米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第90回)
五十年前の追憶
本船がいよいよセントヘレナ寄港を予定に入れた世界周航の途につこうとする際、海軍の澤(さわ)造船総監から日記のようなものが贈られた。それは総監の厳父(げんぷ)たる澤太郎左衛門氏の直筆によるもので、今からまさに五十年前の文久三年(一八六三年)、氏が、かの榎本武揚(えのもとたけあき)、赤松大三郎、伊藤玄伯(げんぱく)、内田恒次郎(つねじろう。維新後に正雄と改名)らの海国(かいこく)の先覚(せんかく)者とともに、大西洋の一孤島であるセントヘレナ島を訪問したときの日記が書かれていた。中に、こんな記載がある。
文久三年二月八日(一八六三年三月二十六日)午前六時、セントヘレナを望む。十一時、ジェームズタウンに投錨。
ただちに港吏(こうり)及び港の洗濯婆来たり。午後上陸し宿屋 (Stores Hotel) に投ず……。
ロングウッド訪問の項には
三月二十七日(新暦)朝、一行はオランダ人(案内者)一名と共に馬車三両を雇ってロングウッドに赴(おもむ)く。道路は山腹に沿い曲がりくねって登っている。山頂に到着す ると平らである……。
と。また
行くこと二十町(約二千二百メートル)にして、ナポレオンが幽閉されていた旧居あり。およそ七部屋あった。すなわち、前室、居間、三将官(原注: 三将官とは元帥ベルトラン、マルシャル伯、モントロン将軍を指すのだろうか?)と応接する部屋、それに、いわくビリヤード室、食堂、私室、台所である。
などと書かれている。
このとき案内したオランダ人というのはカンブリアン・コテージのブリッチャーおよびミス・ブリッチャーで、現にコテージには文久三年二月十一日の日付で、赤松大二郎、澤太郎左衛門、伊藤玄伯、内田恒次郎の四氏の署名があるという。
ちょんまげや総髪(そうはつ)*の色黒の男が、打裂(ぶっさき)の定紋(じょうもん)を入れた羽織(はおり)**に長い日本刀を腰に差し、いやご同役、これなるが前室とか申す、などと言いながら見物していった五十年前の様子が目に見えるようである。
* 総髪(そうはつ): 月代(さかやき)を剃(そ)らず、前髪をオールバック風に後ろになでつけて結(むす)んだ髪形。現代では、大銀杏(おおいちょう)を結(ゆ)う前の若手力士に見られる。
** 打裂(ぶっさき)の定紋(じょうもん)を入れた羽織(はおり): 帯刀などのため背中が割れている、家紋入りの羽織。
このときの一行は、榎本武揚、伊藤方正(玄伯)、林紀(はやしき、号は研海、陸軍軍医総監)、津田眞道(まみち、当主は男爵)、西周(にしあまね、号は周助、当主は海軍少将)、澤太郎左衛門、内田恒次郎、赤松則良(そくりょう、男爵家)、田口俊平(新井中将伯父)、古川庄八、山下岩吉ほか下級武士三名の計十四名で、当時、オランダのトクトンクト造船場で建造中の開陽艦(かいようかん)の回航員として、文久二年、オランダ帆船にて長崎を出発したのである。
船はボルネオ近海で難破し、無情なる船長以下は一行を置いてけぼりにしてボートで逃げてしまった。
そのため、さっそく略奪しようとやってきたマレーの海賊を逆に打ち負かし、その船でプロレバルという無人島に渡り、ここでオランダ東インド政庁の好意を得て、ふたたびオランダの便船に乗り、オランダへ向かう途中にセントヘレナ島に寄港したという次第である。かの榎本卿が「船の帆影はさまざまに形を変え、月は弓に似る。大陸は東へと消え去り、何もない大海原のみ。船頭、一夜、微笑し、互いに祝す。また南半球の貿易風を喜ぶ」という趣旨の詩(うた)を詠(よ)んだのはこの航海中のできごとだ。
このように、五十年前の精悍(せいかん)で覇気(はき)のある、海運を啓蒙(けいもう)する先覚者たちは、数奇(すうき)の運命に翻弄(ほんろう)されながらも、なお大海の一孤島に昔の英雄の跡をしのび、内外に問題を抱え紛糾(ふんきゅう)している母国の時局を顧(かえり)みては、思わず中国・三国志の悲歌と同じような感銘にうたれたことだろう。日付こそ異なるが、五十年後の同じ月、同じ島に、同じ使命を持って、しかも自国の国旗の下に入港することになったわが練習船は、光り輝く志尊(しそん)*の威光と前途洋々たる国運を伸長させるべきなのは無論のこと、こうした尊(とうと)い国家的犠牲の賜物(たまもの)であることを深く心にきざむ必要がある。
* 志尊(しそん): この上なく尊(とうと)いこと。この文脈では天皇を指す。