現代語訳『海のロマンス』87:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第87回)

五、スコット大佐の弔慰(ちょうい)祭

ぼくらの船がケープタウンに入港した際、最も人気のある重要な時事問題は、議会の開会とスコット大佐*の哀悼(あいとう)会であった。

* スコット大佐: ロバート・ファルコン・スコット(1868年~1912年)。英国の海軍軍人・探検家。
大成丸が世界周航に出発した一九一二年、スコット隊は二度目の南極大陸探検で南極点に到達したものの、先着争いでは犬ぞりを使ったノルウェーのアムンセンに敗れ、その帰途に遭難し死去した。

スコット大佐はその最後の偉大なる航海に出る前、その航海準備のため長い間、ケープタウンのそばのサイモンス湾に滞在し、自然にケープタウン人士とも密接に往来していたため、極地におけるその悲壮なる最後は甚大(じんだい)なる痛ましき反響をケープタウン及び付近の人心に与えて、同情や哀悼(あいとう)の声はいろいろの行事において具体的に現れた。二月十四日、カテドラル寺院の弔慰祭(ちょういさい)もその具象化した哀悼(あいとう)の表現の一つであった。宰相ボタ将軍以下の内閣大臣、市長ハリブ氏、アドミラル(提督)キングホール、ゼネラル(将軍)ヒックマンという陸海の両将軍等、南アフリカの重要人物が参列し、重々しく厳粛(げんしゅく)な宗教儀式が行われた。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』86:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第86回)

三、温和な気候

さすがに鳥の悲しさである。客観的に考えることのできない春のヒバリは、自分ほど上手に歌いうる者はなかろうと信ずるゆえに、身も世もなく空で短い春の日を惜しんで鳴き続ける。自分ほどに空高く舞い上がりうる者はあるまいと信ずるゆえに、薄き翼の焦(こ)げるのも忘れて、春の太陽(ひ)近く飛ぶ。ケープタウンの住民が、ケープタウンの気候は温和(モデレート)だと自賛するのも、このヒバリに似たところがある。彼らは言う。

「およそ世界広しといえども、ケープタウンおよびその周囲のごとく、一年を通じて気候より来たる生活状態の障害を度外視(どがいし)することのできる土地はあるまいと」

うぬぼれるのは各人勝手である。ただ人間は現に自分がうぬぼれつつもなお、わが信ずるところが単なるうぬぼれにすぎないと他人から笑われたくないという矛盾した思いを抱えているため、ただちにこの問題を他人の判断に訴え、なるだけ色よい賛成の返事を得てようやく安堵しようと努める。勝手なものである。ここにおいてか、お世辞(せじ)迷惑なるものが起こり、巧言令色(こうげんれいしょく)なるものが生じる。

「ケープタウンの気候(ようき)はどうお考えになりますか」と聞かれたとき、汽車にロハ(無料)で乗せてもらったり食事に招(よ)ばれたりしている身には、「はい。しごく結構で快適な気候(ようき)です」と、相手に調子をあわせるより他は答えようもない。ところが、上着一枚下は滝のような汗をかいており、ワイシャツもカラーも汗が染み出して目も当てられないしだいである。

ある本に、こういうことが書いてある。

「模糊(もこ)たる水平線のかなたにテーブル・マウンテンの青い姿を見いだした人々の胸には、炎暑地(ヒート・アショア)として名高いケープタウンがすぐに想起された。あそこはどんなに暑いだろうと期待する人々も五、六マイルの近距離に近づいてなお依然(いぜん)として涼しくて爽(さわ)やかであるのを知ると、おやっとばかり驚いた。

しかし、この驚きと喜びは単に一時的なものであった。船がビクトリア・ベイスンの桟橋に着いたとき、燃えるような南半球の太陽の直射が激しく青い蒼穹(そら)から降ってきて、たちまちのうちに、人々に熱せられた釜の中にいるような苦しみを与えた。乗組員が三ヶ月も海の上に浮かんで得られる黒さを、わずか十五分間ほどの間に桟橋で焼きつけられたのである。

この急激なる温度の変化は、太陽の直射をさえぎる層雲が、海岸線から五、六海里ほど離れた海上から内側のケープタウンの空に発生すること希(まれ)なることに基づくのである。」

ケープタウンの住人の言葉に信用を置くべきか、この本の言うところに従うべきかは疑問であるが、二週間の停泊中、これぞという爽快感を味わわず、なるほどヒート・アショアだなと感じたのは確かである。

四、フラワーデー

水曜日と土曜日とは花を買う日(フラワーデー)と決められていて、植民地の雑(ざっ)ぱくな空気も少なからず融和(ゆうわ)され美化されて、道路から受ける直線的な印象も、そのために一種の余裕のある丸みを帯び、閉塞(へいそく)しかかった市民の情緒をほぐれさせるように見える。

例のアスファルトの歩道と、木口(きぐち)を並べて車道との境を画する縁石(カーブ・ストーン)に寄せかけて、ヒース(エリカ)、ベリーダイサ、カイゼル・クラウン、エヴァーラスティング・フラワー(永遠に続く花、いわゆるドライフラワー)など、紅紫(こうし)とりどりの花が朝の沈んだ空気の中に、気高い花の香りを放ちながら、もったいなくも粗末なカゴの中に同居している。中には「ベテルヘムの星」とか「テーブル・マウンテンの誇り」とか、あるいは「化粧(よそお)える淑女(レディー)」とか、なかなか上品な気どった名前をいただいているものもある。

