現代語訳『海のロマンス』29:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第29回)


(前回までのあらすじ)大成丸はついに最初の関門である太平洋横断をなしとげて、米国西海岸のサンディエゴに到着しました。
実は、ここサンディエゴで、船長が失踪するという前代未聞の事件が起きるのですが、それまでは太平洋横断の余韻がしばらく続きます。


サンディエゴ入港

ある者は、寒すずめのふくらんだ毛のようだという。ある者は、病み上がりの定九郎*1みたいだという。なんにせよ、すころぶ物騒な頭である。見る人の視覚に、混乱と恐慌とを生ぜしめる代物(しろもの)である。なぜ在留日本人がそろいもそろって、ほかに選びようもあろうに、こんな危険な頭髪(あたま)の刈り方をするのか? それはわからぬ。わかっても、断りもなく、他人の心理状態に立ち入ってこれを是非するのは、温和主義・非人情主義の船乗りにはだいそれた企(くわだ)てである。人の頭髪(あたま)の心配どころか、こちらは、自分の頭の上のハエにさえてこずって、つい先だって、貴重な時間と有限のエネルギーとを、あわれ一本のサイダービンと交換したような体たらくである。しかし、角刈り、フランス刈り、クラーク式などいう恐ろしい刈り方が世にときめくこの頃、ことさらにお椀形のアメリカ刈りだけにするのはちと理(もの)がわからぬと言わねばならぬ。

美しき花の丘として、月涼しき海沿いの山として、長き年月、吾人の耳に親しかりしロマランド*2を巡(めぐ)って、くの字なりに深く潜入したる、風軟(やわ)らかに波静かなるサンディエゴの良港に入りかけたとき、熊谷(くまがい)*3もどきにオーイオーイと帽子を振りながら練習船に近づいてくる、日章旗を立てた一隻の小型船(ランチ)があった。

一時間十ノットの全速力で入ってきた練習船は、ここに至ってようやく船足を緩め、水先案内船(パイロットボート)が来るのを待つ。小型船(ランチ)は十年ぶりに生き別れした子供が、偶然(ヒョイッ)と親にめぐり合ったように、懐かし気にすり寄ってくる。

想(おも)いは同じである。館山(たてやま)を出てから水と空とのほか、帆の影一つ見なかった乗組員が、四十五日ぶりに五千海里離れた異国で黄色い顔を見、大和言葉(やまとことば)を聞くのはちょっと他の人には想像できない嬉しさである。この嬉しさと、わざわざ出迎えてくれたありがたさとに、船が(水先案内船や検疫船などに比べて)汚く見すぼらしいことを忘れた。黄色い、光沢(つや)のない顔を忘れた。見るからに小柄で不格好な風体(ふうてい)を忘れた。例の物騒な頭の髪(け)などはもちろん気づかなかった。

すべてを忘れつくし、すべてを度外視したときに、明確にただ一つ自分らの目に入ってきたものがある。出迎えの日本人の右腕にまいた黒い腕章である。国家的哀傷(あいしょう)の悲しき唯一のシンボルである。このしめやかにして、おとなしく、陰気なる印象(インプレッション)を与える喪章をまとった人は、同じく真剣で敬虔(けいけん)な眼(まなこ)をあげて船尾の半旗を見上げている。やがて、太平洋の潮を超えてやって来た海の人と、ポピーの花が咲き乱れる異国の地で祖国のために奮闘している陸(おか)の人とは、この二度となき荘粛(そうしゅく)にして悲痛なる雰囲気の下に、なつかしさを抱いて握手する。

例の越後獅子(えちごじし)の頭を朝風に振りたてながら、日本人の長を先頭に順次、まじめな敬意と軽快(ブライト)な歓意(かんい)とで複雑な表情を浮かべた十二、三の顔がタラップを登ってくる。長髪といがぐり頭とが、三尺の間隔をおいて対面し、互いの発する一語一語に心ゆくばかり慰められる。

白地に赤く鮮血をほとばしらせたような、鮮やかに輝く、なつかしい日章旗が港内の水に映(はえ)るとき、また、それに前後して、かの有名なコロナドホテルの尖塔(タワー)に同じ国旗が翻(ひるがえ)ったとき、五百人の在留同胞は。歓喜の潮(うしお)と軽い誇り(プライド)の念とで胸が一杯になった、心強く感じたとのことである。

もっともである。しかし、あの頭髪(かみのけ)だけは、すこぶるもっともではない。

聞くところによれば、西洋ではいがぐり頭は囚人の典型だということである。囚人と同列視されるのは迷惑ではある。しかし、あのお椀のような髪型は身体のためにもよくあるまい、よく逆上(のぼせ)ないことだ、よくうっとうしくないことだと思う。自分は心の中で盛んに同情を寄せているが、本人たちは一向に平気のようである。

で、自分はここに「なるほど外国だな」という最初の印象(インプレッション)を、丘からではなく、港からではなく、いろいろさまざまな多稜形(たりょうけい)の市街から得たのではなく、この偉大なる髪の刈り方から得たことに多大の敬意を表するのである。



脚注
*1: 定九郎 - 歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の斧定九郎を指すか。
定九郎は敵討ちという忠臣蔵の本筋には関係のない端役にすぎないが、中村仲蔵が演じたことにより一躍存在感のある役となった。


*2: ロマランド - ポイント・ロマ(サンディエゴ港を太平洋の荒波から守る形になっている岬)には、当時、神智学協会のコミュニティが作られていた(1900年~1942年)。ポイント・ロマ・ナザレン大学(ナザレ派キリスト教系私立大学)がその一環で創立され、現在は郊外の緑豊かな文教地区になっている。


*3: 熊谷 - 歌舞伎の熊谷陣屋(くまがいじんや)に出てくる源義経(みなもとのよしつね)の家来の熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 42:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第42回)


カヌーの運搬を頼んだ荷馬車の御者はちょっと変わった客、つまり英国旗を掲げたボートを運んでいることが自慢のようだった。それで、友人と出会うたびに、説明を繰り返している。細かいことはわからないが、かなり話を誇張して伝えているようだ。聴く相手もたいてい大喜びしていた。とはいえ、ツークの町を出たところで、この立派な御者先生に運賃の十三フランを払い、もうこの辺でいいですよと言うと、こんな中途半端な場所でよいのかと、ひどく面食らったようだった。出発の準備や何かで朝から動きまわって休憩もとっていなかったので、ぼくとしては一刻も早くカヌーを水面に浮かべて、のんびり休みたかったのだ。とはいえ、「イギリスから来て荷馬車で運ばれているボート」を見たいという町の人々の好奇心から逃れることはできなかった。見えないようにカヌーを石積みの土手の背後に移したのだが、町の人たちは土手の上によじ登り、立ったままこっちを眺めている。ぼくはそっけない顔をして何も言わずに座っていた。連中も同じように腰を下ろし、辛抱強く待っている。そこで作戦を変更し、カヌーを上下さかさまにして修理するふりをした。底板の継ぎ目にそって赤いパテを塗ってみせる。連中は、その作業が終わるまで、じっと見ている。仕方がないので、同じことを隣の継ぎ目でも繰り返しながら、これを全部やらなきゃならないんですよと説明する。さすがに、そこまでは付き合いきれないと、こっちの意図を察した何人かは腰を上げたが、前列のその空いた場所は、すぐに他の人で埋められた。こんなことを繰り返すのは相手にも失礼な気がしたし、ぼくの方も冷静になってきたので、カヌーを湖に浮かべて荷物を載せ、水上から見物人たちに「アデュー」と別れを告げた1

