現代語訳『海のロマンス』73 練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第73)

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三、浮浪者

ロンドンに浮浪者がいるということはかねて聞いていた。浮浪児(オーダーリーボーイ)としてハイドパークに眠り、テムズの河原にカゲロウのごときはかなき一生を終わるという話は、こちらの感情を刺激し、好奇心を引き起こさずに聞き流すことはできなかった。

すべての色彩がロンドンを髣髴(ほうふつ)させるという評判のあるケープタウンにもまた、類似の人々が存在しているのを見たとき、意外なところで思いがけなく長年のぼくの希望が果たされた気がして、その不思議さに驚かされた。それはテーブルマウンテンに登る予定で中央郵便局の前に集まっていた、静かで快(こころよ)い大気を感じたある朝のことだ。すぐ目の前のガス灯の台の上にいた三人の浮浪者に、浮浪児の放浪的生涯の片影をとらえることができた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 87:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第87回)


宝島の作者スティーヴンソンやナポレオン三世に影響を与えただけでなく、欧米においてカヌー/カヤックによる旅の可能性を広く知らしめることになったジョン・マクレガーのカヌーによる欧州大陸の川旅もいよいよ大詰めです。
今回から最終章となります。
フランスの大平原の川や運河を漕ぎつないでセーヌ川へ、そしてパリへ、さらに故国イギリスへ──、

第十五章

月が出た。非常にはっきり見える。とはいえウサギならぬ「月の男」は見えない。月光に照らされて結婚披露宴を行っている人々がいる。若い連中は庭に移動し、爆竹やクラッカーを鳴らしたりしてさわいでいる。ぼくが部屋の窓から信号灯で近くを照らしてやると喝采が起きた! その翌日、披露宴の出席者全員が朝食を食べるために集まっていて、上機嫌の花嫁の父の大盤振る舞いでマディラ・ワインやシャンパンをあびるように飲んでいた。ドイツ人たちはまだモーには来ていなかった。

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現代語訳『海のロマンス』72:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第72回)
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しゃくにさわるケープタウン

 

一、アデレイ大通り

悟(さと)るは迷うのはじめとやらで、久米(くめ)の仙人の通力(つうりき)もふくよかな白い脛(はぎ)にはゼロとなる世の中である。すっかり会得(えとく)し、大悟(たいご)徹底(てってい)したつもりで、最初の上陸日に、この南のロンドンたるケープタウンに惹(ひ)かれすぎないように自制しながらアデレイ大通りを歩いたぼくは、やはり人形を見るとほしくなる子供と同じ心理作用を持っているという自覚を、いかんながらその意識の上に受け取らねばならなかった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 86:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

(緑色)現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第86回)
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次に立ち寄ったのは「ラ・フェルテ・スー・ジュアール」である。かなり距離があった。ラ・フェルテという名のつく町はいくつかある。これはイギリスで、語尾が「カスター」や「セスター」となる町が多いのと同じだろう。ここのラ・フェルテの特産は石臼(いしうす)だ。高品質の石臼は五十ポンドもするし、大量に輸出されている。ここの石にはもとから穴が開いていて、それが臼(うす)の刻み目として利用できるので、その分の加工が不要になるという利点がある。ラ・フェルトでは、干し草小屋にカヌーを置かせてもらった。宿の食事では、パリから来ていた頭のいい腹をすかせたブルジョワ氏も一緒で、マナーもおかまいなしの食欲旺盛な女房殿を同伴していた。彼らの向かいの席には、町の噂話をあれこれしゃべり続ける人がいた。他人のやること、言うこと、失敗話、儲け話など、なんともつまらない馬鹿話を際限なくぺちゃくちゃやっている。とはいえ、ぼくを含めてこの四人の客のテーブルで、まったく毛色の違う二つの話が同時進行で展開されたのも、まあ面白くはあった。一方は延々とラ・フェルテの人間の噂話を披瀝(ひれき)し、他方は話題を靴やスリッパに向けようと懸命になっている。それというのも、このブルジョア氏は、各地を旅しながらブーツを売り歩いているのだ。結局のところ、ぼくらの日常生活における会話というのも多くは似たようなものだろう。イギリスの内閣にとって些事(さじ)にすぎないことでも、ホノルルでは高尚な政治問題だったりするわけだ。

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現代語訳『海のロマンス』71:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第71)

