ヨーロッパをカヌーで旅する 34:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第34回)


その日の午後は、騒々しい二つの楽団でだいなしになった。両者は明らかにライバルで、互いに負けまいと大音響を出しあっていたのだ。とばっちりを受けたのは、週末を湖畔で静かにすごしたいとやってきた旅行者たちだ。ぼくは湖の周辺で長い散歩をしたのだが、この騒音からのがれることはできなかった。おまけに、戻ってくると、月の光に照らされた湖にボートを浮かべている男がいて、打ち上げ花火を発射したり爆竹を鳴らしたり回転花火を放り投げたりしているのだった。ぼくとしては、遠くの、残雪が満月に照らされている山々をうっとりと眺めているほうがずっとよかった。しかも、頭上には「一つ一つの星」がきらめき、それが湖面にも映っているのだ。

コンスタンツ湖は長さが四十四マイル、幅は九マイルほどだ。翌朝早く、心身ともににすっきりして湖にカヌーを浮かべてみた。湖面には、さざなみ一つなかった。すると、もう一度スイスの旅を、以前とは違う新しいやり方でやってみたいという気持ちになった。まもなく、ぼくはカヌーに乗って沖出しし、どちらの湖岸からも同じような距離にあるところまで漕いでいった。ここまで来ると、どっちに漕ぎ進んでも対岸が近づいてくるようには感じられない。それで、一休みした。このときに感じた興奮は確かに初めて体験するものだった。周囲の景色はどこを見ても美しく、どこを眺めるのも自分の勝手だった。どこにも近道はなく、道路もなく、航路も見えない。時間もなく、せかされる予定表もなかった。パドルを漕ぐだけで右にも左にも行けた。どっちに行くか、どこで上陸するかも、まったく自分しだいなのだ。

聞こえてくるのは、一隻の蒸気船の外輪がゴトゴトいう回転音だけだ。しかも、その蒸気船はまだ遠くにあった。その船が近づいてくると、乗客たちはカヌーに喝采してくれた。ぼくの勘違いでなければ、彼らは笑顔を浮かべ、こっちがいかにも楽しそうに、そして素敵に見えるので、それをうらやましがっているというようにも思えた。これからどうするか少し思案したが、このままスイスまで行ってしまおうと決めた。集落が続く湖岸を漕ぎ進み、奥まった入江にある小さな宿屋に寄ることにした。カヌーを係留し、朝食を注文した。宿には八十がらみの老人がいた。彼が主人で給仕も兼ねているのだった。立派な人だった。人は年を重ねるにつれて、年長者には敬意を払うようになる。

その宿屋で食事をしたり本を読んだりスケッチをした。暑く、静かだった。そうしていた五時間ほどの間、彼は日向ぼっこをしながらぼくの話相手をしたり、ぼくの目を山々に向けさせたり、眠そうな声で何かを答えたりしていた。今度の川や湖の旅では、平和でほとんど夢のような休息のひとときだった。激しい川下りをしてきた後なので、なんとも心地よかった。ここには、カヌー旅につきものの急流や悪戦苦闘というものがまったくないのだ。

宿屋の近くに介護施設があった。古い城で、少し認知症気味のかわいそうな女たちが入所していた。カヌーに取り付けた小さな旗が彼女たちの注意を引いた。入所者たちは全員外に出るのを許され、カヌーを見物に来た。楽しそうに笑顔を浮かべ、訳のわからないことを言ったり身振りで示したりしている。この奇妙な集団と別れると、他の場所でまた上陸した。一本のすばらしい樹木があったので、その木の下で一、二時間かけてカヌーの損傷したところを修理した。ちょっとした道具は積んであるのだ。今度の旅の次のステージではイギリス人の視線も気にしなければならないので、念入りに磨き上げた。

あまりに暑く、湖には波を起こすエネルギーすらなかった。羊につけてある鈴が、ときどき、疲れて気乗りしないように、不規則にチリンチリンと鳴っていた。一匹のクモがカヌーのマストから木の枝まで糸を張り、セキレイが近くの小石の上を跳ねながら歩いている。湖水に半分浸かった状態のカヌーと、そばの草むらに寝転んでいるぼくの方をいぶかしげに見つめたりしていた。


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現代語訳『海のロマンス』20:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第20回)


ああ、七月三十日

帆を操作するために帆桁(ほげた)に取り付けられているタックというものがある。直径三インチ(七・五センチ)の鋼のロープだ。簡単には切れそうにない女の髪の毛は一房でも大きなゾウの強さをつなぐに足るそうである。ましてや太く強い鋼(はがね)の線である。見ようによってはずいぶんと強そうである。

バビロンの城壁はたあいもなくユーフラテス川の河畔に埋まり、ラメス王のオベリスク*1はその見苦しい姿をロンドンの真ん中にさらしている。そういう世の中である。まして、本当に細い一本のロープだもの、時間の経過という力の前には、すべての物質は無力である。ささいなことを論じるスコラ哲学には「朽ち果てて終わる」とある。

[訳注]*1: ラメス王のオベリスク - ラメス王は古代エジプトのファラオ(王)であるラムセス二世(治世は紀元前13世紀ごろ)と思われる。

オベリスクは特に古代エジプトで製作された細長い塔状の記念碑を指し、ロンドンには通称「クレオパトラの針」と呼ばれるオベリスクがある(かの有名なクレオパトラとは直接の関係はない)。
古代エジプトのオベリスクでは、ロンドン、パリ、ニューヨークに移設されている三本がよく知られている。

見ようによっては、芋のツルより弱くて切れるかもしれない。しかし、それほど風も吹かない快い凪(なぎ)の日であったんだが、などと小首をかしげても追いつかない。自分はこんなことを考えながら練習船の主帆(メンスル)の切れたタックを眼前にながめた。

ときは明治四十五年、七月三十一日の午前七時である。場所は北緯四十度八分、東経一六七度四十五分、広大な北太平洋のただなかである。タバコをかんで黄色いツバをペッペッと吐いて「ウイスキーこそ船乗りの生活にふさわしい」と歌った昔の船乗りは古い物語の中に葬り去られた時代である。デルファイの巫女(みこ)*2などはやらなくなった今日である。蒸気とプロペラとが、帆とロマンスを海から追放した海の上である。まして科学的な頭と排神秘的思潮とを持った賢明なる二十世紀の船乗りの前である。

*2: デルファイの巫女 - 古代ギリシャのデルファイで、神の意思(神託)を伝えるとされたアポロン神殿の巫女(みこ)。政治にも影響を及ぼしたとされる。

であるから、もしもこれよりわずかの後に、前檣(フォアマスト)のローヤルが目に見える変化の手で引き裂かれるようにビリビリとフットロープから見事に二つに裂けて飛んだりしなかったならば──まだ帆船では十三日という数字の威嚇(いかく)と金曜日という週日の権威とが失われていない*3のであるから──これほど乗組員の注意を引くことはなかっただろうに。

*3: 十三日の金曜日 - 一般には「キリストが磔(はりつけ)になった日だからキリスト教圏では不吉」とされているが、これは俗説で、明確な根拠はないようだ。洋の東西を問わず、迷信というのはそういうものかもしれない。

