米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第146回)
級友二人を失う
六月二十日。海洋(うみ)の雄大な美は、依然として、その色彩を増し、船の動揺(ローリング)は依然としてその鋭い矛(ほこ)を収(おさ)めないが、うららかな太陽がのどかな南インド洋の雲に映って、久しぶりに心の平安と身体に倦怠(けんたい)とを覚えるような、好日和(こうひより)である。
悲しい雨に泣き、むごい風に痛めつけられながら、恐るべき猟犬の噛みつき食いちぎろうとする歯から逃れた雌鹿(めじか)のように、身を戦慄(ふる)わせて南大西洋のシケから逃れ出た練習船は、静かに、濡(ぬ)れしおれた黒い帆を、穏やかな光線(ひ)に乾かしながら、受けた創痍(きず)を、安らかなる南インド洋の懐(ふところ)に養っている。
この一月半(ひとつきはん)の惨憺(さんたん)たる航海を回想すれば、そぞろに身震(みぶる)いするような畏怖(いふ)の念が全身に行き渡るのを感じる。
雄大なる自然の侵略に対する人間の悪戦苦闘の活演劇! 一月(ひとつき)にわたって光線(ひ)を見なかった苦しい航海! 一週間にわたって艙口(ハッチ)をずっと閉鎖していた辛(つら)い航海! 雨として海洋(うみ)に下るべき使命を授かった水のしずくが、途中で理不尽(りふじん)にも雪となり、みぞれとなり、あられとなって、甲板上を白く冷たくおおった寒い航海。憂(う)きことのなおこの上に積もれかし*などと、こたつで寝そべりながら気楽な戯言(ざれごと)をほざいた先人ののんきさをのろいたくなる現実の、その苦しさ! そのつらさ!! その寒さ!!
* 「憂きことのなおこの上に積(つも)れかし 限りある身の力試(ため)さん」は、江戸時代の陽明学者、熊沢蕃山(1619年~1691年)の歌とされる。
「つらいことがさらに多くこの身にふりかかってこい、命に限りがある身ではあるが、自分の力をためしてみよう」というほどの意味。
蕃山は陽明学者・中江藤樹に師事し、十代で岡山藩に出仕。治山治水や藩政改革を進めて重用されたが、守旧派に追い出され、私塾を開いた京都でも、その影響を懸念した京都所司代に追放された。その後、江戸幕府から出仕を乞(こ)われたが拒否し、幕政改革案を上申したりしたため、北関東の古河藩に幽閉され、その地で没した。
かくして、あくまでも傷ついた船に、こうしてあくまでも疲れたる船に、悪魔の黒い手は無残にもその侵略を始めた。
忌(い)むべき脚気(かっけ)病*の跳梁(ちょうりょう)、これである。
* * 脚気(かっけ) ビタミンB1の欠乏による病気で、末梢神経や心臓の機能に障害が起き、手足のしびれやむくみなどの症状が出る。心不全を起こして死に至ることもある。
膝の下をたたいて足がはねるか否かを調べる脚気の検査は、かつてお笑いのコントにも使われるほどポピュラーで、庶民が玄米ではなく白米を食べるようになった明治・大正時代、結核と並ぶ二大国民病といわれた。
現代でも偏食をする人に見られる。肉を食べる欧米ではほとんどみられない。
また、船による長期航海では、洋の東西を問わず、新鮮な野菜や果物が欠乏してビタミンCが不足すると、壊血病が猛威を振るった。船乗りを待ち受ける困難は、嵐をどう乗り切るかだけではなかった。
一人倒れ、二人病んで、船中はいまや七十余人の脚気の患者を生じるにいたった。生鮮食品の欠乏と、連日連夜の対シケとの悪闘の結果、人々の青い顔の面(おもて)には、情けないような、暗い、力のない、醜い色が漂うようになった。
痛々しくも水気を含んで、ぼうぜんと、ふくれた顔や足をなでながら、心寂(こころさび)しくほほえむ者、しびれた腰を重く引き上げながら、虫がはうように甲板(デッキ)を渡る者、実に惨憺(さんたん)たる状況である。
七月十三日。南緯四十度九分、東経七十一度十三分。
南の海の密雲(みつうん)は悲しげに低く甲板(デッキ)に垂れて、寒そうな海はまたもやシケ模様を示している。
忌(い)まわしき脚気(かっけ)の黒い毒手は、この日に至って、その跳梁(ちょうりょう)の極に達し、いたましくも一人の犠牲が、涙とともに永久に我らの間から奪い去られた。
級友(第五十九期生)、倉辻不覇丸(くらつじふきまる)君、その人である。
空は――黒くどんよりとした空は、もうすでに、しめやかに泣いている。
寒い風に吹かれ、冷たい雨にうたれて、黒い帆もまた泣きださんとする十三日の午後一時、船中の名物男「秀才」は、肺水腫(はいすいしゅ)を併発した脚気衝心(かっけしょうしん)*で、わずか三ヶ月ほど後の暖かい故山(こざん)の抱擁をも待たず、ついにむなしくなった――人も泣き、黒き帆も泣いて、万有はみな憂愁(うれい)に沈んだ。
* 脚気衝心(かっけしょうしん) 脚気に伴って心不全となること。数日で死に至ることもある。
翌十四日、我らは海軍礼式によって、この美しい春秋と有為(ゆうい)なる未来とを有する惜しい才を、水深き南インド洋のサンゴの墓に葬ろうとして、荘厳(そうごん)にして悲愁(ひしゅう)なる水葬式が、「命を捨てて」の哀しい曲と、三発の弔銃(ちょうじゅう)との間に行われた。ぼくは、故人が生前に好きだった「藤村詩集」をせめてもの心やりに一緒に葬(ほうむ)ってやった。
人を呑みこむ病魔は飽くことを知らず、巨人の魔手は深くわが練習船に祟(たた)って、昨日に一友(いちゆう)を葬った我らは、さらにまた今日、一友(いちゆう)を喪(うしな)うはめになった。
七月三十日、南緯三十二度二十三分、東経百九度五十五分の地点で、「わが魂は如来(にょらい)の御手(みて)にあり……」の遺言(ゆいごん)を名残りに、故友の跡を追った田村蔣(たむらかつみ)君の逝去(せいきょ)は、いかに悲しき印象を我らに残したであろう。
古い哀悼(あいとう)の痛手に悩む胸を抱いて、我らはいまさらに新しい悲哀の涙に暮れざるをえなかった。
日頃、深く仏法に帰依(きえ)している君が、フリーマントルからわずか三百海里(マイル)の海上で、悲しくも不意に倒れたということは、ひしひしと身に迫りきたる、人生に必ずおとずれる哀事(あいじ)に心傾けた船人に、おぼろげながらも偉大なる人生の真の意義と、崇高(すうこう)なる正道(しょうどう)とを暗示した。
天気図もなく、食料事情の悪い帆船の航海がいかに大変なものであったか、想像もできません。ところで下から4行目の「宝教」は美しい言葉ながら原書の「法教」の誤変換ではと思いますが…。
いつも丁寧なご指摘、ありがとうございます。
「法教」ですね。
法教といっても若い人々にはわかりにくいようなので、「仏法」に改めました。