米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第53回)
アホウドリを釣る
一、彼らはおそれ、彼らはおどろき、
彼らはうらみ、彼らはののしった。
生暖かい鳥の首をキューキューと、
こともなげに俺が絞めたとき。
二、何という無残なしうち?!
おそろしい悪魔の心!!
手前が鳥を殺した故に、
海が時化(しけ)たらどうするつもりだ?
三、見ろやい、祟(たた)りがもう現れた、この外道(げどう)め、
無辜(むこ)の鳥を殺した報いは、
マストにうなる強い風となったわ。
と、震えながら彼らは吠えた*1。
*1: イギリスの作家、コウルリッジの幻想的で怪奇な長編物語詩『老水夫行』に、アホウドリを殺したために船が呪われて……という、ほぼ同じような一節がある。
バタバタと甲板を駆ける靴の音がしたと思ったら、「釣った、アホウドリを釣った」という、浮世離れしたユーモアに富んだ声が、人々の心のどこやらに必ずひそんでいる、子供のごとき好奇的欲求をけしかけるように、けたたましく甲板に響く。
好奇(ものずき)と付和雷同(ふわらいどう)において人後に落ちるのを一期(いちご)の名折れと心得ているやからが、どれどれと大喜びで飛び出してくる。
世の中に「魚を釣る」という言葉がある。「人を釣る」ということも、なんだか聞いたようである。しかし……「鳥を釣る」ということは、どうもあまり聞いたことはない。
この未見、未聞、未知の新事実を、眼前二百ヤードの海上に珍しく、いぶかしく眺め渡すとき、こいつは奇妙だわいと、かしこまりつつもすこぶる愉快な気分になった。「釣り針にかかった魚」は、命がけで逃れようと必死になるものだ。
ペテンやおだてに乗せられ、スリにすられた人は、悔恨(かいこん)し、悩み、自暴自棄(じぼうじき)となるのが普通であるようだ。
いま目の前で展開されている「釣られている鳥、アホウドリ」の一幕は、この習慣になっている思いこみをぶち壊すに十分な効果(エフェクト)を有する。
小さな扇形の板の上に、釣り針と餌とを置く。これぞ、アホウドリがその一生を棒に振る誘惑物である。この釣り針にかかったアホウドリが、今は釣り糸が手ぐられるままに引き寄せられている。
しかるに不思議なのは、アホウドリの態度である。少しの苦痛も煩悶(はんもん)も恐怖も感知しないようにスラスラと水の上を走ってくる。羽翼(はね)を少し広げ、首を伸ばし、前につきだした二つの水かきで軽く水を蹴ってキョトキョトとやってくるところは、なんのことはない、ちょうどカーチス式水上飛行機の滑走ぶりである。
かく釣られ、かく引き寄せられ、かくふるまうのがわが使命であり、わが本領であるといわんばかりにおさまりかえっている。
そのあわてず騒がず、鷹揚(おうよう)に、死ぬとか生きるとかを超越した別世界で遊んでいるような態度がまず気に入る。大いに気にいる。
七時に太陽(ひ)は約束のごとく沈み去って、西の空には美しい雲の花がむらがり咲き、夕暮れの色がまだ青々と透き通った西の海にだ漂いだす前、この荘厳なる天地間の大自然美を背景(バック)に、縦横無尽(じゅうおうむじん)に、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に飛びまわるわがアホウドリは、偉大なる海洋の景象美の象徴(シンボル)である。海洋(うみ)にただよう海洋の精気(オーシャン・スピリット)の権化である。
およそ二枚の羽翼(はね)と二本の足とを具有する鳥という鳥のうちで、最も純にして最も朴(ぼく)なるものは、わがアホウドリである。
世には魚の分際(ぶんざい)で空中を飛ぼうという、トビウオのような不心得(ふこころえ)な尻軽者(しりがるもの)もある。
他よりすぐれた、巧みな飛翔(ひしょう)術を持っているにもかかわらず、さらに如才ない遊泳術を利用しようとする、ウのような、世渡りの上手な利口者もある。
こざかしくバタバタと波をうちて、忙しい瞬時の空中飛行をほこるトビウオは、神智(しんち)をもてあそぶ者のごとくである。