原注 1: この別れの言葉は、他のフランス語と同じく、ドイツやスイスでもよく用いられている。

パドルに水を感じると、また新しい活力がわいてきた。やわらかく、しなやかな流れと水面の穏やかなうねり──埃(ほこり)まみれの陸の旅の後では、こうしたことがまた新鮮な喜びを感じさせてくれる。こういう文字通り流れるような川旅を体験してしまうと、陸上の旅にはもう戻れないような気もしてくる。

ツーク湖は小さな湖で、山があるのは片側だけだ。そこから見事な丘陵が広がっている。リギ山や百を超える峰々が重なり合ったり、峰と峰の間に独峰が高くそびえたりしている。あまりにも風光明媚すぎて、下手な説明なんか、かえって邪魔なくらいだ。それに、この景色は旅行者にはよく知られてもいる。いろんな店のウインドウに、ここの風景を描いた絵が飾ってあるし、実際に現地に行って自分の眼でながめたことのない人であれば、そうした絵だけでも十分に楽しめるだろう。冠雪した山々を一望したときの感動は、とうてい言葉では伝えることはできない。

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ツーク湖 [Lake of Zug, Author= Matthias Alder]

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現代語訳『海のロマンス』28:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第28回)


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有人情と非人情

ふっくらとして、風の音をさまざまに響かせ、なんとも心をなごませる、美しい湾曲率(カーバチュア)を持つ薄鼠(うすねずみ)色の三十二枚の大きい小さい四角三角、もろものの帆がいきなり練習船の空から消え去ったときの心持ちは、なかなか簡単には言い表せない。

今日まで狭く限られて見えた青い空が、今や何の遠慮もなくドーム形に重く頭上におおいかぶさり、大きな青い眼にヤッと睨(にら)まれたように感じた。今までにぎやかに帆や索具(ギア)に飾られていた黄色いマストは、青い蒼空(そら)に向かって心細く細り、一時にありとあらゆる葉を振るい落とした冬枯れの銀杏(いちょう)のように、寒いという感じをしみじみと味わわせる。

愛宕山(あたごやま)の石階(きざはし)のような険(けわ)しい鉄バシゴを降りて、蒸籠(せいろ)の底を渡るように、鉄棒を編んだ床を踏み、地獄の底のような機関室(エンジンルーム)を訪問する。汗と脂(あぶら)で菜っ葉服(なっぱふく)をぐっしょり濡らした機関士がセッセと気圧計(プレッシュアゲイジ)を測り、シャフトの回転度数を計算している。ピストンロッドの直線運動(ライナーモーション)、がっつりシャフトを包み込んだ連接棒(コネクティングロッド)の単弦運動(シンプルハーモニックモーション)、バルブギアの偏心作用(エキセントリックモーション)、すべての方向と、すべての性質と、すべての目的と、すべての効果とを有する地球上のすべての運動が、このせまい脂くさい暑苦しい一室に集められたかと思うほど、目まぐるしく、しかし音もなく滑り動く様子は、天下の奇観である。

自分──この古くさい前世紀の遺物と思われる帆前船(ほまえせん)に乗っている自分──は、文明の刺激とか圧迫というものが恐ろしく、嫌いである。しかし、こうやってフラフラと上甲板から五十尺下のエンジンルームにやってきた自分を自ら見出したときには、気まぐれなそのムードを詮索する暇もなく、なぜかある自覚が胸に湧いた。馬の尿(いばり)が俳趣ありとみられ、牛の尿がのどかなる古都の春を叙する詩材となるというのであれば、せわしく、せちがらく動く現代文明の権化の中から、ゆったりした平安(のどか)な、人事を超越した思情(しじょう)や情緒などが浮かんできたとしても、さほど突飛ではないと思う。なんとなく見ている目に、耳に、胸に、調和した平滑で新鮮な感じを与えられたようで、喜び勇んでボイラールームに向かう。

ガチャンと地獄の窯(かま)の蓋(ふた)を開くように、扉(ドア)をはね上げたとたんに、サーッと蒸し暑いほこりが横ざまになびいて、眼といわず鼻といわず、口や耳の区別なく、あらゆる顔面上の出入り口を封鎖して、顔が熱風に包まれたような気がする。見よ、今や煌々(こうこうと)と燃えるような火の光に射られ、赤鬼のように彩られた顔をもたげ、まさにショベルをふるわんとする一火夫(かふ)のその姿勢! その筋肉美!

ここにも男性美、奮闘し精力の限りをつくしている姿を目撃し、狐にだまされたようにポカンとしてデッキに出ると、ロッキーおろしの涼風が面(おもて)をなでて、大成丸はすまして脇目もふらず波を切って進んでいる。

館山(たてやま)を出発し、波を友とし、雲を仲間としてから、ここまでちょうど四十五日、またもや、ちょっと変わった娑婆(しゃば)くさい風に吹かれる運命(さだめ)となった。

その四十五日間の波の上の生活(ライフ)! すべての人は異なっている。すべての顔と、異なっているすべての性格と、異なっているすべての経歴とを有するごとく、異なれるすべての生活の意義と状態とを有しなければならない。しかしそれは、毎日、真水で入浴でき、料理屋に行って食事ができ、新聞という文明の利器によって座(い)ながらにして天下の大事を知りうる陸上(おか)の人の間にのみ用いられる約束である。解決である。

地獄の沙汰(さた)も金次第とは、今までどこに行っても通用した権威(オーソリティ)を持っていると思ったが、それは大間違いであった。ここに一つ銀(しろがね)のネコをもてあました西行(さいぎょう)のような一民族が水の上に暮らしている。この百二十五名の人々は、それぞれ異なる運命と、使命と、心性とをもって、十把(じっぱ)ひとからげに積みこまれた。一個の口をきく貨物(カーゴ―)としていったん積みこまれた以上は、いくら泣いても追いつかない。

海上の大成丸という、絆(きずな)、人情、義理、社交など一切(いっさい)娑婆(しゃば)との交際(いきさつ)を断絶した一つの大きな円に内接して──しかし、自分は運命論者ではない、隠棲(いんせい)論者でもなく、議論はきらいで、しごく内気なおとなしい質(たち)である──百二十五もの多くの人間の小さな円が互いに切りあって抱き合って、しかも合理的(ラショナル)に、共同的に、非個人的に、グルングルンと同一速度で、同一方向に回転している。

金のないものもあるものも、ヘラクレスのような屈強な男も小男も、天才も凡庸(ぼんよう)も、みな同じ供給と待遇とを受ける。すこぶる公平である。同じ扱いを受け平等である。客観的である。非人情である。抜け駆けの功名はしたくても海を相手ではたかが知れている。のれんに腕押しである。勢い、共同的、普遍的、客観的、十把(じっぱ)ひとからげ的になる。勢い、のんきに、無競争に、無刺激に、無敵がいに、非人情になる。ありがたい。

