現代語訳『海のロマンス』103:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第103回)

セントヘレナへの決別

セントヘレナは、三月二十日の朝十時に出帆した。

あまりにも風向が見事だったので、文字どおり帆で出るという予定であった。ところが、いわゆる月に叢雲(むらくも)、花に風、「帆船に軍艦」といえばいえるわけで、あいにく当時、石炭積み込みのため練習船の風下に碇泊(ていはく)しておった英国軍艦ヒヤシンス号のお尻がだんだんと出張ってきて、あわよくば鞘当(さやあ)てでもしかねまじき形成となったので、にわかに変更して、平常(いつも)の通り機走で出てしまった。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』102:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第102回)

花雫(はなしずく)せよ、沈黙の谷

いずこに彼は今や在(あ)る!!
かつては超人と謳歌(うた)われ、傲慢(ごうまん)と誹謗(そし)られた彼。
全欧の覇権(はけん)とたわむれ、各国の王の位を弄(もてあそ)び
地球というテーブルで、人骨(ほね)のサイコロを振った彼。
すさまじき最後を見なかったか。人の世から離れた遠き孤島に。
心ある人は独り静かにただ微笑(ほほえ)みて泣くべし。

とは、「人食鬼」、「悪魔」、「猛獣」などと恐れ、嘲(あざけ)り笑う以外にはこの大英傑を呼ぶことのできなかったジョンブル(英国人)の中のただ一人(いちにん)の、真摯(しんし)にして感傷的な謳歌者たるバイロン卿の有名な賛辞である。

ナポレオンが死去した際には遺骸(いがい)を英本国に送るべしという、コックバーン司令官に下った内令は途中で変更された。新総督サー・ハドソン・ローエは、万一の際におけるナポレオンの墓地は、生前に彼が最も愛慕(あいぼ)した谷に定むべしとの訓令を受け取った。

ごつごつとした形状(かたち)のセントヘレナという孤島における六年間。

ナポレオンは、まぶしいくらいに光り輝き、目もくらめくばかりに絢爛(けんらん)だった過去の追憶に生きるの外(ほか)は、閑暇(ひま)あるごとに日々、気の毒なほどに狭苦しく限られた土地の上に、窮屈な馬上の散策を試みては、はかなき瞬間の満足を、意義も努力も責任もない当時の生活において見いだすことを寂(さび)しい日課とした。

そして、その散策は常に、ロングウッドの館から三マイルほど北西にあたるゼラニウムの谷に向けられた。鬱然(うつぜん)と茂る木の間に鳴く鳥の音もかすかに、風もないのにホロホロと散るゼラニウムの花雫(はなしずく)がなんとも艶(えん)なる山懐(やまふところ)に、この偉人は散策する場所を静かに見いだした。

猜疑(さいぎ)と白眼(はくがん)との圧迫に耐えずして、水に乏(とぼ)しく霧に苦しめられるロングウッドの館をさまよい出た彼は、ビロウドのような青い草に身を投げて、耳元近くでこんこんと湧き出る泉の声を聞きながら、木の間を透(す)かして悠々(ゆうゆう)たる白雲の流れていく様子を仰ぎ見るとき、しばしば、志を得ず囚(とら)われの身となった愁(うれ)いを忘れたのであろう。

清らかに湧(わき)いずる泉の音と、無心の風に吹かれてなびける二本の柳樹(りゅうじゅ)とは、彼をこれほどまでに強くゼラニウムの谷に執着させた最大のものであった。

帝(てい)が後年、総督本人に向かって、「今後十数年をいでずして英国のカストレリー卿やバサルスト卿やその他の連中は、今、吾(われ)と言葉を交わしている君ももろともに、いずれも皆、忘却の墓に葬られてしまうだろう。もし、将来において君らの名前を記(しる)す者がいるとすれば、それは君らが吾に対して無礼侮辱(ぶれいぶじょく)を加えたとしてであろう。これに反してナポレオン帝は長く歴史上の花となり――」と憤慨(ふんがい)したごとく、ハドソン・ローエの過酷(かこく)で無情なる圧迫の手はひしひしと帝(てい)の周囲に加えられた。

――実際、ローエはこの偉大なる囚人の看守役たる歴史的名誉をまっとうするの道は、ただもっぱら誅求(ちゅうきゅう)束縛(そくばく)を厳にするの一途(いっと)のみであると考えたかも知れぬ

――しかも、帝(てい)はなお平素(へいそ)、このローエが統治している小領地たるこの谷を思慕(しぼ)して、その最後の病褥(びょうじょく)にあっても、

「余(よ)、もし健康を回復したら、あの泉のほとりに記念碑を建てよう。もしまた、このままに死ねば、あそこに遺骸(いがい)を葬(ほうむ)ってくれ」とまで言われた。

一八二一年五月五日、紆余曲折(うよきょくせつ)の多かった五十二年の生涯を遺伝性の胃がんに終わった帝(てい)の葬儀は、ゼラニウムの谷で、同年五月八日に行われた。

英国の歩兵にかつがれた棺(ひつぎ)の上には、紫色のビロウドと、帝(てい)がマレンゴの決戦で銃弾により穴があいた外套とが置かれた。

追悼(ついとう)し回想して涙に泣き崩れたる女性等を乗せて随行する馬車、馬に乗ったベルトランとモントロンの二人の伯爵、総督ローエおよび提督マルコルム二の両氏、帝(てい)の生前の愛馬などからなる葬列は、島生活の六年間を通じて帝に最も愛撫(あいぶ)された小ナポレオン、ベルトランを先頭に静かに谷へと下っていった。

