現代語訳『海のロマンス』63:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第63回)
eyecatch_01

下、ケープホーンについて

こうした十分すぎる強迫観念にとらわれながらも期待していたケープホーンを、はなはだあっけない平凡な時化(しけ)のなかで通りすぎた。これは、一面からいえば、海に完全に慣れた結果であるかもしれないが、他の一面からいえば、単調な、いわゆるドッグライフの中毒である。欲求の刺激を受けない、のらくら生涯の満足である。波乱も起伏もない行事を日一日と送迎する生活にひたりきった結果である。

続きを読む

現代語訳『海のロマンス』62 練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第62回)

eyecatch_01

海上の墓場 上、マゼランの世界一周

……かくして世界周航の針路は、パタゴニアの西海岸に沿って北寄りに進み、次に西北、次に真西に向かい、羅針盤の針はマリアナ諸島を指している。


……さても浅はかな人知で察することができない、広大無辺(こうだいむへん)の海洋(うみ)のたたずまいよ!!!
白雲は悠々(ゆうゆう)たり! イルカは嬉々(きき)たり!!!
船は風に送られ雲に導かれて、洋上に出没する太陽を見ること九十八日に及んだ。


……かかるうち、飢餓(きが)と壊血病(かいけつびょう)は人々を襲い、ついには大枚二円八十銭にて一匹のネズミ(船倉などにいる)を買って食うのは、孔雀(くじゃく)の舌よりも、大牢(たいろう)の美食よりもぜいたくなり、と噂されるにいたれり……

と、マゼランの世界周航記に書いてある。

マゼランが自分の名前が冠せられることになるマゼラン海峡を発見して通過を開始した第一日は一五二〇年の十月二十一日で、当日は聖(セント)ウルスラの祝日*1であったから、海峡の右岸は「一万一千の聖女の峰」と名づけられた。左岸の陸地には、ちょうど焚火の火が見えていたことから、ティエラ・デル・フェゴ(火山の島)と彼らは呼んだ。

*1: 聖ウルスラの祝日とは、ドイツ・ケルン地方に伝わるキリスト教徒の聖処女伝説の聖女ウルスラを崇敬する日である。
現在は実際に存在していたのか疑問視され、カトリック教会の典礼暦からは削除されている。

かくて三十八日間の探検の後、彼らの船は、いまだ旧世界の船舶が訪れたことのない新しい海に浮かび出た。雨に風にさんざんに大西洋の時化(しけ)に苦しんできたポルトガルの船乗りは、意外にも平和な海を見て、嬉しさのあまり「太平なる海、太平洋」と命名した。

後年、ある詩人がこの「この偉大なる海の人」を賛美して、

風はおだやかに吹き、泡立つ海は白く散る
白き波頭、快(こころよ)き海風
われこそは、この静かなる海へ
浮かび出でたる第一人者なれ

しかし、ぼくはこのメル・パシフィコ(太平洋)には異論がある。ぼくらのいままでの経験によると、同じ気候(冬ならば冬)という条件下では、太平洋といえど、その時化(しけ)の苛烈(かれつ)さにおいて、ことさら大西洋に劣るものではない。

「風が吹けば、海が荒れ狂う」という諺(ことわざ)さえある。北部にはストームがあって、南部や西部にハリケーンや台風が存在する太平洋は、その面積が広いだけ時化(しけ)方もまた大変である。察するところ、豪胆(ごうたん)にして、しかも一方で思慮に富んでいたマゼランは、後輩たちが他日安心してその生命と船舶とを信頼させるにたる十分な効果をもたらそうとひそかに考えて、この美しく泰平なる名前をつけたのであろう。

中、ケープホーン回航

一月六日。南緯五十六度十八分、西経七十度二十五分。ディエゴ・ラミエズ島(ケープホーンの西南六十海里)まで五十五海里となった。

風は相当に強いが、心持ちは極めて爽快である。「ロワーゲルン*2下ろせ」の士官の号令も勇ましく、「バントラインで帆をたため」の笛の音もまた勇ましく、緊張したリーサイド(風下舷)の伝令にこたえて、当直員の興奮した復令(アンサーバック)が一瞬の油断を示さぬいきおいで、りりしく甲板(デッキ)に湧く。