しかし、ようやく人くさい匂いや、娑婆(しゃば)くさい匂いがしだすと、もう駄目だ。たちまちムラムラと謀反(むほん)気が起こる。野心が起こる。競争が起こる。大伴黒主(おおとものくろぬし)的になる。佐々木高綱(ささきたかつな)式になる。なまいきに言えば主観的になる。有人情になる。百二十五の小さい因果円は自らその連鎖をほどいて、てんで勝手に気ままな方向に運動しはじめる。やがては大成丸という大きな外接円を突き破ろう、はね切ろうと飛び上がる。いよいよ船が港に着いたときは、きわめて主観的になる。きわめて人間くさい「有人情」になる。大接円のタガがハチ裂けるのはこのときである。

百二十五もの多くの小さな円は、これ幸いとばかり、どっと主観的に、有人情に、みなそれぞれに、いろいろの方向に飛び去る。どこへ行くかわからない。自分もまたこの飛び上がったアメーバーの一小円である。サンディエゴ停泊中は、いきおい主観的にならざるをえない。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 41:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第41回)

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この湖では翌日もカヌーを漕いだ。とても楽しかったが、その魅力の多くは、事前にまったく何も決めておかなかったことにある。つまり「十時までは、ここにいなければならない」とか「夜はあそこで眠らなければならない」といったスケジュールに縛られることがなかったということだ。風の吹くまま好きなようにセーリングで風下に向かってもいいし、朝食をどの村で食べるのか、どこで水浴びしようかといったことも自由に決められる。入江を見つけたら、そこをカヌーでぐるっと一周して探検しても構わない。昼食は対岸に渡ってからにしでもいいし、どこかの岸に寄って食べてもよかった。気が向いたら、カヌーに乗ったまま食べたって何の問題もない。

ぼくは、荷物を持たず首輪もなく、着古すということのない毛皮というコートを一着だけまとって歩きまわっている犬のような気分だった。

水の上を存分に楽しんだので、ちょっと休憩するためにホルゲンに上陸した。うれしかったのは、ホルゲンの子供たちが大喜びしてくれたことだ。見慣れない舟が来たというだけで、子供というのはどうしてあんなに飛び上がったり跳ねまわったり、歓声をあげることができるのだろうか。今回の航海では、どこへ行っても若い人たちが喜んでくれたが、そういう反応を目にするのも大きな楽しみの一つだった。これまでの航海を思い起こしてみると、太ったのや、そうでないのや、何千人もの子供たちや子供っぽい表情を浮かべた顔が目に浮かんでくる。

こうした若い友人たちは、カヌーを荷車に乗せ、御者が脇に立って進み、カヌーの船長たるぼくがその後をてくてくついていくときには、さらに嬉しそうだった。子供たちの母親が何人も家の外に出てきて、そうした行列をにこにこ眺めている。「その舟でイギリスまで行けるの」と聞く人もいる。ぼくの返事は何通りか用意してあって、その日によって違う。「さすがにクリノリンのペチコートを着た女性を乗せるスペースはありませんね」など。その返事をしたとき、一度だけ、じゃあ着ているクリノリン生地のペチコートを重ねてふくらませたスカートは家においてくるから、という女性がいた。これもフランスだったと思うが、別のときには「お金がないから、クリノリンのペチコートなんか着たことないわ」という婦人もいた。

カヌーについては、相手の好奇心に応じて、さまざまな反応があった。質問はせず、念入りに調べ上げるというタイプの人もいたし、逆に、調べたりせず質問攻めにする人もいた。カヌーを持ち抱えて重さを実感したり、掌をデッキに載せ、磨き上げられたシダー材のなめらかさを感じとろうとする人もいた。船底を見てキールの有無をチェックする人もいれば、ロープを曲げて柔らかさを確かめたり、脇に置かれたパドルを握って「実に軽い」という人もいた。カヌー各部のサイズを測定し、さらに突っこんだ質問をする人もいたし、軽くげんこつで船体をたたいたり、すまし顔でカヌーをスケッチしたり、銅釘を食い入るように調べたり、絹地の縁が少しほつれて色あせしている旗にそっとさわってみたりする人もいた。このバージー(三角旗)はどこでも興味の的となったが、まず吟味してみるのは女性たちだった。旅をする者の日々は、こういうちょっとした、どうということもない、すてきな出来事に満ちている。単にどこへ行こうかとか、どこで一息つくか、どこを見物し、どこで人と話をするかといったことは、気高い精神力といったこととは関係ないが、夏の暑さをやりすごすには十分だ。

チューリヒ湖とツーク湖はそれほど離れていない。森林地帯の高い峠を越えることになるが、ちゃんとした道はあるし、歩いても三時間ほどの距離だ。とはいえ、ぼくが歩いたのは十二時から三時までという、一日で日射しが一番強い時間帯だった。暑さと埃(ほこり)にまみれ、ぼくはまた水の上に出たくなった。地図で調べると、ツーク湖まで通じている川は、カヌーを漕いで行けそうだった。しかし、地図というものは、川がカヌーで漕ぐのに適しているかについては教えてはくれない。どの川も紙の上で曲がりくねって引かれている黒い線にすぎない。これだけでは川の深さや流速はわからないし、荷車の御者や宿の主人たちにしても、そんな情報を持っているわけではない。彼らの商売では道がどうなっているかが重要なので、川がどんな風かを知っておく必要はないのだから。

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現代語訳『海のロマンス』27:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第27回)

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けたたましい警鐘

三日間にわたる真無風(デッドカーム)と、二日間続いた時化(しけ)とで、十分に海の持つ両局面を体験した練習帆船・大成丸は、二十八日の午後からまたまた北西のカリフォルニアの沿岸からの順風をうけて、一時間に九海里半という快速力で、怒れる牡牛のように疾駆(しっく)した。

二十八、二十九と三百三十海里を二日で走破し、カリフォルニアのケープホーンとして有名な、コンセプション岬は二十九日の真夜中に走りすぎた。空に雲はなく、水平線の波は低いが、三十日の朝は少し朦朧(もうろう)とした天候(ミスチー)であった。イルカの眠り静かなるサンタバーバラ海峡に、絵のように横たわるサンタロサの青い島影が見えないかと、右舷船首(ポートバウ)は時ならぬ賑わしさを呈する。

「島がッ!」という、鋭い声が、ついに六時に見張り(ルックアウト)の口からほとばしり出た。心をこめた人の思いはさすがさすが。そこにあるのかと思って眺めれば見えるような気がするし、なに、まだ島なんか見えるものかと否定すれば、眼もまた否定することになる。とはいえ、かすかに薄く、夢のように島らしい幻影(まぼろし)がほのかに見える。やがて、七時、八時となれば、レースのカーテンをすかして人を見るような影像(かげ)が、ようやく眼前に迫ってきて、「島よ」という思いがひしひしと人々の胸に通う。遠望することが役目の見張り(ルックアウト)の頬には、少し得意そうな表情が浮かんでいる。

