現代語訳『海のロマンス』10:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第10回)


美しきサンゴの墓

出帆はいよいよ十三日午前八時と決まった。碇泊時に帆を固縛しておくロープ(ハーバーガスケット)は航海用のもの(シーガスケット)に交換し、索具関係のチェインなど要所々々には擦(す)れどめのマットを縛(しば)りつけた。これで万事オーケイだ。

山紫水明(さんしすいめい)のここ鏡ヶ浦に別れを告げるのも、わずか数時間後である。富士山の白い冠が遠く水平線のかなたに消えてゆくときの気持ちを今から予想してみる。鷹島(たかのしま)や沖島(おきのしま)のそそぐ視線を少し右に転じると、広大な太平洋の群青色がすぐそこの湾口にまで迫っていて、「来たれ、汝(なんじ)、海の児(こ)よ、われ抱擁(ほうよう)せん」というように光っている。

というわけで出帆の準備は整ったのだが、あるやむをえない事情のために、さらに数日出帆を延期しなければならないことになったのは、はなはだ残念なことだった。

草は緑にかぐわしく、花は紫に匂うワラキア*1の谷間に、髪うるわしい乙女がいる。天鵞絨(びろうど)のような斜面(スロープ)の上に涼しげな月の光がすべるように流れこんでいる夜半、青い海、白い雲を望んで、一人静かに歌っているのが聞こえてくる。

もとより吾(われ)は海を好めば
     涯(はて)しも知らぬ大洋(おおうみ)のさなかに
人知れぬ神秘ひめつつ
     やすらかで静かな海底の
美しきサンゴの墓に
     葬られ去る船人(ふなびと)多しと思う

これは十三歳の一少女の飾り気のない心からの海に対する賛美の声である。船人に対する同情の叫びである。海は生きた教場である。風雨は親切な先生である。台風や怒涛(どとう)はまたと得がたい鍛錬の好機である。だから、十三日未明の出帆予定だった練習船がその後もなお数日引き続いて南総(なんそう)の鏡ヶ浦(かがみがうら)に過ごしたことを、連日のシケや逆風となる暴風を忌避したからだと誤解されては、舵をとる身にとって、子々孫々までの名折れであり、せっかく賛美し同情してくれたやさしい少女の心に対してもすまないことになる。

延期の理由は別に存在している。それは、あるやむを得ない事情のために、最初の訪問港だったメキシコのマンザニロを南カリフォルニアのサンディエゴに変更したからだ。しかし、事情は事情としても、勇んだ心の船人にとって耐えがたいのは、この前代未聞の大帆走航海を前にして何もすることがなく船にいなければならないことである。

風は資本であり、帆は身上であるといっても、この頃の逆風の強風にはほとほと閉口せざるをえない。ビュービューと南西の烈風が一陣二陣と、突如として上空から吹き落ろしてくると、巨大な海の神のネプチューンの手につかみあげられたかのように海は逆立(さかだ)ち、空を圧してく大波が白いたてがみをふり乱しながら押し寄せてくる様子は、神馬ペガサスが常軌を逸しているようである。マストにおびえる風の悲鳴と、白い波頭をもたげてさわぐ三角波の響きに包まれている練習船は、夕方の穏やかな風に漂う笹舟にたとえるのも愚かである。

晴雨計(バロメーター)は、世をのろい大自然に軽んずる者への見せしめを見よやとばかり、ズンズンと下降する。

先日、品川を出帆する二日前に、水天宮様(すいてんぐうさま)ではなくて、いささかお門違いの観音様の浅草寺に「船路やすかれ」とお参りしたことがあった。そのときデルファイの神託ならぬ、ガラガラともったいぶってくじ箱を振って、それとばかりに出された御籤(みくじ)には、かたじけなくも、若聞金鶏声般得順風(夜明けに鶏の鳴き声を聞けば順風にめぐまれるだろう)とあった。

館山(たてやま)に入港して船首を太平洋に向けて以来、少しも祈願の念を中断しなかったのを哀れとおぼしめし、願わくば、金鶏の声を聞かしたまえと祈るのであった。耳をすまし目を見開いて何も聞きのがしたりしないぞと、瞬時ものがさず気にかけていたのは大慈大悲(だいじだいひ)の観音様のお声であった。しかし、よくよく前世に菩薩の扶托(ふたく)が薄かったとみえ、聞こえるものはただマストにうなる風の声である。船の舷をたたく波の音のみである。

