ジョン・マクレガー著
現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第68回)
鉄道は緑の山々を縫って曲がりくねりながら走っている。あちこちの村に「工場」があり、夜になると、無数ともいえる窓の光で山の中腹の斜面が照らし出される。こうした工場群は、女性が大好きな──買うのはその夫たちだが──流行のフランス製のショールやスカーフを作り出しているファッション業界の拠点でもあるのだ。ここで図案化されたデザインは、一流の名人の手になる油彩画のように高額で、フランスでは、一つの図案を彫るごとに、イギリスの製造業者が支払う金額の三倍のお金が支払われているらしい。
ヴェッセルランで、カヌーをバネつきの馬車に載せ、つづら折りの道を元気に出発した。この道はボージュの山々の分水嶺に向かっている。ぼくは、これほど快適な馬車の旅をこれまで経験したことがない。六時間もの間、森やブドウ園や明るい小川や豊かな牧草地の中を快適に走っていく。急な登攀部ではぼくらは馬車より先に歩いて登った。そこに一人のイギリス人が住んでいた。しかし、二十年以上もフランスに住んでいるため、彼の話す英語はほとんど理解できなかった。th が発音できず、出身地のなまりがきつい上に、フランス語やドイツ語がまじっているのだ。この地の新聞に掲載されたある記事では、マシューズ (Matthews) という名前の後に編集者が「英語。発音はマシュウス (massious)」と親切につけ加えてある。フランス人にとってはこれで十分なのだろうが、目の前にいる生きたイギリス人が th の発音ができないとは、なんとも理解できない。彼はぼくの名前を知ると、握手を求め、「あんたと同じ名前の人が書いた冊子を興味深く読んだことがあるよ」と言った2。
原注2: D.マクレガー将軍『東インド会社保有のケント号がビスケー湾で焼失した件』(出版元は当時英国にあったTRS社)。
[原著編集者の注記: このケント号にまつわる冊子の執筆者であるマクレガー将軍は、合衆国の極右団体のメンバーではなく、ロブ・ロイ・カヌーの航海記の著者ジョン・マクレガーと同姓のイギリスの将軍]
バネつき馬車を貸し切っての旅は、今回の貧乏旅行では異例のぜいたくなものになった。つまり、ぼくとカヌーは快適な四輪馬車にゆられながら三十五マイルほどの距離を運んでもらったのだ。料金は二十六フランだった。これは丸一日を汗水たらしてカヌーで移動する距離に匹敵する。それが、やわらかなクッションの上でのんびり楽しくすごしているうちに移動できたことになる。曲がりくねった山道を登り、ついに「小スイス」と呼ばれる峠の最高点に到達した。分水嶺の最高地点に一本のトンネルがあった。
この暗いトンネルのアーチを通り抜けると、まさに絵のような景色が広がっていた。
眼前には広大なフランスの国土が広がっている。背後の峰から流れ出している渓流はすべてライン川へとそそぐ。だが、その先では、またさまざまな方向に分岐している。南の地中海方面に向かう川もあれば、南西のビスケー湾に向かう流れもある。それ以外は英仏海峡へと流れこむ。あちこちに一千もの峰々と緑豊かな山々があり、眼前に広がるパノラマでは五、六の村が点在しているのが遠望できたし、大陸の大平原には陽光が降りそそいでいた。ボージュ山脈の峰々や軽やかに流れる渓流は幾重にもつらなって続いている。ここは多くの勇猛な男たちが育った土地でもある。十字軍で勇名をはせた連中はこの地域の出身だ。偉大なナポレオンも最高の兵士たちをここで徴兵している。実は現にここにも、足を引きづってはいるが、つい最近までイタリアのガリバルティ将軍と共に戦っていた赤シャツ軍の勇士がいるのだ3。集落の大半はプロテスタントである。
原注3: 近年、ロンドンで話題になったアナクと呼ばれる大男も、このボージュ山脈地方の出身である。
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