知識は記憶の堆積であるといえるならば、不安は同性質の予報的な奇妙な現象が集中することにより生じると推論することができる。ローヤルの破れた頃から、そろそろ人々の顔には疑わしい、不思議だ、妙だという雰囲気が流れ出した。迷信的な思いこみがソロリソロリと人々の頭を支配しかかる。神秘的な気分が船の空気を染めはじめる。シャロットの女の鏡*4はかくてだんだん曇りはじめた。雨でさえ降る前には青嵐(せいらん)が堂に満つといわれている。何事か起こらねばならぬ。

*4: シャロットの女の鏡 - 英国に伝わるアーサー王伝説に登場するシャロットは、英国の詩人テニスンの詩『シャロットの女』のヒロインであり、彼女をめぐる悲劇の詩に触発されて多くの絵画も描かれている。
シャロットは現実の世界を見ることを禁じられ、鏡を通して世界を見ていた。
夏目漱石の『薤露行(かいろこう)』はアーサー王伝説を取り扱ったファンタジー小説だが、この中でシャーロットの女についても取り上げている。

事件の進行が発覚するには、ある程度の空間と時間の推移とが必要であると哲理は教えている。空間は二千何トンという大容積で十分である。この上はただ時間の推移を待つばかりだ。

一時間後の船内の空気は、依然として静まりきっているわけにはいかなかった。時間の推移とともに、シャロットの女の鏡はついに破れた。そのときは北太平洋の妖霧(きり)のために乗組員の心を腐らせ、根気をけずり、神経を逆なでするするように、うっとうしく憂鬱な状態が続いていた。この場合、この霧はかなりの効果(エフェクト)を示すなかなかの背景だったと言わなければならない。加えて、無線電信という道具も加わった。ジャキジャキと鯨の脂肉を鉄火にあぶったような音と、青くすごく光る威嚇的で幽玄な光がまだほの暗い下甲板に射しているところはなかなか壮観である。舞台は整っていた。

天皇陛下のご病状については、七月二十二日に石橋校長から

陛下は十四日来胃腸を害せられ、体調不良のところ十九日より腎臓炎を併発され、熱が四十一度、脈拍が百八となり、すこぶるご重態にして、誰もが憂慮(ゆうりょ)している

との来電があってから以後、二十四日には、陛下はその後は快方にむかわれ、誰もがほっとしているという情報が、二十七日には、陛下のご容態はまたまた悪化し、脈が百七、熱が三十九度になられたという情報が、二十八日には、ご容態は良好に転じたとの報に接し、歓喜に堪えず、なお神のご加護と国民の心をこめた祈願により全快されることは疑いなしという情報の、計四回の喜憂(きゆう)相なかばする消息が伝えられたが、その後はなかなか晴れない妖霧(きり)と戦いつつ、心ひそかに憂慮(ゆうりょ)しながらもなお最後の望みがある消息に慰められていたのだったが、この日の朝になって、九時に整列し作業を開始するという航海中の行事が中止になり、九時半に総員、後甲板(こうかんぱん)に整列するよう命じられた。

ひょっとしてと、心臓が少し縮み上がって、肋骨の三枚目をける。四角い重いものがスーと腹の下から浮いてきて、胸のなかでもだえるように揺れ動く。どこの船室でも重苦しい空気だが、ヒソヒソとはばかるような低い声がしている。誰の顔にも緊張し興奮した様子と、おそろしく真面目な表情がみなぎっている。

暗い表情を浮かべた百十五の顔が後甲板に並ぶと、恒例の分隊点検が済んだ後、「集合っ──」と全員を海図室の前に集めた船長は、厳粛かつ荘重な口調で、まだ学校から正式の通知は来ないのだが、銚子局発の某軍艦および郵船会社の〇〇丸宛の無線通信により、畏(おそ)れ多くも天皇陛下におかれては、七月三十日午前零時四十分、ついにご崩御されたことを、ここに遺憾ながら発表する、国民として誠に哀悼の念に堪えないしだいであると述べ、いま我らは遠く千五百海里も離れた洋上にあるわけだが、母国にいる国民と同じように陛下の赤子(せきし)たる思いを胸に、八月一日午前十時二十五分──東京のちょうど八時──に先帝陛下の奉弔(ほうちょう)式を、または七月三十一日午後二時十五分──東京の正午──に新帝の即位祝賀式を挙行すること、ならびに今後は当分の間、行事および教習を中止し、音楽や唱歌や遊戯(ゆうぎ)を禁ずる旨を公表された。

ついに来た。もしやと思ったことが、ついに来た。言葉につくせない感情が湧いてきて、いまさらのごとく胸をふさぐ。寒い刃(やいば)の光が暗闇にひらめき、匕首(あいくち)を直ちにズバと胸元に突きつけられたような気持ちとでも言おうか。
かくて、自分らはその生涯に二度とない世界一周という革新的経験を試みつつある最中だったが、はからずもこの偉大なる荘厳で悲しみに満ちた国家的規模の革新を経験したわけである。

天子(てんし)崩ずるときは世の中もまた哀悼すると言われている。自分らも当分は敬虔(けいけん)な態度で筆を洗わねばなるまい。

帆繕(ほづくろ)い

巨大な黄色い帆柱(マスト)は三層の甲板を貫き、甲板から仰ぎ見るその頂(いただ)きは雲にも届きそうなほどで、かすかに揺れている。マストの涼しい影が長く甲板(デッキ)に落ちている。

維摩*5が堂にこもって無言の勤行をなすときのような静寂(しずけさ)が、八月一日以降、船内のいたるところをおおっていた。信号用のラッパはもちろん、士官の号笛(ごうてき)も、伝令管(ボイスチューブ)の鈴音(すずおと)も、すべて音という音は未練なく船の上からふるい落とされてしまった。一秒間六回以上の振動を空気にささやく発音体は禁止されたわけである。このクレタ島の迷宮(ラビリンス)*6のような、荘重な沈黙が保たれている練習船の上甲板(じょうかんぱん)で、かすかな、きわめてかすかなささやきが聞こえる。

*5: 維摩(ゆいま) - 釈迦(しゃか)の在家の弟子。初期の大乗仏教の経典の一つである維摩経(ゆいまきょう)にその名を残している。
黙して語らないことが意味を持つという「維摩の一黙、雷のごとし」など、禅と深い関係もある。


*6: クレタ島の迷宮(ラビリンス) - ギリシャ神話で、クレタ島のミノス王が牛頭人身の怪物ミノタウロスを閉じ込めたとされる迷宮。

練習生の実習科目として、帆縫(ほぬ)いなるものがある。鬼とも組みあって戦うぞという面魂(つらだましい)の豪の者が、甲板に座って、おぼつかない様子で糸で帆をつくろっている姿は、十五番の先が長い縫い針が厚い〇号のキャンバスを縫っていくときの小さなさっさっという音に聞きほれているように見える。手を縫った、指を刺したというような逸話を前の航海で残している二期生の古顔が、きょうは「君、ここはシツケをして一針(ひとはり)抜きにするんだよ」などと、さかんに裁縫の術語(テクニカルターム)を使う。自分の手塩にかけてどうやらできあがった新しい帆(セール)が初めて檣頭(マストヘッド)に高くかけられ、おりからの海軟風(シーブリーズ)に適度に湾曲して、快く船を押しやるのを見るときの快感と軽い誇らしい気持ちは、やったことのない者にはわからないと、髭男の一人が満足そうに見上げている。しかし、日焼けした黒く太い指をした髭面(ひげづら)の男が黙々と、危うげに仮縫(かりぬ)いをしたり、シツケをしたりするのを見るのは、かよわい女が力業(ちからわざ)をなすのを見るときに浮かぶような、ある種の複雑な感情にかられる。

