現代語訳『海のロマンス』58:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第58回)
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太陽直下だが涼しい

十一月十五日。南緯(なんい)十六度二十八分。西経(せいけい)百三十度三十九分。赤緯(せきい)南十七度二十分*1。

*1: 赤緯は、天体の位置を地球から見て示した天空の座標。
地球の自転軸(地軸)の延長上に天の北極と南極、地球の赤道上に天の赤道があると想定し、天体の位置を緯度・経度(赤緯・赤経)で示す。
天体が特定の日時にどの位置にあったかがわかれば、逆に、測定者の地球上の位置も算出できる。

昨日と今日の本船の位置と赤緯とはほとんど同じで、太陽は日々ちょうど天頂に来る。東から吹いてくる海軟風(シーブリーズ)を受けて甲板に立つと、丸い麦わら帽子が小さい円となって影を作り、五尺二寸(ごしゃくにすん、約155センチ)の正射影はただひとつ零(ゼロ)である。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 72:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第72回)
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ここでまた洗濯女たちのことに話を戻したい。というのは、イギリスの川には、こういった岸辺に設置された浮桟橋の洗濯場などはないのだが、ヨーロッパ大陸の河をカヌーで下っていると頻繁に出くわす。

ヨーロッパの東の方にある国々ではよく知られているが、噂というものはこういうところから広がっていくのだ。季節がもう少し寒くなると、それが床屋に移動し、そこでさかんに政治談議がかわされたりする。というわけで、川の近くでは洗濯用の浮桟橋が女性たちの社交の場になっている。

川を下っていて集落が近くなると、その集落がどんなところか気になるが、川辺に設置された洗濯用の浮桟橋の規模や装飾で大体の見当がつく。一か所に五十人もの女たちがずらっと並んで洗い物をしているところも珍しくない。洗濯場で洗い物をしている女たちを見れば、その土地の女性たちの様子がわかる。彼女たちは洗い物をしながらおしゃべりに興じ、話をしながらも手を休めず洗い物をたたいたりこすったりしている。周囲に気を配っている者もいて、カヌーで通りかかったりすれば見のがされることはまずない。

集落が小さくて専用の浮桟橋がないようなところでは、女たちは岸辺にしゃがんで作業をしている。カヌーの方でも、かなり遠くから彼女たちを見つけることができる。川が曲がっていて先の様子が見えなくても、バシャッ、バシャッという単調な音が聞こえてくると、きまって二、三人の女たちが洗濯をしていたりした。地味な格好をした中年の婦人たちだ。顔は日に焼け、帽子をかぶり、「下着」をしぼったり、たたいたり、ごしごし洗ったりしている。生地がいたむのではと気になるほど、激しくやっている。まあ、それ自体はフランスの繊維業界にとって歓迎すべきことなのかもしれない。ぼくのシャツは丈夫な毛織物なので、こんな風に乱暴に扱われても大丈夫だとは思う。

そういう洗濯をしている婦人たちを見かけると、ぼくはいつも声をかけるようにしている。帽子をとり、陸上で出会ったときの挨拶と同じ要領で左足を引く。とはいえ、カッパを着ていたりするので、せっかくの優美な姿勢をきどっても相手に見えることはないのだが。川を旅していて、こういう洗い場になっている浮桟橋を見かけたら、ちょっと立ち寄って五分でも話をしてみるといい。何か貴重な情報が得られたりする──かもしれない。そうしなさいよという助言ではないが、大勢の人と一か所で出会うということ自体、いろんな人がいるなあと人間観察ができたりして面白いのだ。新しい景色を見たり、外国語の元気なおしゃべりを聞いたり、やさしい言葉をかけてもらったりする。苦労しながらカヌーを漕いでいる者にとって、そういう歯に衣を着せない母親みたいな婦人たちと知りあって話をするのは、しんどい思いをしているときのいい気分転換にもなる。

人に喜んでもららうというのは、旅行する者にとって最上の楽しみの一つである。それに、こういう川下りで、まったく一人ぼっちの旅だとしても、誰かを楽しませたり相手から楽しませてもらったりしている間はさびしさを感じることもない。同国人同士二人で外国を旅をしても一週間は仲良くやっていけるだろう。が、それで人生について多くを学ぶということにはなりにくい。一人ぼっちで異邦人に取り囲まれ、人見知りして相手を避けるわけにはいかず、といって母国や自分の自慢話をするわけにもいかない。何も見落とさないよう目を見開き、耳をすまし、とつとつとではあっても自分の言葉で語れば、団体で旅をするときとは相手の対応が違ってくるのがわかるだろう。「すべてのイギリス人が島である」*1という警句にも例外があると感じるはずだ。

*1: ドイツの作家ノヴァーリスの言葉。正確には、「イングランドだけでなく、すべてのイギリス人が島である。」

気分転換を兼ねて、どこかで朝食を食べよう思った。で、水車小屋に続くと思われる長い水路に漕ぎ入れてみた。水路はカヌーを浮かべたまま、干し草畑の間を曲がりくねりながら音もなく流れていく。いつしか本流から遠く離れ、灌漑用の小川のようになった。水深も一インチほどしかない。このまま行き止まりかと思った。が、そこからまた流れは力強さをとり戻し、草地の間を早いペースで流れていく。ときどき出会う田舎の人に会釈したりしていると、川沿いの土手を十二歳くらいのかわいい男の子が小走りでついてくる。ぼくは声をかけた。「君って信用できる?」 相手は顔を赤らめて「うん」と答えた。「じゃあ、ここに一フランあるんだけど、これでパンとワインを買ってきてくれないかな。あの水車小屋のところでまた会おうよ」

