スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (27)

相席になった人々

ぼくらは夕食に遅れてしまったが、同じテーブルをかこんだ人々は、スパークリングワインをふるまってくれた。「これがフランス流のもてなしなんだよ。一緒に食事したら友達だってわけ」と一人がいい、他の連中も喝采した。

相席になったのは三人だが、日曜の夜を一緒に過ごすにはちょっと変わった組み合わせだった。

三人のうち二人はぼくらと同じように宿の客で、どちらも北部の出だった。一人は血色がよく体も大きくて、豊かな黒髪とひげをたくわえた、恐れ知らずの、猟や釣りが好きなフランス人で、獲物がヒバリや小魚であってもつまらないとは思わず、どうだと自分の腕を自慢するような人だった。そんな巨体で健康そのもの、サムソンのように豊かな髪をした、バケツで流すように赤い血が勢いよく動脈を流れていそうな男がちっぽけな獲物を自慢するのは、鋼のハンマーを使ってクルミを割るような、ちぐはぐな印象を与えた。もう一人は物静かで、金髪、リンパ体質の悲しげな人で、どこかデンマーク人のように見えた。ガストン・ラフネストルがかつていったように「悲しきデンマーク人」といった風だ。

ガストンの名を出したので、もう亡くなってしまった、この最高の人物の話をしないわけにはいくまい。ぼくらは狩猟服を着たガストンをもう見ることはないし――彼は誰にとってっもガストンであって、下の名前を出すのは馬鹿にしているわけではなく、それだけ親しみを抱いているからなのだが――そのガストンの角笛の音色がフォンテーヌブローにこだまするのを再び聞くこともない。また彼の人なつっこい笑顔があらゆる人種の芸術家すべてに平和をもたらすことも、フランスでイギリス人に母国にいるように感じさせることもなくなってしまった。さらに羊が自分にまさるとも劣らない無垢な心の持ち主の動かす鉛筆の被写体になって、それを意識せずじっとしていることもないだろう。彼は芽を出しはじめて何か価値のあるものを花開かせようとした、まさにそのときに、あまりにも早く逝ってしまった。彼を知る者はだれも、彼の人生がむなしかったとは思うまい。ぼくは彼を知悉しているというわけでもないのだが、ずっと親愛の情を抱いていたし、人が彼をどれくらい理解しその価値を認めているかが、その人がどういう人物かを推し量る尺度にもなるとすら思っている。ぼくらと一緒にいるとき、彼はぼくらの人生によい影響を与えた。彼の笑い声はすがすがしく、彼の顔を見るだけで気が晴れた。心ではどんなに悲しんでいたとしても、彼はいつも元気で明るく落ち着いていて、災難があっても春のにわか雨ぐらいにしか思っていなかった。だが今となっては、彼が苦しく貧しいときにキノコを採ったりしていたフォンテーヌブローの森のそばで、彼の母親は一人で暮らしているのだった。

彼の絵には英仏海峡をこえたものも多い。ある卑劣なアメリカ人は絵を盗んだだけでなく、英国硬貨二ペンスしか持たず英語もろくにできない彼をロンドンに置き去りにしたのだ。この文章を読んだ人で、このすばらしい人物の署名のある羊の絵を持っている人がいれば、その人には、あなたの部屋には最も親切で最も勇敢だった者の一人があなたの部屋を飾るのに手を貸しているんですよと教えてあげたい。イギリスの国立美術館にはもっとすぐれた絵があるかもしれないが、何世代もの画家たちのうち、これほど善良な心を持った画家はいなかった。聖書の詩編によれば、人類の王たる神から見て、聖人の死はかけがえのないものであるし、またかけがえのないものでなければならなかった。というのも、発作で死んでしまうと、母親は悲しみのうちに一人残され、周囲の人々に平和をもたらし安穏を求めていた者がシーザーや十二使徒のように土に埋められてしまうのは大きな損失だからだ。

フォンテーヌブローのオークの森には、何か欠けているものがある。バルビゾンでデザートが供されるとき、誰もが今は亡き彼の姿を求めて、つい扉に目がいってしまうのだった。

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