二重底(ダブルボトム)を持ち、水密隔壁(バルクヘッド)を備え、高い復元性(スタビリティ)を有する練習船は、このごろ盛んに物騒になった海のお化けの氷山を除いては、公海(オープンシー)においては、おそれるものはない。衝突は岸の近くで起きることで、男らしい生業こそ船乗りだと、とっくに承知している。

ただし、ここに船火事という赤いテンペスト(嵐)のあることを、ときどき承認しなければならないのは、すこぶる苦しいムードである。中国神話の火の神である祝融(しゅくゆう)が火を使って煮炊きすることを教えて以来、プロメテウスが天界の火を盗んで人間に教えて以来、東西古今を通じて火宅の災変(さいへん)は、人間くさい、娑婆くさい陸上(おか)のことと限られていたが、油断は大敵である。高級なヴェールやオペラバッグなどが盛んに幅を利かす二十世紀の世の中である。祝融(しゅくゆう)氏といえども、また海上に出店をこしらえざるをえないのでないか。従って本船でも毎週一回ずつ火災訓練が行われる。

軽佻(けいちょう)にして茶目っけのある、若々しく元気な夏の朝の大気をふるわせて、乱調子なけたたましい警鐘(アラーム)が、できるだけあわてろ、ふためけ、とばかりに鋭く響く。練習とは知っているものの、心臓のやつが火事だ火事だとそそのかすように鼓動する。足は自然に急げ急げとばかりに宙におどる。始末に負えない。それとばかりにハチの巣をつついたように、十六の船室(キャビン)から練習生がブンブンと飛び出す。長バシゴをかつぎ、かけ声も勇ましく、それぞれ決められた部署(パート)へ定(き)められた品物をとってかけつける。手斧を持ち長靴をはいて火災場に駆けつける者、水に漬けたモップを降りまわす者、火災用ポンプや甲板洗い用のポンプ、一号および二号の大型ポンプを操作しようとする者、ホースを引っ張ってくる者、バタバタとしているものの統率をとって直ちに想定された火災現場に数本の筒先を向けてしまう。

たくましい百二十五名の身体から送り出される精気(エネルギー)の放散、飛び交う号令、力こぶの発現。

眼に入るすべては興奮していて、男性的葛藤の表現でないものはない一大修羅場の空気が伝わってくる。そこに、「待て──」という凛とした声が響いた。すべての極限まで発せられていた活力はすぐに消え、静寂が支配する。「火災は前部洋灯(ランプ)部屋ぁ──」という甲高(かんだか)い一等航海士の声が響いて、再び元の騒々しさが戻ってくる。かくして「打ち方はじめ」の号令で、すさまじい水柱がほとばしり出る。

今日はいよいよロマ岬を望むという頃、この訓練は何の予告もなく行われた。訓練後、船長は全員を前部船橋の下に集めて、重々しい声の調子で講評をされた。十点法で採点すると、火災用ポンプが五点、一号ポンプは故障で問題外、二号ポンプは九点という成績であった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 40:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第40回)


翌日、鉄道の駅で、ぼくは「貨物」受付の窓からカヌーの尖ったバウを突っこみ、「ボートの料金」をたずねた。係員はまったく驚いた様子を見せなかった。というのは、ぼくがイギリス人だとわかったので、どんな奇人変人や狂人的な行動であっても、イギリス人ならやりかねないと思っているのだった。とはいえ、ポーターや警備員、運転士とはちょっと面倒な議論をした末に、やっとカヌーをなんとか貨物車のトランクの間に押しこむことができた。アメリカ人旅行者の尖った鉄張りの箱が薄いオーク材のカヌーに穴をあけていないか、鉄道会社に代わってときどき確かめた。プラットホームで積みこみを待つ頑丈な木製の樽がごろごろ転がされてカヌーのすぐそばを通るのではないかとか、魚籠や鉄の棒や木箱やいろんな不格好な貨物がカヌーに当たりはしないかとか、どうにも気になって仕方がない。こういうものって、汽車が停車したりするたびに貨車の中で倒れたり転がり落ちたりするものなのだ。

単なる物にすぎないカヌーに対して、こうして心配したり不安になったりするというのは、生き物ではないモノに対し、楽しみや苦しさを自分に置き換えて感じたことのない人にとっては、ちょっと異常だと思われるかもしれない。しかし、それ以外の人たちは、こういう航海ではボートに対する愛着がどんなに強いか、わかってくれるだろう。ここで強調しておきたいのは、こういう華奢な乗り物で旅をする人が今では増えていて、旅の折り返し点をすぎると、そうしたモノをなんとか無傷で母国まで持って帰りたいという気持ちが日増しに強くなってくるということだ。

チューリヒまでカヌーを鉄道で運搬する料金は二か三シリングくらいだった──駅とホテル間の運搬に要した費用の方が高くついた。そこからまた車両に載せて、古き良き鉄道の旅のようにトンネルを抜け、スイスを象徴する山岳地帯に到着した。そこにはスイス各地から旅行者が集まってくる。ホテルや巨大なレストランが立ち並び、さまよえるイギリス人にたっぷりの食事を提供したり、食事療法を施したりするのだ。むろん、値段はめちゃくちゃ高い。

ここでは、またしてもぼくの食べっぷりが噂になって、それに悩まされた。そう、これはしょっちゅうで、疑いもなく身体に関することなのだが、山に登ったりカヌーを漕いだり、ラバを御したりと、旅人が自分の筋肉を使って自分の体と荷物を運んでいる場合、たんぱく質をいかに取り込むかというのは、少なくとも当人にとっては死活問題なのだ。

スイスやドイツで快適に過ごしたいと思うのであれば、宿泊はドイツのホテルがおすすめだ。景色のよい観光名所の近くに建てられているイギリス人観光客向けの巨大な宿舎は避けた方がいい。汽車や蒸気船から降りた観光客はそのままバスへと乗せられ、待ち構えたホテル業者のところへと運ばれていくのだが、パパとママと三人の娘、それにお手伝いさんが一人という家族がいる。むろん、案内人が付き添ってくれる。また登山杖を持った、どこか戸惑った様子の女性もいる。手にしている白く長い杖はスイスに着いたときに渡されるのだが、それをどう使うのか、当人には見当もつかないのだ。次に、同じ車両から一ダースもの若いロンドンっ子の集団が下りてくる。一行は男も女も表面を取りつくろった顔をしているが、内心は心細さを感じているので、ホテル経営者は好きなように扱える。

添乗員と一緒ではなく、妻や重い荷物や娘も連れず、ぼくは一人でホテルに入ると、勇気を振り絞って、骨なし肉とジャガイモを注文した。三十分ほどして、肉二切れにホウレンソウを添えたものが出てきた。どちらも一口で食べ終えたし、冷えてもいた。果物を注文した。ナシが出たが、傷んでいた。小さなブドウも一房も出たが、これは高級品だった。代金として二シリングを払った。