水車小屋で作業している人たちはすぐにカヌーを見つけて係留させてくれた。予想した通りだ。カヌーを降りて木陰で休んでいると、ぞくぞくと人が集まってくる。うれしそうに大きな声を出して、珍しい闖入者(ちんにゅうしゃ)を一目見ようと押しよせてくる。例の男の子は、ワインの大ビンと大量のパンを運んできてくれた。四人分はありそうだ。朝からずっとカヌーを漕いでいて腹ペコだったので、夢中で食べた。大勢の人が集まっていたが、誰も話しかけて邪魔をする者はいなかった。やがて一人の女性が自分の家に来ないかと誘ってくれた。その家ではおいしそうな料理がテーブルに並べられた。その部屋もすぐに人で一杯になった。一度に五十人ほどが入れ替わり立ち替わり見物にくるのだ。皆、ニコニコしていて、礼儀は守っている。

とはいえ、その場所はとにかく暑かったし、なにかとせわしなかった。どこか他のところ、誰もついて来られないような中洲にでも移動し、一人でのんびり食事を楽しみたいと思った。群衆をかきわけて進むのは、軍隊の演習でも基本中の基本だ。それで、カヌーで草地を通り抜ける際の見張り役の「警官」として、一番やんちゃそうな四人の少年を指名した。ところが、彼らはこの任務に大張り切りで強権を発揮したりしたものだから、小さい子供が二人もカヌーの上に押し倒されたりした。そんなこんなで、ぼくはなんとかカヌーに乗りこみ、その場所を離れた。紡績工場の女工さんたちが大声でカヌーに声援を送ってくれる。工場長とおぼしきおっさんが仕事に戻れと必死に怒鳴っているが、作業する手を休められるのだから誰も耳を貸さない。

この原稿を書いていると、その様子を思い出して笑いがとまらなかった。で、読み返してみると、暗い十二月の夜みたいにしんみりすることもあった。ヨーロッパの恵まれているとはいえない子供たち。笑ったり、叫んだり、歌ったり、怒ったり。いろんな国のペテン師やいたずらっ子、いろいろ楽しませてくれた人々。ぼくは君たち──かわいくて、ちょっとおバカなフランスのことを、少しはずかしく感じつつも誇らしく思っている。

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現代語訳『海のロマンス』57:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第57回)
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下、島々のロマンス (南海の楽園タヒチ、ロビンソン・クルーソーの島、バウンティ号の反乱)

南緯十五度、西経百五十度の位置付近に、サモア諸島とツアモツ諸島の中間に、ソシエテ諸島なるものがある。この諸島の首府とも称すべき、人も景観も美しい島をタヒチという。第六次の世界周航に練習船が寄港したところで、人は情操に富み、自然は紫山緑水(しざんりょくすい)の景勝に飾られているという。

このタヒチの港の創造については興味深い物語がある。タヒチは他のソシエテ諸島と共に、現在はフランス領である。しかも、住民は皆「昔のパリっ子」の末裔(まつえい)であるという。「物語」はそれに関することである。

世紀(とき)はいつだか知らぬ。船の名も知らぬ。ましてや船人(ふなびと)の名前はわからぬ。ただ一隻のフランスの練習船がこの「南洋の楽園(パラダイス)」にやってきたのは確かである。そうして、艦長はじめ士官、乗組員のすべてが、この紫山緑水(しざんりょくすい)の美しい島と、色こそ黒いが見目(みめ)麗(うるわ)しき乙女の情緒と、ヤシ、バナナ、パイナップルなど豊富な果物とにあこがれて、栄光(さかえ)ある三色旗の名誉も、自治新興の大共和国の権威も、どこ吹く風と逃亡しさったのもまた確かである。

かくして「南洋の楽園」に自由の民、享楽の人の王国は建設されたという。

南緯三十四度、西経八十三度、南米チリのバルパライツの正西三百マイルの沖に、ファン・フェルデナンデスという島がある。一五七四年にスペイン人ファン・フェルナンデスによって発見されたものである。この島こそは、かのおなじみの『ロビンソン・クルーソー漂流記』*1の舞台である。

*1: ダニエル・デフォーの作品。
原題は 『船が難破して自分以外の乗組員全員が死亡したものの、アメリカのオロノコ川という大河の河口にある無人島の浜辺に漂着し、たった一人で28年間も暮らし、最後には不思議にも海賊に救助された、ヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と奇妙な驚くべき冒険』


小説では、舞台となった島を太平洋の孤島から南米大陸の大西洋に面した、実在のオリノコ川の河口付近に移して描かれている。大陸の内陸部にはオロノコ川という名称に似た川も実際に存在する。

西暦一七〇八年に英国ブリストルの商人たちが、二隻の半探検・半営利の帆船を送り出した。この船が船員の反乱と難破との辛苦(しんく)の後、この島に漂着したとき、アレハンドロ・セルカークなる者を救助した。これがかの「ロビンソン」本人であると信じられている。

このセルカークなる者は、スペイン政府の命令で、この島にブタとヤギとを移植すべき使命を持って渡航した群(グループ)の一人であるが、仲間はみな死に絶え、セルカークのみ七年間生き残ったのであるが、このセルカークの実話と近海の海賊の話とが例の「漂流記」を生み出したという。本船の今回の世界周航の第一予定寄港地には、この島も含まれておった*2