*2: ロワーゲルン - 帆船の横帆の一種。帆の名称は、マストの上からロイヤル、アッパーゲルン、ロワーゲルン、アッパートップ、ロワートップ…と続く。
ちなみにゲルンは、(トップ)ギャラン(topgallant)がなまったもの。
帆船の種類や艤装によってマストや帆の数や名称も変わることが多い(セールトレーニングが行われている現代の帆船でも、船ごとに名称が微妙に異なっていたりする)。

パラパラと白い服の練習生たちが動いて、帆は絞(し)め殺されるニワトリの羽のごとくバタバタと揺れ動く。リギンを伝う黒い五、六の姿が見えたと思う間もなく、なにくそっというように帆桁(ヤード)の上で赤い太い手が一斉に動いたと思ったら、帆は意気地なくもスラスラと巻きつけられる。なんとなく頭脳(あたま)は興奮し、身内の肉が引き締まるような気分である。

何たる男性的な作業であろうぞ。

展開している帆(ほ)は、前帆(まえほ)とミズンの下(した)トップスルの二枚だけである。

さすがにケープホーンの風と海とは「海上の墓場」だけにものすごく吹き、ものすごく荒れる。風力は十一(時速八十マイル、風速三十五メートル)*3に達し、波はそのひとつの「山と谷」とをもって十分前帆(まえほ)を超えるほどに大きい。夏でさえこれである。一日の四分の三は暗黒(やみ)の海を行く冬季のケープホーン航海!!! 考えてみただけでもぞっとする。

*3:現代では、風の強さは「ビューフォート風力階級表」を用いる。これに換算すると時速八十マイルは最高ランクの十二を余裕で超え、台風並みである。
ちなみに日本で海上風警報が発令されるのは風力七、十を超えると海上暴風警報になる。

油が四か所から流され、ハッチはとっくの昔に閉鎖されている。ライフラインは縦横に引かれ、補助エンジンが点火され、「大成丸式荒天準備」はいかんなく準備された。

かくして四時間交代の半舷当直(ワッチアンドワッチ)の夜は明けて、一月七日の午前二時となる。

「海上の墓場」として船乗りに恐れられ、船乗り稼業の「免許皆伝道場」として海の子に親しまれ、「海のアルプス」として海洋詩人に歌われたケープホーンを、大正二年正月七日午前二時、その十八マイル沖をかわして無事通過した、らしい。

なるほど通過したのは間違いない。夏季(かき)のケープホーン沖は、海上一面にもやが立ちこめ、水平線もケープホーンも見えたものではない。

なんとなく物足りないケープホーン「通過」である。これが命を賭(と)して、一か八かのサイコロを振るところとはとうてい思われない。これが英国の海事会社で海員の志願者に課する試験項目のうちで最も大切なものとして「なんじはこれまで何度ケープホーンを通ったか?」とという質問が出るほどに、船乗りが誇りとするところだとは思われない。

現実に、網膜の上に灰色の岩塊を映じてフフーンと合点するまでは、実感が持てないし、なかなか納得できそうもない。

かくして、息のつまるような風と、むやみに荒れ騒ぐ波と、陰気な気持ちの悪い霧雨との間を、一時間七マイルぐらいの速力でしゃにむに乗り切った船は、午後三時ごろ、ズルロードの仮泊地に近づく。

近づくに従い、海はようやくおさまり、風ようやく死に去って、薄暮当直(イブニングワッチ)に立つ頃は、いままでの修羅場はどこへやら、しとしと細かいやわらかい雨が帆のない裸マストに降りそそぐなかで、船はユラリユラリとすましてござる。

ここにおいてか、ケープホーンの偉さ加減、恐ろしさ加減が、なんとなくしみこんでくる。

[ 戻る ]    [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』61:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第61回)
eyecatch_01

南太平洋の元旦

青海原に暮れ行く今年かな

明治四十五年と大正元年との両面を有する、記念多き、変化多かりし一年は、静かに広大な青い海の水平線のかなたに暮れていって、悲しい、嬉しい、華やかにして暗い、さまざまな色のぼくの記憶もまた、一緒に伴って去ろうとしている。いまさらに強い哀惜(あいせき)の念が胸に湧く年の暮れである。

続きを読む

現代語訳『海のロマンス』60:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第60回)
eyecatch_01

