこ)を右岸のヤシ林にそそぐと、昔、子供のときに絵草紙でよく見た赤鬼のように、素焼(すや)き色をした頑丈な身体(からだ)にギラギラする熱帯の太陽を照りつかせながら、申し訳程度に腰の周囲(まわり)に怪(あや)しげな赤い布を巻きつけただけの「南洋の住民」が……。
ビマのシャンペイ(物々交換にやってきたカヌー)
太い竹竿(たけざお)でこしらえたすのこのようなものをかついだ者、巨大な斧を片手にさげた者……その数、約半ダースばかり。練習船が狭いビルマの水道に入りつつあるときの出来事である。
両岸には、実によく茂った、名も定かならぬ濃緑の熱帯樹が森々(しんしん)と立ち続いて、油を流したように重く静かなる湾内の水に蒼黒く影をひたし、それが雲か山かとばかり脈々と連なる端に、強い光線(ひかり)に照らされて、ビマの静かな茅葺(かやぶ)きの町はたたずんでいる。
アムボイナ港(バンダ海、インドネシア)
大航海時代、香料諸島と呼ばれたモルッカ諸島に属するアンボン島にある。
ついぞ見知らぬ変な鳥が、深紅の翼を翻(ひるがえ)して船の周囲(まわり)を飛んでいる。極楽鳥かもしれない。