翌日は、それと対照的に、湖を三マイルほど漕いで下ったところで、前日と同じように骨なし肉とジャガイモに果物付きの食事を注文した。今度は、二流のドイツの宿屋だ。骨なし肉がすばらしいジャガイモを添えて出されたが、実においしかった。果物は大粒のブドウや桃、果汁たっぷりのナシ、熟したリンゴと赤く色づいたプラムが、大きなカゴに盛り合わせて出てきた。代金は一シリング六ペンスだった。なぜこうなるかというと、イギリス人は値段が高くてもブツブツ言うだけで代金は払ってくれるが、ドイツ人は払わないからだ。イギリス人なら我慢できる料理にも、ドイツ人は我慢できないというわけだ。別にホテルの経営者を責めているわけではない。彼らはできるだけお金を稼ごうとしているわけだし、金を稼ごうとすると、誰でもそうなってしまうというだけの話だ。

夜明けの薄明かりのなかで、チューリヒ湖をカヌーで出発した。夕方まで快適な航海だった。涼しく、静かで、湖面には周囲の色彩豊かな集落が映っていたし、柔らかい歌声やゆったりとした音楽も聞こえていた。月が昇ってくると、はるか遠くの冠雪した山々が銀色に光った。カヌー用のボートハウスを見つけたのは、このときだけだ。また、カヌーが手荒に扱われたのも、このときだけだった。翌朝、責任者だというまじめで実直そうな男がやってきた。カヌーは無残にもひっくり返り、浸水しているのがわかった。座席は放り出され、周囲に浮いていた。カバー類もだめになっていた。帆は結び目がほどけていたし、大切なパドルは、汚い手で握られたために汚れていた。こうしたことを心苦しく思った男は、英語とドイツ語とフランス語の罵詈雑言を黙って聞いていたが、代金の半フランとともに、そのことをずっと忘れないはずだ。それ以来、ぼくは面倒でも、カヌーは必ずホテルまで運ぶようにした。ここでは、もう一つ別の体験もした。荷物を蒸気船で送っておき、目的地で受け取ろうとしたのだが、荷物が無事に着くかなと心配になり、なんとも気がかりで、利便性という効用も吹き飛んでしまった。カヌーの旅では、荷物は常にカヌーのどこかに収納し、自分で持ち運ぶべきだと痛感した。自由であることが、カヌーイストの喜びなのだ。


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現代語訳『海のロマンス』26:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第26回)


海洋の変化

雲行けば船も従い、船行けば雲もまた追って、紫紺(しこん)の海に銀(しらがね)と咲く潮(うしお)の花を眺めくらしつつ、今日ははや三十八日の汐路(しおじ)を重ねた。

弓を引いては発し、引いては射るといったように、風は絶え間なく変化する。あるときはごうごうと音を立てる猛烈な台風となり、あるときはすね毛の根本にまつわりつく気流のくすぐりほども感じさせない。はるかな海底からこんこんと湧き出てくる潮(うしお)の脈拍。あるときは渦を巻き、みなぎるように沸き上がり、その堂々たる響きは赤き血潮(ちしお)の色も濃い船乗りの血管にも強く共鳴し、あるときは腕達者で繊細な、さざ波のように途切れずに続く音(ピアノ)となって、その何とも言えない妙なる音は、空想にふけるマドロスの胸に奥ゆかしい海の琴の音を伝える。

朝になると明けの明星も姿を隠し、夕べには月の光に照らされる。海の変化は秒を削り、分を割りて、なお一瞬時のいとまを与えない。

今や練習船大成丸は静かに太平洋のうねり(スウェル)に揺られながら、二度目の真無風(デッドカーム)を味わっている。四本のマスト、十八本のヤードは再びスウェーデン式体操やスパニッシュダンスを強いられる苦しい羽目にあるのである。

つい昨日までリギンは風に鳴り、バウは波に吠(ほ)え、弓を離れた矢のように、一時間八海里も走ったのを思えば、うそのようである。

帆船にとって、風がなくなり船が進まなくなったことほど、心細く、また哀傷(みじめ)なことはないだろう。見渡す限り空は一面の瑠璃(るり)色に染められ、水平線のかなたには干からびたような雲が不機嫌そうな面(つら)をさらしている。海の面(おもて)は、ありとあらゆる波の起伏的行動(モーション)を封じ去って、大小高低さまざまな波浪はネプチューンの巨砲に削られたようになめらかで、少しの変化もない。風といえばアホウドリの胸毛をゆるがすほどの力もなく、速度を調べる側程儀は引き上げられ、大小三十四枚の帆(セイル)は一斉に意気地なくマストにへばりついて、天地の間に見えるものは、ことごとく倦怠(アンニュイ)と退屈(ダル)との象徴(シンボル)でないものはない。油を流したような海とはこのことであろう。なだめられ、すかされ、だまされて泣き寝入りになったように……。おとなしいと言うより、むしろ無気力の沙汰(さた)である。

海はこのように恭順(きょうじゅん)の体を示しているのに、ここにうねりというつむじ曲がりの彰義隊(しょうぎたい)が控えている。風がへこたれ、海は変わってしまった、そっちがそうなら、……と静かに収まっている水の層を、その平らになろうとしている水の重さに逆らって、むりやりに上下に揺すりはじめる。そのたえざる微動が薄い水の表面を破らない範囲内において、はるか遠くから伝わってくる力を強く感じられる帆船は、汽船や軍艦に比べて、一層安定(ステイブル)である。さらに大なるスタビリティ―を持っている。本船のGM値*1は実に三フィート二インチ余もある。うねりが来ると、二千四百トンの大船も、くすぐられるように竜骨(キール)の下からユラリユラリと持ち上げられる。

見渡せば、船の横動(ローリング)に応じて、マストやヤードは皆それぞれに勝手気ままな方向(むき)にダンスをやっている。前檣(フォア)のやつは盛んにポルカをやっている。負けるものかと中檣(メイン)のヤードは浮いた浮いたとカドリーヌをやる。後檣(ミズン)のやつはと見ると、皆さん陽気に騒ぎましょうとばかりに、コチロンをやっている。御大喪(ごたいそう)中であるぞ、控え! とどなっても、帆柱(マスト)とうねり(スウェル)との妥協である。いっかな聞きそうにない。とにかく、波長の長いうねり(スウェル)は船乗りにとって鬼門である。

無風(カーム)で相当に苦しめられた船乗りは、またさらに苦しむべく、ここに時化(しけ)なるものを迎えなければならない。なんとも因果なことである。

一番上に展開するロイヤルはもう前の初夜当直(ナイトワッチ)に絞られた。風力七*2となる西方の疾風(ゲール)はヤードリギンに当たってビュービュー悲鳴を発し、海は夜目(よめ)にも目立つ雪のような波頭をいただいて震え走るのである。

怒り、狂い、焦(じ)れ、騒ぐ、北太平洋の広大な海域を伝わってきた波浪(なみ)は、相手ほしさのその矢先で、恐れる気配もなく乗り入れた二千余トンの帆船の鋭い船首(ステム)で、むざと二つに切り破(わ)けられた腹立たしさに、憤然としてガンネルを噛む勢いものすごく、ドシンと舷(ふなばた)に当たりざま、たちまち三千尺の高さに跳ね上がる。それを待ち構えたように、意地の悪い烈風がそれとばかりにけしかける。

