現代語訳『海のロマンス』97:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第97回)

ナポレオンの墓

稲妻のようにジグザグに覇王樹(サボテン)の谷を迂回(うかい)し、屈曲した角石(かどいし)だらけの路は、今日を晴れの日だと清浄(きよ)げに身なりを整えた色黒き案内の好々爺(こうこうや)の指さす杖の先にかすんでいる。混然として白い路と青い峰との溶けあうあたりには、ふわふわと巻雲の浮いているのが見える。

塵(ちり)に埃(ほこり)に汚れた格子柄(チェック)のスカートの裾(すそ)から、見るも痛ましき裸足(はだし)を恥ずかしそうに露わした母娘(おやこ)が、バナナや梨やジンジャー水やソーダ水を路傍(みちばた)の岩の上に並べていた。通行人の同情を待つような、哀願するようなまなざしをこっちに向け、か細い遠慮したような声でジェントルマンと呼ばれたとき、ぼくはただわけもなくコスモポリタンの哀愁(かなしみ)を感じ、少し気が滅入(めい)った。

住みにくき世をののしり、波の上に遠く離れ、過去の追憶(ついおく)と豊熟(ほうじゅく)な自然の恵みとのみに生きうる、浮世(うきよ)から離れた大海の小島にもなお、生存の恐怖がある。葛藤がある。人間の呼吸するところ、凋落(ちょうらく)と失意(しつい)とをまぬがえることはできまい。住みにくい世に住んで、しかも住みやすくくつろごうとする努力も煩悶(はんもん)も不平も自棄(じき)も──すべての情感も衝動も自覚する余裕を持たぬ人々の無頓着(むとんちゃく)なる生活状態を見せつけられたとき、ぼくは悲しく涙ぐむを禁じえなかった。

この辺にあまり見受けないほど白く大きな建物が広々と右のはざまの緑色の中に光っている。セント・ビンセント*とケープタウンと英本国とを連絡する東電信会社の海底電信局だということである。

* セント・ビンセント: カリブ海の南東部にある(南米大陸に近い)小アンティル諸島の島(現在は英連邦加盟国の一つ)。

行けども行けども山道はキクリキクリと鋭く折れ曲がるのみで、容易に頂上に出そうもない。しかし、厳しい暑さがタケノコの皮をはぐように薄らいでゆくのを自覚するのは快(こころよ)い発見であった。ロングウッドはなお一層涼しいと案内者は言う。しかも、それも夏の間だけで、他の季節(シーズン)は、深いうっとうしい狭霧(さぎり)やら肌に迫る寒さやらで、すこぶる不健康的だと付け加える。

だから、ナポレオンもはかなくも早死にしたんだろうと言ったら、ちょっと妙な表情をして、「いやそうではありません。ナポレオンは常に死にたい死にたいと言っておられた」と言い訳した。こんな険しい峰々が連なる小島に住んでおってもやはり郷土を誇りに思い敵愾心(てきがいしん)を持っているのだとしみじみ感じ入った。

*失脚したナポレオンは、一八一五年、イタリア本土と目と鼻の先(現代のフェリーで一時間ほどの距離)にあるエルバ島を脱出して皇帝に復位したが、英独連合軍に敗れ、今度は南大西洋の孤島セントヘレナに流された。
その数年後、五〇歳そこそこの若さで没した(一七六九年~一八二一年)。
死因については現在も、立場によって、病死や毒殺など諸説入り乱れている。

ジェームズの谷(かつてはチャペルの谷と言ったそうだ)を上り、ゼラニウムの谷を隔ててはるかに左の丘にロングウッドの白亜を望んだときの感慨(かんがい)は、わが生涯を通じて、折にふれ事に当たりて不断に思いだされるべきものである、二棟の白い家がしょんぼりした風に白い空を背景(バック)に不鮮明に立っている。坂を登ってロングウッドの故人が住んでいた館を望んだ吾らは、ダラダラ下りの道をたどって、ゼラニウムの谷底にあるナポレオンの奥津城(おくつき、墓)へと向かう。

