現代語訳『海のロマンス』63:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第63回)
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下、ケープホーンについて

こうした十分すぎる強迫観念にとらわれながらも期待していたケープホーンを、はなはだあっけない平凡な時化(しけ)のなかで通りすぎた。これは、一面からいえば、海に完全に慣れた結果であるかもしれないが、他の一面からいえば、単調な、いわゆるドッグライフの中毒である。欲求の刺激を受けない、のらくら生涯の満足である。波乱も起伏もない行事を日一日と送迎する生活にひたりきった結果である。

ケープホーンを通って、ぼくの頭脳(あたま)に残った平面的印象は、ただ単一の灰色である。潤沢にして深刻なる色彩はもとより映らない。

視覚を痛めない、だるい霧と、マストに響くヒューヒューという風の声のみが、心霊に働いているばかりである。しかし、本に書いてあるケープホーン、人の話に聞いたケープホーンはそんな生やさしいものではない。

南緯五十五度五十九分、西経六十七度十六分に位置し、世界最南端の岬として、海上における究極の難所として、船乗りの心に絶大な権威をふるうケープホーンは、一六一六年にはじめて、そのくらい灰色の世界──吠(ほ)える風と泣く雨と騒ぐ海とペンギンの王国──から、明るく温かい欧州の天地へと否応なしに引っ張りだされた。

一五二〇年にマゼラン海峡が世の中に紹介されてから、欧州から太平洋へ東航(とうこう)する船はすべて、このマゼラン海峡を通った。したがって、かの「偉大なるポルトガル人」が命名したティエラ・デル・フェゴ(火山島)は果たして南極まで続いている大陸であるか、それともただ一つの島にすぎずして、さらにその内側に航路があるのだろうかとは、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスなど欧州各国の航海者間の多年の懸案であった。

ここにおいて、オランダはホーン町の「回漕問屋」たちが集まって、アンゴラ号(三六〇トン砲一九門、乗組員六十五人)と、ホーン号(一一〇トン砲八門、乗組員二十二人)の二艘を艤装し、ルメールとシュッテンの両人を船長として、この苦しくも、また栄(は)えある使命を果たそうとして、一六一五年の暮れも近い月にキセル港から遠く南の海へ送られた。

風向や流向の変化が激しく、しかも水道の幅が狭く、こまかく曲がりくねっているマゼラン海峡は(当時においても通行はなはだ困難であったには違いなかろうが、この探検の最も有力な動機は、ポルトガル人に対するオランダ人の敵愾(てきがい)心、競争心、虚栄心の発現(はつげん)である。ところが、当時にあってこそ汚い根性、さもしい料簡(りょうけん)とさげすまれ、いやしまれるべき略奪心の競争、虚栄心の発現も、三百年後の今日においては意外に効果を奏して、そのためにどんなに航海界に貢献したかはかり知ることができない。

しかるに、ホーン号はブラジル沿海のキングス島付近で船火事を起こして焼失したが、アンゴラ号は堂々と南下し、南緯五十四度五十六分において、海峡を通過した。すなわち、船長ルメールの名をとってルメール海峡と命名した*1

*1: 現在、ルメール海峡といえば南極半島の水道を指すのが一般的だが、本文でも後述されているように、この場合のルメール海峡は、西(太平洋側)からホーン岬の南をかわして北東に向かったところにある、フェゴ島とスタテン島の間の水道を指す。そこを抜ければ大西洋になる。
ちなみに、大西洋と太平洋の地理上の境はホーン岬の経度になる。

かくて一六一六年の三月、ホルン島の山影を望んだアンゴラ号は、喜望峰経由で無事に世界周航を完了して帰国した。

このときのシュッテンの日記には、次のように書いてある。

「……聞きしに勝る風の力である。限りある人知で測り知れないその力、その幅、その深さ。もしもケープホーン沖で風上に向かって五分間と立つことができる人間がいるならば、その者はアヒルのごとく尻で呼吸(いき)をすることができる……」

ケープホーン沖の強風(ゲール)とスコールとが混じった偏西風の猛烈なことは、この日記の一節でほぼ推察することができるが、同岬付近には、この他にさらにケープホルン海流なるものがあって、さかんに船乗りを悩ましている。

ケープホルン海流とは、南極の極地からチリの西海岸めがけて流れ寄っている南極流が、パタゴニアに突き当たって勢いあまって二つに分かれたその一支流が、ケープホーンの沖を一昼夜に三十マイルくらいの速力で南東に流れているものを指すのである。