氷山の見張り

誰やらが二、三日前に、いよいよケープホーンだとささやいた。

続きを読む

現代語訳『海のロマンス』59:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第59回)
eyecatch_01

クリスマス・イブ

練習船(ふね)の中で、このクリスマス・イブを最もまじめに、最も楽しみにし、最も期待して迎える者はただ一人の英語教官、ミスター・フィリップである。サルーンにあるその部屋を訪問する。明るい花型の洋灯(ランプ)の下でタイプライターを打っている。机の上には、例の城(キャッスル)とタータンチェックの格子縞と紋章とが美しく描(か)いてあるスコットランドの絵葉書がある。

努めて愛想よく、努めて晴れやかに話すが、人情も風俗もまったく異なった外国の練習船(ふね)で、共に祝い楽しむ友もなく、一人寂しく、一年一度のこの日を送るという、さびしい情(おもい)が心の奥深く潜んでいる。

舌のまわる範囲で、どうやらこうやら慰めたつもりで食堂に帰ると、例のカリフォルニアの母、ミセス・ホラハンの贈り物であるジャムケーキの缶を開けて、みんなで楽しんでいる。一緒に出ているごちそうはカステラと紅茶。

いざ、祝(しゅく)さんかな、ホラハンのクリスマス、いざや歌わんかな、フィリップのクリスマス。

一、紅茶のカップ
あわれ紅茶のカップ
白きカップのめぐるとき
注げよ、いざや
海が荒れようとも風が強かろうとも
腹一杯に飲めや、君

二、甘きジャムケーキ、
あわれ甘きジャムケーキ
君がさかんにぱくつくとき
歌え祝せ
ミセス・ホラハンのプレゼント
眼中にケープホーンなく
勝手次第に高く笑へ。

海上のクリスマスだけに、ブドウの杯(ちょこ)は紅茶のカップで妥協し、王侯はケープホーンに変えてある。女好きの天才、アービングが聞いたら、さぞかし名こそなけれ師匠をしのぐ弟子たる若き詩人が大成丸にいるわいと、驚くことであろう。

餅つき

十二月二十七日。一枚の板を境界(さかい)に上甲板では餅をつき、教室では無線電信学の講義をやる。近頃珍しい、よい天気である。

当直員の中から、一分隊一人ずつの割合で「餅つき係」なるものが選出される。アンテナマストの根本で作った臼(うす)の中へ、コックがポッポと湯気のたつ餅米を放りこんでいく。それっと赤黒い太い二本の手が杵(きね)をつかんだまま、空を切って上下に動く。

「おい、こらっ、右足を出して餅をつくやつがあるものか、それにまたなんだ!? オーイオーイと決闘でもするようなドラ声を出して……」と、仁王様のようないい体格をした男が、こね方の一人に叱られている。

「ハ……ッ、やられたな、しかし進藤、きさまの手つきはなかなかうまいぞ。その水をつけた手でチョイチョイと餅の顔をなでるところは、まるで賃餅(ちんもち)屋の小倅(こせがれ)だね……」

「ハハ……」と笑いながら、太い毛むくじゃらな手がしきりと餅をこねている。

半固体形の餅を介して柔らかく杵(きね)が臼(うす)に当たる音は、帆に船に海に雲に反響して、天下泰平(てんかたいへい)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と、太平のときを謳歌しているように聞こえる。すこぶるおめでたい。すこぶる快活な勇ましい気持ちになる。

「……他の導体の電位をことごとく零とするとき、すなわち一つの導体が他のものと完全なる絶縁状態にあるとき、電池の蓄電容量はその絶対値にある……」とかなんとか、無線電信局長の講義している声が、明かり取りのスカイライトから上甲板に漏れてくる。

局長はまたスカイライトから漏れて入る上甲板の餅の音を聞きながら、「一つの世界が他の者と完全なる絶縁状態にあるとき、静電容量はその絶対値にある……」などと、腹の中で一般原則に帰納しているのだろうか?

