現代語訳『海のロマンス』91:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第91回)

物語の島

ものすごく青く澄んだ深いジェームズタウンの入江に錨を投げこんだのは、三月十五日の朝であった。

おそろしく遠目(とおめ)の利(き)く連中を乗せた練習船は、十四日の正午に、四十海里(マイル)も遠方から、すでに思いこがれたセントヘレナの青い島影をとらえていた。

日付こそ異なるが、五十年後の同じ月に、第二の日本人として、しかも、ゆかしき名と栄(は)えある過去とを有する新興国(日本)唯一の練習船の人として、この偉大なる物語の島を訪問するということがすでに、うるわしい想像をめぐらせ、とかく感傷的になりやすい青年にとっては、胸に満ちあふれる無邪気なる誇りである。柔らかき青年の皮膚の下を流れる純なる紅(あか)き血液(ち)には、偽(いつわ)らざる英雄崇拝(えいゆうすうはい)のどよめきがある。

このセントヘレナから歴史的、神秘的、憧憬(どうけい)的な気分すべてを取り去れば、あとにはただ目もはるかに打ち続く平野の夕暮れに一人悄然(しょうぜん)とたたずむ古城のごとき、見ためもぱっとしない骨ばった島の姿のみが残る。東西十一マイルで南北六マイル、面積が四十九平方マイルという、荒廃した火山の小島(しょうとう)が残る。骨を裂き岩を削って神経過敏にも蜂の巣のように砲台をたてつらね、島を防衛しようとやっきになっていた、戦々恐々とした一山塊(さんかい)が残る。

バクという生き物は夢を食うという。バクならそれで済むかもしれない。しかし、残念なことには、人間はいまだ想像ばかりで生きていかれるようには創(つく)られていなかった。壊血病(かいけつびょう)で死ぬのが嫌である以上はぜひとも栄養物(エッセン)を摂取しうべき寄港地を考えなけれならぬ。だから、甘い夢ばかり見て実世間(じつせけん)を知らない若い者は青いブドウだ、と分別ある老人から言われているのだ。今この有名な島を目の前にした青いブドウどもの心の中には、暖かい手紙と甘い果物(くだもの)と、上陸して好奇心を満足させたいということの他には欲がないであろう。

七時半ごろ、一つの浅い茶色の入江が見えてきた。二千何百フィートという島の最高峰ダイアナスピークから末広にずり下がってきた峡谷(バレー)が、スラスラと無造作に、透徹した深い水に潜りこもうとする底に当たって、こじんまりとした小さな楽しそうな町を現出せしめている。ジェームス・タウンがそれである。

まず第一に、影も濃い深緑(しんりょく)の木立が、ものさびた小さな赤い町に極めて美しく茂っている風光(さま)がすこぶる気に入る。町の周囲を取り囲む古びた城砦(じょうさい)をはじめとして、かわいらしい尖塔(スパイヤー)をのぞかせている田舎らしいセント・ジェームスのお寺をはじめ、見るものすべて、落ち着いた懐旧の情をそそらないものはない。

色々の用事でいち早く上陸した二、三人の者が戻ってきた。どうだと尋(たず)ねる。「町の景気は?」と問うてみる。

ウフ……と、気味の悪い笑い方をして、「どうにもこうにもえらいところだ」という。

こういう返答は聞き手の好奇心をそそる上においてすこぶる有効である。アダムとイブ以来、人間は気の毒にも好奇心という弱点を持つ動物である。何にもない、実につまらないところだという一人を打ち消して、なに面白いところだ、あの確かに一世紀くらい現代から遅れている、クラシカルなにおいのするところがいいのだなぞと、生意気(なまいき)なことを言う者もある。

君、妙齢の淑女(レディー)がはだしでね、スカート姿の人もちらほら歩いているところだよと、威嚇(おど)かす者がある。「美人が……?」との誰やらの問いに、うん、色の黒い、なかなかの美人が連れだって楚々(そそ)として、シャナリシャナリと「百合の花」みたいにやって来るよと、正直な者をまぜっかえして喜んでいる。

奈良の妹から

長い長い航海の後には、心ゆくばかり土に接吻(せっぷん)して、飽(あ)くまで愛憎(あいぞう)の念を晴らすということを聞いた。しかし、ここでは、ぼくは土の代わりに手紙に接吻(せっぷん)したいと言いたい。