「ちょうど盂蘭盆(うらぼん)のことだからひょっとしたら金鶏の奴め、仏様のお供をして陸地(おか)に呼ばれて、盆踊りでも見て悦に入っているだろう」と誰やらが言った。

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脚注
1: ワラキア - 現在のルーマニアの黒海に面した地方にあったワラキア公国を指すと思われるが不詳。吸血鬼ドラキュラのモデルになったとされるヴラド・ウェペシュ公(現在は建国の父として再評価されている)は、このワラキア公国の領主だった。 

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ヨーロッパをカヌーで旅する 21:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第21回)


こうしたことは休息について述べているだけで、真昼のぎらぎらした太陽が照りつける前後の比較的に涼しい時間帯に距離をかせぐためにカヌーを漕ぐとなると話はまた別だということは、わかっておいてほしい。カヌーを一生懸命に漕いでいるときには、そんな風にのんびりしている暇はないし、懸命に操船しているときに感じる楽しさも、川を下っていくにつれて変化していく。

出発する時は穏やかだとしても、やがて聞き慣れた水車用の堰(せき)で水が落下する音が聞こえてくる。そういうことは毎日ほぼ五、六回はある。堰に近づくと、ぼくは堰の際まで行って、一直線になっている堰堤に沿って漕ぎながら、そこから下流側を眺めることにしていた。眼下にある数え切れないほどの細流を調べて、どのコースを通るのが最適かを把握するのだ。その頃には、水車を設置している製粉業者やその家族、使用人や近所の人たちが物珍しそうにぞろぞろと集まってくる。ぼくはといえば、毎度のことだが小さなバックパックを背負い、パドルを岸に置き、カヌーを降りて引っ張りながら障害物を乗りこえたり、迂回(うかい)したりすることになる。ときには一つ二つの干し草畑を引いて通ったり、小道や壁に沿って引きずっていって、それから川が深くなっているところでまたカヌーを浮かべるのだった。こういう堰の高さはせいぜい四フィートあるかないかなので、カヌーに乗ったまま頭から「突っ込む」こともできないわけではないのだが、下に岩とかがあってカヌーがそれに激突しひんまがってしまわないとも限らないので、こういうときは素直にカヌーを降り、持ち上げて乗りこえたり、引きずって迂回するほうがよい。

他の場所では、カヌーの船尾にまたがり、両足を水につけた格好で座って、右舷や左舷の岩を蹴りながら慎重に操船しなければならないこともあった3

原注3: このやり方を思いついたのは、この川でだった、この方法の利点は、ラインフェルデンの急流を通過するときにさらに明白になった。あとでスケッチでも紹介するつもりだが、この方法は後に中東のヨルダンでも実際にやってみた。

こういう出来事や浅瀬での渡渉なども多少はあるものの、カヌーに乗っていると、水に濡れることはほとんどない。背もたれに持たれた状態で難所だってスムーズに抜けられるし、流れが早いところでは漕ぐ必要もないので楽ちんだ。そういうところで無理に頑張って漕いで加速させたとしても、何かに衝突したときの衝撃が大きくなるだけだし、そうなれば、どんなに頑丈な舟でも壊れてしまう。

そんなこんなで景色を眺めたり、川沿いの住民とふれあったりしていても、人間の心は貪欲なので、やがてそれだけでは満足できなくなったりもする。とはいえ、やがて何か水音が聞こえてくる。腹にひびくような轟音だ。激流があるのだろう。この音が聞こえてくると、それまで寝ぼけ眼(まなこ)でいたとしてもすぐに覚醒し、全身にエネルギーを充満させなければならない。ぼくはこれまでの航海でカヌーを転覆させたことはなかったが、舟を救うためにカヌーから飛び降りざるをえなかったことは何度もある。こういうときに最優先すべきは舟で、次が荷物だ。特にスケッチブックはなんとしても濡らすわけにはいかない。快適かつ速く進むというのはその次に来る。こういう激しい労働の喜びと休息とを何時間も続け、いろんなものを見たり聞いたりしたわけだが、それについて語りだすと長くなってしまう。ここでは、沈んでいく太陽や猛烈な空腹が、その日の終着点に近づいたことを教えてくれるとだけ述べておく。

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現代語訳『海のロマンス』9:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第9回)。