島のほぼ中央から二つの稜線(りょうせん)にはさまれて二等辺三角形のような地形が東北の方に伸び開いている。ゼラニウムの谷である。ナポレオンが埋葬された当時は沈黙の谷(バレイ・オブ・サイレンス)と呼ばれていた。その三角形の頂点に当たる辺にうっそうたる松樹(しょうじゅ)に囲まれているところこそ、皇帝となった不世出(ふせいしゅつ)の大覇王(だいはおう)が二十年の長き月日を一人寂しく眠った所である。

柔らかいビロードのような斜面(スロープ)に快(こころよ)く靴をすべらしながら、英雄崇拝の若き血におどる胸を押さえて谷の底部に到着した吾らは、薄暗い冷気の涼しくも肌に迫る十五、六間(けん)(約三十メートル)四方くらいの場所を見いだした。位置としては谷の頸部(けいぶ)に相当するので、北・西・南の三面は自然と丘陵のように高くなり、ただ東の一面のみ草バラの生垣(いけがき)を境に遠く茨草(いばらぐさ)しげる谷(バレイ)に開いている。

北と東の二つの側に南洋杉(ノーフホルクパイン)や杉の木の列があるのに対し、南側には生前ナポレオンが愛好していたという一株の柳(二株あるが、ナポレオンの死とともに枯れてその一つの根から新しい芽がふいたのだという)と、ナポレオンが散歩の際に渇きをいやしたという清冽(せいれつ)で舌に冷たき井戸がある。

西側にはささやかな墓守りの家がある。そこを訪問した客の芳名録(ほうめいろく)は月に一回パリの政府に送られるという。

ナポレオンの墓は──あるいは墓と呼ぶよりは陵墓(りょうぼ)の跡というほうが一層適切かもしれぬが──いち面に緑濃く地面をおおう芝草のただなかに、長さ二間(にけん、約三・六メートル)、幅一間(いっけん、約一・八メートル)余の切り残された白い空き地を正しく長方形に囲んでいる鉄柵の内側だとわかった。

Napoleon's Tomb on Saint Helena 2020

Kevstan, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

コンクリートで固めた花崗岩(みかげいし)の蓋石(ふたいし)と、鉄柵との細長い地面には、虞美人草(ぐびじんそう)ならぬ、あでやかで目もさめるような一重(ひとえ)のゼラニウムの花が、こぼるるばかりの愛嬌(あいきょう)をたたえながら心ゆかしく咲き匂っている。ゼラニウムの谷なる呼び方はここから出てきたのであろうが、当時の天下で最も偉大で最も驕(おご)りし者を葬った地名としては「沈黙の谷(バレイ・オブ・サイレンス)」こそ、もっと相応(ふさ)わしく、もっと雅趣(がしゅ)ある名前ではあるまいか。

この場合、感慨(かんがい)を覚え、追憶(ついおく)し、追憶(ついおく)から物思いにふけって歩き、さらに驚きに呆然とし、憧憬(しょうけい)や崇拝(すうはい)の気持ちで思いめぐらせてきた墓参者は、偶然(ふい)に「記念」という二字に出会ってハッと驚きの目をあげて、いまさらのように四辺(あたり)を見まわす。写真係が忙しくなるのもこの時である。赤い花や丸い小石を拾って採集器に入れるのもこの時である。せわしく井戸の水がくまれるのも、柳の若木が多くの葉をちぎり取られるのもこの時である。ぼくもどっかと腰を下ろして、しばし、ゆったりと懐古的気分にひたろうとしたのだが、皮の厚い梨子(なし)とサトウキビ(シュガーケイン)とをかついできた案内者が、遅くなりますからロングウッドに急ぎましょうと、せっかく満ち足りた気分で散策してみようかと用意しかけた自分に、たちまちこんな同情のない雰囲気をぶち壊す誘惑をかける。

それではとばかり奥津城(おくつき)を出ようとして、さすがに名残惜(なごりお)しく振り返ったとき、東側の列をなせる南洋杉の一つの幹に真鍮(ブラス)の板がうちつけてあるのを見て、思わず歩を移すと、

Expedition de Chine, 1860 – 1862*
La Frigate la Forte
A la memoire Empereur
30 Aout