*2: ロビンソン・クルーソーのモデルとされるセルカークについては、現在では、セルカークは帆船の航海長で、船長との不和が原因で島に置き去りにされたとされ、期間は4年4カ月だったという。

「島々のロマンス」の中で、最も哀れに、最も情趣深く、最も面白いのは「ピトケアンの反乱物語」である。

一七八七年、英政府は、西インド諸島から採集したパンノキをピトケアン島(南緯二七度、西経一三〇度)に移植すべき使命*3を軍艦バウンティ号に下した。このバウンティ号がツアモツ諸島付近にさしかかったとき、当時の船乗りの間に珍しくなかった反乱が、例によって日常茶飯事のごとく勃発(ぼっぱつ)した。意気地なくも生け捕りとなって一隻の小舟で大海に押し出された艦長と一等航海士、三等航海士と地理学者などの専門家たちは漂流し、流れ流れて、ついに六百海里隔たったシモア島に着いた。

*3: この点は著者の事実誤認があるようだ。
アメリカ独立戦争のためプランテーション経営が行われていた西インド諸島の食料不足を憂慮した英国政府が「南太平洋のパンノキを西インド諸島に運ぶ」よう命じたもので、その使命遂行中に反乱が起きた。

一方、首尾よく反乱に成功した二等航海士以下の謀反者たちは、その後、タヒチ島に寄港したが、またまた乗組員の中に反乱を起こす者があって、二等航海士の上陸中、錨鎖(びょうさ)を切って逃げ出し、ついに「物語の島」ピトケアンへ来て永住したという。

この波の上を漂流する奇しき物語、波乱万丈のその数奇な運命については、かの詩豪バイロンによって『バウンティ号の反乱』という題の物語詩*4になっているほど評判なものである。

*4: 一連の物語は、『島』というタイトルの長編物語詩にまとめられている。

その詩の中には、ピトケアンの島の風俗、バウンティ号の候補生と原住民の娘との恋物語など、面白くうたわれている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 71:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第71回)
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川は数マイルにわたり、いつもと違う様相を呈していた。両岸の土手は低く、そこから草の絨毯(じゅうたん)でおおわれた緩やかな斜面が続いている。どちらの側の眺めも、広々としてしている。両岸を緑で縁どられた、透き通った川面をカヌーは滑るように進んでいく。前方には、広大な平原が果てしなく続いている。そこを過ぎると、川は再びはしゃぐように飛び跳ねたり、大きく落下したりしていた。たいていの場合、それは人工物が設置されているためで、そのたびにカヌーを降りて障害物を乗りこえたり、船体を手で押さえつけて下をくぐらせたりと、なにかと手間がかかった。苔(こけ)や地衣(ちい)類がびっしり生えた岩は滑りやすく、そういう場所で力のいる作業をするのはけっこう重労働だ。

パドルについていえば、毎日ずっと、来る日も来る日もパドルを漕いでいたので、もう体の一部のようになっている。ほとんど無意識に動かしていた。カヌーを始めたばかりの頃は、大切な物を落としたり失くしてしまっては大変なので、ヒモやロープをつけたりしていた。波に負けてパドルが手から離れたり、不注意で川に落としたりしたときに備えて、どうすればよいか考えて練習していた。とはいえ、実際の川下りとなると、そういう事前に考えたことは、なかなかその通りにはいかないものだ。カヌーから飛び降りる際にヒモがからんだり、逆にヒモがついているのを失念して岸に放り投げようとしたこともあった。というわけで、パドルのヒモは長めにするか、あるいは、まったくなくてもよかった。一度に二十もの作業を、しかもすべて最優先でやらなければならないというような、もう頭がこんがらがって訳が分からないというようなときでも、実際にパドルを落としたことはない。カヌーが転覆しそうになったときも、なんとかカヌーから抜け出して事なきを得た6

原注6: これまで十回ほどの航海を行ったが、結果はまったく同じだ。予備のパドルを用意するよう助言を受けることも多かったが、ぶっちゃけ、そんなのまったく不要と言っていいかもしれない。竹製のマストについては、元をただせばボートフックとか棒としても使えると思っていた。先端に継ぎ手を取り付け、魚をかけるギャフも用意していた。ボートフックとしては、イギリスのグレーブゼンドで一度使ったことがあるだけだ。すぐに無意味だとわかった。カヌーを岸のそばまで寄せたいときには、水深があればパドルで漕げばいいだけで、ボートフックなど使わない。逆に岸の近くが浅ければ、カヌーの底がつかえてしまうので、ボートフックがあっても使えない。しかも、ボートフックに握り替える際にパドルを落とすことだってありうる。

パドルで漕ぐのは、歩くときに足を動かすのと同じように、ほぼ無意識にできるようになった。川でも普通の難所であれば、入念に下調べしなくても直感的にわかるようになった。ためらうとか、何をどうしようとか、あれこれ考えなくても、自然に対処できるようになった──ような気がする。こういう一種の上の空という状態は、急流を流れ下る際に、ずっと高いところの地面やもっと上空の雲をじっと見つめていても、安定した適切なカヌー操作の支障にはならないという神がかり的な境地に至るまでになった。