この海流は例のディエゴ・ラミエズ島およびインデフホンソ島付近に至る頃には北向きに方向をかえて真東に進み、次いでスタテン島に向かって東北東に流向する。

ところが、このケープホルン海流だけなら何とか話のつけようもある。妥協のしようもあるが、ここにビーグル海峡から東方へと流れ出てくる潮流やルメール海峡から南方へ奔出する高潮流などが、もみ合いへしあいしているところに渦流や旋流や渦巻を生じ、いたるところに「阿波の鳴門」を演出するに至って、ことはますます面倒となり、一筋縄では通過できない仕儀となる。

しかも、この海流や潮流が、風向きにより、または陸岸との距離によって、その流向と速力を変化させるに及んで「海上の墓場」としてのケープホーン、「海のアルプス」としてのケープホーンの面目は躍如として現出するので、黒い「空中の魔所」の紛糾(ふんきゅう)は絶頂に達し、灰色の「海上の魔所」の混乱は極限に及ぶ。

南米の脊梁(せきりょう)をなすアンデス山脈が南へ南へと延びて、巨大かつ長大な背骨がようやく仙骨と変化し尾骨として終ろうとするあたりに、飛び石のように五、六の島が置き忘れられたかのように、パラパラと寒い海の上にうずくまっている。最も大きな奴は例の(火山島)で、最も小さく最南にあるやつこそケープホーンである。

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[Source: Johantheghost, commons.wikimedia.org]]

上図でCape Honeがケープホーン、
その斜め左上のFalse Cape Hornが偽のケープホーン

ホーンという名称(な)の起源(おこり)については、いろいろの説がある。

ホルン町の商人たちが派遣した探検隊の一隻がホルン号からとったのだというのが、最も有力な一説である。

ホルン付近の地勢が楽器のホルンに似ているからだというのが他の説である。

いずれが本当か、どっちが元祖かは知らない。また、そんなことはどうでもかまわない。しかし、世界一の風の強い所、世界一の波の騒ぐ所、世界一の海上の難所である、ということは確かである。どうでもかまわんとすますわけにもいかない。であるから、昔の帆船社会では「ケープホーン通過術」とも称すべきものが盛んに研究されていたという。

一体にケープホーンを通過するのは、夏季(なつ)(十一月から三月)がよい。夜は朝の三時に明けて、午後の九時頃に至ってもなお、船上では黄昏(トワイライト)の薄暮(はくぼ)のままである。風もなかなか強くはあるが、悪性のゲールや陣風(はやて)は少なく、雨も鋭く冷たいけれど、冬のものとは違って、やや暖かく、やや軟らかで、やや温順(すなお)である。

これが冬となると一日の四分の三は陰気な冷たい心細い暗黒の世界で、昼となく夜となく、冷たい雨は甲板を濡らして、ついには青い苔が生えてくるという。風もその力を増すばかりではなく、横着にも海面に幅広く吹き渡るために、冬季は西航(せいこう)の帆船は、上手まわし(タッキング)また上手まわし(タッキング)で、向かい風を間切(まぎ)るのに一日もかかり、そのなかにはマストを折り、ヤード(帆桁)を飛ばしたりして大けがをする者、無限大で無尽蔵の大自然の力に抗することができず、なくなく「海上の墓場」に葬られゆくもの、実にものすごい航海だという。

であるから、夏季(なつ)は、東航(とうこう)の船といえども六十度線内において十分に通過できるが、冬季(とうき)は六十度線より南に下らなければ十分この難所をかわすことができないとは哀れである。

実にケープホーン通過は、臆病者、小才子(こさいし)、虚栄の女、軽薄の男をして、赤裸々にして素直な考え方を教えこむという目的に向かって唯一無比なる鍛錬場(たんれんば)である。

ケープホーン付近では、氷山(アイスバーグ)の発見されたことは極めて少ない。その十マイル以内ではかつて氷山(アイスバーグ)を見た記録(レコード)がないという。

マゼラン海峡内にはところどころに(アルゼンチンの)植民地があって、そこには必ずミッション(キリスト教伝道所)があり、難船救助の設備がある。またユーシア村および他の一か所には無線電信所(むせんでんしんじょ)がある。仮泊地は、海峡及び火山島のところどころに多く発見することができる。

ケープホーンの西二十海里ばかりのところに「嘘のケープホーン」という岬がある。たぶん、慌て者の船乗りが「それっ……ケープホーンが……」とうろたえ騒いで、笑いの種を残した所であろう。

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カテゴリー:読み物
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