君、こういうところを国のマザーやシスターに見せたら……と述懐する人の気持ちはどうであるか知らんが、自分はこの短い時間のうちに無限の憐(あわ)れさを感じて、真夏の夕暮れのような気分になるのである。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 33:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第33回)


一九三九年、一隻の蒸気船がここを航行しようとしたが、浅瀬に乗り上げてしまった。努力のかいなく離礁できず、そのまま放置された。というわけで、蒸気船に乗るにはドナウウェルトまで行かなければならない。そこからは蒸気船で黒海まで行くことができる。ウイーンから下流を航行する旅客船は高速で予約も可能だ。

ウルムには丸太のイカダが浮かんでいた。こうした丸太はイル川から来たのだろうと思う。というのは、ドナウ川の上流をカヌーで下っているときには丸太を見かけることはなかったからだ。川には公設の洗濯場がいくつもあった。川に大きな建物が浮かぶように設置され、庇(ひさし)が大きく張り出している。五十人ほどの女性が片膝をついたり低い手すりから身を乗り出すようにして一列に並んでいるのが見える。こぞって服を容赦なくたたきつけている。

ぼくはまっすぐその女性たちのところへ向かった。カヌーを上陸させられるようなところがないか、また駅までどれくらいあるのかを聞くためだ。すると、年かさの婦人がカヌーを運ぶための男手と手押し車を見つけてきてくれた。ぼくがイギリスから来たのだと知ると、女性たちは一斉に前よりも大きな声で話をしだし、懸命にたたいたりこすったりしたので洗われている服がかわいそうだった。

例によって駅ではひと悶着あった。とはいえ、カヌーの取り扱いはその半分にすぎなかった。残りの半分はというと、ヴュルテンベルク王がらみだった。この王様がフリードリヒスハーフェンの王宮に行くための特別列車に乗り込もうとされていたのだ。王族の至近距離にゲーグリンゲンからやってきたみすぼらしい不審な男がいる、目を離すな、というわけだ! この王様は明らかに威厳のある振る舞いをされていたが、すべてが王様らしいというわけではなかった。それどころか、誰も乗っていない王室御用達の列車に敬意を表するよう衛兵に命じるときなど、それを面白がっているようなところもあった。

王様の一行はすぐに出発して見えなくなった。

ぼくが山岳や森林をへめぐり波とたわむれていた十二日間に起きた世の中の動きを知るため、ここで新聞を買った。すると、「アレはどうなってる?」といろんな人に声をかけられた。アレというのは、海底ケーブルを敷設していたグレート・イースタン号での事故と、スイスの氷河で起きた災害のことだ。海底ケーブルの破断と山岳地帯における登山者の死亡事故に何か関係でもあるのかと思わせるほどだった。ぼくが新聞を読んでいる間も、列車はフリードリヒスハーフェンに向けて南下していく。カヌーは貨物扱いで、運賃は三シリングだった。気はすすまなかったが、木片を精緻に組みつけたカヌーの磨き上げた前部甲板に荷札が貼りつけられていた。

コンスタンツ湖*1の北端にある港は活気に満ち、汽車を降りて眼前に広がる魅力的な景色を眺めるだけの価値はあった。この地について、湖を渡ってスイスまで運んでくれる蒸気船を待つ間に半時間もあればあらかた見物できると片づけてしまうのは申し訳ない。ぼくは日曜日には休むことにしている。そのためにここに来たのだ(速く、遠くへ旅行したいというのであれば、逆説めくが、日曜日はむしろ休むようにしたほうがよい)。ホテルは駅前にあり、湖に面してもいたので、ここはまさにカヌー持参で立ち寄るためにあるような場所だった。というわけで、ぼくはカヌーを上の階のロフトまで持ち込んだ。そこでは洗濯女たちがカヌーを置いておくスペースを空けて監視してくれただけでなく、親切にもセイルや激しい航海で傷んでいる他のこまごまとしたものまで修理してくれた。

翌日、プロテスタントの立派な教会で礼拝があった。参列者も多く、きらびやかな衣装を着た典礼係が取り仕切っていた。礼拝は一人の婦人によるヘンデル作曲のメサイアから『慰めよ』の独唱という、絶妙かつシンプルなものではじまった。彼女の声は、この厳粛なメロディーが普通は男声で歌われるものだということを忘れさせてくれた。それから大勢の子供たちが祭壇に上がって十字架像を取り囲み、とても美しい讃美歌をうたった。次に参列者全員が加わり、品よく、しかも熱意をこめて讃美歌を斉唱した。若いドイツ人の牧師が雄弁に説教をたれ、散会となった。



訳注
*1: コンスタンツ湖:ドイツとスイスの国境にある湖で、ボーデン湖とも呼ばれる。面積は約536平方キロで、琵琶湖よりやや小さい程度。

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現代語訳『海のロマンス』19:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第19回)


東から来て一歩でも百八十度線を超えると、天や空と同じように度量も広く、どこか荘重にして厳粛な感じがする。そして横紙破りの本家本元の剽悍(ひょうかん)な兄貴分の陣風(スコール)の王土に踏み込んだ気配がする。

空はおおいかぶさったように薄暗く、底冷えのする薄ら寒い密集した雲が我が物顔に、怒りっぽい癇癪(かんしゃく)持ちの海を混沌(こんとん)と圧迫している。したがって、陣風(スコール)もいわゆる「南洋の雨浴(うよく)を許す」的なものに比べると、いやに大きな面(つら)をした肝のすわった腹黒いやつが傲然(ごうぜん)とやってくる。その降り方も王者のごとく横柄(おうへい)で、その勢いや量から見るときは無雲陣風(ホワイトスコール)と同じように東洋の豪傑(ごうけつ)風だと思われるが、後者に比べると淡白ではなくて、少し執拗(しつよう)に、少し未練な気風を持っているようである。ときによると天や空のように度量が大きいどころか、半日も続けて降っていることがある。やりきれたものではない。いい加減にしてくれと言ったって、とうてい相手はこっちの言うことを聞きそうにもない。それに比べると百八十度線から東のスコールはなかなか小気味いい茶人的な、人なつっこい、さっぱりしたやつである。

七月二十六日の午後、本船を奇襲したやつは、この黒雲陣風(ブラックスコール)の部でも小頭(こがしら)くらいの格のやつであった。数日来の西方の疾風(ゲール)に、海はいうまでもなく荒れている。天が落下し、海を抱擁(ほうよう)せんとするその偉さ、海が突起して天に接吻(くちづけ)せんとする様子! その大きな波頭(なみがしら)と波頭(なみがしら)の間に海洋はひょうたんのくびれのように落ち込んで、本船はその間を潜航艇のように縫って進む。