夢見心地でそういうことをあれこれ考えていたものだから、ふと気がつくと、川の周囲の景色が最高なのに、それに背を向けて見過ごしていたとわかって後悔した。それで、その場で二、三回ぐるっとまわりながら、沈む夕日に照らされて輝いている峰々をうっとりと眺めた。そうした光景に心を奪われながら、そうやってぼんやりとした気持ちのまま、また川をゆっくりと下っていく。カヌーというものは、カヌー自体が常に最善のコースを選んでくれるので、乗っている人間の方は特別な操船などしなくても問題ないという、なんとも非論理的でおバカな妄想にふけったまま、数多くの岩が点在している早瀬までやってきた。水流はそのまま岩を乗りこえて流れているし、ぼくはまだ魔法にかかっていて、どのコースを通るのが安全かといったコース選択など何もせず、カヌーが流れていくままにまかせておいた。と、この能天気な男に対して川が反撃した。はっと気がつくと、カヌーは水面下にある巨大な岩めがけてまっすぐ進んでいた。水流は巨大な岩盤上を流れているが、水深は数センチしかない。次の瞬間、カヌーの底が岩に当たった。カヌーは急停止し、その場で旋回する。流れに対して横向きになる。ゆっくり転覆しかける。カヌーの傾きがきつくなったところでやっと、ぼくの緊張感を欠いた筋肉も目ざめた。というのは、この愚かでものぐさな態度の結果として沈は避けられないと感じられたからだ。

さらにまずかったのは、ぼくはそのときちゃんと座っていなかった。カヌーに寝そべるようにして、片足はバッグのベルトにからんだままだった。次の瞬間(こういうとき、ほんの一瞬が数分にも思える)、この小さく哀れなカヌーは横倒しになった。脳裏にはいろいろな思いが激流のように浮かんでは消えた。ぼくはなんとか脱出しようともがく。と、カヌーが岩から離れた。カヌーの船長たるぼくは、自分の頭と腕だけを水につっこんだ状態で──なんとも情けない状態だ。まあ、これはこれで笑い話にはなるだろうが──、なんとか立て直してちゃんとカヌーに座ったときには、頭からずぶぬれになっていて、服の袖から水がしたたり落ちた。それでどうにか酔いからさめたみたいに、目がさめた。その瀬を過ぎると、また感傷的になり夢想にふけっても大丈夫になった。つまり、川はまた元のように普通の流れに戻った。

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現代語訳『海のロマンス』56:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第56回)

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島物語   上、サンゴ礁の島々

練習船の朝は、衣服を洗う手に調子を合わせる節(ふし)が面白い洗濯屋の鼻歌に明けて、今日もまた快適な航海日和(こうかいびより)である。

イエーエー、ホーッと、のんきそうにブレース*1を引く当直員の歌に、暁(あかつき)の夢を破られて、上甲板に出ると、寝ぼけ眼(まなこ)をしかと見開けといわんばかりにサンゴの島(環礁、アトール)が間近に浮かんでいる。甲板(デッキ)は写真にとったり、スケッチをしたりする早起きの非番直員で一杯だ。

*1: ブレースは帆桁(ほげた)に付けたロープ。これを引いて帆の向きを調整する。

七十八の島からなるツアモツ諸島の一部、アクチアン群島の一つたるミント島*2である。

*2: 地名については当時と現在では異なる場合が多い。
ツアモツ諸島も、現在では実際の発音に忠実に「トゥアモトゥ」と表記されたりするため、アクチアン群島、ミント島が具体的にどの島を指すのかは不明。

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(Source: Wikimedia Commons)

傘のように広がったヤシの木がサンゴ礁の中ほどにあって、その濃緑の葉かげは静かなる礁湖(ラグーン)にかかり、白い砂は堡礁(バリアリーフ)の波うち際を帯のように包んで、右の端にはしぶきがものすごく上がっている。

このミント島なるものはアクチアン群島中の最大のものであるという。午前七時半、ぼくが六分儀で観測したところによると、左舷正横(ポート・ビーム)二・五海里のところに角距離(アングラーディスタンス)二十九度四十分に見えたから、低くはあるがかなり長い島である*3

*3: 六分儀は、太陽や星の水平線からの高さを測定するための道具で、そのときの時間と高度で緯度経度が計算できるのだが、その応用で、これを横にして島の端から端までの角度を測ることにより、その島までの距離と組み合わせて島の長さを知ることもできる。
六分儀は実際に近年まで土木測量の分野でも活用されていた。

海図(チャート)で見ると、いわゆる「海抜が低い」小さな島々が、視線をはぐらかすように点々と散らばっているところは、諸葛孔明(しょかつこうめい)が魚腹浦(ぎょふくほ)に敷いたと伝えられる八陣の布石そっくりである*4

*4: 三国志の有名な石兵八陣の逸話。
数の上で劣勢な軍が少ない兵をあちこちに分散させて大兵力に見せるという作戦。
逃げる劉備(りょうび)を助けるために諸葛孔明が考案し、追尾してきた陸遜(りくそん)をこの作戦で撃退したとされる。

もしも、この海上の「八陣」に流れこんで首尾よく環礁にぶつかろうものなら、それこそ「大正の陸孫(りくそん)」である。うまうまとサンゴ礁で難破して「魚腹(ぎょふく)」に葬(ほうむ)られるばかりである。

いくら海洋(うみ)が好きでも、ネプチューンと仲良しでも、まだまだ魚腹に葬(ほうむ)られるほど粗末な体は持っていないつもりである。そこで用心した。一週間ばかり前から内心では大いに用心していた。船長と専任教官は南太平洋の地理と、サンゴ礁の成因性質についての知識を与え、一等航海士はサンゴ礁に対する見張り(ルックアウト)の注意と見つけ方とを教えた。