こう書いてくると、想像力の強い読者は美しい花にふさわしい田舎娘のしとやかさを連想するだろうが、ここのは少し毛色が違って、花売り娘でなくて花売り男である。それもただの男ではなく、目と歯に鮮やかな白い色を見せた顔の黒い、アフリカの人口のほぼ半分を占めるバントウー族である。しかし、商売が商売であるからあまり無鉄砲に野郎状態を表した者はなく、破れたりといえども多くは中折れ帽か鳥打ち帽(ハンチング)をかぶり、牛皮の靴をはいている。時によると、頭からスポリと白い布(きれ)の袋をかぶったズールー娘の黒い手に、赤いフューシアの花が売られているのを見ることもある。無心の花が亡国*の少女の手に抱かれて、白人の客間を飾るべく塵(ちり)の多い街頭に売られているところは、なかなか豊かな気分に富んだ図である。

花で思いついたが、一九一〇年に南アフリカ連邦から輸出した「押し花」**の総価格は、七万五千円***という侮りがたい巨額に及んだそうである。

* 亡国: ズールー王国はアフリカ大陸のインド洋岸(東部)にあった君主国。
一八七九年、イギリスとのズールー戦争に敗(やぶ)れて南アフリカ連邦に組み込まれた。
** 押し花: 現在も輸出されているドライフラワーなど、何らかの保存加工を施した花卉(かき)類を指す(と思われる)。
*** 一九一〇年当時の七万五千円を日本の消費者物価指数(CPI)の推移に基づいて現在の価額に換算すると約2億6千万円になる。

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現代語訳『海のロマンス』85:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第85回)

ケープタウン雑記
一、博物館

すこぶる古色を帯(お)びた大小さまざまな石塊(いしころ)の表面に、かすれた横文字の跡が、かすかに、かすかに匂(にお)っている。インスクライブド・ストーンといって石に文字を刻んだもので、昔、テーブル湾を訪れた船が記念として書き残していったものだという。突拍子(とっぴょうし)もない気まぐれな事柄(ことがら)について、つじつまの合う連想を加える癖のあるぼくは、このときどこかに「美しいビクトリア、ときにはそのかわいらしい口元であどけないくしゃみをしておくれ」といった風な文句がありはしないかと夢や幻を探すように見まわした。が、事実は冷淡にして無愛想であって、そんな空頼(からだの)みはよせよせと忠告されて、従順(すなお)に左側の部屋へと入りこんだ。暑い夏の午後の光線(ひかり)は南アフリカ博物館の年とった玄関番の顔を残酷に照らしている。

向かいの部屋で盛装した二人の婦人(レディ)が日頃のたしなみをすっかり忘却したという体(てい)で、腰をまげてキャッキャと笑っている。重要な用件がある風を装って海産物を陳列した部屋を急ぎ足に通り抜けて先へ行ってみると、ズールー、ブッシュ等のアフリカ原住民の身体やその習性・風俗を示す器具などが配列されている室内の一隅に、かつて地理の先生から聞いたアフリカ最古の住民といわれるコイコイ人の女性が六体ほど安置されていた*。二階にはマンモスやシマウマやムースの大きな剥製(はくせい)の獣(けもの)が並べてあったが、直径六寸(約十五センチ)を超える大きな二本の角を持った犀(さい)はちょっとうらやましかった。

* 原文には身体的特徴についても述べられていますが、現代の基準に照らして割愛しました。

帰りがけに金剛石(ダイヤモンド)室をのぞいたら、黒いの白いのとさまざまな小さな石がキチンと台に乗って勢揃(せいぞろ)いをしている。中に「アフリカの星」とかいうエンドウ豆大のやつが王様然と幅をきかせて光っておった。この手で例の貫一*を悩ましたかと思ったら、そういうものとは関わるまいと目をおおってそこそこに退却した。ただ左側の二番目の部屋に「一七三〇年オランダ・インド会社の総督イメリード、これを持ち帰る」とかいう掲示の下に、青銅製の蝶番(ちょうつがい)が見る影もなくさびついた一つの書類箱(キャビネット)が大事そうに置いてあったことが記憶に残っている。

* 貫一: 尾崎紅葉の小説『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の主人公。
熱海の海岸での間貫一(はざまかんいち)と富豪に嫁(とつ)ぐお宮とのやりとりは何度も芝居化され、よく知られている。
この作品は大成丸が世界周航に出航する十年ほど前まで読売新聞に連載されていたが、作者死亡により未完となった。

二、美術館

博物館の後方にあるアート・ギャラリーをのぞいてみると、階下は有名な植民地の画家の作品を並べた部屋と、大理石、石膏等の塑像(そぞう)を陳列した部屋とに仕切ってあって、階上の明るい部屋はただ一面に大小色々の額が所狭しと陳列されていた。

ここには博物館のような陽気な見学者は一人もなく、分別くさい顔をした若い男や静寂(しとや)かにふるまう淑女(レディ)の静かな群れが、軽いかかとを静かに青い敷物(カーペット)の上に落としているばかり。

船に帰っての下馬評では「プリウ・ガウン」と題した貴婦人の肖像と「禁じられた果物(フォービドン・フルーツ」というエデンの想像画が最も人気が高かった。

テーブル・マウンテンの中腹にヘンリー・ハッチンソンとウッド・ヘッドという二つの貯水池(リザーバー)がある。堅固な花崗岩(みかげいし)をコンクリートで固めた厚いダムが四方に延び、すこぶる念入りにできている。この貯水池こそケープタウンの十万人の喉(のど)を潤(うるお)し、なお余ったものをボタニカル・ガーデンその他の花畑に供給する水源である。