逆巻いて持ち上がった波は船首(ステム)によって二つに破られ、両舷を押しつぶすようにフツフツという音をだしながら流れ走る。このように蒼黒色(ダークブルー)を示していた水はここに砕け、高く持ち上がったものは緑玉色(エメラルドグリーン)を示し、深く沈んだものは青靛色(プロシアンブルー)を見せ、その間に黒い色の背をして青い色の腹をした海の剽軽者(ひょうきんもの)──トビウオ──が列をなし群れをなして、ネズミのごとく、カワウソのごとく飛んでいる。このときのさまざまに入り乱れた海の色! 錯綜(さくそう)した海の色! あるいは青に緑に藍に、紺青(こんじょう)と光り、瑠璃(るり)と散り、五彩の妙をつくし六色の精緻(せいち)を極めた様子は、とうてい逗子(ずし)や大磯(おおいそ)の女性的な波浪に求めても得られない神技(しんぎ)の一端だろう。

第一陣、脈々と、しかも堂々と押し寄せて来る波浪が三十尺の舳(みよし)によってもろくも砕かれるや、たちまちその歩調と周期的行動(ハーモニックモーション)に乱れが生じ、あるときは波の峰と峰とが敢然(かんぜん)とぶつかりあい、もつれあい、パッと散る水沫(しぶき)とともに、見よ、今やまさに砕けんとする波の美しい塊は、厚い青い半透明の水晶の、ひびが生じている面にそってザックと天斧(てんぷ)にてブッ欠いたような壮麗(そうれい)で細やかで美しい、一大キネオラマ*1を形成し、あるときはこの波の谷と谷、峰と峰とがしっくり相まって巨大なヒマラヤの峻峰(しゅんぽう)や深玄(しんげん)なるパミールの大高原を現出させる。

このような巨大な波濤(なみ)の両頭が相まってヒマラヤの峻峰(しゅんほう)を形成するとき、暗緑色(ダークグリーン)の波はみるみるうちに、その頂きにおいて清新な海の大気を吸入し、かのプリズムがスペクトルを分析するようにもみえる藍青色(らんせいしょく)──むしろ、お納戸色(なんどいろ)というべき──を呈し、透明に光るのもほんの一瞬で、アッという間に細い屈曲した銀色の無数のひびが入ると見る間に、たちまちさまざまな大波小波の大崩壊と大騒乱を呼び起こし、滔々(とうとう)として崩れ去った後には、いく百千のラムネ壜(びん)を投じたような雪白の泡沫が、シューシューと奇音を発し、ささやいては消え、ささやいては消える。やがて、この無数の細かい小さな鳴動(めいどう)が静まりおさまって、やがて悠々と波紋をつくって流れ去る。

このようなとき、青い世界に黒ずんだ瞳をあげて空を見れば、ビュービューとうすら寒い風音をリギンヤードで生じさせている陣風(スコール)の足跡を見ることができる。そして、陣風(スコール)に斬られて銀色の矢のように、蒼穹(そら)と船と海とを縦貫している豪雨の跡を見るだろう。

このような蒼穹(そら)と海洋(うみ)と──最も崇高なる天地間の活力現象──の偉大なる男性的な大背景を背負って、三百尺のローヤルの上に帆を絞る、赤き血潮と温かい涙を持っている海の寵児(ちょうじ)は無声の詩人である。無色の画家である。大自然の唯一の鑑賞家である。あれは、どこの阿呆だったろうか! 「二万三千海里」の航海で「船乗りの生活(ライフ)は野蛮(ブルータル)だ」とののしったのは!! 一度でも、この男性的な壮観に接すれば、知らなかったと慚愧(ざんき)に堪えないだろうし、そうでなければ救いようがない愚か者だ!



脚注
*1: キネオラマ: キネマ(映画)とパノラマ(風景)を組み合わせた和製の造語。この時代、風景などを描いたパノラマにカラフルな光を当てて変化を楽しむ興行が流行した。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 32:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第32回)


第六章

夜の間、懸念した豪雨もなく、翌朝は晴れて気持ちがよかった。今度の航海では、これまでもこうだったし、これからもそうだろう。昨日が例外なのだ。この場所を出るときになって、そこがゲーグリンゲンと呼ばれるところで、ウルムまでほんの九マイルしかないとわかった。

この町にある教会の高い塔がまもなく見えてきたが、うれしいという気持ちにはならなかった。というのも、ドナウ川を下るぼくの川旅も今週が最後になるからだ。日誌には実際に「景色もよく天気にも恵まれ、体もしっかり動かしたし冒険もできて、最高に楽しい週だった」と書いた。

というわけで、ある種の感慨にふけりながら、とある公園に上陸し、温かい苔むした土手に寝ころがって体を休めながら、あれこれ夢想していたのだが、やがて、大砲を打つドーンという大きな音が山野にこだました。と、すぐに歩兵隊による鋭く切り裂くような銃撃音も聞こえてくる。周囲の高地の縁には、青い制服を着た兵士たちや銃剣が見えた。砲撃の音が聞こえるかなり前に、射撃がなされた銃口から綿毛のような硝煙が立ち上るのが見えた。ウルムは名高いかつての戦場で、この中隊は近くの丘を取り囲んで模擬射撃訓練を行っているのだった。雄々しく闘った兵士たちについては、今はそっとしておいてやろう。普仏戦争におけるウルムでの敗北はメスからスダンにまで及んでいる。

ともあれ、川旅の話に戻ろう。

ぼくはこの川を幼年期ともいえる上流から、いや、正確には、この川が誕生したスイスの源流域から下ってきた。よちよち歩きの子供のように川がジグザグに流れているところでは、ぼくもそれに従ってジグザグに漕ぎ進み、生意気ざかりの少年のようにあっちに行ったりこっちに来たりしているときには、ぼくもそれに合わせてあちこち行ったり来たりしてきた。平野部に入ると川は少しずつ大きくなってきた。若者のように力強く、急流となって岩場を流れ落ちたり、森の奥深くへ入り込んだりした。そういうときでも、川とぼくは仲間だった。そのうち、ついに、ぼくは川が自分の手には負えないほどパワフルで強い流れになってきたのを感じて、川に畏敬の念をおぼえた。そして今、ウルムまでやって来たところで、ぼくはこの気高い川が成年になって安定した速い流れとなっているのを知ったが、それと同時に川が持っていた夢のような神秘さも消えてしまった。他の大河と同じように、航路として船が往来するようになり、橋もかかっていれば沿道を鉄道が走ってもいた。それで、ぼくはこの川に別れを告げることにした。ドナウ川は蛇行しつつも流速を維持し、ますます大きくなっていく。オーフェン付近では川幅一杯に船が往来するようになり、この偉大な川は終着点として黒海に注いでいるのだ。

以前の旅で、ぼくはウルムを訪れていた。いまさらこの町を「見物」に出かけたいとは思わなかった。ぼくが本当に興味があるのは川旅や湖での帆走だけなのだ。まあ、普通の観光地めぐりなら普通のガイドブックにいくらでも書いてある。