軽佻(けいちょう)な波は、この尻押しのおだてにたやすく乗せられて、何の容赦もなく大きな煙突のような藍青色(エメラルドグリーン)の長い大きい水柱が水煙をたてて踊りこむ。リギンに時ならぬしぶきが散り、甲板はたちまち泡立つ海となり、洪水のような海水が滝のように風下の方へ流れ走る。こういうとき、中夜(ミッドナイト)の夜話は例の怪談話をするのに最もふさわしい。今も左舷二部の当直員は二番船倉口(ハッチ)の周りに円座して、N氏の大阪川口の綿問屋木ノ吉の所有にかかる新造スクーナーの進水当夜の奇談に心を奪われていた。と、たちまち頭上の船橋(ブリッジ)から「ゲルン絞れ!」*3という士官の号令が凛(りん)として夜の沈静(しず)んだ空気を震わせつつ、高く響いた。

ハリヤードを延ばし、シートをやり、クリュ―ラインを引き、囚われた大鷲のようにバタつく帆を巧みにヤードにまで縛りつける。やがて「絞帆(こうはん)たため!」の号令が下る。

すわと、はやりきった心を沈めて猿(ましら)のごとくスラスラとリギンを伝う後ろから、海洋(うみ)の男性的素質(ネイチャー)の両極を見よとばかりに、礫(つぶて)のような獰猛(どうもう)な驟雨(スコール)が激しく洗い落すようにやってくる。驟雨(スコール)の過ぎ去った後のヤードを見上げれば、蒼穹(そうきゅう)を燦然(さんぜん)と散りばめている無数の星くずを、今にも払い落すように横動(ローリング)するマストの上で、雨に濡れてパンパンの板のようになった帆をたたみ上げるその速さ、その手練(てだ)れ。

陸にしがみついている人、セイラーを軽視する人にぜひ見せたい見事な光景である。



脚注
*1: GM値 - 船舶で、G(重心位置)とM(横揺中心)間の距離を指し、この値が大きいほど復元力が大きくなる。「(横)メタセンタ高さ」ともいう。

*2: 風力七 - 風の強さは一般に「ビューフォート風力階級」で示される。風力七は風速13.9m~17.1mで、風力階級表によると、海上では「波頭が砕け、白い泡が風に吹き流される」状態。
ちなみに、太平洋では風速が17.2mを超えた熱帯低気圧が台風と呼ばれる。


*3: ゲルン - トップギャランと呼ばれる横帆のこと。
横帆式の帆船では、帆(セイル)は、マストの下から順に「コース」「トップスル」「トップギャラン」「ロイヤル」と呼ばれる。数が多い場合はさらに細分化され、「アッパー(上)**」「ロワー(下)**」が付く。
強風で縮帆する場合、上の帆からたたんでいく。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 39:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第39回)


第七章

朝になると、大気に不思議な変化が生じていた。あたり一帯が白く濃い霧に包まれていた。これは「ぞくぞくするような川下り」ができそうだと思ったので、急いでこの乳白色の世界にカヌーを浮かべた。たとえば、橋の下をくぐるとする。人々の声がまるで頭上から、というか天から降ってくるように感じられるのではないかと思ったのだ。しかも、この霧は十一月のチェシャ―チーズほどにも濃厚で、それだけ興味深いものになりそうだった。川旅での霧は何度か経験しているのだが、今回は、つい目と鼻の先にあるカヌーの先端すらまったく見えない。こういう状況──何も見えないまま速い流れに乗って漕ぐという状況──は、まったく予想外だし、新鮮でもあった。何も見えないという状態が、大きな喜びを感じさせてくれる。

空想はいつも無限だ。しかも、脳裏に描く絵はいきいきとして、色もあざやかだ。結局のところ、外部の物体の印象というものは絵にすぎないと、哲学者たちも述べているではないか。景色など見えない霧中の川旅だとしても、頭の中で思い描きながら楽しめばよいのではないか、と。

音もそうだ。声はたしかに聞こえるのだが、魔女や妖精がしゃべっているようでもある。実際には、川岸で女たちが洗濯しながらおしゃべりしているだけなのだろうが。とはいえ、現実と空想の両方で姿の見えない人々の相手をしつつ、神経は極限まで集中させる。またも声が近づいてくる。これは、カヌーがまっすぐ岸に向かっているということだ。気をつけろ! そのうちに霧が晴れてくると、自然の景色の移り変わりが最も興味深いものの一つとなった。山や荒野の旅で、こうした霧に遭遇し、また霧のカーテンが急激に、あるいは徐々に薄れていくのを楽しんだ人は多いと思う。が、なにしろ自分が今いるところは、美しい川の上なのだ。

こうした様子についてうまく表現できればと思ってはいるのだが、なかなかうまく伝えられない。いわば、ターナーの一連の風景画のような景色が左右にちらほら見えたり、頭上に木々や空や城が一瞬だけ輝いて見えたりもした。それがまたベールに包まれ、すっかり隠れてしまったりもした。心の中で、そうした一連の景色をつなげて想像してみるしかない。たまに日光が差しこんできて現実の風景が見えたりもするのだが、それはまったくの興ざめだったりした。しまいには霧はすっかり晴れてしまったのだが、これは太陽神ソールが異様なほど暑い光線を投げかけて霧を払いのけ、自分を隠した恨みをはらしたのだろう。

このあたりのライン川は、土手が急な崖になっている。その向こうには、気持ちのよい草原やブドウ畑、それに森がバランスよく混在して広がっていた。もっとも、カヌーの川下りがそれなりに快適なときは、どんな景色でも好印象になりがちだ。やがて、森が深くなった。背後の山々は屹立していく。流れはどんどん速くなり、丘の上に点在していた家々はぐんぐん近くなり、だんだん都会風になってきた。と思うと、視界がパッと開けて、シャフハウゼンが見えてきた。その間も、不機嫌そうな川音が「前方に急流あり」という警告を発している。こういうところを航行する際は注意が必要だ。とはいえ、別に難所というわけではない。というのも、このあたりになると、蒸気船が通ってきているからだ。蒸気船が航行するような川は、むろん、カヌーにとっては何の支障もない。大きな橋のところまでやってくると、「ゴールデネン・シフ」(英語では、ゴールデン・シップ)という名前のホテルがあった。こういうのを見てしまうと、人は我知らず愛国者になる。というのも、名前はイギリスのもののパクリだし、隣接する壁には、なんとも微妙な一人のイギリス人の巨大な絵が描かれていた。その絵のイギリス人は、スコットランドのハイランド地方の民族衣装らしきものを着ていて、キルト特有の格子柄らしいのだが、イギリスではまったく見かけることのない柄なのだった。

ここでもカヌーは人々を驚かせた。が、その反応は今までにない新しいものだった。現地の人々が「どこから来たの?」とたずねるので、ぼくがイギリスからと返事をする。ところが、相手は、そんなことはありえないと、なかなか信じてくれない。ぼくがたどってきたコースでは、ドイツから来たとしか思えないらしい。