宗教上の儀式が終わってレンガ工事に着手中、いちじるしく帝(てい)を敬愛していた群衆は、争って帝(てい)が生前に好きだった柳の枝をとって記念にしようとした。この憧憬にもとづく真情の流露(りゅうろ)を見せつけられた総督は、いちじるしく機嫌をそこない、制止するよう厳命を発した。が、群衆の来襲はますますはなはだしくなり、制止の命令も役に立たなかったので、ついに帝(てい)に対する最後の反抗的私憤を示すため、墓に柵をめぐらせ(今も墓の周囲には柵が現存している)、さらに、見張りの哨兵(しょうへい)を配置して人民の墓参を禁ずるに至った。

されど、ぼくは、死後においてなお迫害と陵辱(りょうじょく)から脱することができなかった憐れなる世界最後の偉人に報いるに、

“Si taceant homines, facient te sidera notum, sol nescit comitis immemor ease sui”
(人が沈黙を守れば、星、なんじの名を輝かす。彼の輝ける太陽は永劫にその友を忘れない)というエピグラムを以てしよう。


セントヘレナ島での滞在記は今回で終了し、次回からは、セントヘレナを出発して南大西洋、インド洋、太平洋を進む帰途の航海となります

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現代語訳『海のロマンス』101:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第101回)

ああ、ボナパルト将軍

L'impératriceMarie-Louise
ナポレオン夫人、マリー・ルイーズ皇后の肖像画(ルーブル美術館蔵)
François Gérard, Public domain, via Wikimedia Commons

一八一五年の八月十一日、愁(うれ)いをおびて静かなるドーバーの海を横切って北の方トーベイの港へと急ぐ英国軍艦ベルロフホン号の後甲板(こうかんぱん)に、新たに悲しき追憶の痛手に悩み、悲憤(ひふん)し懊悩(おうのう)する心持ちを包み隠すことができないまま、希代(きだい)の英雄たる大ナポレオンが立っていた。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』100:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第100回)

ロングウッド館を振り返って

またもやド・ラ・カーズ伯の回想録のご厄介になるのであるが、ナポレオン臨終の箇所に

『……藍色の羅紗(らしゃ)の外套は帝(てい)がマレンゴの役*に着用されたものであるのだが、これで御遺骸(ごいがい)をおおった。手足を自由にし、左の腰間(ようかん)に御剣(ぎょけん)を帯(お)びさせ、胸上に十字架を持たせた。御遺骸(ごいがい)から少し離れたところに銀器を置き、その内に御心臓(ごしんぞう)と御胃(おんい)とを盛る……。』

という一節がある。

* マレンゴの役: 一八○○年六月にナポレオン率いるフランス軍とオーストリア軍が相対した、イタリア北部にあるマレンゴでの戦闘。ナポレオンはその勝利を記念して愛馬をマレンゴと名づけた。

この御心臓(ごしんぞう)と御胃(おんい)については

『……卿(おんみ)はまた朕(ちん)の心臓を取りてこれをアルコールに漬け、バタムに携えて行き、これを朕(ちん)が愛するマリー・ルイーズ皇后にもたらせよ、かつ朕(ちん)がために后(きさき)に言え、朕(ちん)は深く后(きさき)を愛して一日も忘れたることなしと……』

また

『朕(ちん)は卿(おんみ)に、朕(ちん)の胃を特によく診察検査して正確で詳細な報告を作り、これを朕(ちん)の太子(たいし)*に渡すよう依頼する……お願いだから、わが太子がこの苦しい病にかからないようにしてくれ……』と言っている。

* 太子(たいし): 皇位を継承する者のこと。皇太子、王太子とも呼ばれる。ここではナポレオンの息子であるローマ王を指す。
Nap-receis 50
二十代で夭逝したローマ王(ナポレオン二世)の肖像画
[Moritz Michael Daffinger, Public domain, via Wikimedia Commons]

どんな偉人でも豪傑でも子に対する純愛のためには盲目的となるのは下世話(げせわ)にいう『親馬鹿ちゃんりん』の一句につきている。

しかし、囚(とら)われ人として六年間の流刑地生活で、それを慰謝(いしゃ)するような書簡を一通も送らなかったマリー皇后の冷淡な所作と、病気で苦しく呻吟(しんぎん)しつつもなお思慕(しぼ)の情を最愛の后(きさき)の上にはせている帝(てい)の心持ちとを比べると―-もっとも、当時は島の内外の書簡の交通は実に厳重で、帝(てい)からの手紙もしばしば総督に抑留されたが、逆に欧州より帝(てい)に宛てた書信は問題なく届いたようだし――女の恋は橄欖(かんらん)の杜(もり)の火事のごとし*、手管(てくだ)に乗るな甘い男たちと言ってやりたい。