「ウルム、緯度97度*1。二つの丘の上にある古い教会のある町(付録参照)。人口9763人。ドナウ川流域に所在する。」

ここでいったんカヌーを止め、あらためて川を眺めた。

ここでは水は変色していた。スコットランドでいう「濁ってる」という状況だが、多少は支流のイラー川の影響があるのかもしれない。イラー川はアルプスのチロル地方をめぐってから、この町の少し上にあるドナウ川に流れ込んでいる。イラー川は独特の荒野の雰囲気を持つ、見捨てられたような川で、荒涼とし、幅の広い流れの半分は冷たく白い砂利が敷き詰められていた。何度も洪水が生じたために、土手はあちこちで寸断され、ちぎれた奇妙な根やゴツゴツした幹の木々も見えている。生き物の鳴き声も聞こえない不毛の地で、すべてがかき乱されているといった感じだ。暗く冬のように寒い夜の雰囲気があって、濁流が逆巻き、渦巻いている。

ここまでくると、ドナウ川にはバージ(荷船)が姿を見せるようになった。単純な作りだが、とにかく巨大だ。平底で、船首や船首材は上を向いている。だだっ広い甲板の真ん中に屋根のついた小屋が設置してある。ドイツの少年たちが英国の幼稚園のためにノアの方舟を作るときには、これがモデルになるわけだ。マレーはこのバージについて「平らな盆に載せた木造小屋」と、うまく言い表している。



脚注
*1: ウルムの緯度97度 -ウルムの位置は北緯48度23分なので、97度は著者の勘違いか誤記と思われる。
ちなみに、北緯48度は北海道より北の樺太(からふと)付近になる。

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現代語訳『海のロマンス』18:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第18回)


陣風(スコール)

明治維新より前には箱根から西には化物(ばけもの)や、ももんがあが、うじゃうじゃとひしめいていると信じられていた。しかし、今は時代が進んで、陸上(おか)では、吉原に花魁(おいらん)を買いにいく女の客が出現するというご時世(じせい)で、お化けもすっかりその株を奪われて、どこかに隠れて息をひそめているが、海上ではまだまだお化けや幽霊がわかった風な顔で、さかんに船乗りをてこずらせている。

颶風(ぐふう、サイクロン)がすなわちそれである。しかし、この海上のお化けも百八十度の子午線を境界(さかい)にして、東の方にはまったく姿を見せないという奇怪な現象を示している。これはお化けの原産地でもあり、また根拠地とも信じられているのはインド洋中のモーリシャス島で、年々三十を超える化物どもを遠慮会釈もなくどしどしと日本近海に輸入してくる。ところが、同じお化けでも紅葉狩りでは鬼女となり、三十三間堂の現れては柳の精となり、道成寺の清姫では蛇の化性(けしょう)となったように、颶風(ぐふう、サイクロン)も中国近海では台風(タイフーン)と呼ばれ、インド洋では颶風(ハリケーン)と早変わりし、日本近海では旋風(サイクロン)として恐れられている*1

で、ここでは船乗りから疫病神のようにこわがられている颶風(ぐふう)を真っ向から罵(ののし)るのは後々の祟(たた)りもあり、また中国の古い兵法に樹木を枯らすにはまず枝葉を切れとあるので、それに従って、颶風のお化けの家来(けらい)格で、また独立した斥候(せっこう)ぐらいの資格で神出鬼没に遊動する陣風(スコール)をまずはやっつけておこう。

この陣風(スコール)にも二種類あって、兄貴株は黒雲陣風(ブラックスコール)といわれ、弟分は無雲陣風(ホワイトスコール)と号している。たいがいの場合、このスコールなるものは親分のお化けの露払(つゆはら)いか、太刀持(たちも)ちとしゃれこんでビュービューとやってくるが、腹の虫の居所がちがっているときには、何らの先触(さきぶ)れもなく最後通牒(さいごつうちょう)もなく、だしぬけにガッとくるところは、どこかの国の宣戦布告に似ている。であるから、船乗りはスコールを海上の横紙破り、海上の腹黒者(はらぐろもの)と呼んでいる。風はやわらかだし、海はおだやかでサイクローンのサの字も見えないので天下泰平(てんかたいへい)国家安康(こっかあんこう)と、気を許してウカウカ進んでいったものなら最後、鈴鹿峠の山賊の手からのがれた旅人が、三島の宿(しゅく)の護摩の灰(ごまのはい)に有り金をスッカリせしめられるような目にあうのである。

この兄弟分のスコールも颶風が百八十度線以東に見えないときは、百八十度の子午線を境として、あんたはこの線の西、自分はこの線の東を領地とするとでも区分したのか、黒雲のスコールは百八十度の経線の西に多く、雲のないスコールはその東にのみ見られる。しかも、この弟分の方は兄貴分が荒々しく激しいのに反し、性格はすこぶる穏やかで、江戸っ子のような口ぶりで腹白(はらじろ)で気性もさっぱりしている。盆を引っくり返したような激しい雨がザーッと船を白く靄(もや)に包み込んだと思うと、どういうことか、いつのまにか癪(しゃく)にさわるくらい、すっかり日本晴れで晴れ渡っている。しかし、風力はなかなか強い。

せわしく響く靴音とともに、当直士官の甲高い声が聞こえる。「総員上へ! 雨浴(うよく)許す」と、なんとも珍妙な号令が下る。

船での生活で船乗りの最も熱望するものはと問われると、その返事には必ずや明るい空気の下で真水をあびることと、まだインクの香りがする朝の新聞になるだろう。で、人々は争って雨を浴びる。否、滝をあびる。かくて、連日のチリとホコリとをぬぐいさってしまうと、爽気(そうき)身にしみわたって、きらびやかで豪華な服をまとった将軍のような、至極おめでたい日本一のご機嫌となる。なかには浴びそこなって半分石鹸を体になすりつけたまま、いままでの修羅場はどこへやら、風はそよともせず波は笑い、ただ西の空に色彩鮮やかに美しくかかっている虹で、わずかにそれとわかるだけで、心にくいほどにケロリと晴れ渡った天気を、うらめしそうにながめている笑止の姿も見受ける。

というようなことを、かつて在校中に運用術の時間に亡くなられた太河平(たこひら)教諭が実体験としてよく語られていた。

(横線)

脚注
*1:  強風/暴風雨について、さまざまな表現がなされているが、現代とは表現が異なるので、整理しておこう。


現代では、風の強さ(風速)を13段階に分けたビューフォート風力階級が用いられている。


風力0(平穏、風速秒速0~0.2m)、


風力1(至軽風)、風力2(軽風)、風力3(軟風)、
風力4(和風)、風力5(疾風)、風力6(雄風)、風力7(強風)、


風力8(疾強風、秒速17.2m~20.7m、このレベルから台風)、


風力9(大強風)、風力10(全強風/暴風)、風力11(暴風/烈風)、
 
風力12(颶風(ぐふう、秒速32.7m以上、ハリケーンやサイクロンはこのレベルから


ちなみに一定の風速を超えるまでに発達した熱帯低気圧は、発生した場所により


台風: 西太平洋、日付変更線≒東経180度より西
ハリケーン: 東太平洋、大西洋(カリブ海を含む)
サイクロン: インド洋、南半球の太平洋


となる。
もっとも熱帯低気圧は移動するため、途中で呼び名が変わることもある。
東太平洋で発生したハリケーンが西進して台風と呼ばれるようになったりもする(越境台風)。


スコールは急に降り出す強風を伴った雨のことで、気象用語として、黒雲を伴うブラックスコールや雲がないホワイトスコールという表現は現代でも用いられている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 31:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第31回)


