スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (8)

相棒一人をのぞいて他には知り合いが誰もいないという場所でも、それなりに幸福に生きられるというのがわかった。が、これは奇妙なことではある。自分とかかわりのない人々の生活を眺めているうちに、個人的な欲望がマヒしてくるのだろうか。単なる傍観者であることに満足してしまうらしい。パン屋が店の戸口に立ち、夜になると勲章を三つも飾りつけた大佐がカフェにやってきたりする。軍隊は太鼓をたたき、ラッパを吹き鳴らし、ライオンの群れのように雄々しく城壁を守っている。こうしたことすべてを平穏な気持ちで眺めていられるのはなぜかを、言葉で表現するのはむずかしい。自分が何かしら根を張っている土地では、そうしたことに無関心ではいられない。すでにそうした生活に自分もかかわってしまっていて、たとえば友人が軍隊に入って戦っていたりするからだ。だが、すぐに知りつくせるほど小さくはなく、といって旅行者用の施設が確保されるほど大きくもない初めての町では、自分の商売から遠く離れて、もっと親密になることも可能だということすら忘れてしまう。周囲の人々に関心を抱くこともほとんどなく、自分が人間だということも忘れそうになる。たぶん非常に短い期間に人間ですらなくなってしまうのではあるまいか。裸の修行者たちは真理を求めて自然に満ち満ちて、いたるところに冒険があふれている森へと入っていく。が、それよりも、こういう退屈なほど関心が持てない田舎町に居を定めるほうが、修行の目的にはかなっているのではあるまいか。こういうところでは、人とはもっと離れていたいと思わせられるし、人間の生活の外見、つまり抜け殻だけを見ていて、そういう外見上のつきあいしかない人々は自分にとって死んだも同然で、ぼくらの目や耳には死んだ言葉としか響かず、もはや宣誓や挨拶以上の意味を持たなくなってしまう。ぼくらは結婚した夫婦が日曜に教会に行くのを見慣れているので、夫婦というものが何なのかをすっかり忘れてしまう。そのため、男と女がお互いのために生きることがどれほど美しいのかを示そうとすると、作家は日常から逸脱した不倫を描かざるをえないのだ。

だが、モーブージュで、抜け殻ではないことを示した男がいた。それはホテルの乗合馬車の御者だった。ぼくの記憶に残っている限りでは、痩せて小柄な男だったが、魂には火花の散るような人間らしさがあふれていた。ぼくらのささやかな航海について耳にすると、すぐに羨望と共感を抱いてぼくらのところにやってきて、自分もこういう旅をしたかったんだと告げた。どこかよその土地に行き、世界を見てまわってから死にたいのだと。「自分はいまここにいるんだけど」と、彼は言った。「駅まで行って、それからまたホテルまで戻ってくるんだ。それが毎日、毎週ずっと続くわけ。なんだかねえ、これが人生ってやつなんだろうか?」 それが君の人生だ、とは言えなかった。彼は、ぼくが行ったことのある場所や行きたいと思っている場所を教えてくれと迫った。ぼくの話にじっと耳を傾け、そうして、ため息をついた。もしかすると勇気あるアフリカの旅行者になっていたり、ドレーク*1の後にインドに行ったりしていたかもしれないのだった。だが、放浪癖のある者にとって今は悪魔のような時代で、富や栄光がおとずれるのは事務所の椅子に満足して座っていられる者に対してなのだ。

あの彼はいまもグラン・セールでホテルの乗合馬車を駆っているだろうか? いや、その可能性は低いと、ぼくは信じている。というのは、ぼくらがあの町を通ったとき、彼は我慢の限界まできていて、おそらくは、ぼくらの航海が彼の背中を押すことになったのでは、と思ったりもする。彼は世界を放浪して歩くべきだったろうし、道端で深鍋や平鍋を修理し、木の下で眠り、毎日新しい水平線に夜明けと日没を見たりするわけだ。乗合馬車の御者という仕事はそれなりに立派だという声が聞こえてきそうだ。それはそうかもしれない。だが、その仕事が好きではない者がその地位にしがみつき、その仕事をやりたい人を締め出していてよいのだろうか? かりに料理が自分の好みにあわず、自分以外の仲間はそれが好きだとすると、どういう結論を出すべきだろうか? 自分が好きでもない料理を無理に食べることはないのでは、とぼくなら思う。

世間体というのは、それはそれで大事なことではあるのだが、それが万事に優先されるわけではない。好みの問題だと言うつもりは毛頭ないが、少なくともこうは言っておきたい。もしその地位が当人にとって相性が悪く、気づまりで、不必要かつ無益であるのならば、たとえそれが英国聖公会ほど尊敬すべきものであったとしても、そこから去るのが早ければ早いほど、本人にとっても関係する誰にとってもよいのだ、と。

脚注
*1: ドレイク - フランシス・ドレイク。マゼランから半世紀ほど遅れて世界で二番目に世界一周したイングランドの英雄たる航海者。敵対するスペインでは、私掠船船長として海賊行為を行ったため悪魔的存在としておそれられた。
私掠船とは、交戦状態にある国同志で敵対国への海賊行為が国家として認められた船をいう。

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