これらの貯水池では三月から九月にわたる雨季(ウェット・シーズン)に水があふれるほどに蓄えられて、太い鉄管で処理場に送られる。飲用水はそこの処理装置で濾過(ろか)したものを用いるのであるが、いろいろな化学成分が十分に除去できないためか、決して清冽(せいれつ)とか透明とかいう形容詞を冠することはできない。少なくとも、胡椒(こしょう)を振った水くらいには混濁している。

本船でもその水を多少は積み込んだが、気味の悪い赤い色を見ては、喉(のど)の括約筋(かつやくきん)が反射的に飲むのを拒絶するほどの不人望(ふじんぼう)極(きわ)まる種類のもので、やむなくこれを洗濯用に使ったほどであった。ケープタウンに住む人々もこれにはさぞかし苦しんでいるだろうと想像したのであるが、あるいは案外に平気かもしれない。今頃は先生たち、「必要は発明の母であって、なんでも臨機応変(りんきおうへん)に対応しなけりゃ」とかなんとかと言っているかもしれない。

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現代語訳『海のロマンス』84:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第84回)

グルート・シューア(続き)

グルート・シューアの部屋はいずれもさほど大きくない。客間の鏡板(パネル)は実に見事なインド産チークでできていた。すこぶる神秘的な構図の大きな織物のタペストリーが壁にかかっている食堂には、十五、六人も並べるような大きな長方形の食卓が置かれてあった。

「日曜休日ごとに市民に庭園を公開したローズはまた、その食卓で食事することの名誉と愉快とを彼らに与えた」と本に書かれているのは、これであろう。また歓談(かんだん)笑語(しょうご)のうちに本国からわざわざ下ってきた名士と南アフリカの政策を議論したのもここであろうし、イエズス会の一長老の金剛石(ダイヤモンド)発見の風変わりな新しい方法を揶揄(やゆ)したのもここであろう。

そもそもローズは食卓において自分から話を進める人ではなくて、客が意見や理想を述べるのを微笑をもって静かに聴取するといったタイプの人柄であった。

彼の治世と事業と人格とを生みだした研鑽(けんさん)の部屋、つまり図書室は居間の次にある。布張りの本や革装の本、山羊皮を使った本などが色々の美しい背皮を厚いガラス窓の奥に輝かせ、ギッシリと大きな本棚に積んである。

日頃からローズはギボンの不世出の名著たる『ローマ帝国衰亡史』を読んで、シーザーの人となりや彼に心躍らせていたとのことである。そして一方、彼の寝室にナポレオン大帝が使用したと伝えられる古色蒼然たる時計(クロック)と、ナポレオンの立像とが飾られてあるのを見れば、英雄崇拝(えいゆうすうはい)の傾向がある人々の系統について、面白い事実を発見することができる。

遊戯室の二階はローズの寝室で、その大きな張り出し窓(ベイウインドウ)は人間界の巨人が朝な夕な天然界の巨人たるテーブル・マウンテンに親しんだところだという。

もともと日本人は偉人ゆかりの跡とか、一族存亡の跡とかいう歴史的に著名な場所に到(いた)ると、たちまちインスピレーションに感銘して、むやみに感慨にふけり、むやみに憧憬(どうけい)し、追憶して、同情的にかられた涙もろい気分に陥(おちい)ってしまうのが癖(くせ)である。

ところがこの第一の癖(くせ)に次いで、その強烈な感興(かんきょう)も決して長持ちがしないという第二の癖(くせ)を十分に発揮するので、はたの者は幸いにしてあまり当てられずにすむ。まことに淡泊な、あっさりしたよい気象である。どんな偉人でも、護国救世(ごこくきゅうせい)の大人物でも等しくお宮や銅像で葬(ほうむ)り去られたが最後、きれいに忘れられてしまう。これでようやく義理がすんだというようにすましてしまう。古い昔のことは言うに及ばず、今日この頃の谷垂(たにだれ)の墓地*を訪問した者はなるほどと合点するであろう。

* 谷垂(たにだれ): 現在の東京都品川区西大井。初代内閣総理大臣・伊藤博文の墓所がある。

こういう気象から論じていくと、キンバレーの金剛(ダイヤモンド)鉱を英人の権力内に収め、かのローデシアを創出し、北方のいわゆる国土拡大(グレイト・エキスパンション)に努力し、ケイプ植民地の首相となってはよく善政をしいたローズのために、デビルス・ピークの中腹に広壮な一大記念堂を設立して、どんな男でもいざとなるとローズ、ローズと口癖のようになつかしがる南アフリカの英人は、執拗(しつよう)なネチネチした思いきりの悪い国民かも知れない。

タウンからワインバルグ行きの汽車に乗る人は終始(しゅうし)右側の車窓を通じて、縦線が特に目立つ白い建物を、うっそうたるデビルス・ピークの緑葉の間に見いだすであろう。

ゆるやかな傾斜をもって隠れたる技巧と努力をしのばせる、美しく加工されたけわしい山道が、のどかな春の光陰(ひかり)にのんびりと浮かれ出た蛇(くちなわ)のように延々と山をうねり登る。