ケープタウンは面白くはあったが、嬉(うれ)しくは感じなかった、と友は言う。なぜかと問うまでもない。手紙が来ていなかったからと答えるに決まっているから。百二十日――あえて百二十日には限らないが、特に長航海の後には、感情を持った人間である以上、美しい郷土の便りを聞きたがる欲望がはちきれるように体中に満ちわたる。

かくして人情から超越した世界とか、同じものが二つとない別世界などと、やせ我慢をした昔のことはとっくに忘れている。手紙!! 見渡す限り空も海も青い、単色の世界において、ずっと細く長く遠い旅路を進んでいく海の旅人にとっては、この手紙というものがいかになつかしい、感傷的な響きを伝えてくれることだろう。

たとえセントヘレナに着いて手紙を受け取っただけで、すぐまた出帆したとしても不平を言う者はあるまいと思うくらい、二月(ふたつき)も三月(みつき)も前から、寄(よ)ると触(さわ)ると手紙の噂である。

ジェームス・タウンに投錨してすぐ外舷(がいげん)の石けんふきをはじめたが、真面目(まじめ)にやっている者は一人もいない――大きな声では言えないが、みんな陸(おか)から戻る雑役のボートに気をとられている。これくらい気になるものであるから、もしも少しばかりの閑暇(ひま)を惜しんで筆無精(ふでぶしょう)を決めこむ人があるならば、その人は好んで罪なことをしていると断言しても、あえてわがままな言い分ではないと思う。

この決してわがままではない言い分を腹の中ででっち上げつつあったぼくのところへ、親切にも一人の仲間がわざわざひとまとめにした手紙の束を持ってきてくれた。そのいろいろの手紙の中に、血族(みうち)からのものを除いては、そろいもそろって色美しい「文展」の絵はがきを送ってくれた一団がある。これは「朝日」の編集者などから来たもので、長い航海の無聊(ぶりょう)をなぐさめてやるとの心遣(こころづか)いである。人は思わぬ人から思いがけない見舞いを受けたとき、ありがたい、かたじけないという他にぴったりな返答を見つけるのに苦しむものだ。誠にありがたく、かたじけない。

奈良の妹からは手紙に入れて一枚の御神符(ごしんぷ)が送られてきた。お守りのようなものだ。ぼくの好きなお納戸(なんど)色の編み袋に入れた神符(ふだ)には「西国(さいごく)七番大和岡寺(やまとおかでら)」とあった。

自慢ではないが、ぼくは昔から、このセントヘレナ島で生涯を終えたナポレオンと同じように、神威(しんい)や仏力(ぶつりき)をお願いしようと試みたことのない男である。

あまり明るくはない吾(わ)が過去を振り返ってみると、苦しいことはたびたびあった。しかし、そのたびごとに、神や仏はおろか、手近(てじか)の人間が力を貸すことさえ喜ばなかった男である。浅草へ行っても御堂(みどう)の手前で「左向(ひだりむ)け前(まえ)へ」でさっさと「活動」*の方へとそれてしまう男である。むろん、岡寺の観音様などを知っているはずもない。これが日本であったならば、いかに女の優しい心から送ってくれたとしても、あわれ引き出しの奥に放りこまれるくらいがオチである。

* 左向け前へ: 「左に方向転換して前進」の意味。現在でも消防訓練などで用いられる。
  活動: 映画(館)のこと。

信ずるところ権威ありで、何でもかんでも信じうる者は幸いであるとのことだ。御神符(おふだ)もまたこれを信じろで、信じて、しかして肩から吊っておったら、いつかはよい芽がふくだろうと、ずいぶん虫の良い結論に達したのを心ひそかに祝福した次第である。あなかしこ、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)*!!

* 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ): 人間が南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)と唱えると、その声に思いをはせて苦悩から救済してくれる菩薩(ぼさつ)。
観音菩薩(かんのんぼさつ)や三十三観音(さんじゅうさんかんのん)とも呼ばれる。

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現代語訳『海のロマンス』91:練習帆船・大成丸の世界周航記」への2件のフィードバック

  1. 現代語訳「海のロマンス」を楽しませていただいています。無料でのご配信に大変感謝しております。
    これまでに第91編まで配信されていますが、完結はいつごろになりますでしょうか?お尋ねいたします。

    • 北條さん、ご照会ありがとうございます。
      現在、全体の六割強の連載を終えたところなので、
      (特別に急ぐ事情がない限り)
      現在のペースで続けるとして、その場合、あと1年少々かかる見込みです。
      また、書籍としての出版はおそらく2022年の春~夏になると思われます。
                             海洋冒険文庫

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