水夫長と木工

「水夫長(ボースン)いなけりゃ夜も日も明けぬ、ましてこの船は動きゃせぬ──」
と気軽な若い一人の水夫が歌っている。

練習船を訪問し、水夫の会食部屋をのぞいた者は、日に焼けた髭面で童顔の小柄な一人の老水夫の周囲に、水夫長(ボースン)々々と親しげに多くの水夫が集まっているのを見ることだろう。水夫長の姓は神谷(かみや)といい、五十年ほど前に、三河のさる漁師の家に生まれたと言われている。

いったい船乗りはいつまでも男くささが抜けず、六十くらいまでは若々しく見えるが、この人もその例にもれず、五十をこえた今日このごろまで、かくしゃくとして若い水夫をしかりとばしている。見るからに貧相な小男だが、その身軽な動作は本当に巧妙で、目もあざやかな離れ業(わざ)を平気でやってのけ、そばにいる士官などをハラハラさせている。マストの上で、足で綱索(つな)を握って両手でむずかしい仕事をしたり、錨に抱きついたまま海面近くまで降りて錨鎖のもつれをとったりするのだ。この男、一九○四年に練習船が神戸の川崎造船所の船渠(ドック)で新造されて以来ずっと乗り組んでいるのだが、つい二日ばかり前に逓信省(ていしんしょう)*1の褒章(ほうしょう)制度によるメダルを貰った。

木工(カーペン*2)は姓を山内と呼び、こちらも練習船の名物男の一人である。「本船の大工は他船にみない優良なる者であるから……」と、常に一等航海士(チーフ)のおほめに預かっている人だ。バルカンの鉄槌*2の下に生まれたというような剛毛の髭に日焼けした黒い顔という不敵な面魂(つらだましい)で、気の弱い者は一目見てびっくりするくらい。

が、この男、面(つら)に不似合いな、やさしい涙もろい心を持っていて、水夫の間に不幸のあったときなどは率先してこれを救助し、誠の心の限りをつくすという変わり者である。

「いまどきの若いやつらのすることは手ぬるくってしかたがねえ」と罵倒する口の下から「無理ねえや、まだケープホルンはおろか紀州灘(きしゅうなだ)も玄界灘(げんかいなだ)*3も通らねえやつらだからなあ」と無邪気な哄笑(こうしょう)をするところなど、なかなかに愛嬌がある。

この人も前記のメダルを貰って、大臣から直接のご褒美(ほうび)だと子供のように喜んでいた。

脚注
*1:逓信省 - 明治時代の政府官庁。当時の役割がそのまま該当する現在の省庁は存在しないが、業務内容は現在の総務省と、民営化された日本郵政(JP)やNTTを併せた役割を受け持っていた。


*2:カーペンはカーペンター(大工)を指す。木造船や帆船の時代には、船大工が果たす役割は大きかった。


*3:バルカンの鉄槌 - バルカン半島にあるギリシャから東欧のブルガリアやクロアチアを含む広大な地域はヨーロッパの火薬庫と呼ばれ、戦火が絶えなかったことから。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 20:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第20回)


マクレガーは、ロシアを除くヨーロッパで最長のドナウ川(全長2850km)の源流からの川下りを開始しました。


仲間の同行者が誰もいなくなって砂漠でラクダに進むべき方向を教えたり、人跡未踏の荒野で一人で馬を駆ったりするのは刺激的ではある。だが、両岸が高い崖になっている未知の川で急流を漕ぎくだっていくカヌーには、そういうものを超えた爽快感がある。

この楽しさは、一つには単に感覚的に動きがとても速いということによる。川で急流を下っていくのは、高所でロープにぶら下がって前方に飛び出すのと同様に、胸がしめつけられるような緊張感がある。ドナウ川での最初の数日は急流だった。水源からドイツ南部にある交通の要所のウルムまでの間、川には千五百フィート(約450メートル)ほどの高低差があった。5日間の航海で毎日三百フィート(90メートル)ずつ下っていく計算だ。だから、そういう日の航海というのは、午前に食事をとる頃が一番元気で、それからは夕方に上陸地点に着くまで休むことなくロンドンのシティーにあるセント・ポール大聖堂と同じ高さを下っていかなければならない。

この航海の楽しみのもう一つの要素は、難所を切り抜ける満足感にある。水路がいくつかに枝分かれしていて、自分が選択した流れに従って半マイルほど進んだところで、選ばなかった水路が中洲を迂回して自分の選択した水路に合流してきたりすると、まちがった水路を選択しなくてよかったと、自然に誇らしい気持ちがしてくる。