* 橄欖(かんらん)の杜(もり)の火事: 出所不詳。
橄欖とは「かんらん科」の常緑高木のことだが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくる橄欖の森は「オリーブの森」の誤訳という。また、女性心理の機微を描くのが巧みなモーパッサンの短編集『オリーブ園』(Le champ d’oliviers)も当時は橄欖の森と訳されていた。

ぼくは――ぼくに限らず、ナポレオンを偉人として崇拝するすべての人々はたぶん――その政策に、兵略に、その外交に、人びとの信頼を得るやり方に、彼の行くところ必ず現れる性格のうちに、必ず啓示される精神力に、離れようとして離れられない魅力を持つ、雄渾(ゆうこん)な思想の閃(ひらめ)きをみとめざるをえない。

こうした色彩を有すると信じられる彼の性格や気魄(きはく)は、ぼくをして過去の歴史上に現れた人物の中で最も崇拝するにいたった理由であろうと思う。清盛に見るような、秀吉に見るような、その鋼鉄をあざむくような冷ややかにして強固なる意志と、いったん志を定めるとあくまでも徹底せずにはおかないといった微動だにしない気概(きがい)は、いかにも男の中の男らしいという、快(こころよ)い響(サウンド)を吾人の耳に与えるのである。

しかも、その境遇がいささか異なるといえども、同じく悲惨極まる末路をたどりながらも、その一方で浄海入道(じょうかいにゅうどう)*は煩悩(ぼんのう)解脱(げだつ)の大事な瀬戸際に立ちつつ不可避の、悪病のむくいたる重い病にうなされつつ、なお、わが死後は一切の供養(くよう)念仏(ねんぶつ)はこれを営むに及ばず、ただ急ぎ右兵衛佐(うひょうえのすけ)の頭をはねて吾が墓前にかけよと豪語したが、それに比べると、なんとも心弱き大ナポレオンの臨終の遺言なることか!!

* 浄海入道(じょうかいにゅうどう): 平清盛(1118年~1181年)のこと。出家後の法号が太政入道浄海。

胃や腸の痙攣(けいれん)、深いため息、悲しい叫び声などに続き、絶え間ないむせび泣きに見舞われた臨終の苦痛は、病気に倒れた日から、湯や水も喉に入らず、その胸中の熱いこと、あたかも火のごとく、その寝ているところから四方へ四、五間(八、九メートル)内では熱気が燃えるように、ほんとうに怪しい病であった、とされる入道が死去した際の苦悩と比べてみると、かの入道にも負けない大なる執着を有し大なる意思の征服を遂行したナポレオンの遺言が、たとえようもなく見劣りすることこそ、口惜(くちお)しくも恨(うら)めしき限りである。

朕(ちん)はセーヌ河畔(かはん)、朕(ちん)の深く愛したるフランス国人民のうちに朕の遺骸が葬られんことを希望する。これは、まずまずよいだろう。

朕(ちん)がために后(きさき)に言え、朕は后を愛して一日も忘れたることなしと。

とは、さてもさても芸のない、のろけなることよ!

卿(おんみ)の目撃したるところをことごとく、彼ら(ナポレオンの母および一家)に告げよ。ナポレオン大帝は身に一物をも所持せず、たった一人で遺棄(いき)され、きわめて悲惨な状態で崩御したと。

というに至っては、はかなく落ちぶれて死んでいく人の声である。

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現代語訳『海のロマンス』99:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第99回)

ナポレオン臨終の部屋

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ナポレオンのデスマスク(Rama, CC BY-SA 2.0 FR, via Wikimedia Commons)

ド・ラ・カーズ伯の回想録に

『ロングウッドの家は、その入口は新設の室にて、この部屋は前室にもなれば食堂にもなりたり。その隣室は客室、その次には第三の薄暗き室ありて、これは帝(てい)の書類等を入れる部屋たりしが、後にこれを食堂とせり。この部屋に入りて右折すれば、帝の御室(おんしつ)の戸あり。御室(おんしつ)は二間続きにして、広さは等しく、二室いずれもはなはだ狭し。一つを書斎とし他を寝室となせり……。』

とあるもの、および

『帝(てい)は正六時にしてまったく絶命せられた。余(よ)は御髪(みぐし)を剃(そ)り、御骸(おんむくろ)を洗わせて、これを他の寝床に移す……。』(同上)

とあるもの、また

『御遺骸(おんいがい)はこれを寝室に安置し、室内をおおうに黒き羅紗(らしゃ)をもってせり。』

とあるものなどから推測すると、現在は塑像(そぞう)が安置してある部屋(当時は客間に使用されていた)の入口の長押(なげし)にある『皇帝崩御の間』なる銘板に十分な信用を置く以上は、当時ナポレオンが書斎とし寝室とした二間とは、現在はロングウッド駐留のフランス国代理領事兼ロングウッド周辺の土地管理者たるボージェ氏の私室となっている部屋で、ナポレオンはなにか偶然の出来事から客間だったこの翼面(ウイング)の第二室で発病し、そのまま起きることができず寝たきりになったために死後に母屋(おもや)の寝室に移したのか、または初め母屋の寝室で病臥(びょうが)したのを自分の希望で比較的に明るくて風の通りもよい客間に移させたまま、そこで永眠したと推定しなければならない。

