米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第120回)
オビドールのカフェ
一九〇四年の市区改正で、なんでもかんでもパリ式に道を広くしろ、家を高くしろ、やれ古くさい神秘的な歴史や伝説の跡はさっさと打ち壊して、劇場や舞踏場をおっ建てろ、やれ時代遅れのハンサム*や、旧式な四輪車はどこかにうっちゃって、便利な自動車と黒塗りで華やかな軽車にしろなどと息巻いた不風流なリオ人士のうちにも、相当に話せる非現世的の男がないでもなかった。交通機関としてなおいまだハンサムや、ランドウ**やオムニバス***などの古物の存在を寛容しているロンドンの古典的(クラシカル)趣味を、よく咀嚼(そしゃく)せる男もないではなかった。
* ハンサム (hansom):一頭立ての二輪馬車。ミステリーの名探偵シャーロック・ホームズが愛用したことでも知られる。
** ランドウ (landau):四輪馬車。
*** オムニバス (omnibus):乗合馬車。現在のバス (bus)はこれに由来する。
かくして市区改正の過程(プロセス)に伴って起こった文藝破壊主義(バンダリズム)に対抗した有志の人々の奮闘(ふんとう)は、ただ一つの古い町ルア・ド・オビドールの保存となって、今もなお古いリオの歴史的色彩や伝説的な情緒を漂わせている。ところで、この狭いオビドールはリオ市のなかで最もにぎやかで最も大切な町である。ブラジル在住の邦人はこの享楽的色彩の強い町を浅草と呼んでいる。
夕方の五時頃に、この町の陶器製(やきもの)の人道をコツコツと通ってみると、すこぶる刺激の強い特異な色彩に富んでいるのがわかる。ブラジル名物の富くじ売り(ロッテリーウ)がうるさく薦(すす)めるかと思えば、白粉(おしろい)焼けが痛ましく目に映るほどに厚化粧した貴婦人(レディ)が、うっとりと宝石商の窓飾り(ウインドウ)に見とれておったり、夕闇にコーヒーを煎(い)る香りがほのかに匂ってくるコーヒー店で、立派な紳士がはばかるところもなく公然と政治を論じておったりする。実際、このオビドールに軒を連ねているコーヒー店(カフェ)は、時として一国の宰相や要人の国政料理の会議場となることが珍しくないという。
丸いテーブルが塩梅よく随所に配列され、これを囲んで数個の椅子が備えられている。陶器製(やきもの)の床にツルリと足のすべるのを踏みしめて入ると、さっそく若い給仕(ウェイター)が、カステーラと砂糖入れと、伏せたままの茶碗(チャイナ)とを載せた盆を持ってくる。銀製のポットを持ったまま、長剣(レビーア)を呑んだスペイン人よろしくの姿勢で納まり返って立った男が、ピンと威勢よく先が跳ね上がったリスボン髭の顔を頷かせつつ、かしこまった仕草で、初恋のごとく甘く、悪魔のごとくどす黒い——何かの本にあった——例のブラジルコーヒーを注(つ)ぐ。
一種焦(こ)げ臭い植物性の芳香(アローマ)がプンと嗅覚を騒がす。日本で飲んだ手加減から、このくらいでよかろうと、スプーンに三杯目の砂糖を入れたとき、向かい側の一人の仲間が苦いぞ苦いぞ、とてもそんなことでは足らない足らないと眉をひそめ顔をしかめたのには驚いた。
それ注げ、やれ注げで、まだかまだかとさすがの大きな砂糖壺を三人でまたたく間に空にしてしまう。隣におったブラジル人はあきれて見ている。白い制服(ユニフォーム)を着た黄色い男がおかしげな手つきで砂糖壺のお代わりを請求している様子を、盛装したラテン系の、長いまつげと大きな黒目がちな女が不思議そうにぼうとして見ている。
その女が同じコーヒーを、砂糖も入れずに心地よげに味わっていたのを、いわゆるコーヒー通ならぬぼくらは、反対(あべこべ)にあきれて見てやった。たぶんブラジルの女は先天的に苦みを意識する味覚を欠いているのだろうと思って。
上から29行目「スペイン人よろくく」となっています。
こちらの校正ミスです。修正しました。
いつもありがとうございます。
海洋冒険文庫
詳しい注と写真のお蔭で新鮮な読み応えを感じます。
あと残りは1/4程でしょうか。楽しみにしています。