こうした感慨にひたりながら緑濃い大平原を曲がりくねりながら進んでいった。川にかかる橋にさしかかると、それだけで文明化した場所のように思えてくる。ある橋の下をくぐろうとしたとき、ドナウエッシンゲンから戻る陽気な歌い手たちを乗せた緑の枝で飾った馬車の一つが、ちょうど橋の上を音をたてて通過していくところだった。むろん、彼らはカヌーを見るなり馬車をとめて歓声をあげ、ドイツ語なまりの英語で「あのイギリス人だ!」「あのイギリス人だよ!」の大合唱になった。

カヌーでドナウ川の水源を出発した朝に集まってくれた、このにぎやかで愉快な人々との出会いがあったおかげで、ぼくの航海はニュースとして近隣の町々にすぐに広まった。そのため、ぼくのカヌー旅はどこでも歓迎され、ドイツやフランスだけでなくイギリスでも、さらにスウェーデンやアメリカでさえも、その進捗状況が新聞で報じられるようになった。

ガイジンゲンという村で、エンジンに燃料を補給する必要があることが判明したので、つまり腹が減って朝飯を食わなきゃと思ったのだが、川の近くには集落がなかった。近くに人もいたし、ぼくは係留ロープを使ってカヌーを岸から離して浮かべておき、利発そうな少年に、ぼくが戻るまでしっかり見張っていてくれと頼んだ。そうしておいて大きな建物まで歩いていって扉をノックし、中に入って朝食を頼んだ。座っていると、すぐにすばらしい食事が運ばれてきた。すると、村の人々が一人また一人と妙な服を着たよそ者を見物しに来た。こいつ、どうやってこんなところまで来たんだ、というわけだ。連中はひそひそ声でそういったことを話しあっていたが、ぼくが食事を終えて代金を払うと、どこへ行くのか確かめようとでもするかのように、ぼくの後をぞろぞろついてくる。こんな風に、いつも旅のそこここで、好奇心にかられた、しかし遠慮深い観察者たちが集まってくるのだった。

話を元に戻そう。八月の日差しは強烈だった。だからといって、途中でやめるわけにはいかない。高い岩場の下や涼しい洞窟、木橋の下や松が生えている崖の際(きわ)のちょっとした長い日陰などでカヌーをとめて休んでいると気持ちがよかった。

ぼくは昼日中には(体を動かすのも嫌なので)岸に上がり、建物の陰や草の生い茂った土手で何度か休んでみたりもした。だが、一番快適だったのは、葉を茂らせたオークの巨木の下にカヌーを係留したまま足を思い切り伸ばし、本を片手に夢見心地で寝そべったり、一日の航海を終えた夕方、川の流域で栽培されている安いタバコの葉を手に入れて前日に宿で作っておいた巻きタバコで一服したりすることだった2

原注
1: 高低差については、地図帳や地理書によって、ここに記載した数値と相違している場合がある。


2: イギリスでよく知られている二つの刺激物──紅茶とタバコ──は、ドイツでも広くたしなまれている。
(1) タバコの木(自生するので雑草木扱いされることもある)の葉を乾燥させて丸める。適当な道具を用いて火をつけ、その煙を吸引する。
多くの人で生じる効果は、気を落ち着かせることだ。が、食欲がなくなることもある。タバコはトルコで過剰に使用されている。葉には毒が含まれている。
(2) 茶の木(栽培もされている)の葉を乾燥させて丸める。適当な道具を用いて加熱処理し、成分を液体に溶け出させて飲む。
多くの人で生じる効果は、元気になることだ。が、眠れなくなることもある。紅茶はロシアで過剰に使用されている。葉には毒が含まれている。
この二つの嗜好品は安くて携帯可能だし、あらゆる地域で何百万もの人々が日常的に楽しんでいる。どちらにも支持者と反対者がいる。この植物が人間にとって有用であるか否かの議論は決着していない。


[訳者注]
タバコがヨーロッパで知られるようになったのは、コロンブスのアメリカ大陸発見以降。日本には、戦国時代にポルトガル人によって鉄砲が伝来したときに一緒に持ち込まれた。
なお、ヨーロッパで紙巻きタバコが普及したのは、十八世紀後半になってから。
また紅茶についても、大航海時代以降にヨーロッパに伝えられ(最初は緑茶)、十九世紀になると、カティーサーク号のような、中国から紅茶を運ぶティークリッパーと呼ばれる大型帆船が速さを競うようになった。
つまり、造船や航海術の進歩と嗜好品を含む新しい産物の伝来や普及とは、コインの裏表のように切っても切り離せない関係にある。
このあたりは、現代のテレビやパソコンやスマホの普及と人々の生活様式や文化の変化との関係に似ている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 19:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第19回)