巧みに水をくぐって魚をついばむウは、軽薄なこざかしい者の典型である。
阿呆(あほう)鳥といやしめられ、馬鹿(ばか)鳥と笑われるを知らぬ気に、色彩の変化きわまりなき雲と海とを背景に、悠揚(ゆうよう)迫らず、広大な大海の場面(シーン)を飛ぶアホウドリは、どこまで世の中を茶化せるのか、どこまで心が太いのかわからぬ。
その扇形の尾翼(はね)をたわめ、それで舵をとりながら、憎らしきほどに落ち着いた姿で、帆をかすめ雲をつんざいて斜めに身を落とし、波濤(なみ)の起伏的モーションに従って千変万化の曲芸を演じながら、飛び去り、飛び来たるさまは、なかなかの見物である。
カーチスはそのマシーンに乗るたびに、さぞかし垂涎(すいえん)のまなざしで、感銘し、「わが空中征服の理想はこの境地なり」と絶叫しそうなほどに、巧妙な飛び方である。それを見ては阿呆(あほう)どころか、なかなかの利口者である。
その飛行界の覇者が誤って人間に捕らえられ、甲板に放置せられたときの図は、ことに彼の率直淡泊なる天性を発揮したものである。伸ばせば三メートルもの大翼を持った彼が、舞いもできず、ヨタヨタと不格好な歩きぶりのかわいらしい姿は、忌憚(きたん)なく率直に、偽らざる名称をいただいた彼は、今やその周囲にいくたの残酷なる嘲笑者が監視しているとも知らず、ときどきキョトンとした落ち着いた目つきをして、遠慮もなく糞をする。小便をたれる。すべての愛嬌の限りをつくす。世を茶化し、人をあざける限りをつくす。
かくして、自覚せぬ滑稽が弱者に向かって提供されるとき、同情せず、利己的で、自分の方が優越していると思いこんでいる連中は面白い面白いと手を打って笑っている。
これはあにただアホウドリの上のみならんや……である。他人事(ひとごと)否(いな)鳥事(とりごと)の騒ぎではない。もしこれを単なる「対岸の火災視」している者は、すでに十分自分にヤキのまわったのを悟らぬ者である。世の中は因果がめぐりめぐった結果であることを悟らぬ者である。
海洋(うみ)に漂泊(ひょうはく)し横溢(おういつ)する一種の精気──われは、これをオーシャン・スピリットと呼びたい──の産物の一つがこのアホウドリ君とすれば、船乗りはこの精気(スピリット)を最も多く味わい、最も多く咀嚼(そしゃく)し、最も多く紹介するものである。
かかる思想上の立場にあって、かかる観念にとらわれているからには、知らず知らずアホウドリのごとくのんきに、超俗的に、心が太く、世を茶化するようになるかもしれない。したがって、アホウドリのごとく卑(いや)しめられ、嘲(あざけ)られ、笑われ、余興(よきょう)視せらるるかも知れん。いや知れんどころの騒ぎでなく、もうせられているに違いない。
思えば、世の識者とか学者とか政治経済を論じる偉い人たちは、これらの尊むべき、大切な縁の下の力持ち的な隠れたる努力者が、アホウドリのごとくに馬鹿にせられ、あるときは閑却せられおる奇怪事に気づいて、陸上の動物が決して常に海上の動物に優越せざることを鼓吹(こすい)せなければならなぬ……と、いろいろに考え、その思いで目をこのアホウ君に向けると、このちっぽけな一個のぼんやりした動物が社会的、国家的大問題の骨子であることがわかる。
それさえ知らず、道化(どうけ)た姿でヨチヨチ歩いているところは、なかなかいじらしいものである。
世の中で最も珍重すべきものは、愚直にして自他をてらわざる者、偽らざる者であるということは、このアホウドリによって証明されている。
何だっ?! アホウドリのことなぞ、ことごとしく書き連ねて……アホウなやつと嘲(あざける)人があったら、この人には、たった一個の生なきリンゴのいきさつから破裂した、人類最初の葛藤たるトロイ戦争を知らないかと、言ってやりたい*2。
*2: トロイ戦争 - ギリシャ神話に描かれたトロイ(トロイア)戦争は、「最も美しい女神へ」と書かれた黄金のリンゴをめぐる三人の女神の争いから生じたとされる。
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