[ 戻る ]    [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』58:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第58回)
eyecatch_01

太陽直下だが涼しい

十一月十五日。南緯(なんい)十六度二十八分。西経(せいけい)百三十度三十九分。赤緯(せきい)南十七度二十分*1。

*1: 赤緯は、天体の位置を地球から見て示した天空の座標。
地球の自転軸(地軸)の延長上に天の北極と南極、地球の赤道上に天の赤道があると想定し、天体の位置を緯度・経度(赤緯・赤経)で示す。
天体が特定の日時にどの位置にあったかがわかれば、逆に、測定者の地球上の位置も算出できる。

昨日と今日の本船の位置と赤緯とはほとんど同じで、太陽は日々ちょうど天頂に来る。東から吹いてくる海軟風(シーブリーズ)を受けて甲板に立つと、丸い麦わら帽子が小さい円となって影を作り、五尺二寸(ごしゃくにすん、約155センチ)の正射影はただひとつ零(ゼロ)である。

続きを読む

現代語訳『海のロマンス』57:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第57回)
eyecatch_01

下、島々のロマンス (南海の楽園タヒチ、ロビンソン・クルーソーの島、バウンティ号の反乱)

南緯十五度、西経百五十度の位置付近に、サモア諸島とツアモツ諸島の中間に、ソシエテ諸島なるものがある。この諸島の首府とも称すべき、人も景観も美しい島をタヒチという。第六次の世界周航に練習船が寄港したところで、人は情操に富み、自然は紫山緑水(しざんりょくすい)の景勝に飾られているという。

このタヒチの港の創造については興味深い物語がある。タヒチは他のソシエテ諸島と共に、現在はフランス領である。しかも、住民は皆「昔のパリっ子」の末裔(まつえい)であるという。「物語」はそれに関することである。

世紀(とき)はいつだか知らぬ。船の名も知らぬ。ましてや船人(ふなびと)の名前はわからぬ。ただ一隻のフランスの練習船がこの「南洋の楽園(パラダイス)」にやってきたのは確かである。そうして、艦長はじめ士官、乗組員のすべてが、この紫山緑水(しざんりょくすい)の美しい島と、色こそ黒いが見目(みめ)麗(うるわ)しき乙女の情緒と、ヤシ、バナナ、パイナップルなど豊富な果物とにあこがれて、栄光(さかえ)ある三色旗の名誉も、自治新興の大共和国の権威も、どこ吹く風と逃亡しさったのもまた確かである。

かくして「南洋の楽園」に自由の民、享楽の人の王国は建設されたという。

南緯三十四度、西経八十三度、南米チリのバルパライツの正西三百マイルの沖に、ファン・フェルデナンデスという島がある。一五七四年にスペイン人ファン・フェルナンデスによって発見されたものである。この島こそは、かのおなじみの『ロビンソン・クルーソー漂流記』*1の舞台である。

*1: ダニエル・デフォーの作品。
原題は 『船が難破して自分以外の乗組員全員が死亡したものの、アメリカのオロノコ川という大河の河口にある無人島の浜辺に漂着し、たった一人で28年間も暮らし、最後には不思議にも海賊に救助された、ヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と奇妙な驚くべき冒険』


小説では、舞台となった島を太平洋の孤島から南米大陸の大西洋に面した、実在のオリノコ川の河口付近に移して描かれている。大陸の内陸部にはオロノコ川という名称に似た川も実際に存在する。

西暦一七〇八年に英国ブリストルの商人たちが、二隻の半探検・半営利の帆船を送り出した。この船が船員の反乱と難破との辛苦(しんく)の後、この島に漂着したとき、アレハンドロ・セルカークなる者を救助した。これがかの「ロビンソン」本人であると信じられている。

このセルカークなる者は、スペイン政府の命令で、この島にブタとヤギとを移植すべき使命を持って渡航した群(グループ)の一人であるが、仲間はみな死に絶え、セルカークのみ七年間生き残ったのであるが、このセルカークの実話と近海の海賊の話とが例の「漂流記」を生み出したという。本船の今回の世界周航の第一予定寄港地には、この島も含まれておった*2

*2: ロビンソン・クルーソーのモデルとされるセルカークについては、現在では、セルカークは帆船の航海長で、船長との不和が原因で島に置き去りにされたとされ、期間は4年4カ月だったという。