いよいよ、ドナウ川の源流からカヌーによる川下りの旅が始まります。


八月二十八日、小さな橋の近くから出発することにしたが、合唱大会に参加していた歌手連中が大勢集まって歌をうたい、カヌーに揚げた英国国旗に別れを告げてくれた。(三日間の宿賃で十三フランも請求した)宿屋の主人は丁寧におじぎをしている(料金をきちんと払ったのだ)。地元の人々に見守られてカヌーを川に浮かべると、ぼくのロブ・ロイ・カヌーは喜び勇んで矢のように進んだ。

はじめのうち、ドナウ川は数フィートの幅しかなかった。が、すぐに大きくなり、大平原を流れるころには、上流域のヘンリー付近を流れるテムズ川くらいにはなった。静かで緑濃いドナウ川は、曲がりくねりつつ平坦な牧草地を、何時間もかけて、ゆったりと、しかしなめらかに流れていく。土手ではスゲが風になびき、岸辺の浅いところには柔らかい水草も茂っている。長い首と長い羽、長い脚を持った一羽の青サギが、さまざまな二十羽ほどのひとかたまりになったカモ類と一緒に餌をついばんでいた。きれいな色をした蝶が陽光をあびて漂うように舞い、ごつい顔のトンボが空中を飛びかっている。

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干し草を作っている人たちが仕事をしていた。なんとも恐ろしげな大鎌を振るう作業の手をとめ、それを水につけている。連中は話をしていた。この実直そうな一団のそばを通りかかると、連中は口をあんぐり開け、こっちを不思議そうに見つめている。が、すぐに我に返ると、帽子をとり、「こんちは」と言ってよこした。彼らは仲間に声をかけ、妙な気どりもなく、こっちを見て素直に笑っていた──小馬鹿にした笑というのではない。祖国から数百マイルも離れたところで小さなカヌーに乗っている男を見て、ちょっとありえない光景に、心底おもしろいと感じているような笑い方だった。

やがて左右の丘陵に、家々や古い城が見えるようになった。それから森に入り、やがて岩場になった。けわしい岩場に荒野、緑あふれる森が混然とし、川というものの持つ美しさが壮大なパノラマのように繰り広げられていく。それが何日も続く。きれいな川は何本も経験しているが、このドナウ川の上流域をしのぐところは、そうあるものではない。森はとても深く、奇岩や高い岩場もあって、変化に飛んでいる。水は透明度が高く、草は青々としている。川は曲がったり向きを変えたりしている。流れも速く、懸命に漕ぐ必要もない。景色が次々に新しくなっていくので、ずっと緊張しっぱなしだ。ボーッとしていると、瀬に乗り上げるか、岩にぶつかるか、無数のブヨやクモがいる木に激突してしまいかねない。そう、これこそ正真正銘の旅なのだ。ここでは、先に進んでいくには、技術や分別が要求される。そうした力を十二分に発揮しなければならない。思うに、人格というものは、こうしたことによって練り上げられていくものなのではないだろうか。というのも、まず自分で選択をしなければならない。それも瞬時に、だ。たとえば、いきなり眼前に五つの水路が出現したりするようなことの連続だ。そのうちの三つはまず安全だろうが、どれが最短で、どれが一番水深があり、現実に航行に適しているのはどれなのかを、瞬時に判断する必要がある。ためらったりすれば、次の瞬間にカヌーは浅瀬に乗り上げてしまう。こうした決断をすばやく行い、それを繰り返すことによって、それがやがては習慣になっていく──これは実に驚くべきことではあるまいか。むろん、そうしたことは何度もひどい目にあった後に可能になるのだったが。

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現代語訳『海のロマンス』8:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若さあふれる商船学校生の手になる異色の帆船航海記が現代表記で復活(連載の第8回)


今回は、六分儀(セクスタント)を使った現在位置の測定(天測術)について述べています。
ヨットのスナーク号で太平洋を周航した作家のジャック・ロンドンによれば、彼のような素人にとって、天測を行う航海士は、凡庸な人でも「神聖な儀式をつかさどる司祭」(『スナーク号の航海』)のように見えたそうです。
現代のヨットマンにとっても、ある種の憧れがある、高尚な(なんか奥深そうな)技術に思えますが、練習船では、、、