かくして見張り(ルックアウト)は昨日の午後から「二重見張り(ダブル・ルックアウト)」となり、一人は前のマストの上に立つことになった。そうして、いい風であるにもかかわらず、今日の午前九時には総帆(そうほん)をたたんで機走に移り、この危険ではあるが興味をそそる環礁(アトール)を研究・観察するため、わずか三、四マイルの距離を空けて通過することにした。やがて、ベッドフホードとかテナルンガという同工異曲の島が同じ色と同じ形をして灰色に曇った空の下に現れてくる。

サンゴ礁には通常バリアリーフ(堡礁、ほしょう)とフリンジングリーフ(裾礁、きょしょう)との二種類がある。前者はまた、さらに環形礁(かんけいしょう)と線形礁(せんけいしょう)との二つに分ける。

この環形礁(かんけいしょう)の中央の円形の湾がすなわち、よく地理書に書かれている礁湖(ラグーン)で、波静かにして底深く、よく大船・巨船の仮錨地となりうるといわれているものである。

この環形礁で最も有名なものは、このツアモツ諸島、近くにあるソシエテ諸島、小笠原郡島とポリネシアの一部とである。

そうして線形礁で世界最大と称せられる著名のものは、東豪州クイーンズランド沖に東南から西北に走っている千マイルの長さがあるグレートバリアリーフである。

このサンゴ礁の間を縫って進むときは、気温と海温の変化に注意し、晴雨計の昇降に留意し、風向風力、鳥群、魚族の異変等すべて、島に近づきつつある予報をとらえるのも必要であるが、最も努力し心を配って効果のあるものは、とにかく集中力を切らさず見張る(シャープ・ルックアウト)ことである。

忠実にして機知と決断力に富み、優秀なる観察力と周到なる心配りと適格な判断力を有する見張りが、百尺(約三十三メートル)の高いところで、鋭い両眼をまんべんなく水平線の上を走らせていることを自覚するとき、安心と信頼とは人々の心に行き渡る。

というわけで、見張りに立つものは常に海水の変化に注意し、水平線の空の色、雲の形に目を配り、波の砕け(サーフ)や海水(みず)の白い飛沫を見逃すまいと心がけなければならない。

ことに海の色の変化は有力なサンゴ礁発見の手がかりとなるもので、太陽(ひ)を背中にして航海するときは、水面下四、五尋(ひろ)*5までのサンゴ礁は、そのすぐ上の水に淡い褐色か緑色か暗緑色かの色の変化を生じさせるので、たやすく危険を予知しうるとのことである。

*5: 尋(ひろ)は長さの単位。一尋は大人が両手を広げたときの長さ(約1.8m)。四、五尋は7~8メートル程度。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 70:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

緑色)現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第70回)eyecatch_2019

ルミルモンには宿屋が一軒あったが、ひどいところだった。すべてに秩序がなく汚れていた。御者もぼくと同じテーブルについて遅い夕食をとった。彼はフランス流の洗練というものを見せてくれた。そういうものは、一人でいるときよりも、他に人がいるときに発揮されるものだ。また、本当の自己否定とか、堅い友情をためしたりするときに示されこともある。で、御者氏は五つの異なるコースの食事を注文し、ワインを飲み、果物やいろんなものを食べまくった。翌日に渡された請求書の金額は、二人分の宿泊費込みでちょうど三シリング四ペンスだった。この御者氏は聡明な男で、自分がよく知っている分野の話題となると、話にまったく如才がなかった。そして、ぼくらの会話がもう一つの世界の、もっと大きなことについての話になると、「あの連中も向こうでは幸福なんだろうね。だって、向こうに行って戻ってきた人なんて誰もいないからね」と言った。── ちょっと変わった考えの持ち主で、妙な言いまわしをする人だった。相手が話題に興味を持ったようなので、ぼくはそれについて書いてある冊子を彼に手渡した。すると、彼はすぐさま声に出して読み始めた5

原注5: 何日か前、知らない人がぼくに読んでみてくれと紙の束を渡してくれたことがあった。礼を言い、後で気まぐれにその束を調べてみた。三十枚ほどの大判の用紙を綴じたもので、政治や科学や文学や宗教についての論考が掲載されていた。一番最後のテーマが面白かった。なんとも巧妙かつ辛辣に、批判的な論じ方をしてあったので、それがぼくには面白かった。その雑誌は上質の紙にタイプ印刷したものだったが、印刷はイギリスで行われていた。週刊で出ているようで、どこでも十二冊につき六シリングで売られていて、各ページには「サタデーレビュー」というタイトルがついていた。

翌朝、つまり九月二十日の朝、カヌーを手押し車に載せて運んだ。例によって、すぐに人垣に囲まれた。この町に着いたのは昨夜だが、もう暗くなっていたので、いまぼくらを眺めている見物人は、どういう事情でこんな通りの真ん中に小さな舟がいきなり出現したのかについては何も知らない。で、どう反応したものか、とまどっている様子だった。もうこのあたりで川に浮かべられるんじゃないかと言う人もいれば、いや、あと一、二マイル先に行ってみるべきだと言う人もいた。朝食の前にあちこち歩きまわってモーゼル川については調べておいたので、ぼくとしては、今は乾季で水位は下がっているだろうが、ここからでも川下りはできるだろうと思っていた。で、運搬してくれる人にはそのまま先へ進むよう指示し、冷やかし半分の喝采を浴びながら川へと向かった。緑色のメガネをかけて白い帽子をかぶった一人の老紳士が興味津々といった様子で近づいてきて、自分はこのボートの航海についての記事を読んだことがあると言いながら、群衆に道をあけるよう命じてくれたので、もうからかわれたりすることはなくなった。