食堂の左側半分は一時はモントロン伯一家の住居にあてられたが、後にナポレオンの図書室となり、並列している別棟は回想録の著者ド・ラ・カーズ父子および皇帝の随行者の居室にあてられ、元帥(げんすい)ベルトラン伯一家にはこれより二マイルほど後方に孤立している『仮小屋』が与えられた。

寝室にはナポレオンが常用していた小さな寝台と長椅子とがあり、マントルピースの左右には、孤島における六年もの軟禁生活でナポレオンをして最も力強く執着せしめた最愛の子ローマ王の額がかかり、マントルピースの上には同王の大理石の半身像(バスト)が置かれた。この半身像(バスト)が熱烈なるナポレオンの望郷の念を癒(いや)やすべく、わざわざ四千マイルの大海原を超えてセントヘレナに送られたとき、ことごとく反抗的態度をとった狭量なる小心者のハドソンローエはこれを破砕するよう命じて、ナポレオンから『利害が対立する問題のため彼らの加える圧政はなお耐え忍ぶ。しかれども、清らかで尊ぶべき家族間の愛情の表現をも阻止せんとするはこれを許しがたし』と憤怒(ふんぬ)の一喝(いっかつ)をくったという面白い逸話(いつわ)が伝えられている。

* ローマ王: 皇帝ナポレオン(ボナパルト)とオーストリア出身の皇后マリー・ルイーズの息子。
帝政下ではナポレオン二世とも呼ばれたが、父ナポレオンの死から十一年後、二十一歳で病死した(1811年~1832年)。
ちなみに、ナポレオン三世(ルイ・ナポレオン)はナポレオン・ボナパルトの甥(弟の子)で、二世より三歳年長。

その他ローマ王を抱擁(いだ)ける皇后マリー・ルイーズの肖像画、フレデリック大王使用の銀時計およびナポレオンがイタリアでの戦争で所持していた時計などが飾られてあった。しかし、これらの記念物は一八四〇年にことごとくパリに持ち去られて、今もなおブランテイション・ハウス(セントヘレナ総督官邸)に保存されているものはわずかにピアノ、ビリヤード台、食器棚、タンス、書棚などにすぎないとは、ぼくがジェームズタウン港の写真の裏に花押(シグネチュア)を依頼したとき、フランス領事ボージェ氏が親切に教えてくれた話の一節であった。

元来、ロングウッド館は一七四三年に総督ダムバーが予備糧食庫(よびりょうりょくこ)にあてるために建造した納屋(バーン)であって、後年に改造されて副総督の住居となり、一八一六年以降はナポレオンの寓居(ぐうきょ)となった、疎漏(そろう)きわまれる、間に合わせ的のものであった。

このように元は納屋であったためか、ネズミの類が大繁殖していたるところに侵入し、あるときはまさに着用せんとした帽子の中からネズミが踊り出でてナポレオンを驚かせたこともあったとか。

かてて加えて、安定した穏やかな気候とは言いがたいロングウッド台地の天候は、あるときは強風が吹き、あるときは暴雨にさらされ、あるときは妖霧(ようむ)に包まれるというように、すこぶる不健康なもので、屋外は精神(こころ)をくじく湿潤の瘴気(しょうき)に満ち、屋内ではビンの中にいるようなひどい暑さに苦しませられるという、ずいぶん手数のかかった厄介きわまる僻地(へきち)で、その上に給水も完全ではないときているから、賓客(ひんきゃく)たる世にも怖い囚人をまんまともだえ苦しませて死亡させる意図のある人々にとっては、世界に二つとない、おあつらえむきの流刑地である。

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現代語訳『海のロマンス』98:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第98回)

ロングウッドの館

Longwood House(source: Public domain, via Wikimedia Commons)

これぞ、まさに八十八年前の秋九月、自然の花や草も野や丘でいたずらに枯れ、流れる水もいたずらに減ってしまった悲しき朝(あした)、今歩いているのが一世を風靡(ふうび)した一代の益荒男(ますらお)を葬送したし道かと思えば、そぞろ身にしみて懐(なつ)かしく、青き丘に、生い茂れる千草(ちぐさ)の間を切り開いて通じた一筋の赤土路が、一世紀の長き月日にわたっていかに多くの階級の人々が足跡をきざんだことであろうと思いめぐらしたとき、数年来このかた感じたことのない思いが怪しくも浮かびだした。

これが、英雄は死してなお人身を支配するということであろう。不世出(ふせいしゅつ)の傑物と呼び、憎むべき悪魔とそしり、毀誉褒貶(きよほうへん)のちまたに今もなお彷徨(ほうこう)しとどまっているナポレオンも、その遺跡(あと)を訪れてみようとするほどのすべての人の心に、これほど絶大にして比類のない深い印象を与えたことを伝え聞いては、破顔一笑(はがんいっしょう)、「だから俺もハドソン・ローエに向かって、ナポレオン帝は永く歴史の花となり、文明国民の光となって、その口にのぼるべきや疑いをいれず云々(うんぬん)と啖呵(たんか)を切ったのさ」と、豪語するかもしれぬ。