快い肺の拡張と、生ぬるい身内の汗とを意識しつつ登り登りて、ホッと軽い息をついたとき、目の前に「肉体(フィジカル)の精華(エナジー)」の像が出現し、それを仰(あお)ぎ見ながら、なるほど評判に聞いたとおり勇ましい武者ぶりだと褒(ほ)めたくなった。見るからに荒馬然とした精悍(せいかん)なる裸馬(はだかうま)に、いわゆる眼光するどく引き締まった体の男が、これもまた裸体(はだか)のまま著(いちじる)しく身体を左方にねじ向けながら危うげに踏みまたがって、拳闘家(けんとうか)に見るような、たるみのない隆々たる筋肉美を、新緑の炎を吐くという盛夏(せいか)の大気のうちに匂わしている。

ギリシャ神話の女怪物ゴルゴン・メドゥーサを斬ったというペルセウスの腕もかくやと思うような手を、精悍(せいかん)の気あふれるばかりにただよう眉間(みけん)に添えて、不敵(ふてき)な面魂(つらだましい)を北の方なるローデシアへと向けている。

なぜ「心霊の精華(スピリチュアル・エナジー)」と呼ばずして、フィジカル・エナジーと呼びならわしたかはわからない。こういうときには、あれこれ考えこんだりせず、あるものをそのまま素直に受け入れる性格の人がうらやましい。

この騎馬像(エケストリアン)は、かの英国はロンドンのケンジントンにある像と同じくワッツ*の作であって、グレイ伯とワッツ夫人との承諾のもとにここに飾られたという話だ。

* ジョージ・フレデリック・ワッツ: 英国の画家・彫刻家(1817年~1904年)。フィジカル・エネルギーと題する騎馬像は南アフリカのセシル・ローズにささげられた。鋳造された作品は二体あり、それぞれロンドンのケンジントンと南アフリカのローズ・メモリアルに設置されている。

夕闇(ゆうやみ)の空に美しくちりばめられた星のように光る多くの鉱物を含む花崗岩(みかげいし)を重ねた、コロシアム式に太い円柱(コリーム)の列群と二つの翼房(ウイング)とを持つ、いわゆる「殿堂」に通じる石燈(せきとう)の左右には、スワンの作と伝えられる八つのいかつい獅子(しし)の像がある。

「殿堂」の中にはベイカーの作とされる、テーブルにもたれてまさに来るべき飛躍(ひやく)を夢見つつ瞑想(めいそう)にふけっているローズの胸像(バスト)がある。すこぶる陰気(グルーミー)な表情をしているが、最もよくローズを表しているとの評判である。

像の上の碑文に To the Spirit and Life work of Cecil John Rhodes who loved and served South Africa (南アフリカを愛し奉仕したセシル・ジョン・ローズの精神と生活に捧げる)と彫られてあるのを見て、意味もなく気まぐれな悲哀が胸に満ち、そぞろに涙ぐむ心地がした。

この心地は、グルート・シューアの一部を占めるジェイムソン博士の邸宅のほとり、深い涼しい松並木や美しい花の冠をいただく生け垣の間を、かわいい目つきをしたリスの幾群れかが飛び交う平和な郊外の風光にふれてきたことによる複雑な気分から来たのか、またはこの山腹から茫漠(ぼうばく)として涯(はて)しなきテーブルのように平らな夕暮れの夢幻的な情趣(じょうしゅ)――それは泰西(たいせい)の風趣(ふうしゅ)に一貫して独特なる――にかられたためか、いまだに疑問である。

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現代語訳『海のロマンス』83:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第83回)

グルート・シューア
――セシル・ローズを想う――

「ケープタウンの名物はテーブル・マウンテンとシルバー・リーフ、それにセシル・ローズにて候(そうろう)」と、誰かの手紙にこんな文句があったのを覚えている。名物とはおかしな言葉だが、南アフリカを最も簡単明瞭に代表するものとして、この三者を選ぶのはすこぶる適切である。

偉人の生活は、彼らの生きていた年代と、その当時の周囲の状態とが与える景色(パースペクティブ)によって、最も明確に描写されうるとのことである。かの汎英国主義(パン・ブリタニズム)の張本人にして、キンバリーのダイヤモンド鉱山の経営者であり、アフリカ縦貫鉄道の企画者にして、偉大なる平民的な南アフリカ人(サウス・アフリカンダー)であることに満足していたセシル・ローズ閣下(ライト・オノラブル)が、風光明媚のミューゼンバーグで、”So Little done, so much to do”(達成したことは少なく、やるべきことは多い) という有名な別辞と共に逝去されたのは、つい一九〇二年のことである。されば、われわれはこの世界的偉人の内的生活を想い、かつは同時に偉大な業績をしのぶため、氏の拠点でもあったグルート・シューアの与える景色(パースペクティブ)に浴するのは、唯一にして最も確実な方法である。

「グルート・スキュアーへの道順は……」と尋ねるや否や、テーブル・マウンテンの一件で知りあいになった例のアディックソン老は無遠慮にもアハハハハと心地よげに笑い出した。何がアハハハハだ。英国人にも似合わぬ無作法者めと腹の中で少しく憤慨(ふんがい)していると、すこぶる悦にいった先生、おかしくてたまらぬという表情を強いてやわらげながら、「誰でも初めての者はついグルート・スキュアーとやりたくなるがね、実はオランダ語でグルート・シューアというのさ。英本国から来るそうそうたる名士でさえきっと失策(しくじ)るんだからね」と、なぐさめるように言って、「君なんかは無理はないさ、まあ安心したまえ」は、得意の表情に富んだ目で物を言っている。