「島々のロマンス」の中で、最も哀れに、最も情趣深く、最も面白いのは「ピトケアンの反乱物語」である。

一七八七年、英政府は、西インド諸島から採集したパンノキをピトケアン島(南緯二七度、西経一三〇度)に移植すべき使命*3を軍艦バウンティ号に下した。このバウンティ号がツアモツ諸島付近にさしかかったとき、当時の船乗りの間に珍しくなかった反乱が、例によって日常茶飯事のごとく勃発(ぼっぱつ)した。意気地なくも生け捕りとなって一隻の小舟で大海に押し出された艦長と一等航海士、三等航海士と地理学者などの専門家たちは漂流し、流れ流れて、ついに六百海里隔たったシモア島に着いた。

*3: この点は著者の事実誤認があるようだ。
アメリカ独立戦争のためプランテーション経営が行われていた西インド諸島の食料不足を憂慮した英国政府が「南太平洋のパンノキを西インド諸島に運ぶ」よう命じたもので、その使命遂行中に反乱が起きた。

一方、首尾よく反乱に成功した二等航海士以下の謀反者たちは、その後、タヒチ島に寄港したが、またまた乗組員の中に反乱を起こす者があって、二等航海士の上陸中、錨鎖(びょうさ)を切って逃げ出し、ついに「物語の島」ピトケアンへ来て永住したという。

この波の上を漂流する奇しき物語、波乱万丈のその数奇な運命については、かの詩豪バイロンによって『バウンティ号の反乱』という題の物語詩*4になっているほど評判なものである。

*4: 一連の物語は、『島』というタイトルの長編物語詩にまとめられている。

その詩の中には、ピトケアンの島の風俗、バウンティ号の候補生と原住民の娘との恋物語など、面白くうたわれている。

[ 戻る ]    [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』56:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第56回)

eyecatch_01

島物語   上、サンゴ礁の島々

練習船の朝は、衣服を洗う手に調子を合わせる節(ふし)が面白い洗濯屋の鼻歌に明けて、今日もまた快適な航海日和(こうかいびより)である。

イエーエー、ホーッと、のんきそうにブレース*1を引く当直員の歌に、暁(あかつき)の夢を破られて、上甲板に出ると、寝ぼけ眼(まなこ)をしかと見開けといわんばかりにサンゴの島(環礁、アトール)が間近に浮かんでいる。甲板(デッキ)は写真にとったり、スケッチをしたりする早起きの非番直員で一杯だ。

*1: ブレースは帆桁(ほげた)に付けたロープ。これを引いて帆の向きを調整する。

七十八の島からなるツアモツ諸島の一部、アクチアン群島の一つたるミント島*2である。

*2: 地名については当時と現在では異なる場合が多い。
ツアモツ諸島も、現在では実際の発音に忠実に「トゥアモトゥ」と表記されたりするため、アクチアン群島、ミント島が具体的にどの島を指すのかは不明。

Karta FP Tuamotus isl
(Source: Wikimedia Commons)

傘のように広がったヤシの木がサンゴ礁の中ほどにあって、その濃緑の葉かげは静かなる礁湖(ラグーン)にかかり、白い砂は堡礁(バリアリーフ)の波うち際を帯のように包んで、右の端にはしぶきがものすごく上がっている。

このミント島なるものはアクチアン群島中の最大のものであるという。午前七時半、ぼくが六分儀で観測したところによると、左舷正横(ポート・ビーム)二・五海里のところに角距離(アングラーディスタンス)二十九度四十分に見えたから、低くはあるがかなり長い島である*3

*3: 六分儀は、太陽や星の水平線からの高さを測定するための道具で、そのときの時間と高度で緯度経度が計算できるのだが、その応用で、これを横にして島の端から端までの角度を測ることにより、その島までの距離と組み合わせて島の長さを知ることもできる。
六分儀は実際に近年まで土木測量の分野でも活用されていた。

海図(チャート)で見ると、いわゆる「海抜が低い」小さな島々が、視線をはぐらかすように点々と散らばっているところは、諸葛孔明(しょかつこうめい)が魚腹浦(ぎょふくほ)に敷いたと伝えられる八陣の布石そっくりである*4

*4: 三国志の有名な石兵八陣の逸話。
数の上で劣勢な軍が少ない兵をあちこちに分散させて大兵力に見せるという作戦。
逃げる劉備(りょうび)を助けるために諸葛孔明が考案し、追尾してきた陸遜(りくそん)をこの作戦で撃退したとされる。

もしも、この海上の「八陣」に流れこんで首尾よく環礁にぶつかろうものなら、それこそ「大正の陸孫(りくそん)」である。うまうまとサンゴ礁で難破して「魚腹(ぎょふく)」に葬(ほうむ)られるばかりである。