精神的にはぼくとまったく別世界に住んでいる案内の老爺(ろうや)の教(おし)えるままに、秋空にくっきりと高くそびゆる二七〇〇フィート(標高八一八メートル)のダイアナス・ピーク(セントヘレナ島の最高峰)を望めば、白い馬尾雲(メイヤーズ・テイル)はしとやかなる高山の呼吸(いぶき)に静かに呑みこまれたり吐き出されたりしている。肌に快(こころよ)い秋風が白く光って通り過ぎた路に、うすら寒い影を落としながら、案内者はいろいろのことを話して聞かせる。遠く右手に見える富貴湾(プロスペラス・ベイ)から上陸した英人が一六七二年に二度目に、いったんオランダ人の手に委(ゆだ)ねたジェーズムタウンを背面攻撃で難なく攻略した物語、孤島に幽閉された不遇の身に自暴自棄(じぼうじき)になったナポレオンは死にたい死にたいと口癖のように言っておったことなど――

路はさらに一度うねって、ささやかな家が二、三軒、チョコナンとたたずんでいるところへ出た。里標(マイルストーン)が一つ立っている。この家と家の路地をつと抜けた案内のローレンス老は、同じ年配の老人と親しげに挨拶(あいさつ)している。その老人はまだ若いときセントヘレナに来たフランスの宣教師で、今は布教をやめて還俗(げんぞく)している先生だと後でわかった。

この抜け道がすなわちまっすぐにロングウッドの館の正門に通ずるのだと知ったときは、いささか意外な感じがした。

蒼(あお)く美しい芝生で縁をとった砂利まじりの路がゆるく右へ右へとカーブして細々となよやかに縮まり、一面に青い絨毯(じゅうたん)を敷いたような軽い勾配(こうばい)の斜面にスラスラと蛇のごとく這(は)い上がっていく路の末が見える。

漆喰(プラスター)塗りの白い建物が東西に長く、南北に短い丁字形(ちょうじけい)をなし、東西に立てる別の一棟と並行して灰色がかった空の下になつかしげに見えている。この美しい斜面を上りつくしたところに形ばかりの小さな粗末な門があって、これを中心として低い生け垣が四方に連なって「館(やかた」」とニューハウス(英国から新しい材木を送って築造したのだが、ナポレオンは移住せず死んでしまった。今は製麻会社の事務所となっている二階家)との境界を区切っている。この生け垣の外に一つの傾きかかった掘っ立て小屋があって、踏みしだいた飼い葉や燃えさしの薪(まき)などが散らばっている上に、自在鉤(じざいかぎ)*がかかって水桶(みずおけ)を片手にした現地の人が二、三人、ひそひそと話をしておった。

* 自在鉤: 鍋や釜などを吊(つ)るせるようにした鉤(かぎ)

毎度のこととて年中行事の一つでもあるごとく、つと無遠慮に入る案内者の後から、くぐるように半ばくずれかけた屋根のない冠木門(かぶきもん)を通ると、路の左側はひねくれた一本の高い松(まつ)の他はもうもうたる雑草の原であるのに対して、右側の庭の一般は見事な花園(かほ)となって、ゼラニウム、ダリヤ、ベツレヘムの星(オーニソガラム、和名オオアマナ)などが、この時期のこの館にふさわしい風姿(ふうし)を見せ、偉人の跡を偲(しの)べとばかり奥ゆかしく咲きにおっている。なかんずく、もう復活祭(イースター)が近づいたためか(三月三十日のことだ)、ところどころイースター・リリーが藤紫色の花弁をしとやかに風にそよがしているのが美しく目についた。花園(かえん)の柵に沿った道の導くままに、吾らは南北に連なる丁字形の家屋の一角翼(ウイング)の端に出て、ささやかなポルチコ*とベランダとを有する部屋へ通る。澤太郎左衛門のいわゆる『前房(ぜんぼう)』といった応接室であろう。三つの窓がうす暗く開いている右側の壁に沿ってかまぼこ形でビロウド張りの机があって、ペンと芳名録とが載せてあった。右側の中程には黒大理石のマントルピースがあった。

* ポルチコ: 屋根のあるポーチ

何気(なにげ)なく次の部屋へ入ろうとして、ふと入口の上に水平に渡された長押(なげし)を見上げると、粗末なラベルに Salon ou mour ut l’empereur (皇帝が逝去されたサロン)とある。すわとばかり、襟(えり)ならで浮き出しかかったカラーをただす。この涙のもようされるほどにお粗末に見ゆる十畳に足らぬ小さな部屋こそ、かの超人ナポレオンが Tete … Armee(武装の頭)なる二語を最後に、雄図むなしく孤島のがいろうに埋められたところである。一面にそっくれ立った、木目の多い、汚い、赤松の粗材(そざい)を用いた床板に落ちる初秋の力なき薄暗い影を見つめていると、いわれなき涙がとめどもなくにじみ出て、恨めししような癪(しゃく)にさわるような苛々(いらいら)した哀感がそこはかとなく胸にあふれた。今更、狭量(きょうりょう)にして無知なる敵愾心(てきがいしん)を悪しざまに乱用した小人物が腹立たしくもまた気の毒になる。