中国遠征、1860年~1862年
フリゲート艦フォルテ
皇帝を偲(しの)び
8月30日

と彫りつけてあった。

* 一八四〇年に起きたアヘン戦争で締結された不平等条約をきっかけにして中国で外国人排斥運動が起き、その結果として、英国と中国・清との間で第二次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争(1856年~1860年)が勃発した。
フランスのナポレオン三世は英軍の要請に応じて出兵し、このときは英仏連合軍と中国・清が戦った。
フォルテは仏海軍の木造の快速帆船(フリゲート)。
ちなみに、フリゲートは軍艦の艦種を指す(「艦」は本来不要ですが、日本では艦艇であることを示すためにあえてつけるのが一般的)。

ロングウッドの平原に出(い)づるべく墓地の南側の坂道を登りつつあるとき、ぼくの胸には、この墓参記にぜひとも一八二一年五月八日の葬送の模様と、一八四〇年一〇月一五日の遺骸(いがい)の迎送の様子とを書き加えたいという希望(のぞみ)が起こった。すなわち、

(葬送の模様)
いよいよご葬儀)執行せらる。
総督まず来たり、海軍少将これに次ぐ。やがてロングウッドの文武官憲(ぶんぶかんけん)ことごとく来たる。
この日、天気晴朗──このとき擲弾兵(てきだんへい)たる歩兵が御棺をかつぎ、わざわざ山腹に開通したる新道を経て、徐々にこれを墓地に運ぶ。周囲、徒歩にて従う。婦人連も下車す……ベルトラン、モントランおよびマルシャル等の諸伯ならびにナポレオンの子とされる幼児、ベルトラン夫人などが棺をおおっている布の四隅をたづさえ、御棺(ぎょかん)を墓端(ぼたん)に下ろす。墓は黒布(こくふ)を張りてこれを覆う。見るものいずれも痛心の種とならざるはなし……それより御棺を墓におろし、御足の方を東に向け、御頭(おんつむり)の方を西に向かわしむ。砲兵ただちに弔砲を三回連発す(「ナポレオン回想録」より)。

ナポレオンの最も嫌いな英兵に守護されて形ばかりに執(と)り行われた不自由がちな悲しい葬送の様が、四囲(しい)の地勢と照合して目に見えるようである。

(フランスに戻すため遺骸の掘り出し)
(後年)棺(かん)は島を治める委員たる島司(とうじ)の面前(めんぜん)で静かに開かれ、一同は沈黙をもってこれを注視した。マホガニーの蓋(ふた)がとられた。鉛の蓋(ふた)がとられた。マホガニーの内蓋(うちぶた)がとられた。白色の繻子(しゅす)のふくさを島司(とうし)が恭(うやうや)しく取り去ると、ナポレオンの遺骸(いがい)が現われた。埋葬してから二十年になるのであるが、その方法は最善をつくしてあったので、死体はおおかた生けるがごとくである。

『まつげ、少しく見える。頬(ほほ)やや腫(は)れたり。鬚(ひげ)も爪も死後に伸び、両の手にはなお生色あり、鼻梁(はなばしら)のみいささか欠けたり。軽騎兵の軍服もありしままにて、肩章(けんしょう)胸章(きょうしょう)の色のみぞ褪(あ)せたる』と、ワウタースの “Annales Napoleonienns” (ナポレオン年代記) という本に書いてある。立ち合いの人々は感きわまって涙を落した(『ナポレオン』より)。

紅いゼラニウムの花や清冽なこと玉をあざむくほどの井戸は、過去五十年を紅く咲き、清く涌(わ)いた。しかも、この花、この泉は、なお未来永劫(みらいえいごう)紅く咲き清く涌くであろう。

 

長林煙雨鎖孤栖 末路英雄意転迷
今日弔来人不見 覇王樹畔列王鳴*

 

五十年前    セントヘレナ島にて
榎本武揚(えのもとたけあき)

*漢詩の書き下し文

長林ノ煙雨、孤栖ヲ鎖シ、
末路ノ英雄、意転タ迷ウ、
今日、弔ニ来人ヲ見ズ、
覇王ノ樹ノ畔、列王鳴ク

(大意)
(セントヘレナ島の墓がある)ロングウッドは雨にけぶり、人里離れた住処は閉ざされている
最期を遂げた英雄、その心がさ迷っている
現在、弔(とむら)いに来る人の姿はなく
サボテンが自生している周辺では、(鳥となった)王たちが鳴いている

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