いくら海洋(うみ)が好きでも、ネプチューンと仲良しでも、まだまだ魚腹に葬(ほうむ)られるほど粗末な体は持っていないつもりである。そこで用心した。一週間ばかり前から内心では大いに用心していた。船長と専任教官は南太平洋の地理と、サンゴ礁の成因性質についての知識を与え、一等航海士はサンゴ礁に対する見張り(ルックアウト)の注意と見つけ方とを教えた。

かくして見張り(ルックアウト)は昨日の午後から「二重見張り(ダブル・ルックアウト)」となり、一人は前のマストの上に立つことになった。そうして、いい風であるにもかかわらず、今日の午前九時には総帆(そうほん)をたたんで機走に移り、この危険ではあるが興味をそそる環礁(アトール)を研究・観察するため、わずか三、四マイルの距離を空けて通過することにした。やがて、ベッドフホードとかテナルンガという同工異曲の島が同じ色と同じ形をして灰色に曇った空の下に現れてくる。

サンゴ礁には通常バリアリーフ(堡礁、ほしょう)とフリンジングリーフ(裾礁、きょしょう)との二種類がある。前者はまた、さらに環形礁(かんけいしょう)と線形礁(せんけいしょう)との二つに分ける。

この環形礁(かんけいしょう)の中央の円形の湾がすなわち、よく地理書に書かれている礁湖(ラグーン)で、波静かにして底深く、よく大船・巨船の仮錨地となりうるといわれているものである。

この環形礁で最も有名なものは、このツアモツ諸島、近くにあるソシエテ諸島、小笠原郡島とポリネシアの一部とである。

そうして線形礁で世界最大と称せられる著名のものは、東豪州クイーンズランド沖に東南から西北に走っている千マイルの長さがあるグレートバリアリーフである。

このサンゴ礁の間を縫って進むときは、気温と海温の変化に注意し、晴雨計の昇降に留意し、風向風力、鳥群、魚族の異変等すべて、島に近づきつつある予報をとらえるのも必要であるが、最も努力し心を配って効果のあるものは、とにかく集中力を切らさず見張る(シャープ・ルックアウト)ことである。

忠実にして機知と決断力に富み、優秀なる観察力と周到なる心配りと適格な判断力を有する見張りが、百尺(約三十三メートル)の高いところで、鋭い両眼をまんべんなく水平線の上を走らせていることを自覚するとき、安心と信頼とは人々の心に行き渡る。

というわけで、見張りに立つものは常に海水の変化に注意し、水平線の空の色、雲の形に目を配り、波の砕け(サーフ)や海水(みず)の白い飛沫を見逃すまいと心がけなければならない。

ことに海の色の変化は有力なサンゴ礁発見の手がかりとなるもので、太陽(ひ)を背中にして航海するときは、水面下四、五尋(ひろ)*5までのサンゴ礁は、そのすぐ上の水に淡い褐色か緑色か暗緑色かの色の変化を生じさせるので、たやすく危険を予知しうるとのことである。

*5: 尋(ひろ)は長さの単位。一尋は大人が両手を広げたときの長さ(約1.8m)。四、五尋は7~8メートル程度。

[ 戻る ]    [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』55:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第55回)

Corrientes-oceanicas-en

三、赤道祭の起源

今日の艦船で行われる赤道祭(せきどうさい)なるものは──とはいうものの、汽船はもちろん、商売でやっている帆船でも現在ではほとんど見られないものとなっている。従って、まだこのクラシカルな迷信的儀式がまじめくさって行われるのは、軍艦か例の花魁(おいらん)船に限る──船長や士官を除く乗組員のうちで、最も多く赤道通過の経験を持っている者が海神ネプチューンに扮(ふん)し、多くの従者を引き連れ、鳴り物入りで、船長の手に刺股(さすまた)か南半球への航海を許す鍵を渡すことになっている。

しかし、この子供らしい芝居っけたくさんな儀式は、後世になっておとなしい船乗りによって発明されたので、赤道祭の起源なるものはまったく毛色の違った別種のカルチャーである。