群衆は態度を一変させ──フランス人は移り気だ──ぼくに積極的に手を貸し、スタート地点に決めていた地点まで一マイルもカヌーを運ぶのを手伝ってくれた。なんとも迅速な対応で、皆が大声で「さよなら!」とか「よい旅を!」とか、あたたかい声をかけてくれた。

また透明な水の上をカヌーで漕いでいくのは楽しかった。水の透き通った川というは、ドナウ川以来だ。流れも安定していた。流速のないイル川やバーゼル運河では味わえなかった爽快さを味わうことができた。水辺の花が、苔むした岩の周囲にできたさざ波でゆれている。川岸はゆるやかな傾斜になっていて、草地が公園のように広がっている。果樹はたわわに実っている。半時間ほどの快適な川下りで、ソーヌ川やドゥー川ではなくモーゼル川までやって来た。ぼくは喜びを感じながらカヌーで川を漕ぎ下ることに専念した。

この川の水は非常に透明度が高く、冷たかった。深く長いよどみもあれば、せせらぎが聞こえる浅瀬もあり、川は曲がりくねって流れていた。この前までの運河に比べれば、魚や水鳥がいたり、木々や愛すべき草原があるというのは、何とも歓迎すべき変化だった。太陽の日射しも強烈だった。そのため、予備の帆を両肩にショールのようにかけて、強い紫外線に抵抗した。そうやって独りきりで、楽しさをかみしめながら、滑るように川を下った。浅瀬も数多くあった。パドルで懸命に漕いだのだが、この日にカヌーが川底につかえた回数は、これまでの航海のどの一日よりも多かった。カヌーの舟底がドシンとかズズズッといった感じで川底とこすれる。何度も何度もだ。そのたびにカヌーを降りて、水深のあるところまで曳いて行かなければならない。時には、上陸して野原を通り抜けたり、岩を乗りこえて進んだこともあった。とはいえ、ズック靴にフランネルのズボンといいうラフな格好だし、川にいるときは常に濡れたような状態なので、どうということもなかった。

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現代語訳『海のロマンス』55:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第55回)

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三、赤道祭の起源

今日の艦船で行われる赤道祭(せきどうさい)なるものは──とはいうものの、汽船はもちろん、商売でやっている帆船でも現在ではほとんど見られないものとなっている。従って、まだこのクラシカルな迷信的儀式がまじめくさって行われるのは、軍艦か例の花魁(おいらん)船に限る──船長や士官を除く乗組員のうちで、最も多く赤道通過の経験を持っている者が海神ネプチューンに扮(ふん)し、多くの従者を引き連れ、鳴り物入りで、船長の手に刺股(さすまた)か南半球への航海を許す鍵を渡すことになっている。

しかし、この子供らしい芝居っけたくさんな儀式は、後世になっておとなしい船乗りによって発明されたので、赤道祭の起源なるものはまったく毛色の違った別種のカルチャーである。

「一般に赤道通過の際に挙行される実際の赤道祭を目撃した者は、けだし絶無(ぜつむ)ならん。ただ、ある者が近世において、往時に行われていた海上習慣の変形したものを見たのにすぎないだろう。」
と、ある本に書いてある。

十七世紀ごろ、ラス・オブ・フホンテノーと呼ばれる難所を通過するフランス船には、俗に「洗礼」と称する儀式があった。それは、船の士官の一人が、ガウンめいた長いローブを着て、頭には滑稽な帽子をかぶり、右手には木製の剣を下げ、左手にはインク壺を持ち、炭粉で顔を黒々と塗りたてて登場してくる。

この化物(ばけもの)めいた男が「難所通過」の未経験者を呼んで、その面前に膝まづかせ、持っていたインクで額に十字を描き、下げた木刀で肩を打つ。そばにいる介添人が一杯のバケツの水を頭からかぶせる。この間、終始無言であった男は、所持したブランデーの瓶一本をメインマストの根本にうやうやしく置いてくる。

これで儀式が終わり、ブランデーは古参船乗りの胃の腑(ふ)へ送られる。いや、まことにありがたい儀式である。

これとほとんど同様の観念に基づき、同様の習慣から来たもので、さらに一層猛烈な儀式は、オランダの船がバーリング岩の沖を通るときに行われたという。

それは、いわゆる「洗礼」される者を罪人のように縛って、これをメインのヤーダーム(帆桁の端)に吊るし、二、三度、引き上げ、引き下ろす。もしそれがオランダ国王または船長の名をもって四回に及ぶときは、その者の名誉はいとも尊(たっと)いものとなる。有難迷惑(ありがためいわく)である。かくして、海にひたされること数回に及び、最初の一回は銃を撃って敬意が示される。いよいよ有難迷惑である。

この「海水の洗礼」が嫌な者は、船員であれば十二ペンス、士官ならば二シリングを出すことになっている。この「贖罪金(しょくざいきん)」が酒肴料(しゅこうりょう)となるのは前のものと同様である。

このほか、オランダの船は「キール・ホーリング(船底くぐり)」といって、前記のようにヤーダームに吊り上げた「洗礼者」を、海に入れ、竜骨(キール)を超えて反対側の舷(たげん)のヤーダームに吊り上げる風習が行われていたという。

