現代語訳『海のロマンス』145:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第145回)

喜望峰付近の天候

一四八六年にポルトガル人のバースロミュー・ディアズによって発見された喜望峰は、はじめはカボ・トーメント(暴風の岬)と命名されたが、暴風(あらし)の岬では縁起が悪い、ぜひとも喜び望む岬に改正(なお)せなどと、王侯の権威をもって、命がけの実験からえた船乗りの尊い印象を踏みつぶし、くだらない字句の改正を施したポルトガル王ジョン*の剛毅(ごうき)をもってしても、ついにその実質はこれを征服することができなかった。

* ポルトガル王ジョアン二世(1455年~1495年)。アフリカ西岸の開拓を行ったエンリケ航海王子(1394年~1460年)の事業を継承した。

そして、今でも、喜望峰と聞けば、驚くべき険悪の強い偏西風が連続して吹き続くところ、肝をつぶすような大きな三角波が立ち騒ぐところとして、世界の海洋でも最大級の難所という先入観を与えるに至ったのは、ジョン王にとっては小気味(こぎみ)よくもあり、喜望峰にとっては気の毒でもあり、船乗りにとってはおかしくもある。

この恐ろしい喜望峰は、南緯三十四度二十二分、東経十八度三十二分、例のテーブルマウンテンを頭部(かしら)に、十二使徒峰(アポストル)を脊髄骨(せきずいこつ)にしたケープ半島が南へ南へと伸びたその突端(さき)に位置している。で、この喜望峰を境界(さかい)として、今まで南に向かっていた南アフリカの西の海岸線は急に東に向かうのは事実であるが、本当のアフリカ大陸の南端は、喜望峰ではなくて、例のアガラス岬というやつである。

すべて、地理的な関係から、岬や鼻や半島などが遠く海洋(うみ)に突き出したところは、風浪が概して険悪のようである。

それは、紀州灘(きしゅうなだ)や玄界灘(げんかいなだ)などの小さいのを見ても、大きなところではケープホーンや喜望峰、西オーストラリア等が、そろいもそろって世界的難所であると言われているのを見てもわかることである。喜望峰は……いうまでもなく岬である。で、すでにこれだけでも跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している上に獰猛(どうもう)なる喜望峰のシケという威厳を加えるにいたっては、二通(ふたとお)り三通(みとお)りならぬ厄介(やっかい)さである。

アガラス海流とは、マダガスカルからアフリカの東岸に沿って南に流れるモザンビーク暖流と、南極方面から東北をさしてまっしぐらに押し寄せる南極海流とが、アガラス砂洲(バンク)の東南線で衝突し、新たに東方に偏流する流れを生じる海流で、ところによっては一時間に実に三海里(マイル)ほどの急潮となることもある。このように、暖流と寒流の二つがぶつかりあい乱れあっているために、その影響はただちに、この辺の大気の気象状態に及ぼして、混乱した濁流(だくりゅう)、紛糾(ふんきゅう)した旋流(せんりゅう)が複雑に干渉しあって、実におそるべき空中の魔所を生み出すのである。したがって、この空中の魔所を吹く風も、例の黒く冷たい魔風であって、しかも、その性質は陰険にしてつむじ曲がりときているから実に危険だ。

Thermohaline Circulation 2

熱塩循環を示す図(出典: NASA Earth Observatory, public domain)
赤い線:暖流、青い線:寒流
熱塩循環: 温度によって海水の密度に差が生じ、その差によって生まれる地球規模の海水の循環。
要するに、この図は、地球規模で大規模な海流が生じる原理を示しています。
南米大陸南端からアフリカ大陸南端周辺の海は、いわゆる「吠える40度」「荒れ狂う50度」と呼ばれる海の難所になっています。これは風をさえぎる陸地が少ないからだけではなく、寒流と暖流が入り乱れていて、そうした海流の影響も大きいことがわかります。
deep water formation = 深層水生成、
deep current = 深層海流、
surface current = 表層海流

黒い、異形の、気味悪い雲間から吐き出された、風力七以上の鋭い偏西風が、ビューッと腹にこたえるような悲鳴を残して、鉛色の海を横柄(おうへい)に吹き渡ってくる。連日連夜、これでも降参しないか、まだこれでも往生しないかと、意地悪く、威嚇(おどか)すように吹き渡ってくる。

夜より昼に、昼より夜に、眠ろうとする意識を励まし、滅びようとする神気(しんき)を叱咤(しった)して、つとめて心身を緊張させた船人(ふなびと)を油断させるように、不意にこの魔の風はハタとやむ。この恐ろしい大気の沈黙がしばらく続いた後、がぜんとして不意打ちする勢いもたけだけしく、南東の突風(ゲール)が急吹(きゅうすい)することがある、つむじ曲がりの本能をむきだしにして。

喜望峰沖の西から吹いてくるゲールの割合は、沿岸地方において六十三パーセント、四十度線(ロアリング・フォーティーズ)付近において七十一パーセントである。ことに喜望峰の冬季のシケは有名なもので、その性質は、多少はサイクロンの気味がある。モーリシャス島の気象所長の研究によれば、この風の偏向は、極地付近にある強大なサイクロンの中心が北上するためで、晴雨計の示度が二九・七五以下になると、すでにシケの兆候を示し、晴雨計の示度が上昇すれば風向は南に偏向し、下降すれば北に偏向するとのことである。温度は七月(冬季)で五十度*前後である。

* 五十度  華氏五十度。摂氏に換算すると、十度。

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