山を裂き、岸を噛み、咆哮(ほうこう)と怒号(どごう)に満ちた自然が、その偉大で巨大な手を人間の頭上にかざすとき、人間というこざかしい二本足の動物は冷笑しつつ、見えないように隠れて、ちょこまかと小馬鹿にしたような抵抗を大自然の足元に加えるのだが、天測もその一つである。六分儀(セクスタント)はその目的のために用いる最も皮肉な武器である。

昔、スミスという男は、鏡は人間の個性を消し、人間の尊厳を軽んじる曲者(くせもの)だと述べた。六分儀にはその鏡が二つもついている。いくら日々の船の正午の位置を出すためとはいえ、太陽や月や星の別なく、とにかく赤や青に光るものを見れば、親のかたきにめぐりあったかのように、ただちに二枚の鏡でとって抑え、二つのネジで水平線に並ばせ、長く細い望遠鏡をくぐらせたり、はてはシェイドグラスで赤や青や紫など、さまざまの色に染め分けるなど、なんとも冒涜(ぼうとく)の極みであって、八大地獄の呵責(かしゃく)のムチを受けるのも遠くはないだろう。あるいは、タイタニックが沈んだのも、オリンピックでの失敗*1も、太陽神の知らせによって海神がくだした冥罰(みょうばつ)かもしれない。

アリアン族の理想は太陽神アポロである。大和民族の信仰の最高位は日の女神の天照大神(あまてらすおおみかみ)である。ペルシャの住人は日輪を拝して教えとなし、春秋の民は三尺さがって師の影を避けた。影でさえ三尺さがって踏まなかったのに、最も神聖な天地間の具象を断りもなく玩具(おもちゃ)にするとは大逆もいいところで、ありえないことだ。

練習船では、午前の八時と正午に左右の四舷直*2の学生のいずれかが、専任教官の監督の下で必ず太陽の高度を測定する。ピーッと専任教官の用意を促す笛が鳴りわたると、すわとばかりにテレスコープをのぞく眼差しは稲妻のように光り、各人各種のシェイドグラスで、あるいは真紅に、あるいは紺青に、鴇色(ときいろ)に、鶯茶(うぐいすちゃ)に、無残にもとらえられた太陽の影像を逃すまいとばかりに調整用のねじを動かして、離れよう離れようとするものを無理やりに、空と水とを分ける一本の水平線に引き下ろす。やがてピーッと鳴る専任教官の合図で、そのときの高度の値にクロノメーターの時分秒を組み合わせて自船の位置が決定される。

正午の観測は子午線高度(メリオン)と称し、太陽南中の高度、すなわち一日で太陽が最も高くなったときにレンズに収めて角度を測ることをいう。瑠璃(るり)色の空を切り裂いて、ひた昇りに昇る直径三十二分*3の太陽を追い詰めた一人が「いまだ。もうのぼらない」と叫ぶ。「どっこい、まだ動いてるよ、静かに静かに」と他の一人が舌打ちをする。まるで太陽をモデル扱いにしている。中には「まずいよ、下がりかけた、ちょっと待ってくれ」とどなる二十世紀の浄海入道*4もいる。

しかし、太陽はまだ問題が少ない方で、月とか星とかになると、ちょっと面倒である。ことに銀色に輝く何千万という星屑(ほしくず)の中から、命ぜられた一つの星を抜き取るのは至難の業(わざ)である。要するに、本音をいえば、天測は厄介な作業の最上位にくる。
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訳注
*1: 練習帆船大成丸が世界周航に出発したのは1912年。この年の4月にタイタニック号が沈没し、日本が初参加した同年のオリンピック・ストックホルム大会で、当時の世界最高記録保持者の金栗四三(かなくりしそう)が日射病で倒れたことを指す。 
*2: 舷直とは、乗員を作業グループごとに分けた、いわば勤務シフトのようなもの。
*3: 直径三十二分は太陽の視直径(見かけの大きさ)のこと。平均した太陽の視直径は地表から見た角度で0.5331度、これを時分に換算すると31.99分になる。
六分儀を用いた天測術(太陽や月、星の高度や位置を測定することで、自分の位置を割り出す技術)については、「ノウハウ 天測航法」で詳細に説明しています。
*4: 浄海入道 - 平清盛の戒名。

お断り
現代表記に改める際は原文の表記を尊重して行っていますが、現代の一般人の理解を容易にする範囲で、漢字や仮名遣(づか)いに加えて、[檣(しょう) -> マスト]など、名称の表記や表現自体を変更した場合があります

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ヨーロッパをカヌーで旅する 18:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第18回)