かつてはチュレリーにフホンテネブローに、あるいはマルメイゾン王宮に翠帳(すいちょう)珠簾(じゅれん)の豪奢(ごうしゃ)な生活に飽きし発乱治世(はつらんじせい)の大天才が、かかるいぶれき陋屋(ろうおく)に幽囚(ゆうじゅう)六年の月を眺めしかと慨(がい)すれば、いたずらに成敗を天の命に帰して一切の執着、隠忍を一笑にふしさる宿命論者の消極的の愚(ぐ)を嘲(あざけ)りたくなる。かく観じきたる時、現今(いま)は知らず一世紀前の英国紳士の武士気質(ナイトシップ)――謹厳にして常識的と天下に呼称しおれる――に忌(い)まわしい疑念を差し挟まずにはいられない。

かく心の興奮と、遊子俯仰(ふぎょう)の涙とに熱き目を上げれば、何一つ飾りのない薄寒い部屋の右側に、大理石のマンテルピースにまたがって幅四尺高さ六尺くらいの見事な鏡がある。

右側の壁に開ける、フランス式シャッターのついた二つの窓を通して見える、花美しき前庭と、うら哀しきロングウッドの至景(ちけい)とを一時にその中に映じている。この鏡と対面(むか)って二つの窓の間に薄い木片(きぎれ)の柵に護られ、月桂冠(ローレル)を戴けるナポレオンの半身像(バスト)が安置せられてある。絵で見、事績で想像した顔とはだいぶ勝手が違うようである。どことなく覇気(はき)とか精悍(せいかん)とかいう分子を去勢(きょせい)したような疲れた表情を見せている。それもそのはず、その下に

Buste àapes lel moule (par Chaudet) 型どりした胸像(ショードによる)
Copy from the Cast after death 死後の型からの写し

と英仏二カ国語で二行に分けて書いてあるのを見ると、この石膏像は帝(みかど)が死去した後の顔面の模型(デスマスク)から、ショーデ氏によって直ちに模造せる最も真に近い最も尊いものであることがわかった。

『……たまたまドクトル・ブルトンは石膏のある地脈を吾らに示してくれたれば、海軍少将マルコルムは直ちに命を与えて端艇(ボート)を海に浮かべ、数時間の後、石灰となれる土(つち)五塊(ごかい)を携え来たりたる故に……』と「ナポレオン回想録」に当時の実況を詳しく伝えている。

この部屋――ささやかな十畳敷きの見る影もなき室なれど、なんのとりえもないこのセントヘレナを懐古的、歴史的に世界に膾炙(かいしゃ)せしめている――と、Sallea manger (食堂)と銘うった次の室(へや)との間には小さな衝立があって、その後ろに暗い大きな室(へや)がどうぜんと見いだされる。この食堂はちょうど丁字形の根元に当たるので、これから左右の母屋の各部屋にはprivate(私室)と扉(ドア)に書いてあった。

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現代語訳『海のロマンス』97:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第97回)

ナポレオンの墓

稲妻のようにジグザグに覇王樹(サボテン)の谷を迂回(うかい)し、屈曲した角石(かどいし)だらけの路は、今日を晴れの日だと清浄(きよ)げに身なりを整えた色黒き案内の好々爺(こうこうや)の指さす杖の先にかすんでいる。混然として白い路と青い峰との溶けあうあたりには、ふわふわと巻雲の浮いているのが見える。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』96:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第96回)

怖ろしい大波(ローラー)

どこにもいろいろの名物はあるが、セントヘレナの名物となっている巨大波のローラーは実に怖ろしい。無風のとき何らの危険な前兆も予知できない状況で、間髪をいれず殺到してくる津波のことだ。

毎年、二月と十月にこのジェームズタウンに停泊する船は、きまって輪転性の、波長に比して振幅がすばらしく大きい長濤(スウェル)の襲来を実際に体験する。ことに、空はうららかで海は穏やかな、いわゆる天気晴朗(てんきせいろう)のときを選んで奇襲してくるから始末が悪い。だから、うかうかと油断してのんきにかまえていようものなら、それこそ大変である。知らぬ間に錨を引きずられて梅ケ香丸(うめがかまる)の二の舞*を演じないともかぎらない。セントヘレナの海浜の底質は花崗岩(みかげいし)で、錨爪(いかりづめ)のかきが悪いのだ。練習船の停泊は三月でいくぶんか危険な時期をそれていたが、どうしてまだまだ油断ができない。そこでエンジンは絶えずスチームを上げており、錨鎖(ケーブル)に注意し、錨の位置(ベヤリング)の変化に注意するなど、警戒おさおさ怠りなかった。

* 梅ケ香丸(うめがかまる): 練習船・大成丸が世界周航に出発して約二カ月後の一九一二年九月二十三日、門司港沖で停泊中、荒天のため舷窓から浸水して沈没した。新造船として進水してわずか三年目のことだった。

その長濤(スウェル)の方向は十一月より二月までは北東―北―北西で、五月より十月までは南西―西―北西である。

原因については、あるいは島の北西に短期間の強風(ゲイル)が吹いているからだとか、島の北東に低気圧(サイクロン)が生ずるからだとか、周期的に地滑りによる地震が海底に起こるからだとか、学説まちまちで一定しない。これが普通の年であれば桟橋(さんばし)や道路を洗われて陸上との交通が途絶(とぜつ)するくらいですむけれど、海神のネプチューンやトリトン*の腹の虫の居所が悪いことになると、それこそ惨憺(さんたん)たる光景となる。一八二七年七月のやつを除(のぞ)けば、一八二八年、一八四六年、一九〇二年の三回とも二月にやって来ている。そのうちで最も有名な一八四六年のローラーについて書いてみよう。