ときどき、暗くてよく見えないので浅瀬に入りこんでしまい、そこから引き返さなければならないこともあった。さざなみがぼんやり見えていて、通れそうだなと思っても、その手前で停止して、結構な時間をかけて調べたりすることも多かった。それほど慎重になったのは、こんなところでひっくり返ってしまうと服が濡れてしまって、それを乾かす人家も近くにないからだ。

深い森の中で、いきなりすぐ近くで鐘の音が聞こえた。それで岸に接近してみたものの、上陸するのは無理だった。で、そこはそのまま通過し、あらゆる選択肢を検討した上で、カヌーで寝るしかないかなと覚悟を決めた。

と、そのとき、雨粒が顔に落ちてきた。すぐにカヌーを止めた。というのも、カヌーで寝支度をすませる前に濡れたりすると、一晩中、気持ちが悪いからだ。何しろ朝から固形物は何も口にしていない。葉巻だって全部吸ってしまっていた。カヌーをもやっておけるような、土手から突き出た根のようなものはないかと目をこらした。すると、前方に明かりが見えた。急いでそこまで漕いでいってみると、やがて妙な湖のような池のようなところに出た。流れはそこで消え、船体が草を押し分けているような音がする。オオオニバスに似た大きな丸い葉が水面にたくさん浮かんでいた。ぼくはなんとかカヌーを着岸させた。カヌーを引き上げ、やぶをかき分けて高い土手を登った。長いパドルを護身用に手にしていた。このあたりの農家には大型犬が飼われていることが多く、暗闇で吠えられたりすると厄介なのだ。断崖を登り切ったところに家があった。窓に明かりがともり、家の中で人が話をしているのが聞こえた。それで、ぼくは大きな音を立てて扉をノックした。すると、話し声がぱたりとやんだ。もう一度ノックし、「道に迷ったあわれなイギリス人なんですが」と、同情を引くように情けない声を出す。そうすれば家人が招き入れてくれるのではないか、事情がわかれば笑いあえるのではないかと期待したのだ! ところが、相手もさるもの、同じように考えをめぐらしていた。二階の明かりがついて、窓が開き、太った農夫が顔を出した。figure-p-80a

ローソクを突き出し、手にパドルを持っている男が本物のイギリス人か確かめるように上から品定めしている。

実際は、みすぼらしい放浪者が一夜の宿を乞うているにすぎない。

figure-p-80b

ひとしきり吟味した後で、農夫は頭とローソクをひっこめ、窓を閉めて笑いだした。それで、ぼくは一安心した。相手がユーモアを解する人なら、たいていは仲良くなれるからだ。

やがて他の連中も二階に見物しにきたが、ぼくはひるまず立っていた。ぼくが使った現地の言葉ははっきり通じた。結局、連中はぼくが一人だということに納得し、頭のおかしな奴だが多勢に無勢でこっちと喧嘩することはないだろうとほっとしたらしく、ぼくを迎え入れてくれた。とはいえ、この闇夜に川まで行って誰かカヌーを運んできてくれないかと依頼するのは難しかった。

粘り強く交渉した末に、妥協策を見つけた。もう一つの建物に牛舎があるのだが、そこでカヌーを安全に保管してもらえることになったのだ。ぼくとしてもほっとした。

ろくな食べ物は残っていないが、キャッシュバッサーという蒸留酒とパンと卵ならあるよと、彼らは言った。卵はいくつ? 「手始めに、十個」と答えて、全部食べた。この頃までには、お坊さんもやってきた。よそ者が来ると、話し相手に僧侶を呼ぶ習慣があるのだ。大きな部屋はすぐに人で一杯になり、ぼくの描いたスケッチブックが回覧された。天然ゴムのバンドは子供たちに大受けで、例によって、こんな旅をしているとよく遭遇する、よくある恒例の行事が繰り返される。皆さんも何度も聞くのはつまらないだろうから、ここではいちいち繰り返さない。

とはいえ、こういう場合、相手の人々にとってはカヌー旅をする人間なんて初めて見るわけで、とても親切に礼儀正しくもてなしてくれるので、こちらとしても、相手を喜ばせるために手を抜くことはない。お坊さんは話し上手な人で、ぼくらはラテン語で話をした。というのも、ぼくのドイツ語は下手だったし、お坊さんのフランス語も似たようなものだったからだ。ぼくらが学校でラテン語を習ったのはずいぶん昔だし、お互いに苦笑しながらたどたどしい言葉で話をした。イスラエルのナザレで一人の僧侶とラテン語で長いこと話しこんだことがあるのを思い出したが、そのときは十日も一緒にいたので練習する時間は十分にあった。

この航海でぼくがひどい目にあった唯一の日といってよい九月一日は、このようにして終わった。自分の不注意でちょっとしたトラブルにあったことは他にも多少はあったが、朝から何も口にせず夜遅くになってやっと食事にありついたという、このきつい一日に比べれば、そういうことは何でもなかった。このときの代金は四シリング六ペニーで、これにはワインと嗜好品代も含まれている。


注: イラストはジョン・マクレガー自身が描いたもの。

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現代語訳『海のロマンス』17:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第17回)


霧中号角

(むちゅうごうかく)*1

ごうごうという風の叫び声とともに、冷たい白い細霧(さいむ)がマクベスの妖婆の配下にある千万のガマの醜い口から、一斉に吐き出される怨霊(おんりょう)の吐息のように流れ込む。

この細霧(さいむ)たるや、かの赤人(あかひと)のほのぼのと明石の浦の……*2とうたったような、なまやさしいものではない。絵のような詩のような奈良の古都を、いやが上にも古く、いやが上にも詩的に純粋にする初夏の朝霧のそれのようなクラシカルなものでもない。かつてはスペインの無敵艦隊(インビンシビルアルマダ)を漂泊させ、近くは上村将軍*3をして男泣きに泣かせた、海上の腹黒者(はらぐろもの)である。横着な魔物(まもの)である。だから「瓦斯(ガス)」という名称は、船乗りの身に、いかにも毒々しい険悪な律動(リズム)を与える。

ブレイスといわずリギンといわず、マスト、ヤードの別なく*4、この毒ガスがふれるところは、たちまち冷たい針のような細雨(さいう)となって、てきめんに化学反応が生じる。横柄(おうへい)づくで、いやがっていたのに無残にもこの軽い白いふわふわした妖怪に姿を変えられた水は、あわれなものである。雌牛に変えられてただモーと鳴くよう命じられたギリシャ神話の王女アイオのようなものである。

一日に千里を走る台風という大きな翼に駆られ、泣きながら休息(やすみ)もせずドンドンと飛ばされる霧は、涙の雨をそそぐべき格好のところをさがす。この小さな無数の妖鬼(ようき)の行く手にあたるものこそ災難だ。大成丸は運悪くも、この貧乏くじを引いたわけである。

