米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第10回)
美しきサンゴの墓
出帆はいよいよ十三日午前八時と決まった。碇泊時に帆を固縛しておくロープ(ハーバーガスケット)は航海用のもの(シーガスケット)に交換し、索具関係のチェインなど要所々々には擦(す)れどめのマットを縛(しば)りつけた。これで万事オーケイだ。
山紫水明(さんしすいめい)のここ鏡ヶ浦に別れを告げるのも、わずか数時間後である。富士山の白い冠が遠く水平線のかなたに消えてゆくときの気持ちを今から予想してみる。鷹島(たかのしま)や沖島(おきのしま)のそそぐ視線を少し右に転じると、広大な太平洋の群青色がすぐそこの湾口にまで迫っていて、「来たれ、汝(なんじ)、海の児(こ)よ、われ抱擁(ほうよう)せん」というように光っている。
というわけで出帆の準備は整ったのだが、あるやむをえない事情のために、さらに数日出帆を延期しなければならないことになったのは、はなはだ残念なことだった。
草は緑にかぐわしく、花は紫に匂うワラキア*1の谷間に、髪うるわしい乙女がいる。天鵞絨(びろうど)のような斜面(スロープ)の上に涼しげな月の光がすべるように流れこんでいる夜半、青い海、白い雲を望んで、一人静かに歌っているのが聞こえてくる。
もとより吾(われ)は海を好めば
涯(はて)しも知らぬ大洋(おおうみ)のさなかに
人知れぬ神秘ひめつつ
やすらかで静かな海底の
美しきサンゴの墓に
葬られ去る船人(ふなびと)多しと思う
これは十三歳の一少女の飾り気のない心からの海に対する賛美の声である。船人に対する同情の叫びである。海は生きた教場である。風雨は親切な先生である。台風や怒涛(どとう)はまたと得がたい鍛錬の好機である。だから、十三日未明の出帆予定だった練習船がその後もなお数日引き続いて南総(なんそう)の鏡ヶ浦(かがみがうら)に過ごしたことを、連日のシケや逆風となる暴風を忌避したからだと誤解されては、舵をとる身にとって、子々孫々までの名折れであり、せっかく賛美し同情してくれたやさしい少女の心に対してもすまないことになる。
延期の理由は別に存在している。それは、あるやむを得ない事情のために、最初の訪問港だったメキシコのマンザニロを南カリフォルニアのサンディエゴに変更したからだ。しかし、事情は事情としても、勇んだ心の船人にとって耐えがたいのは、この前代未聞の大帆走航海を前にして何もすることがなく船にいなければならないことである。
風は資本であり、帆は身上であるといっても、この頃の逆風の強風にはほとほと閉口せざるをえない。ビュービューと南西の烈風が一陣二陣と、突如として上空から吹き落ろしてくると、巨大な海の神のネプチューンの手につかみあげられたかのように海は逆立(さかだ)ち、空を圧してく大波が白いたてがみをふり乱しながら押し寄せてくる様子は、神馬ペガサスが常軌を逸しているようである。マストにおびえる風の悲鳴と、白い波頭をもたげてさわぐ三角波の響きに包まれている練習船は、夕方の穏やかな風に漂う笹舟にたとえるのも愚かである。
晴雨計(バロメーター)は、世をのろい大自然に軽んずる者への見せしめを見よやとばかり、ズンズンと下降する。
先日、品川を出帆する二日前に、水天宮様(すいてんぐうさま)ではなくて、いささかお門違いの観音様の浅草寺に「船路やすかれ」とお参りしたことがあった。そのときデルファイの神託ならぬ、ガラガラともったいぶってくじ箱を振って、それとばかりに出された御籤(みくじ)には、かたじけなくも、若聞二金鶏声一乗レ般得二順風一(夜明けに鶏の鳴き声を聞けば順風にめぐまれるだろう)とあった。
館山(たてやま)に入港して船首を太平洋に向けて以来、少しも祈願の念を中断しなかったのを哀れとおぼしめし、願わくば、金鶏の声を聞かしたまえと祈るのであった。耳をすまし目を見開いて何も聞きのがしたりしないぞと、瞬時ものがさず気にかけていたのは大慈大悲(だいじだいひ)の観音様のお声であった。しかし、よくよく前世に菩薩の扶托(ふたく)が薄かったとみえ、聞こえるものはただマストにうなる風の声である。船の舷をたたく波の音のみである。
「ちょうど盂蘭盆(うらぼん)のことだからひょっとしたら金鶏の奴め、仏様のお供をして陸地(おか)に呼ばれて、盆踊りでも見て悦に入っているだろう」と誰やらが言った。
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脚注
1: ワラキア - 現在のルーマニアの黒海に面した地方にあったワラキア公国を指すと思われるが不詳。吸血鬼ドラキュラのモデルになったとされるヴラド・ウェペシュ公(現在は建国の父として再評価されている)は、このワラキア公国の領主だった。