とりあえず宿を確保するという午前の作業はすぐに終わり、それからは一日中ぶらぶらと街を散歩した。太鼓や楽団の演奏が聞こえたので、そっちに行ってみると、そろいの制服を着た二百人ほどの子供たちの集団がいた。本物の銃を持った少年兵だ。命令を聞く合間にリンゴをかじったりしていたが、なかなか勇ましい一団で、歩調を乱す年少の子供をにらんだりもしていた。その子はまだ八歳くらいで、歩幅が足りず、行進についていくのに苦労していた。

連中は小競り合いを模した演習をしていた。ラッパではなく、小さなヤギの角で命令を伝えている。角笛は鉄道でも使われていた。音は明瞭で、遠くからでもよく聞こえる。イギリスの軍事演習でも、この手の角笛を使えば、もっとましになるかもしれない。

シャフハウゼンの滝の上にあるベル・ヴューまでは、わずか三マイルだった。そこまで行けば、気品のある景色が一望できる。ライン川のこの大きな滝は何年か前にも訪ねたことがあった。そのときの記憶よりはずっと立派に見えた。最初に見たときより二度目の方が印象が強くなる景色というのはうれしいものだが、珍しいことではある。夜になると、川はベンガル花火の光を反射して一段とすばらしかった。そして、沸き上がるような水の泡や絶えることのない豊かな水量の流れにその光が当たると、まるで光の川が流れ落ちているようで、魔法のような美しさと華やかさだった。そうした光景はホテルのバルコニーからよく見えた。ホテルにはいろんな国から大勢の旅行者が来ていた。ぼくの隣にはロシア人が、反対側にはブラジル人がいた。

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現代語訳『海のロマンス』25:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第25回)


人食い魚の来襲

船は昨日から暑気(しょき)にあてられた中風病みのように、ブラリブラリと二度目の無風(デッドカーム)を味わっている。

わが練習船も帆前船(ほまえせん)である。先年ドーバー海峡で不慮の災厄にかかった一万二千トン五本マストのバーク型*1のプロイセン号もまた帆船である。ホワイトスター社やキューナードや北ドイツハンブルグ汽船会社等の大会社の練習船もまた帆船である。何故であるか、帆船は石炭を食わぬから……と、世の一般の人々は即答するだろう。それも一つである。因数(ファクター)の一つである。しかし、必須の要点(エレメント)ではない。

わが練習船は大小三十二枚の帆の他に、わざわざ多くの不便と──純帆船に比べると高い──費用とを犠牲にして、立派な補助機関を持っている。時と場合とによってはドンドンと機走をする。氷を作る、電灯をともす。しかし、事情の許す限りは風の慈悲(マーシ―・オブ・ウインド)を頼りに帆走する。風の慈悲にすがるとは、風を受けて進むのを喜ぶだけではなく、風に置いてけぼりを食らわせられるのを喜ぶという気持ちである。真無風(デッドカーム)を楽しむの心である。

青い蒼空(そら)と赤い星(ほし)とを朝に夕にながめ暮らし、しかも単調(モノトニー)を感じないとき、数日にわたる真無風(デッドカーム)を味わって、しかも倦怠(ダル)を知らないとき、われわれは海に慣れたという。最もよく海に慣れたとき、最も長く真無風(デッドカーム)を経験したとき、六十万円の巨額*2を投じて建造された練習船の本来の使命はいかんなく遂げられるのである。このようにしてはじめて、練習船を帆前(ほまえ)にした意味があるというものである。

今本船は、この高貴で偉大な使命の一部を遂行するため、甘んじて無風のうちに逍遥(しょうよう)している。

無風になって、フカが来ないのは、フランス料理にカタツムリが出ないようなもので、コーランを読んでメッカに詣(もう)でないようなものである。物足りないこと、おびただしい。鉛色に悪光(わるびかり)した海は鷹揚(おうよう)にゆらりゆらりとうねって、これでも太平洋かと思わせる。笹舟(ささぶね)を浮かべて吹いたらツイツイと行きそうである。そろそろおいでなさるころだがと思う耳元で、「ホラ、来た」という喜びの声が響いた。

すわ敵が接近したかとばかりに身構える。指さす方(かた)にと眼をこらせば、さても面(つら)憎きまでおさまりかえった敵の振る舞いかな。鋸(のこぎり)の目のような鋭い背びれと、静かに極めて静かに平らに重い水面を破って進み来る様子といったら。美人がにやりと笑うのには不気味なものがあるし、暴君ネロの親切は薄気味が悪い。人食い魚(フカ)*3が静かにふるまう様子は……やはり、すごく恐ろしく薄気味が悪く感じる。船尾の舵で分けられた水が一面に白い軽い泡を吹き、その下に、海の怪物(モンスター)が悠々と長くしなる尾をヘビのようにくねらせている。薄茶の背は直下に見る海の透徹(とうてつ)した色に彩られて、美しい褐色がかって見え、その輪郭(アウトライン)に近づくにしたがって腹の一部分は目も覚めるような深緑色をしている。口とおぼしきあたりは、ただ銀色に光っている。あれで一口にパクリとくるかと思ったら、少なからず興が覚めた。

カツオ釣りの名人にして、アホウドリをとらえるのも巧みだった水夫長(ボースン)は、またこの怪魚の征服者として有名である。フカと聞いて、とるものもとりあえず駆けつけてくる。知己(ちかづき)になろうぐらいの勢いで、さっそく牛肉(にく)の一片を投げてやる。獰猛(どうもう)に寄ってきた怪物は、ユラリとその巨大な腹をひるがえす。その速さ! その軽さ! アッという間に、キラキラと青白く光って落ちていった肉はその巨大な口におさめられた

どうしても針にかからない。「外国のフカは利口だ」と、水夫長(ボースン)が嘆(なげ)く。このとき、一人が「あれ、きれいな小さい魚が──」という。船上から眺める多くの乗員の影法師がはっきりと海面に写っている。多くの眼が一瞬ひかる。ブリモドキとも呼ばれる水先魚(パイロットフィッシュ)である。萌黄(もえぎ)色の細長い体に、暗緑色のシマが見事に列をなしている、二尺ぐらいの小さな魚が四匹。ちょうどフカの案内をするように、鼻先をヒラヒラと喜遊している。どんなに腹が減ってもフカはとって食わないそうだ。それもそのはず、フカはこの魚をダシとして獲物を釣りよせ、水先魚(パイロットフィッシュ)はまた頭部の吸盤でフカに密着して旅行する*4とは水夫長(ボースン)の話(レクチャー)である。「それでは水先魚(パイロットフィッシュ)はちょっと、タバコ屋の看板娘という恰好(かっこう)だね」といって、一同を笑わせたものがいた。



脚注
*1: バーク型 - マストが三本以上あり、一番後ろのマストだけに縦帆を持つ帆船(前側のマストは横帆)。


*2: 六十万の巨額 -物価変動データに基づいて百年前の金額を現在の金額に換算すると、ほぼ二十億円ほど。が、この金額で同規模の帆船を新規建造するのは、現代ではむずかしいかもしれません。
ちなみに、大阪市が二十世紀末(1993年)に竣工させた三本マストの練習帆船「あこがれ」(現「みらいへ」)は、大成丸に比べると二回りほど小さいのですが、建造費は十四億円だったとされています。