しかし、ぼくはときどき考える。そんな乱暴な目に逢いつつも、汚れざる海洋(うみ)の神秘を味わい、海を恐れ、海を尊(たっと)び、海を迷信的に見た昔の船乗りを不幸であると言おうか、幸福であると言おうか、と。

四、赤道の三海流

海洋(うみ)に生まれ、海洋(うみ)に生き、海洋(うみ)に死する船乗りに最も必要なものは、海洋(うみ)の知識である。心ひそかに泣きつつも、海の神秘と海の懐疑とを解かねばならぬ。

気圧を研究し、風を分解し、潮流ビンを捨てて海流を探るのもそのためである。

太平洋の赤道付近には、北赤道海流、南赤道海流の二つの環流(かんりゅう)と、反対海流(カウンターカレント)という海流と、都合三つの流れがある。

北赤道海流とは、地球の表面温度の関係から南洋諸島の北辺に生じ、西北に走ってフィリピン群島、台湾、日本東海岸を洗ってカリフォルニア州西海岸に回流してくる例の黒潮なるもので、これがカリフォルニア州西海岸で屈曲して再び発生地に帰着するものである。

南赤道海流もまた一つの順回流で、ただ向きが北赤道海流と違って左向きとなるだけである。すなわち、これは赤道の南辺に発生し、南極より北東に走って南米のパタゴニア沿岸で屈曲しきたる極海流を併せて東豪州海岸に向かうもので、その流れの幅も速力(一時間三海里以上)もはるかに北のものより優勢である。

反対海流(カウンターカレント)は例の北東と南東の二つの貿易風帯から生じる表層の「皮流(ひりゅう)」が西に流れてフィリピン群島に衝突し、そこで折り返して反対に東へ東へと流れるのを指すので、ちょうど両環流の中央を走り、その速力は一昼夜で七十海里に達する。

北赤道海流については、ここに面白い話がある。かつてサンフランシスコ航海のとき、本船から投げた潮流ビンが流れ流れて、一年あまりの後、台湾・花蓮(ホアリエン)港付近で一人の生徒の手に拾われ、学校へ送られたという数奇な事実のため、同海流の流向(りゅうこう)と流程(りゅうてい)とを推測することができたという。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 69:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第69回)
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左手を上ったところは巡礼者が集まる聖地になっている。毎年何千人もの人々がやってきては、新鮮な空気を吸い、山を歩いていい汗をかいている。フランス人たちは、運動や娯楽のためというより、信仰心にかられて、こんなところまで登ってきているようだ4

原注4: 有名なフランスの「聖地」としては、他にもグルノーブル近郊のラ・サレットの山がある。ここでは一日に一万六千人もの巡礼者が登ってきて、聖母マリアが時代を超えて出現し、羊飼いたちに語りかけたとされる場所を訪ねるのだそうだ。ぼくも実際に訪ねたことがあるのだが、そのときは聖なる水をレモネードのビンに詰め、それを荷かごに載せて運んでいる何頭かのロバと出会った。山のふもとに住んでいた僧侶が自家用ポンプを設置するまで、この聖水はヨーロッパ中でビン一本につき一シリングで販売されていた。現地で読んだ報告書によれば、聖人のふりをするために雇われた女がその手口を告白したので裁判沙汰にまでなったそうだ。イギリスでも、ローマカトリック教会の新聞は、この言語道断な詐欺行為を立証するための興味をそそる記事を掲載したりしていた。とはいえ、聖母マリア出現の目撃談における真実性と善良性については、バーミンガムのローマカトリックの司教がローマ教皇の承認を得て書いた本でも熱心に支持されている。


ぼくが思うに、ごく普通の人生という道の上を丈夫な靴をはいて真実かつ正直な生活を送るより、鋭い石の上をはだしで百マイル行進する方がやさしいのではあるまいか。

イギリス人の友人が合流し、ぼくの馬車に乗ってきた。モーゼル川の様子を調べるため、ぼくらは本通りを離れて、ビュッサンの町の方へ少し進んだ。この美しい川は、山頂の傾斜がゆるく丸みを帯びたバロン・ダルザス山(1247m)から流れ出しているのだが、四、五本の細かなちょろちょろした水の流れはバスタブほどの大きさの泉に流れこみ、そこで合流していた。その泉からあふれた水は山道に流れ出て、指を広げれば橋がかけられるほど小さな川の赤ちゃんとなっていた。このぶくぶくと涌き出している流れこそは、ぼくの興味をそそるものなのだった。というのも、今はまだ、かわいらしい小さな音をたてて草むらをちょろちょろと流れているだけだが、ぼくはこの冷たく透き通った流れがカヌーを浮かべられるほど力強い川になるまで追いかけていくつもりだからだ。

こうした大河の源流を実際に目撃すると、ロマンティックな空想癖のある者が興奮しないわけはないし、詩人は感情が高まり心がゆり動かされるはずだ。偉大な思想というものにはすべて、その源流というか萌芽というものが存在するに違いない。後世に大きな影響を与えるような偉大な考えというものが、一人の天才や戦士や賢者や政治家の頭の中でどのように誕生し、どのように脳を刺激したのかを知ることは興味深いだろう。源流の存在に加えて、思想というものにも、それぞれさざ波や深い淀(よど)みや周囲の美しい景観というものを伴った流れが存在している。気高い考えの者もいれば、視野の広い考えを持つ者もいるし、まっすぐ直接的なものもあれば、遠まわしなものもある。急流もあれば、静かで円滑な流れもある。すみきっていて、しかも深い、という流れは、ごくわずかしかないが。