* ネプチューンはローマ神話の海神で、ギリシャ神話ではポセイドン。トリトンはポセイドンの息子。

二月十六日、十七日はきわめて息苦しく、温度は危険なほどいきなり急上昇し、夜中にはときどきスコールが来て磯浪(サーフ)はますます高く強く砕(くだ)け、ついに十八日には、海神の激怒はその絶頂に達して堤防は破れ、クレーンは飛び、倉庫はさらわれ、人畜は死傷し、埠頭(はとば)は影も形もない惨状(さんじょう)を呈した。停泊の船は一八艘(そう)のうち一三艘まで転覆(てんぷく)したり沈没したりして、苦しみに泣き叫ぶ阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界が海にも陸(おか)にも一時的に生じてしまった。無風(カーム)の津波であるから、帆船は風を利用して沖合はるかに難を避けることができなんだのがそもそのもの原因であった。当時、その修羅場(しゅらば)を目撃して描写(スケッチ)した郵便局長トーマス・ブルースの絵を見ると、多くのあわれな帆船が海に踊るイルカのようにもんどり打って、波の谷に沈んでいく様子がきわめてグロテスクに描かれてあった。

トーマス・ブレースの描いたローラー到来時の様子( “The Rollers of 1846” )

こちらは一部を拡大したもの

取り残された孤島

一五一三年にポルトガルの貴族が遠島(えんとう)を申しつけられて以来、世界に二つとない島流しの適所となったセントヘレナは「南緯一五度一五分、西経五度四十六分」の位置にあり、アフリカ大陸から西へ千二百海里、南米大陸から東へ千八百海里の、どこまでも青くて広い南大西洋中の一孤島である。大きさは南北に十里、東西に六里四分の三の長さで、面積は四十七平方マイルだという*。

* セントヘレナ島: 面積はメートル法に換算すると約122平方キロメートル。
日本でいえば伊豆大島よりやや大きく、瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)よりやや小さい。

中央にあるダイアナ峰(ピーク)を中心に、いくつかの狭い急峻(きゅうしゅん)な谷(バレイ)が四方に滑り落ちて、あるところ(東西二つの側)では急な断崖(だんがい)絶壁(ぜっぺき)となり、あるところ(南北二つの側)では比較的に緩慢な斜面を形成し、かろうじて停泊地となる入江(北のジェームズタウン、南のサンデイ湾)を抱(だ)いている方には、ロングウッドのような高くて乾燥した場所がある。これがセントヘレナの地勢である。そして、この谷といわず丘といわず高原といわず、いたるところ、何々(なになに)砲台(バッテリー)、何々(なになに)砲座の名のついた物騒(ぶっそう)な跡が、突っついて壊(こわ)したハチの巣のように散在している。

ロングウッドは別として、一般の気候は想像したほど悪性のものではないらしい。もちろん、夏は厳しい暑さであるが、それでも(華氏)七十五度から八十五度*である。降雨はなかなか潤沢で一年平均三十五インチ(九百ミリ弱)の雨量があるという。風は北西から南西の地方風が感じられることもあるが、地理的位置から多くは南東の貿易風に吹きさらされている。

* 華氏(かし)七十五度から八十五度: 摂氏(せっし)に換算すると23度~30度。

同島の貿易は、これを歴史的、人文的、地理的などいろいろの方面から見て、その栄枯盛衰には三つの要因がある。一八六九年のスエズ運河の開通は、わざわざ喜望峰をめぐって行われていた、従来の対東洋貿易に激(げきじん)甚なる革命を与え、南大西洋から多くの船影を奪い去ってしまった。結果として、一時は帆柱が林立し、「泊まりはいつも春景色だった」 ジェームズタウンの賑(にぎ)わいは短期間で消滅してしまった。これが第一の要因である。

一八〇三年に、かのフルトンが世界最初の外輪汽船をハドソン河に浮かべて以来、帆船の権威はゼロとなった。便利という二字は気概(きがい)とか風流を解するとか、神秘とかロマンスとかいうのんきな気分をすべて海の上から追いやってしまった。広大無辺(こうだいむへん)の大洋を横切る船は、わざわざ航路を曲げてまで、この小さくて、たいして役にも立たない小島に寄港するという不便利は避けるようになった。これが第二の要因である。

長い航海をする船乗りにとって、最も怖ろしかったものは青い新鮮な食物の欠乏であった。壊血病(かいけつびょう)の横行(おうこう)であった。ところが「青物屋の天才」が乾燥野菜と缶詰肉などを発明して以来、船乗りはもはや長い航海をこわがるものではなくなった。セントヘレナへ寄港して積みこみをしなくても南大西洋を航海できることとなった。これが第三の要因である。これら三つの要因が現実に裏づけされると、セントヘレナはあわれにも秋になって捨てられた扇(おうぎ)の悲哀(ひあい)をかこつ身となった。