厚い皮張りの見事なイスに腰を下ろしたとき、光沢(つや)やかにニスを塗った樫の客車の重い扉(ドア)に Wacht tat dat de trein stopt と Wait till the Train stop (列車が停車するまでお待ちください)とが行儀よく二行に書かれてあるのを見て、今日のグルート・シューア行きの期待と感興とに少なからぬ恐慌(きょうこう)を生じたのを自覚した。議会で英語とオランダ語の二カ国語が差し障(さわ)りもなく併用されているのみか、こんなささいな汽車の中の注意書きにさえ、南アフリカのオランダ人に対する配慮が見られるのは、かの偉大なる大英主義を唱道した人の権威を疑わしめるようで、行きずりのぼくらにさえあまり気持ちのよい感じがしないのに、本家本元の英国人がよくも辛抱できることよと、少なからずその根気のよいのに感服(かんぷく)した。もっとも、ローズを称揚するのは英国人だけで、オランダ人は「フフーン、あのジョンが」と、しゃくにさわるほど軽く鼻の先であしらっている。

汽車はロンデボッシの停車場(ステーション)にぼくらを下ろし、さっさと行ってしまった。樫(かし)の涼しい木陰を、強い昼下がりの太陽光線をさけながら歩いて行くと、道をひとめぐりするまもなく、ぼくらの前に多くの鋭角と曲率(カーブ)とを組み合わせた奇形の破風(ゲイブル)を前景にした、目もさめるような広壮なオランダ式の一大建築が現れた。細緻(さいち)の技巧を示す赤レンガと、理髪店(とこや)の看板のような、例の飴(あめ)の棒のように奇妙によれた煙突(チムニー)と、中央の破風(ゲイブル)を飾るファン・リーベック上陸*を表現した浅浮き彫り(ロー・レリーフ)とが際立(きわだ)って訪問者の好奇の心をそそる。

* ファン・リーベックの上陸: ヤン・ファン・リーベック(1619年~1677年)は、アフリカ大陸南端にあるケープ植民地を建設したオランダの植民地監督。
この植民地を建設する前、鎖国中の日本の長崎・出島にも来ている。

ローズがその華々しい公的な生涯に入って、その名声がようやく世間で認められるようになったとき、彼は自分の名声を慕(した)ってくる多くの訪問者に適切に応接するため、住居を定める必要を感じた。かつてキンバリーでジェイムソン博士と二人で移動式ベッドを唯一の休養所としていた独身者の簡易生活も、またはアデレイ街の一銀行の二階で、同居者たるキャプテン・ベンフホルドに衣服の世話までやかせた仮住まいの生活も、共に周囲の状況がこれを許さぬこととなった。

テーブル・マウンテンに到る裾野(すその)にかけての広大な地面がローズによって購入されたとき、彼がみずから「お寺」と呼んだその丸い破風(ケイブル)に大理石の付柱(ピラスター)がある家も、ライオンやシマウマやラマなどが飼育されている大きな動物園も、日本の伊万里焼やローデシアのオランダ式遺物や有名なるジムバベ塔の装飾物などを陳列しているその博物館も、みなこの敷地の上に建てられるように設計されていた。そのとき、彼は声明を出して、このわが企画には二つの目的がある――市民共同の遊歩地とすることと、わが愛するテーブル・マウンテンの雄姿をこれによって引き立たせることである、と。ぼくは天下に希有(けう)な、この天然の壮大なる引き立て者を反対に引き立てるのだと言い放った彼の肝(きも)の太さと抱負の偉大さとに、心からの痛快味(つうかいみ)を感じずにはいられない。

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現代語訳『海のロマンス』82:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の(82回)

厳格な選挙法案

南アフリカ連邦がわざわざ「プレトリアを連邦政府の首都となし、ケープタウンに連邦立法部を設置する」という法(アクト)を宣言して、事実上、連邦の首都として機能しているケープタウンを継子(ままこ)扱いにし、ただ単に立法府のみにとどめたについては、為政家(いせいか)や経世家(けいせいか)といった、いわゆる政治家が新しい国を併合して一体化させて統治する際の政治や複雑な国政運営に向けて、いかに甚大(じんだい)な苦心と配慮が必要とされるかをおのずから語っているのみならず、波乱と曲折に富んだ、政治の世界における紆余曲折(うよきょくせつ)を究(きわ)めようというときに、言外に、その興味深い帰結が示されている。

いかに地勢上の均衡をはかるためとはいえ、連邦の首都を遠く南北トランスヴァールのプレトリアに定めたことは、国会(ナショナル・コンベンション)において優勢なるボーア側の委員が多数選出されたことや、雄弁博識にして威厳があり、経験豊かなメリマン(英)を捨てて、あえてボーア側勢力の中心人物たるボタ将軍を二度までも連邦の首相に任命したことなどを考えると、インドでの統治につくづくてこずって、威圧するのではなく信服させようと方針変更した英国が、いかに南アフリカ連邦のオランダ系国民を手なづけようと努力したかをうかがい知ることができる。

南アフリカ共和国における
ケープタウン(最大の都市)とプレトリア(首都)の位置関係

しかし、気の毒にも、この政策はまったくの失敗に終わり、極端な平等主義はかえって英国系を抑制しオランダ系を優遇する結果になっている。下院において三十七の議席を有する英人の統一党(ユニオニスト)に対し、オランダ人の国民党(ナショナリスト)は六十七という過半数を占めている。その他に十三の独立党(インデペンデント)、四の労働党(レイバー)があるけれど、要するに現状維持の守旧派にすぎない。

下院においてこのありさまだから、他は押して知るべしだ。英政府は遅まきながら微笑戦術で「白い歯」を出しすぎたのを後悔していることであろう。この点では「およそ人を遇するには位をもってし、位を極めているときは残す。これに対しては恩をもってし、恩が極まると慢心する」と喝破(かっぱ)した諸葛亮(しょかつりょう)*の方がはるかに賢いようである。