とてつもない大量の「ガス」の恨みが凝縮し、リギンやマストやヤードなどからしたたり落ちる細雨となって、いままで踏み心地のよかった乾いた甲板を冷たくヌラヌラと潤しはじめると、ここに残酷なうら悲しい光景が繰り広げられる。油臭い重い雨合羽(あまがっぱ)が必要となり、長靴(シーブーツ)が引き出される。人々の眉の間には深い谷ができて、のろまで間が抜けた調子の、のんだくれた雄牛の鳴き声のようなフォグホーンが、一分間ずつ、ひっきりなしに鳴らされる。どうしても、ワーズワースの哀詩の題材になってしまう。

また、このときの天気は思い切って人を馬鹿にしたもので、船のブルワーク(舷墻)から外は黒白(あやめ)もわからない霧の海であるが、肝心かなめの太陽様(おてんとうさま)は、十中の八、九はにこやかにマストの頂(てっぺん)で、いつものように光り輝く笑顔を見せている。「雨のふる日は天気がわるい」という俗謡(うた)は、船の中では通用しないことになる。つまり、太陽が見えているのに時ならぬ雨、しかもリギンか降り注ぐ雨という、なんとも奇妙な天気といわなければならない。要するに、北太平洋では妖霧(きり)は立体的ではなく平面的に、ニューヨーク式にではなく東京式に、横に長く広がっていくようだ。

衝突予防法の第十五条第三項に「帆船の航行中は最大一分間の間隔で、右舷開きならば一声を、左舷開きならば二声を連吹(れんすい)し……」*5とあるのは、つまり霧中号角(フォグホーン)についての規定の一節である。薄暗くなったなかを白く軽い霧が蛇のようにもつれて波の上を這い、水平線がはっきりみえなくなると、たちまちボーボーという、色彩も階調も配列もない大陸的なノッペラボーな饗音が見張りの手によって絶え間なく鳴らされる。

フォグホーンという名称は、かつてアリアン民族がまだ定住せず移動して生活し、互いに攻略しあっていた野人時代に、信号用として、または礼節用として用いられた角笛に始まったとか、その後、それが陸上から海上へ、礼節用から警戒用にと変転したもので、昔はさほど無愛嬌な響きを放たなかったらしい。この伝説に加えて三千年後の今日まで帆船に用いられているということを考えあわせると、美しく飾られた高野の山駕籠(やまかご)くらいにはたとえることができるかと思う。

奈良の霧は絵のような都を美化する要因(ファクター)で、テムズ河の霧は沈鬱(グルーミー)な川面の色彩を多少ともやわらげて、その露骨な幾何学的な自然を絵画的に純粋にする効果を持っているとすれば、この場合の妖霧烟雨(ようむえんう)は審美学の第三則として昔の角笛の神秘的な音を悪く誇張し、品位を落として俗化し、このような調和のない、むしろ静寂をぶち壊すような野蛮な音に変えたもので、美化とは反対の効果(エフェクト)を表すものとみてよかろう。

されば、フォグホーンはわれら海上のコスモポリタンが、空中の奇怪な野武士にむかって発する宣戦布告のラッパであるといえよう。「ね、君、ここからこうやって距離をおいて聞いていると、あんな雑音でもちょっと余裕があって、これに銀の鈴の音と牧歌的な奥ゆかしさが加わったなら、たしかにアルプスのカルパチア地方あたりの牧場をイメージできるようだね」と賛美した気まぐれ者があったにしても、だ。まあ、人によっては案外に音楽的に聞こえるかもしれない。ただし、カルパチア地方云々(うんぬん)は保証の限りでない。


脚注
*1: 霧中号角 - 霧にまかれたときに「ふいご」を使って警戒信号の音声を発する装置。霧笛やフォグホーンと同義。現代のフォグホーンは電気やガスなどを用いて音を出す。


*2: かの赤人の - 「ほのぼのと あかしの浦の朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ」は、古今集に収録された読み人知らずの和歌。
山部赤人の作ではないので、「かの赤人の~」は、作者の思い違いか。


*3: 上村将軍 - 日本帝国海軍の海軍大将・上村彦之丞(かみむらひこのじょう)のこと。
日本海におけるロシアとの海戦で、濃霧などのために失態をおかして国民の非難をあびたりしたものの、その後の戦いで沈没した敵艦の兵士を救助したことから、日本の武士道を世界に示したと称賛され、「上村将軍」という彼をたたえる歌までできた。


*4: ブレイスはヤード(帆桁)をコントロールするロープ、帆桁は帆を張るために帆の上辺につけた棒、リギンは帆船の索具の総称。


*5: 右舷開き - 右舷開きとは、帆走で、右舷から風を受けること。帆は左舷側に張り出す。左舷開きはその逆。
フォグホーンを音響信号として使う場合、現在でも針路を右に転じる場合は一声(一回鳴らす)、左に転汁場合は二声、後進する場合は三声、と指定されている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 30:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第30回)


その次にはリートリンゲンと呼ばれる町に泊まった。外国人にはあまり居心地がよくないところだ。イギリス人でここを訪れる人はほとんどいないため、ぼくとカヌーはここでもこっけいなほどの騒動を巻き起こした。滞米経験があり英語もできるという一人のドイツ人が質問の通訳をしてくれたのだが、他の人々は通訳された返事を聞いているだけだった。ところが、翌朝八時にはなんと千人以上もの人々がカヌーの出発を見届けようと橋の上に集まってきたのだ。本を詰めたナップサック1を背負った大勢の児童も駆けてきた。

ここを出ると、景色はそれまで通ってきたところと似たようなものだったが、いずれにしても、そういう絵のように美しい風景を眺める余裕はほとんどなかった。というのは、風が強く、しかも追い風だったからだ。流れは速く、川は蛇行し、いたるところに浅瀬や渦や無数の中洲や流れを横切る水路などが存在し、どこを通るか、特に順風のときに、どうやって帆を下ろないですませるかにエネルギーのすべてを使ってしまった2。

帆走できるとわくわくするし、体も酷使することになるのだが、昼になっても朝食をとる場所すら見つけられなかった。おまけに後方に黒い雲の塊ができつつあって、やがて雷や雨になる気配があった。

「あ~あ」と、ぼくは心の中でつぶやく。「今朝、あの立派なご婦人が備えをしておきなさいと言ってくれたのに、ちゃんときいておけばよかった!」 彼女は賢母の微笑を浮かべ、おずおずとぼくの腕時計の鎖にさわらせてくれないかと頼んできたのだ。「とても美しいわ」と。しかし、我ながら不思議なのだが、ぼくは今日に限って手軽に食べられる食料を積んでいなかった。風が強く、しかも順風だったので、時間を無駄にしたくなかったのだ。ものすごくスピードが出て、ぼくらはたちまちエーインゲンに着いた。今夜の宿として地図に印をつけておいた村だ。だが、そこに着いてみると、時間はまだたっぷりあった。先へ進む好条件がこれほどそろっているときに、それをあきらめてカヌーを岸につけて村に食事にでかける気にもならなかった。それに集落は川からずっと離れていたので、それまでと同じように流れに乗って帆走して先へ行かざるをえなかった。

ときどき農作業の手を休めて岸辺で眺めている人に一番近い人家の場所を聞いたが、相手は「一番近い」とか「川に近い」という言葉が聞きとれないようだった。それで、そういう会話の最後には、相手はきまって「ヤヴォール(了解)」という言葉を発した。これはアメリカ英語では「そうなんだ」、スコットランドの言葉では「そうか」、アイルランド語では「そうだね」、フランス語では「本当ですね」になるが、どれもぼくの役には少しも立たなかった。