それとは別にウルリックというウェイターがいた。腹をすかせた歌い手たちが殺到するのを見込んで、その日だけ「特別に」雇われていた。彼は人見知りで、村の宿屋で働いた経験があるだけの若者だ。「ドナウエッシンゲンのポスト」といえば、職場としてはおしゃれで品格のあるところだとされている。彼はフランス語も勉強していて、ちょっと涙もろいので、ぼくは素っ気ないほど実用的な本を彼にやった。すると、ぼくがカヌーを漕いで川を下るときに自分をカヌーに乗せて家まで運んでいってくれないかと頼んできた! こういう単純で率直な依頼を受けたりしたら、こっちも本当に楽しくなってくる。ぼくらがずっと浅いところばかりを航行するのだとしたら、こんな連れがいても楽しいだろう。

ドナウ川の実際の水源については、ナイル川の水源の場合と同じく諸説ある。

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現代語訳『海のロマンス』7:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第7回)

練習生の船内生活

練習船では毎日午前八時と午後の日没時に、船尾の国旗とメインマストの羅針船旗(コンパスフラッグ)*1との昇降式を行う。このときほど船上や船内すべてで荘厳な沈黙の雰囲気が満ちるときはないだろう。当直士官の用意という号令で、一人の甲板当番の学生が船尾に、他はメインマストの下に立つ。

やがて静かな反響を海に残してラッパが鳴り響くと、上甲板に立っているすべての乗組員は船尾に向かって挙手注目の礼*2を行い、下甲板にいる者は、そのときにいた場所で静止し、丁重に見上げて敬意を示す。

モーゼの十戒は世に有名だが、現代のセイラーは、これに加えて、さらに守るべき一戒となる規律がある。それは、毎週土曜日の朝に行われる祈祷(きとう)で、石磨きの祈祷(ストーン・プレーヤー)と呼ばれている。

ゴミのない細かい砂をデッキにまき、大きな重い粗(あら)い砥石(といし)を持った髭面の男たちが、船を横切って一列にずらりと並ぶ。バケツで水を運び、箒(ブルーム)でそれっとばかりにデッキを潤す。エンヤエンヤの掛け声も勇ましく、粗い砥石を滑らせていく。チークの細板はたちまちのうちに磨かれて、木目は大理石のように光りだし、まだ失われていない芳醇な残り香は南欧の夏山をしのばせるほどだ*3。

「失礼な言い方になるかもしれないが、心地よい暁(あかつき)の夢見心地のうちにホリーストーンの音が上甲板から聞こえるときは、かすかなかすかな春雨が芝の野原にささやくのを聴くようで、実にうっとりしてしまうね……」とは、非直の学生の述懐である。

例の軽快なラッパの余韻がまだその辺の船室のカーテンあたりに残っている間にも、百三十人もの練習生たちは上甲板に飛び出し、節をつけた掛け声とともに、海面に浮かべている端艇の綱を引っ張る。しかし、前日に雨でも降って、この綱が固くなっているときなどは、なかなか引き上げることができない。

かつてこういう話を聞いたことがある。混沌たる太古の時代に、かの有名な金毛の羊を探すために造られた世界最初の巨船アルゴー*4が進水したとき、あまりに重くて海底の砂にめりこんでしまい、どうしても進水できなかったという。このとき、かの有名な楽聖オルペウス*5が巨船の船首に立ち、琴の音も清くハープをかき鳴らしたところが、その妙なる音に魅せられて首尾よく砂から滑り出たという。

わがオルペウスならぬ無名の一号角手が奏でる進行曲のラッパの音に、端艇が感動して耳を傾けたか否かは疑問だが、乗組員の心は一時に若やいで、綱を握る手にはおのずと力がこもり、やすやすと物の見事に引き上げられることは確かな事実である。

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脚注
*1: コンパスフラッグとは、上下を水平に二分割し、上半分が黄色、下半分が青色の旗で、これと数字旗を組み合わせて掲揚することで船の針路を示した。現在の国際信号旗では使用されていない。

*2: 挙手注目の礼とは、右手を肘で折って指先を帽子のツバあたりに持っていく、軍隊や警察などで一般的な、いわゆる敬礼のこと。

*3: 甲板でのチーク磨きは、帆船で最もよく語られる作業の一つ。
通常は海水を流して、ヤシの実を半分に切ったものでこすって汚れを落とす(タンツーと呼ばれることが多い)。汚れがひどかったり、チークが削れて凹凸が出てくると、砥石状の石で平滑にする。