* 諸葛亮(しょかつりょう): 後漢(ごかん)末期から三国時代に活躍した中国の武将。三国志の英傑として知られている諸葛孔明(しょかつこうめい、西暦一八一年~二三四年)のこと。
 ちなみに人気マンガ/アニメの『キングダム』は、それより四百年ほど前の秦の始皇帝にまつわる話である(日本では縄文時代の終わりから弥生時代に移るころ)。

ところで、このオランダ系の勢力圏内にある下院議員の選挙法は、科学的に制定されたとでもいうか、すこぶる厳格なものである。

当初、一九〇九年に南アフリカ連邦の組織構成に関する諸種の法(アクト)を制定するための仮議会なるものが招集されたが、このとき多数を占めたのは無論、オランダ系の政党であった。この仮議会において、一九一〇年に初めて開会する連邦下院の議席は百二十一とすべきこと、またそれ以降は人口の増加に従って徐々に増大させて最大百五十に達することが宣言された。このときの最初の議会における百二十一の内訳はケイプ・コロニーが五十一、ナタールが十七、トランスヴァール三十六、オレンジ自由国十七という割合であった。

次いで連邦の総選挙区を構成するため、各植民地からジャッジと称される四人の委員が任命された。この段階で、委員会はクォータと呼ばれる一定単位の選挙人団(当選に必要な人数を示す基準となる数)について、一九〇四年の人口調査(センサス)の結果として、ヨーロッパ系成人男子の総人口(連邦の全州)を連邦議会の議席数で割り、2891.2なる数が得られた。すなわち、

地区 有権者数
ケイプ・コロニー 167,546
ナタール 31,784
トランスヴァール 106,403
オレンジ自由国 44,014
349,837

対象となる有権者数349,837 を議席数121で割ると2,891.2 という結果が得られる。この制定法では、このクォータおよび計算法が同様に各州の議会の議席数を定める際にも適用される。たとえば、ケイプ・コロニーに対して 「X(エックス)÷ 61」というクォータが得られた委員会は、当該州をこのクォータに応じた選挙人数を持つよう多数の選挙区に分割する方法を採用した。

よって、一九一〇年の第一議会に当たって選出されるべき議席は、ケイプ・コロニーは 167,646÷2891.2=57で、議席数は六増となる。ナタールは十七に対して十二、自由国は十七に対して十四で、いずれも既定の数には満たず、トランスヴァールは三十六に対して三十六で、すでに上限に達している。しかして、一九一一年の人口調査(センサス)の報告によれば、トランスヴァールの人口膨張は123.554の加速度を示していて、まさに次回議会では若干の議席増がありうる勢いを示している。*

* ここで説明されている南アフリカの選挙制度は一種の比例代表制である。
クォータとは、当選に必要な基準となる(有権者の)数を指す。
選挙で比例代表制を採用している国々においても、議席の配分など細部の規則については、それぞれ手法が異なっている場合が多い(例:ドント式、ドループ式など)。
日本でも衆参両院で比例代表制が採用されているが、衆議院は小選挙区制と拘束名簿式比例代表制を併用し、参議院の比例区は非拘束式比例代表制となっている。

このように、五年ごとの人口調査の結果、2891.2なるクォータを超過するか、またはその倍数を超過する人口膨張を示した州は、それに応じて追加した議席数を得ることになっている。しかして、この議席数が既定の百五十に達するまでか、または今後十年にわたる期限内においては、下院は解散を命じられる場合をのぞき改造されないことになっている。

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現代語訳『海のロマンス』81:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第81回)

(前回までのあらすじ)
日本を出発した大成丸は太平洋を横断し、最初の寄港地、米国南西部のサンディエゴに無事到着した。しかし、航海中に明治天皇が亡くなり、時代は明治から大正へと移り変わった。

サンディエゴでは船長が失踪(しっそう)するなど前代未聞(ぜんだいみもん)のトラブル続きで、代役の船長が就任するまで想定外の長期滞在となった。そして、そのことがその後の大成丸の世界一周のルートにも大きく影響してくることになる。

サンディエゴを出港した大成丸は太平洋を南下し、赤道をこえ、南米大陸最南端のホーン岬をまわり、大西洋に出た。本来であれば、そのまま北上して南半球から北半球へと大西洋を縦断する形で大英帝国の首都ロンドン(当時の世界の中心地)に寄港するはずだったが、日程に余裕がなくなり、また経費も当初の予算を超えたことから、ロンドン行きは中止となり、アフリカ南端の喜望峰にあるケープタウンへと向かうことになる。

ケープタウンでは、テーブルマウンテンに登ったり議会を見学したりして学校行事の一環として見聞を深めていく。

ケープタウン滞在後、大成丸はいったんは大西洋に引き返し、ナポレオンが島流しにされた南大西洋の孤島セントヘレナ島へ向かうことになるが、それまでしばらくはケープタウン滞在記が続く。


連邦下院参観(続き)

とかくするうち、議場正面に向かって右の野党側のフロント・ベンチから、きかん気の面魂(つらだましい)をした髭(ひげ)の濃い一人の議員が立って、とうとうと何事か弁じたてては鼻眼鏡を振り、振ってはまたちょっと気休めに鼻にかけたりしている。座席表(リスト)と照合すると、ケイプ・コロニー出身の下院議員(オノラブル・メンバー)のミスター・ジャッガーとある。