というわけで、腹ペコだし気力もなくなってきた。その先の川の蛇行する様子を調べようと、なんとか上陸したものの、そのまま木の下で眠り込んでしまった。目がさめたときには風は弱まっていた。川の水深があったのでパドルを漕いだ。

ドナウ川は、このときナイル川のように泥まじりの濁流になっていて、両岸の高さも水面から垂直に八フィートから十フィートほどあった。大平原を流れる支流のいくつかが本流に流れ込んできていた。教会の塔が何度も見え隠れした。そこに近づこうと努力したものの、半マイルほど進むと川は急角度で湾曲していく。しかもどんどん曲がり続け、さっき正面に見えた塔が今度は背後に見えたりした。この悩ましい異常な状態については簡単に説明がつく──この近辺は地盤がしっかりしていないので、洪水で新しい流れができると村ごと押し流されてしまう。で、集落の位置を慎重に検討し、川から離れたところに配置したため、いくら漕いでも村には近づかないのだった。

暗くなってきた。ぼくは地図を調べた。大平原に蛇行するドナウ川が描かれているが、蛇行の数は実際の半分にすぎなかった。しかも、今入ったばかりの森の中には適当な集落が一つもないことが判明した。木々が頭上にまで張り出しているため、夕方の薄暮はすぐに夜の闇へと変化し、ミシシッピー川の上流部のように沈んでいる木の数も急に増えた。そのいくつかが川面に揺れている。粘土性の強い泥がついて根っこが重くなっているのだ。川下りでは流れの速いところを通るのが常だが、こういった状況なので、緩やかな流れの方へと慎重に漕ぎ進んで川を横切って移動したりした。



原注
1: 本を詰めたナップサック - ナップサックは「いろんなもの」を入れて背負うバッグ(背嚢)の意味で、語源は schnap(スナップ)とsach(袋)から。英語のハバーサック(肩掛けカバン)がhafer(カラス麦)、forage bag(飼料袋)から来ているようなものだろう。


要調査 - このナップサックを背負わせるのは、少年たちを兵役に順応させるためで、これが多くのドイツ人たちが怒り肩である理由なのだろうか?


[訳注] 日本のランドセルはオランダ語のランセル(背嚢)からで、リュックサックを含めて、本来はほぼ同じ用途だったと思われる。


2: 新聞の天気予報では、このとき中央ヨーロッパでは嵐が通過する、となっていた。

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現代語訳『海のロマンス』16:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第16回)


カツオ釣り

和氏(かし)の璧(へき)にもなお一局のこけつあり*1というが、西風神(ゼファー)の寵遇を受けて順風と海流とに乗じ、ひたすらに東へ東へと走れる練習船も、たちまち女神ジュノー*2の妬(ねた)みを受けたのか、二十五日午後から南南西の風が急変して東風となり、みるみる船足は遅くなり、針路を北に向けることを余儀なくされた。東の国に向かう船に、北へ北へ行けとは、すこぶる非人情な要求である。というわけで本船はなるべく行き足が出ないように、なるべく一か所にとどまって、その間に再び例の西風をとらえようと画策した。

このような境地こそ最も表題の事業(カツオ釣り)は成功するというので、漁労長と異名(あだな)をとった水夫長(ボースン)の喜びといったらない。例の見張りがこっそりと、カツオが見えたとの職務以外の報告を水夫長の元にもたらす。やがて、カツオ! カツオ!と告げる声(アラーム)が口より耳へと全船にあまねく伝わる。ちょうど、それが職務遂行中でなかったものなら、それこそ大変、我も我もと太公望を自称する連中が続々と船首楼(フォクスル)に集まってくる。

緑色の碧玉(へきぎょく)を溶いて流したような水から、銀色に光る美しいこまかい物がイナゴのごとくシュシュッと水面をうってはね上がる。イワシである。それっ! 餌が! と大声で甲板上からどなる。晴れた夕映えの光線を受けて、きらきら輝き落ちてくる狐雨(きつねあめ)のごとく水を打つイワシのつぶてのあるところには、プツプツと千万の泡の粒の破(わ)れる音がして、数を知らぬカツオの鋭いすべっこい頭が集まり、ざわざわと水は波紋をなしてさわぎ流れる。きれいであるという優しい審美心と、釣ろうという残酷な功名心とがもつれあって、むらむらと心頭に浮かんでくる。

船に搭載されている竿の中で長く太い竹竿の先に青い糸と角針とをつけた水夫長(ボースン)は、よせくる長波(うねり)の高さに準じ、船体の縦動(ピッチング)に応じて巧妙に長い糸で水の上をなでまわす。晴れ渡った太平洋のはなやかな夏の光線(ひかり)と、心地よくさわやかな海の大気とのため、いやが上にものすごく光る紺碧(こんぺき)の海を通して、藤紫の背と鶯茶(うぐいすちゃ)のヒレをした奴がスウスウと保式水雷(ほしきすいらい)のごとく目にもとまらぬ速さで走り抜ける。見渡せば実(げ)にすばらしい壮観である。船首から覗(のぞ)いた左右両舷の海は果ても知られぬカツオの群集(む)れである。

勇ましく鼻先をそろえて、軽騎兵の密集団体のごとく、勢い込んで真一文字に進んでくる様子、船首線(ステム)でザックと割(さ)かれた波に寄せられて、驚いてサッとばかり水を切るや、チャッと銀色の腹を見せて横ざまに逸(そ)れ走るもの、稲麻(とうま)竹葦(ちくい)*3とはこのことか、あわれ本船はカツオの大軍に取り囲まれたも同然だ。

水夫長(ボースン)はと顧みれば、もう十数尾のはつらつたるものをデッキにと投げ出している。苦しがって尾にヒレに力をこめてわれとデッキに体をうちつけ、生ぐさい血を絞り出す魚を捕らえて、浴場(バス)に放して子供のようにつくづく喜ぶものもある。

「たしか手応えがあったがなあ」というため息の声に振り向くと、一人の学生が竿の先につけた銛(もり)を引き上げている。見れば、なるほど頭から背にかけて真紅の生々しい創傷をもったやつが懲りもせず悠然と泳いでいる。

「さすがは太平洋を横行する魚だけあって鷹揚なものだ」と水夫長(ボースン)はスッカリ感心してしまった。



脚注
*1: 和氏の璧(へき) - 韓非子(かんぴし)に記載された中国・春秋時代の故事から完全な玉(宝石)を指す。「完璧(かんぺき)」という表現の由来となった。ここでは、完全に思わえるものにも欠点はあるという意味で、天候に恵まれた航海で、絶好の天候が乱れてきたことを示すために使われている。


*2: ゼファーとジュノー - いずれもギリシャ神話に登場する神。
ゼファーは西風神で、嵐を呼ぶような強風ではなく、心地よい風を指す。
ジュノーは全能の神ゼウスの妻(ギリシャ語では「ヘラ」)で、結婚や母性、貞節の女神。
6月の花嫁(ジューン・ブライド)の語源は、この女神ジュノーから。


*3: 稲麻(とうま)竹葦(ちくい) - いずれも密集して生える植物であることから、多数が集まっている様子を示す。


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