セントヘレナは現在、英王室の植民地である。総督の下にあって重要な政務に参加し、行政組織としては協議に参加できる四人の評議員がいる。その中の一人は駐屯兵(ちゅうとんへい)の指揮をとり、総督不在のとき、これに代わる者である。島で命令を布告(ふこく)する全権はすべて総督の手中にあって、それとは別に立法部といったものはないが、評議員会は本国の王様の勅令の下に議会を設立する権利を保留している。現時点の総督はキャプテン・コルドーという人だそうだ。総督邸はジェームズタウンの南西三マイルばかりのプランテーションにあって、花崗岩(みかげいし)の二階づくりで、本島一の建物である。

飲料水は非常に潤沢で、清冽な泉が計四十カ所もある。その上で、この泉のない唯一のロングウッドをわざわざナポレオンの適所に選んだのは、英人の意地の悪さを極めて露骨に示しているといってよかろう。

灯火は全島みな、パラフィン・ランプかまたはロウソクである。ひとりジェームズタウンの素封家(そほうか)で有力者たるジャックソン商店のみは、自家用の機関とダイナモとを動かして電灯をつけている。

セントヘレナの花は音に名高きもので、その種類の多さと色彩と芳香とは、やさしく旅人の胸に迫るものがある。アラム・リリーやベコニア、ペチュニア、ゼラニウムの豊かな色彩、カメリアやクチナシ、アオイの姿の優美さ。そうした花々がごつごつした岩だらけの離れ島に静かに咲き出でて、浮世(うきよ)の栄枯盛衰(えいこせいすい)をよそに、もの言わぬ島守りのゆかしき心意気を示すと言わんばかりだ。

教育機関としては小学校が八つ(生徒六三九人)と洋裁(レイス)学校が一つある。寺院にはジェームズタウンにセントジェームズ派とセントジョン派が二つ、島の東区にセントマシュー派が一つ、東区にセントポール派が一つある。

人種はオランダ、ポルトガルの移住民と、ズールー等の南アフリカ原住民を奴隷的に輸入したものとの混血が大部分を占めて、英国人は極めて少ない。

同島には海軍の貯炭所(ちょたんじょ)があって、軍艦は一年に二回の割合で入港するので、現に練習船・大成丸が碇泊(ていはく)していた間もヒヤシンスという名前だけはすこぶる優美な巡洋艦(実は古い汚い船で、この航海で服役期間が満了すると水兵は言っておった)が碇泊(ていはく)していた。その他、英国のユニオン・キャッスル・ラインの船が三週間に一回寄港する。一九〇九年、入港船舶総トン数は一五九、七六六トンで、うち外国船はわずかに八三四トン、他はみな英国船であるが、今年は大成丸*入港のため外国船入港トン数の相場を狂わせるだろうと大笑いであった。

* 大成丸(初代): 2224トン。

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現代語訳『海のロマンス』95:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第95回)

ミセス・プリッチャー

はじめのうちは、ちょっと物知りそうに見える男をつかまえては、まず試験的に、今からちょうど五十年前にこの島を訪問した日本のサムライが立ち寄った家というのを知っているかと尋(たず)ねてみたものだ。

しかし、どれもこれもちょっとまごついては、やがて恐(おそ)ろしく思慮(かんがえ)深(ふか)そうな顔をして、じっと考えこむ様子を見せるのだが、まるで「年譜(ねんぷ)や記録じゃあるまいし、そんなことまで知るものか、しかし、先方は外国人のことだし、できるだけ同情した風な表情を見せてやれ」くらいの了見(りょうけん)で、苦しいながらもさも親切な風に見せようと、なんとか努力をしているのだと知れたので、罪なことだと、それ以来、聞かぬことにした。実際、そのうちの一度のごときは、十五、六の子供に五十年前の古くさい歴史を尋(たず)ねたのであるから、豆鉄砲をくった鳩のように、目ばかりパチクリさせていたのはまったく不憫(ふびん)であった。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』94:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第94回)

セントヘレナを奪取する方法

「……なあにわけはないさ。この島を奪取(と)るにはね……」
ちょっと驚かされる。
こいつ、なめてるなと、さっそく眉(まゆ)に唾(つば)をつける。
「……二つの急所がある。一つは南側のサンデイ湾から上陸し、その他はシューダー岬(ポイント)の裏手からこっそり失敬するのさ……」
Town of St James, Island of St Helena (1794)
海から見たセントヘレナ島のジェームズタウン(作者不詳、1794年)

十八ポンド砲*を二、三門、十二ポンド砲を数門、野ざらしに押し据(す)えた旧式の後装砲(きこうそうほう)**の砲坐(バッテリー)の前に立って、その歴史的な由来(ゆらい)について一通り講釈した後、彼はしごく真面目(まじめ)にこう話しだした。彼とは、セントヘレナのラダーヒル駐屯(ちゅうとん)要塞(ようさい)砲兵の○○君である。猫にもれっきとした名前のある世の中に、○○君などとむげに侮辱(ぶじょく)されては、本人が聞いたらさぞ牙(きば)を鳴らしてくやしがるだろうが、忘れたものは仕方がない。

* 十八ポンド砲: 砲弾の重さが18ポンドの大砲。ポンド数が大きいほど大型で威力がある。現在は口径を基準にした…mm 砲という呼び方が一般的。
** 後装砲(こうそうほう): 銃口(先端の穴の空いているところ)ではなく砲身の最後部から砲弾と火薬を充填する方式のもの。 続きを読む