「一般に赤道通過の際に挙行される実際の赤道祭を目撃した者は、けだし絶無(ぜつむ)ならん。ただ、ある者が近世において、往時に行われていた海上習慣の変形したものを見たのにすぎないだろう。」
と、ある本に書いてある。

十七世紀ごろ、ラス・オブ・フホンテノーと呼ばれる難所を通過するフランス船には、俗に「洗礼」と称する儀式があった。それは、船の士官の一人が、ガウンめいた長いローブを着て、頭には滑稽な帽子をかぶり、右手には木製の剣を下げ、左手にはインク壺を持ち、炭粉で顔を黒々と塗りたてて登場してくる。

この化物(ばけもの)めいた男が「難所通過」の未経験者を呼んで、その面前に膝まづかせ、持っていたインクで額に十字を描き、下げた木刀で肩を打つ。そばにいる介添人が一杯のバケツの水を頭からかぶせる。この間、終始無言であった男は、所持したブランデーの瓶一本をメインマストの根本にうやうやしく置いてくる。

これで儀式が終わり、ブランデーは古参船乗りの胃の腑(ふ)へ送られる。いや、まことにありがたい儀式である。

これとほとんど同様の観念に基づき、同様の習慣から来たもので、さらに一層猛烈な儀式は、オランダの船がバーリング岩の沖を通るときに行われたという。

それは、いわゆる「洗礼」される者を罪人のように縛って、これをメインのヤーダーム(帆桁の端)に吊るし、二、三度、引き上げ、引き下ろす。もしそれがオランダ国王または船長の名をもって四回に及ぶときは、その者の名誉はいとも尊(たっと)いものとなる。有難迷惑(ありがためいわく)である。かくして、海にひたされること数回に及び、最初の一回は銃を撃って敬意が示される。いよいよ有難迷惑である。

この「海水の洗礼」が嫌な者は、船員であれば十二ペンス、士官ならば二シリングを出すことになっている。この「贖罪金(しょくざいきん)」が酒肴料(しゅこうりょう)となるのは前のものと同様である。

このほか、オランダの船は「キール・ホーリング(船底くぐり)」といって、前記のようにヤーダームに吊り上げた「洗礼者」を、海に入れ、竜骨(キール)を超えて反対側の舷(たげん)のヤーダームに吊り上げる風習が行われていたという。

しかし、ぼくはときどき考える。そんな乱暴な目に逢いつつも、汚れざる海洋(うみ)の神秘を味わい、海を恐れ、海を尊(たっと)び、海を迷信的に見た昔の船乗りを不幸であると言おうか、幸福であると言おうか、と。

四、赤道の三海流

海洋(うみ)に生まれ、海洋(うみ)に生き、海洋(うみ)に死する船乗りに最も必要なものは、海洋(うみ)の知識である。心ひそかに泣きつつも、海の神秘と海の懐疑とを解かねばならぬ。

気圧を研究し、風を分解し、潮流ビンを捨てて海流を探るのもそのためである。

太平洋の赤道付近には、北赤道海流、南赤道海流の二つの環流(かんりゅう)と、反対海流(カウンターカレント)という海流と、都合三つの流れがある。

北赤道海流とは、地球の表面温度の関係から南洋諸島の北辺に生じ、西北に走ってフィリピン群島、台湾、日本東海岸を洗ってカリフォルニア州西海岸に回流してくる例の黒潮なるもので、これがカリフォルニア州西海岸で屈曲して再び発生地に帰着するものである。

南赤道海流もまた一つの順回流で、ただ向きが北赤道海流と違って左向きとなるだけである。すなわち、これは赤道の南辺に発生し、南極より北東に走って南米のパタゴニア沿岸で屈曲しきたる極海流を併せて東豪州海岸に向かうもので、その流れの幅も速力(一時間三海里以上)もはるかに北のものより優勢である。

反対海流(カウンターカレント)は例の北東と南東の二つの貿易風帯から生じる表層の「皮流(ひりゅう)」が西に流れてフィリピン群島に衝突し、そこで折り返して反対に東へ東へと流れるのを指すので、ちょうど両環流の中央を走り、その速力は一昼夜で七十海里に達する。

北赤道海流については、ここに面白い話がある。かつてサンフランシスコ航海のとき、本船から投げた潮流ビンが流れ流れて、一年あまりの後、台湾・花蓮(ホアリエン)港付近で一人の生徒の手に拾われ、学校へ送られたという数奇な事実のため、同海流の流向(りゅうこう)と流程(りゅうてい)とを推測することができたという。