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予定航路の変更

二度あることは三度あるという。

老人(としより)の言うことは尊重しなければならぬ。

すでにマンザロがサンディエゴに変更され、この航海の権威(オーソリティ―)であり、中核となる英国行きがなくなったところにきて、さらにシンガポール寄港が西オーストラリアの片田舎のフリーマントルに変更されたからといって、いまさら驚くにもあたらない。 続きを読む

ヨーロッパをカヌーで旅する 85:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第85回)
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水辺にほど近いエレファント・ホテルのシャトー・ティエリでは快適な一夜をすごした。あくる日はカヌーを干し草置き場から引き出して川に浮かべた。流れは少しずつ速度を増した。ブドウ園の周囲は林になっていて、あちこちにイカダも浮かんでいた。そのイカダというのが、大きな樽をしばって連結させたものもあれば、板や伐採した丸太を組み合わせたものだったりした。巨木をそのまま利用しているのもあった。イカダの上にはそれぞれ小屋が作られている。いわば船長室だ。イカダ師たちは、この寄せ集めの木の構造物を岸から曳いたり押したり、流れに乗るよう操ったりして、二週間ほどかけてセーヌ川へと向かう。大変な作業だが、要は、組み合わせた木材の連結具合を調節したり形が崩れたりしないようにするだけだ。とはいえ、結構な仕事量ではある。このあたりでは、この手の人件費は非常に安い。

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現代語訳『海のロマンス』70:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第70回)
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「ハハア、そう憤慨するなよ。とかく日本の役所は税制整理とか制度整理とかいって表面づらはきれいで、帳面尻(ちょうめんじり)は合っても、内容はからっぽじゃ。表は西陣(にしじん)や錦繍(にしき)を着ていても裏はつぎはぎだらけか……ハッハッハ」

「口先ばかりは、国民膨張の先駆けだとか、海運界の責任は諸君の双肩にありとか、熱心なる海事思想の鼓吹者たれとか、やれ無冠の外交官だとかいっておきながら、旅費を減額されて、立派な外交官が目的地へも行かれず片田舎の木賃宿(ボクチンホテル)に転がっているしだいか……ヤレヤレ」

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ヨーロッパをカヌーで旅する 84:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第84回)
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翌日は早朝に出発した。川の流れはまずまずで、この日も青空のもと、強めの追い風を受けて帆走したりもした。川沿いで出会った農夫や市場へ向かう人たちとも興味深い話をした。そういうフランス人が一番驚くのは、ぼくが一人旅で、それで幸せでいられるというところらしい! 身勝手に思われるかもしれないが、こういう旅では完全な一人旅の方が絶対にいい。

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現代語訳『海のロマンス』69:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第69回)

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ロンドン行きが中止になった真相

青年の心理(こころ)として、とかく直覚的判断がおもしろいほどに的中するときがある。事件が発生し、進行した後に事実をまげて訳知り顔に語るというのではないが、実際に、ぼくらは今度の「ロンドン行きは中止」について、すでに四カ月前のサンディエゴ停泊中に、絶対的にそうなると推断したわけではないが、少なからずそれを懸念していたし、また全然予想しないわけでもなかったのだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 83: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第83回)
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こうした丘の一つに、マダム・クリコの館があるのに気づいた。この名前は多くのシャンパンのボトルやそれ以外のボトルのコルクにも刻印されている。エペルネの近くのアイのブドウ園はこのワインの名産地だ。ワインは瓶詰にされた後、ボトルの首を下に向けて沈殿物をコルク周辺に集める。それから熟練した職人がコルクを交換する際に、瓶内の圧力で少量のワインもろとも沈殿物を吹き飛ばす。ボトルは「洞窟」や巨大な貯蔵室に保管されるが、そうした場所は温度変化がほとんどない。そのために瓶(びん)が破裂することもある。ボトルの四分の一がそうやって爆発したこともあったそうだ。この有名なマダム・クリコでは、一八四三年の暑かった夏、四十万本のボトルが失われたという。その後、大切な貯蔵庫の冷却用に十分な量の氷がパリから調達できるようになると、そういうことはなくなった。フランスでは毎年約五千万本の「本物」のシャンパンが製造されているという。世界中で「フランス製シャンパン」と称するものが年間に何百万本飲まれているのか、確実なところは誰にもわからない。イタリアのワインの産地として有名なベローナでも、ここのシャンパン・ボトルは尊重されている。

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