……一例を挙げれば、ケイプ・コロニーは、本来は当然のこととして連邦議会の教育経常費目として計上されるべき教育費にかかる公債を独立して募集し、かつ、その利子を支払っております……その意味で、ケイプ州だけが重い課税を分担しているのです、と論じた。すると、ナタール選出の一人の議員が立って、それは弱い者いじめというものである、そういう論がまかり通るのであれば、ナタールは当然連邦には加入しないと駄々をこね、議場で笑いがおきる。退屈そうに聞いていた議長(スピーカー)はちょっと失礼とばかり中座した。与党のフロント・ベンチから一人出てきて議長を代行する。と、衛視(サージェント・アト・アームス)がさっと机の上の大きな職杖(メイス)を下の壇に下ろした。いちいち厄介千万(やっかいせんばん)なことだ。要らざる儀式だといいたくなる。

先に着いていた学生の二、三人が見たというところを聞くと、午後の二時に、この金ぴかのメイスを大名行列の先頭の飾りをつけた毛槍のように、後生大事に抱えたメイス・ベアラー(サージェント・アト・アームスの異名)に続き、二人の書記官を露払いとして前(さき)に立たせ、各員が起立している間をしずしずと登場してきた議長(ミスター・スピーカー)にはなかなか威厳があったという。

議長(スピーカー)が中座する頃、右手の特別席にいた名誉領事ジェッピーと大成丸の小関船長、英語教官ミスター・フィリップもそろって退場した。たぶん南極点到達で不覚にも二番手となり失意のうちに死んだスコット大佐に弔意をささげる儀式に出席するつもりなのだろう。

政府与党の有力な論客で前回には蔵相の重責をにない、次回の内閣ではまたもや大臣に就任するとの噂があるハル氏が精悍(せいかん)なる顔をクリーム色の洋服から突き出して、力強い反駁(はんばく)をジャッガー氏の負担金を連邦にもお願いしたいという説の上に加える。いわく、この問題の解決はナショナル・コンベンション以来の難事で一朝一夕に論じることはとうてい不可能である。もしも各員勝手にあの下院議員(ジャッガー氏)のように自説に固執(こしつ)するならば、公債証書(ビル)は結局引き裂かれるしかあるまい、などと皮肉って、自党からのヒヤヒヤという喝采を博している。

この喝采(かっさい)なるものがすこぶる難物(なんぶつ)でもある。すこぶる活気のないペースで、いかにも苦しそうに重々しく呻吟(しんぎん)する。ことにオランダ系白人のボーアなまりの激しい英語で発せられる政府与党のヒヤヒヤは賛成しているのか反対しているのか、ちょっと見当がつかない。しかし、こんなに心細いヒヤヒヤでも、それを聞く身になると嬉しいと見え、ハル君のごときは目指す相手に向かって手を振って反駁(はんばく)を加えた後、どうだ、そうじゃないかという様子で振り向いて、自党の陣笠連中を見まわし、ヒヤヒヤの要求をしている。どうも政府与党が優勢のようである。野党の領袖席(フロント・ベンチ)からワルトン卿が立ち、しばらくハル氏を論駁(ろんばく)する。

議長(スピーカー)の上の二階には新聞記者が二、三十人目白押しに並んでいる。セッセと書いている者、あくびをしている者、鉛筆で耳あかの掃除をやっている者など、なかなかにぎやかである。左手の二階には深々とヴェールをかけた淑女の一団がひそひそと何事かささやいている。午前に婦人参政権論者(サフレジェット)が大挙して押しかけたというから、たぶんその名残(なご)りであろう。

とかくするうち、左手のフロント・ベンチの中程から温厚な半白の爺さんが立ち上がる。熱心な拍手が両派から起きる。さてはと座席表(リスト)を見ると、先年、首相候補者として元首相ボサ将軍と共に呼び声が最も高かったメリマン卿(国民党だが英人なり)である。「彼らは地方政務を論議するために理想的な責任分担を行う会議を開こうと努力するようであるが、気の毒にも彼らの努力の結果は議会の私生児というべきものを生み出すにすぎぬだろう」などと、群小の論争を巧みに揶揄(やゆ)してみんなを笑わせる。そして、「もし蔵相および政府与党のハル氏をはじめとする人々が、「海の巨人」の重き桎梏(しっこく)にあえぎあえぎて、ついにその重荷に耐えきれず謀反(むほん)するに至った「水夫シンド・バッド」の寓話を記憶されているならば、現下の重税に苦しむ州民の将来に向けて深慮する必要があるだろう」などと、傑出した例を引きながらの論に満場の喝采を博する。はたして翌日のケイプ・タイムス紙には、メリマン氏の名演説(ブリリアント・スピーチ)として、近来希(まれ)なる大演説であると褒(ほ)めてあった。

やがて空席がチラホラと見えてきて、メッセンジャーの往来も静かになった。それではとばかり、自分も外へ出る。アデレイ通しへ出かかるとき頭脳(あたま)に残っている印象を点検してみたら、「真似の好きな連邦下院」という言葉になった。議場の寸法や装飾はもちろん、正面や最前列の議員席(フロント・ベンチ)のたたずまい、議長や書記以下の衛視や案内係に至るまで服装の細部についても話に聞いた英国議会に酷似(そっくり)である。さらに、その上、無精なヒヤヒヤのかけ声から無作法な居眠りの稽古(けいこ)まで、全部真似ているとは人をバカにするにもほどがあると言わねばならぬ。すべての非常識の礼法(エチケット)と融通のきかない式次第書(リチュアル)とを、そっくりそのままロンドンの空から南アフリカの一角に上陸させたのがこの議会である。