[ 戻る ]    [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』54:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第54回)

eyecatch_01

赤道通過(クロス・ザ・ライン)

一、海神ネプチューン

練習船大成丸は十一月七日、初夜当直(ファーストウォッチ)の一点鐘(いってんしょう)、午後八時半*1
に無事に赤道を通過した。

*1:大成丸の当直は、夕方の四時から翌日の朝の八時まで、
四時間ごとに分担がなされていた。

午後四時から午後八時まで: 薄暮当直(イブニングウォッチ)
午後八時から深夜零時まで: 初夜当直(ファーストウォッチ)
深夜零時から午前四時まで: 中夜当直(ミッドナイトウォッチ)
午前四時から午前八時まで: 黎明当直(モーニングウォッチ)

担当する四時間を三十分ごとに区切って合図の鐘を鳴らすが、
鐘をつく数を順に増やし、
それぞれ一点鐘、二点鍾、三点鍾~八点鍾と呼んだ

科学万能で神秘的なものを排する「散文(プローズ)の世の中」である。自分ばかりは旧式なロマンチックの帆船に乗って、非人情や無刺激な生活を送っていると思っても、それも結局は主観的観念に過ぎなかった。

二十世紀の赤道の海には、海神(かいじん)ネプチューンの威霊(いれい)も現れなかった。世が世ならば……とホロホロと大きな涙をこぼして海神も嘆息されたろうが、一方、ぼくらも、品川を出帆して以来、期待し憧憬(しょうけい)した赤道通過祭が、オジャンになって少なからず落胆したしだいである。

海洋の神秘があざけられ、オーシャン・スピリットがその権威を失い、大洋の情趣や景勝が忘れられていくのを見ているネプチューン殿もつらかろうが、かのアホウドリと共に阿呆(あほう)といわれ馬鹿にされ、世間からは時代遅れの余興のように見られている帆船乗りも、また情けなく、つらいことではある。

船が利口になって帆船は汽船となり、人が利口になって船乗りが海員となり、茫漠(ぼうばく)とした大海の上から「帆とロマンス」とを払い去った現世で、古きにあこがれ新しきを呪(のろ)い、夢のごとくおぼろげな過去の愉悦(ゆえつ)と追憶に生きうる者は、かくいうぼくと、ネプチューン君、君との二人である。さらばネプチューン君!! 君の権威と威力(ちから)と慈悲とを祝福せんかな。

一、その一挙手は大波をゆるがし、
その一投足は陸と人とをふるわす。
わがネプチューンのその権威、
わがネプチューンのその威力(ちから)

二、その殿堂たる大洋に大河は朝貢(みつぎ)し、
その懐(ふところ)に魚類が楽しむ。
サンゴの宮、瑠璃(るり)の花園(にわ)、
われはたたえん、その得と威と力。

三、踊れるトリトン/ネプチューンと、歌える海の妖精(フ)、
声うるわしく人を魅了(みする。
かのサイレーン(海の精)こゆ、
千尋(ちひろ)の底の常春(とこはる)の楽土(くに)。

二、五目飯とカステラ

十一月七日正午の観測によれば、船は今夜の八時ごろに赤道を超える(クロスする)という。
船長の考えで、赤道祭(せきどうさい)などというお祭り騒ぎは止して、ごちそうを食べ、のんびりくつろぐだけの休日になる。海上生活の情緒的な行事として長い間、人々に想像され期待されていた赤道祭は、ウヤムヤに逓信省(ていしんしょう)所属の練習船・大成丸の甲板上から消え去った。したがって、白いひげを生やして、片手に三叉槍(さんさそう)、片手に地球をささげた海神から、「南半球の鍵」をもらう荘厳なる儀式もなく、トリトンや海の妖精(シーニンフ)や海の精(サイレーン)等の従者たちの扮装(ふんそう)も見られなかった。

ごちそうが出る休日として、正午(ひる)に五目飯(ごもくめし)、卵とじ、吸い物、きんとんという贅沢(ぜいたく)な献立を頂戴したぼくは、おやつに、カステラを肴(さかな)にサイダーの祝杯をあげた。

[ 戻る ]    [ 次へ ]