*4: ギリシャ神話に出てくる船大工のアルゴスが建造した巨大な船。彼の名前にちなんでアルゴー船と呼ばれた。ヘラクレスをはじめとするギリシャ神話の英雄たちがこの船に乗りこみ、黄金の毛を持つという羊の毛皮を求めて冒険の旅に出た。

*5: オルぺウスはギリシャ神話に出てくる吟遊詩人。ヘラクレスらと共に前述のアルゴー船に同乗していた
(『海のロマンス』では「オルフヰース」と表記されている)。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 17:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第17回)


黒い森と呼ばれる山岳地帯の嵐をやり過ごし、ドナウ川の源流に近いドナウエッシンゲンに着いたところで、いよいよ源流地帯からの川下りというわけですが、街は大きな合唱大会の準備で大賑わいなのでした。


窓という窓に飾りをつけたり装飾品が置かれたりしていたので、ぼくも自分用に一つ作った。カヌーのバウ(船首)に小さな青い絹の英国旗を揚げ、帆には花や葉を飾りつけた(自分でいうのも何だが、なかなかの出来映えだ)。祝意を示すぼくの飾りはすぐにドイツ人たちの目にとまった。彼らは歓声をあげ、その喜びを歌で表現し、アドリブで替え歌を作ってイギリスをたたえた。カヌーの周囲で歌ったり、笑ったり、叫んだり、若さあふれる大声で陽気に万歳と唱えたりもしている。ドイツ人は沈着冷静だなんて、もう二度と言ってくれるな。

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現代語訳『海のロマンス』6:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著


夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第6回)


品川を出港した大成丸は横浜で歓迎式典に臨んだ後、東京湾を出たところで六分儀の調整を実施し、房総半島の沖合に錨泊した。


砂とりと水遊び

ボンボヤージの歓声を受け、華やかで華麗に横浜を出た本船が、ここ南総の一角にある鏡ヶ浦に寄港したのは、ただ砂とりという唯一の作業が残っているからだ。

一年二ヶ月の間、訪問する港への出入時はいうまでもなく、その他に毎週土曜日に大掃除を行うのだが、その際の甲板磨き(ホーリーストーン、ホーリーストーニング)に用いる砂は内容積が十一トンもある砂庫(しゃこ)を満杯にしていてもなお足りないほどだ*1。無骨で太く日焼けした腕を持つわれわれは、六丁のオールも曲がれとばかりに、深緑色の清波(せいは)の中に突っこみ、北条六軒町の松原を目がけて懸命に漕いだ。

松青く砂白き浜辺にボートを係留し、シャツ一枚の身軽な格好で、さながら幼児の浜遊びよろしく喜々として砂を浜に積みこむ。積みこみ終われば船に帰って砂庫(しゃこ)に運び入れた。汗をふく暇もなく、ボートを洗う。船乗りの生活は忙しくも面白い。

「本日午後五時より、三十分間、総員泳ぎかた、許す」という告示が一等航海士から下った。これが一年二ヶ月の間の泳ぎじまいだとばかりに、どの船室も大喜びだった!

五時の総員整列の合図で、百二十五人のヘラクレスの申し子たる偉丈夫が、ふんどし一つの裸でズラリと並ぶ。やがて、打ち方はじめの号音で、次々にイナゴのように海に飛びこんだ。貨物の積み込み口から跳びこむものもいれば、海面から十メートルほどの高さがある波よけのブルワークから、龍門入りよ、地蔵入りよと、飛びこみの秘術をつくし、また観海流(かんかいりゅう)だ、水府流(すいふりゅう)だと、抜き手の巧みさを競う。

イナゴのごとく飛べば、スイカのごとくに潜る。泳ぎも速いし、水にもぐるのも巧みで、人間の大きさをした鯉が踊っているようで、足の伸び縮みの自在さ、海にいるとは思えないしなやかさで、走っているようだなどと褒めてやるべき熟練者もいる。やがて五時半となり、打ち方やめの号音と共に、一同再び整列し、一等航海士とドクターの点検をうけた。

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訳注
*1: 帆船の甲板は定期的に海水をまいて掃除するが、その際に甲板に砂をまき、椰子の実を半分に切ったものでごしごし磨く。
これをタンツーと呼ぶが、それに使う砂を海岸で確保するため、ボートで房総半島の砂浜に上陸したもの。
作者はこの砂をホーリーストーンと呼んでいるが、一般には、汚れがひどいときに使う砥石状の石をホーリーストーンと呼ぶことが多い。

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