*3: フカ -鮫(サメ)と同じ。一般にフカは西日本でよく使われ、古事記に出てくる因幡(いなば)のシロウサギの神話ではワニ(ワニザメ)とも呼ばれている。


*4: 吸盤で - サメとブリモドキが共生しているのは、本文にある通り。しかし、ブリモドキには吸盤はないため、この部分は同じように共生しているコバンザメとの混同があるようです。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 25:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第38回)


宿の主人はぼくのスケッチブックに興味津々(きょうみしんしん)だった。それで、フランス語のできる友人を一人連れてきた。その人はブリキの管でボートを作ったのだそうだ。人が乗るところが補強されていて、腰かけとオール受けも付いている、世にも奇妙な外観をした細身のボートだ。それはぜひ浮かべてみなくっちゃと、ぼくはなんとか彼を説得してボートを川に浮かべさせ、自分もカヌーに乗って伴走した。二艇で近場を巡航した。二本の金属製チューブを並べたボートは、チューブ以外の部分は足の長いクモのように水面から高いところにある。それに比べると、こっちはオーク材で作った木製カヌーで高さも低い。とはいえ、デッキはニス塗りで小粋に光っているし、旗も風になびいている。二艇で並走する。どっちも単独ですら珍しいのに、それが二隻も並んでいる光景は前代未聞だったろう4

原注4: 英国では今ではペダルを漕いで動かす外輪を持つ双胴船をよく見かけるが、動きは鈍重だ。二つに分かれた船体の内側部分が平行な垂直面になっていれば、この双胴カヌーでの帆走は波のない水面では快適だ。

このあたりの川の雰囲気は、スコットランドのクライド川やその河口付近のカイルズ・オブ・ビュートと呼ばれる多島海に似ていた。国境も入り組んでいる。川に沿ってフランスの集落があり、頭上にはイタリアの空が広がっている。ぼくらは大勢のユダヤ人が住んでいるという集落までやってきた。ユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)を訪れてみたかったのだ。だが、なんと、ここもまたバーデン大公国になっているのだった。しかも、武装した衛兵が油断なく見張っていて、ぼくらが領土に接近してくるのに気づくと、彼は配置についた。ぼくらと正面から対峙し、上陸するんなら、どこか他の場所にしろと命令した。この男は民間人だったが、その命令はもっともでもあったので、ぼくらはその場を去り、スイス側に向かった。そうして、二隻並んでイバラの生い茂る岸辺に上陸したのだった。イバラの草陰にボートを隠し、丘の上にある休憩所に向かった。六ペンスでワインを飲むためだ。

休憩所では、かわいらしいスイス娘が店番をしていて、イギリス人なら一人知ってるわ、と言った。「イギリス人て、みんなプライドが高いから気の毒よね」とも。そのイギリス人は彼女に英語の手紙を書いてよこしたのだそうだ。じゃあ、その手紙を読んでみてくれないかと、ぼくは彼女に頼んだ。手紙は「いとしの君、あなたを愛しています」と始まっていた。手紙の書きだしとしては、それほど高慢ちきと言われる筋合いのものでもない気がした。連れのブリキ製の双胴船の男は、彼女にコーヒーポットを作ってやろうと約束していた。なにしろ、彼がブリキ職人であることは一目瞭然だったし、なんとも好人物のブリキ職人なのだ。

娘はぼくらがボートやカヌーに乗りこむところまでついてきた。そこに彼女の父親がやってきたのだが、娘が二人の男と一緒にいるのを見て目をぱちくりさせていた。アメリアというこの娘は「誇り高き」イギリス人と船に乗ったブリキ職人に手を振って見送ってくれた。ぼくら二人もそこで別れた。ブリキ職人は大きな四角い彩色した横帆を揚げて帆走し、ぼくはといえば、それと反対の川下の方へ漕ぎ下っていった。

「誇り高きイギリス人」──この言葉を口にした娘が視界から消えても、ぼくの耳にはこの言葉が響いていた。そもそも、ある国の人間が他の国の人間を「誇り高い」──言い換えれば、自尊心が過剰だと判断できるものだろうか。というのも、誇りとかプライドというのは、誰でも同じように持っているものではないのだろうか? これに簡単に答えをだせる人は、天から降ってきた哲学者に違いない。なぜなら、イギリス人でもフランス人でもアメリカ人でもいいが、彼らを第一印象で断言するのは簡単なのだ。だが、実際にその国の人々の間で暮らし、本当に知り合った上で、では彼らはどういう人たちかを判断するとなると、そう簡単ではない。

いわく、ジョン・ブル(イギリス人)は自由を獲得した大昔の勝利を、また世界各地に進出し繁栄していることに、またこの世の終わりまで平和が続くという希望を思い描いて自己満足している。

いわく、ブラザー・ジョナサン(アメリカ人)はまさしく十年前に始まり、ぼくらすべてを本当に驚愕させた南北戦争の勝利に誇りを抱いていて、大海原のかなたの大陸で領土が拡大していく輝かしい未来を楽観的に思い描いて喜んでいる。

いわく、フランス人は自国が輝かしい光に包まれていることを喜んでいる。その光は安全な港を示す灯台というよりは、危険が迫っていることを警告する信号であることの方が多いのだが。いや、それよりもっと悪く、危険な火花や大きな音を伴う戦争という大爆発の予兆かもしれないのだが、それでもフランス人は、他の国がその光を見なければならないこと、その騒音を聞かざるを得ないのに最後にどうなるのかわからないでいることを喜んでいる。

いわく、ジョン・ブルは高所から見下ろして満足している。ブラザー・ジョナサンはその高所を見上げて満足している。フランス人は自分の悪行を他者に見せつけ、自分が世界の手に負えない子供(アンファン・テリブル)であることに満足している。

これまで何週間も、ぼくにとっては毎日がピクニックみたいなものだった。だが、この日に限っては、ぼくは夜も航海を続けた。空気はとてもさわやかで、日没の赤い太陽は、やがて昇ってくる白い月と入れ替わる。川もここまで下って来ると、航海には何の危険もなかった。数マイルごとには集落がある。ぼくは月の光の下での航海を十分に堪能し、シュテインの町で上陸した。夜も遅かったので、川辺にはもう人っ子一人いなかった。到着が遅れたときには、よくあることだ。ぼくはパドルで水音を立てて一かきか二かきし、大きな声で歌を歌った。イタリア語にオランダ語、それにスコットランドのピブロックというバグパイプで奏する景気のよい曲だ*1。それに実際の物音も加えた。すると、それを耳にした暇人たちが集まってくる。そうやって必要な人手を集めるわけだ。

集まってきた人々のうちの一人がすぐにカヌーを宿屋に運ぶ手伝いを買って出てくれた。夜も遅く変な客だったが、宿では上品な女将さんが歓迎してくれた。そのときから、すべてがあわただしくなった。英語でぼくと話をしてみたいというドイツ人がやってきたのだ。何もわからず黙って聞いていた他のドイツ人たちと同じように、彼の英語はぼくにもちんぷんかんぷんだった。

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