議会内部の雰囲気は、全体に暗く角ばった沈鬱(ちんうつ)な印象を与えるので有名だが、ここでも努めてそういう風に認められたいと希望していると見えて、翌日のケイプ・タイムス紙には「日本の練習生が議場を見学」の項(くだり)に、…… and the white tunic of the young Oriental sailors, lent a touch of relief to the usually somber appearance of the chamber(……若い東洋の船乗りたちの白い上着のおかげで、普段は厳粛な外観を呈している議院にやすらぎがもたらされた)と書かれていた。

※本文中に議会の職杖(メイス)が出てきます。日本では見られない光景なので、参考までに、英国BBCのニュースでご覧ください。英国下院の金色に輝く職杖が動画開始から15秒前後のところで出てきます。

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現代語訳『海のロマンス』80:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第80回)


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連邦下院を参観

そろって白シャツの制服姿をした六十人の学生が、議会のある通りに面した下院議員昇降口側の大玄関(ポルチコ)の前に並んで、すぐ目の前にそそりたつテーブルマウンテンから吹きおろしていくる涼しい風に汗ばんだ額をふいたのは、予定時刻の午後三時であった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 93:マクレガーの伝説の航海記

ヨーロッパをカヌーで旅する 92:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第93回)

この航海記の初版では、川下りで遭遇する岩のかわし方について、六つのパターンに分けて説明されていますが、その後半です。

図3~6では、カヌーは岩Aと岩Bの間を通り、それから岩Bと岩Cの間を通るべきである。岩Aと岩Cの間は通らないこと。

図4
岩Bだけが水面に出て岩Aと岩Cは水面下にある場合

岩Bの後方は流れが分岐しているので、カヌーの向きを調整し、進行方向よりやや川上側に向ける感じにしつつ、カヌーの中心自体は指示線に沿って進むようにする。

むろん、岩Aや岩Cが水面に露出して水流が分岐している状況もありうるが、個々の状態は千差万別なので、原則を念頭においた上で、臨機応変に対処するしかない。つまり、習うより慣れろで、経験を積むしかない。

図5
川の全体の流れがカーブを描いていて、そこに隠れ岩が想定されている。
一見すると何もないように見えるので、そのまま進んで行きがちになる。

カヌーに重さがなければ川の流れにそってスムーズに流れるだろうが、人の乗ったカヌーは重量があり、慣性の法則に従って直線的に進む傾向があるので、カヌーがきちんと流れに沿って流れるようにパドルで操作してやる必要がある。

図6
三つの岩が川上から川下へ一列に並んでいて、中央の岩Bが水面上に顔を出して流れが分岐している場合。

カヌーを後進させるように漕いで図のように進ませてやる。むずかしく見えるかもしれないが、カヌーをバックさせる技術があれば、思ったより簡単にできる。

コツとしてはカヌーの船尾を岩Aの方に向けて流れを横に移動し、そこから全力で漕いで前進させて一気に岩Bと岩Cの間を抜ける。

もちろん、川の状態は多種多様なので、上で説明したことが当てはまらない場合もある。事前にカヌーを降りて観察し、頭の中でイメージを作り上げてから漕ぎだそう。

自分には無理だと思ったら、カヌーを陸にあげて迂回すればよい。人にどう思われるかは関係ない。自分で判断し、決断し、実行する。

なお、上記の例では風の影響は考慮していない。

特に追い風が吹いているときは体にあまり感じないので、事前に想定した以上の速度が出てしまい、ルートを維持できないこともある。
また、こういう岩場では帆を上げることも想定していない。

航海のはじめの頃は緩やかな瀬でもこわごわ漕いでいたのに、航海が終わる頃には同じレベルの瀬でも帆を上げたまま一気に下るようになったりもする。川の難易度は自分の知識や経験、技量によって変わってくるが、それもまた川旅の楽しみである。

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現代語訳『海のロマンス』79:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第79回)

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その膝下(しっか)に立ちて

二月十四日、ケープタウンの最初の上陸日に、ぼくはアデレイ通りのビジターズ・ルームを訪問して、ケープタウンと、ケープタウン入港当時に最大に関心事だったテーブルマウンテンのことに関して概括的な知識を得ようと試みた。すると、CPCA(ケープ半島登山会)の首席秘書官だというミスター・アディックソンという人が親切にも奥から出てきて、いろいろと説明してくれ、望みとあらば「登山会」の方から有志五、六名を案内者として出してもよい、などとさかんに親切な申し出をしてくれた。英国人はいったん好意を示したが最後、うるさいほど世話をやき面倒をみてくれる国民だと聞き及んでいる。何か親切の後押しが来ているだろうと(少々意地がきたないようだが、決して心待ちしていたというわけではない)、議会の傍聴をすませて船に戻ってみると、手紙が先回りしてすでに届いていたのにはいささか驚いた。そのなかに、「ケープタウンの者にとって、テーブルマウンテンはいわゆる「詩郷(ホーム・オブ・ポエトリー)である。その明暗、対照的な二つの表情は、見る人の想像をそそるに違いない。しかし、この山に対する賛辞(さんじ)は、登山したいという熱烈なる思慕(しぼ)の念と平等に論ぜらるべきものではない。従って、想像して得られた印象がかのラスキンによって描出せられたもののように深(しん)かつ大(だい)であるとしても、真に山の神秘を洞察しその真髄を理解するには、実際にその山に登ってみなければわからない」というような一節があった。

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