とはいえ夢見心地で現実を見ずに出発するわけにはいかない。といって、ボージュの居心地のよい集落でいつまでもぐずぐずしているわけにもいかない。カヌーを浮かべられる本物の川があるところまで、冷静に状況判断しながらとにかく進むしかない。ぼくらは、川を浮かべられる川を探しながら峠を下った。うっそうと茂った木立のあちこちに、星のようにきらきらする光が見えている。湧き水がたまって陽光を反射しているのだ。そうした水たまりはから本物の川が流れ出しているはずだ。薄暗いなかで、カヌーが浮かべられるか否か、ぼくは小さな沼の一つ一つをチェックした。

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カテゴリー:読み物
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現代語訳『海のロマンス』54:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第54回)

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赤道通過(クロス・ザ・ライン)

一、海神ネプチューン

練習船大成丸は十一月七日、初夜当直(ファーストウォッチ)の一点鐘(いってんしょう)、午後八時半*1
に無事に赤道を通過した。

*1:大成丸の当直は、夕方の四時から翌日の朝の八時まで、
四時間ごとに分担がなされていた。

午後四時から午後八時まで: 薄暮当直(イブニングウォッチ)
午後八時から深夜零時まで: 初夜当直(ファーストウォッチ)
深夜零時から午前四時まで: 中夜当直(ミッドナイトウォッチ)
午前四時から午前八時まで: 黎明当直(モーニングウォッチ)

担当する四時間を三十分ごとに区切って合図の鐘を鳴らすが、
鐘をつく数を順に増やし、
それぞれ一点鐘、二点鍾、三点鍾~八点鍾と呼んだ

科学万能で神秘的なものを排する「散文(プローズ)の世の中」である。自分ばかりは旧式なロマンチックの帆船に乗って、非人情や無刺激な生活を送っていると思っても、それも結局は主観的観念に過ぎなかった。

二十世紀の赤道の海には、海神(かいじん)ネプチューンの威霊(いれい)も現れなかった。世が世ならば……とホロホロと大きな涙をこぼして海神も嘆息されたろうが、一方、ぼくらも、品川を出帆して以来、期待し憧憬(しょうけい)した赤道通過祭が、オジャンになって少なからず落胆したしだいである。

海洋の神秘があざけられ、オーシャン・スピリットがその権威を失い、大洋の情趣や景勝が忘れられていくのを見ているネプチューン殿もつらかろうが、かのアホウドリと共に阿呆(あほう)といわれ馬鹿にされ、世間からは時代遅れの余興のように見られている帆船乗りも、また情けなく、つらいことではある。

船が利口になって帆船は汽船となり、人が利口になって船乗りが海員となり、茫漠(ぼうばく)とした大海の上から「帆とロマンス」とを払い去った現世で、古きにあこがれ新しきを呪(のろ)い、夢のごとくおぼろげな過去の愉悦(ゆえつ)と追憶に生きうる者は、かくいうぼくと、ネプチューン君、君との二人である。さらばネプチューン君!! 君の権威と威力(ちから)と慈悲とを祝福せんかな。

一、その一挙手は大波をゆるがし、
その一投足は陸と人とをふるわす。
わがネプチューンのその権威、
わがネプチューンのその威力(ちから)

二、その殿堂たる大洋に大河は朝貢(みつぎ)し、
その懐(ふところ)に魚類が楽しむ。
サンゴの宮、瑠璃(るり)の花園(にわ)、
われはたたえん、その得と威と力。

三、踊れるトリトン/ネプチューンと、歌える海の妖精(フ)、
声うるわしく人を魅了(みする。
かのサイレーン(海の精)こゆ、
千尋(ちひろ)の底の常春(とこはる)の楽土(くに)。

二、五目飯とカステラ

十一月七日正午の観測によれば、船は今夜の八時ごろに赤道を超える(クロスする)という。
船長の考えで、赤道祭(せきどうさい)などというお祭り騒ぎは止して、ごちそうを食べ、のんびりくつろぐだけの休日になる。海上生活の情緒的な行事として長い間、人々に想像され期待されていた赤道祭は、ウヤムヤに逓信省(ていしんしょう)所属の練習船・大成丸の甲板上から消え去った。したがって、白いひげを生やして、片手に三叉槍(さんさそう)、片手に地球をささげた海神から、「南半球の鍵」をもらう荘厳なる儀式もなく、トリトンや海の妖精(シーニンフ)や海の精(サイレーン)等の従者たちの扮装(ふんそう)も見られなかった。

ごちそうが出る休日として、正午(ひる)に五目飯(ごもくめし)、卵とじ、吸い物、きんとんという贅沢(ぜいたく)な献立を頂戴したぼくは、おやつに、カステラを肴(さかな)にサイダーの祝杯をあげた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 68:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第68回)
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鉄道は緑の山々を縫って曲がりくねりながら走っている。あちこちの村に「工場」があり、夜になると、無数ともいえる窓の光で山の中腹の斜面が照らし出される。こうした工場群は、女性が大好きな──買うのはその夫たちだが──流行のフランス製のショールやスカーフを作り出しているファッション業界の拠点でもあるのだ。ここで図案化されたデザインは、一流の名人の手になる油彩画のように高額で、フランスでは、一つの図案を彫るごとに、イギリスの製造業者が支払う金額の三倍のお金が支払われているらしい。

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