現代語訳『海のロマンス』43:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第43回)
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闘牛見物(その二)

闘牛場の開場は三時とのことである。それではと、一同メキシコ料理で腹ごしらえをする。舌を刺すような辛辣(しんらつ)な怪味(かいみ)に、長い間の海上生活で缶詰ばかり食べていた腹が驚いている。

直径三十間(けん)の場面(シアター)をまわって三尺の幅を持つ観覧席(スタンド)が数層の同心円をなして階段を作り、十間(けん)の空にそびえているというのが、闘牛場の概観である。ゆるやかに隣の娘のボンネットを吹く南風の絶え間絶え間に、風車ののんびりした平和な響きが聞こえて、青い空を背景(バック)にヘビとワシのメキシコ国旗がひらひらとなびいたとき、観覧席台(スタンド)の中ほどにあったコロナド・バンドが急に演奏をし始め、まさに来たるべき痛快味と残酷性とを甘受すべく期待した群衆は、靴音高くこの人々の心を先導するマーチに合唱(あわ)せながら「進め敵地へ!」と歌っている。

二世紀も三世紀も前にスペインでさかんに行われていたこの残酷で無慈悲な遊戯については、動物虐待防止会なるものがあって、やれ汝(おまえ)の馬は荷物を負いすぎているから少し下ろせとか、汝(おまえ)はあまり牛の乳をしぼりすぎるとか色々の抗議が申し込まれる世の中に、しらふで残存させてあるというのは少なからざるパラドックスである。闘牛(ブルファイト)は文明の仮面をかぶった多くのネロが好む奇怪な娯楽である。しかし、このパラドックスなるものがようやく不合理に、ようやく不条理とみなされるようになって、このティファナ市の闘牛(ブルファイト)も今日の闘技(とうぎ)を名残りとして永久に廃止されることとなった。今日のように多くの群衆──その大部分が金髪でスタイルのよい淑女(レディ)であるのにはすこぶる驚かされたが──が入場したのもそのためだと佐野氏はいう。

群衆が待ち遠しくなって口笛や催促の意味の拍手がようやくやかましくなったとき、一方の入口が開かれて、鮮やかな、色絹(いろぎぬ)にさまざまの金属の飾りを縫い付けた鎖帷子(くさりかたびら)めいた衣装を美々しくまとい、手に紅い布をたずさえた三人の戦士(ファイター)が現れて、芸人特有の卑下したような媚(こび)のある微笑と仕草で丁寧(ていねい)に挨拶(あいさつ)した。やがて三人が場の三隅(みすみ)に陣どったとみるまに、すでに一本の槍を背骨近くあびせられて逆上している牝牛は、猛然と土ぼこりを蹴たてて突進してきた。

狂ったような牛に狙われた一人の戦士はたちまち手にした紅布(ムレータ)をリボンのごとく舞わせて、怒れる牛の喘(あえ)ぎを聞きとるほどの近き間で巧みに体をかわす。牛は紅(あか)きものによってたやすく牽制(けんせい)されるとのことである。紅布(ムレータ)を双角(そうかく)にかけて牛がすりぬけたとき、戦士の手にあった他の剣はすでに牛の背に移って、獣らしい紅(あか)い鮮血(ち)が毛並みを分けて小川のごとく流れ落ちた。

群衆の野獣のごとき喝采と讃嘆のうめき声が場内を圧して起こる。

怒れる牛は、狂える牛は、さらに怒れ、さらに狂えとばかり、力ある低い重々しい咆哮(ほうこう)を地にはわせながら縦横無尽に突進する。このときが最もあぶない刹那(せつな)である。

見よ。水をうったような群衆の沈黙と、狂乱せる牛の猛(たけ)りを!! 第二撃を与えるべく他の一戦士が近づいて、あやうくも刹那(せつな)に身を転じ、三寸の空間に鮮やかに紅布(ムレータ)をひるがえしたとき、すでに闘士(トレロ)の手にある白き柳の葉のように研ぎすました細い長い闘剣が怪しくもその影を収めていた。野獣のごとき讃嘆の声は野太い上品とは言えないスペイン語で闘士(トレロ)の上に浴びせられる。

隣席(となり)の桝(ます)で、さっきから嬉々として騒いでいた若い娘も、さすがに身をふるわせて顔をそむけた。恐怖と無惨(むざん)とに驚いた心の様子は、うちふるえている後れ毛とベールで示されている。心の動揺は白いロウのように青ざめた顔に落ちるベールの網の目がこまかく震えているのでもそれとわかる。好奇心とおてんば心とに駆られて来たくせに……こんなもの見たくなければ見なくてもすんだのに、面白半分に来たりするからいけないんだと言ってやりたい。デュプレイとかろうじて目当ての闘士(トレロ)の名を呼ぶその人が、すでに自らの心の刺激によって、勝者となった心の高ぶりにあえぎながらも片手でポケットをさぐって、右の手をつかむがごとくにつきだして、祝儀を入れるべき紅布(ケープ)を求めているが、気の毒にも唇は痙攣して音をなさぬので余計に焦(じ)れる。

みるみる予期した人々の目前において、おそろしく多量の鮮血(なまち)がよだれとまじって牛の口から無残にもダラダラと流れ出る。その粘り気ある血が、乾ききった場内の土をまだらにピンク色に染める。いったいに興奮した勝ち誇った気分が重々しく場内の群衆の頭を押さえて、過飽和の野性的強熱の雰囲気は今にも結晶せんかとばかり、厳(いわお)に激せる大波のごとく、くそっとか見事とか叫びかわす群衆の集合した声は、暴風のすぎた夜のごとくヒタと声を静めて、驚くべき神秘的な沈黙がひとしきり続いた後、ヒソヒソと糸のように連綿としたささやきが起こる。

かの闘士(トレロ)のデュプレイはとみれば、長剣の致命傷を牝牛に与えて満場の喝采を博し、顧客の一人からうけたブランデーの一盃(はい)を飲み干し、さらに危険なる最後のとどめを刺すべく進んだ。紅布(ムレータ)を片手にささげて傷ついた牛を一方に牽制(けんせい)しつつ、ついに右手にかくせる鋭き短剣を喉笛に刺す。とたんに、大波のよせるがごとき脈拍が厚い皮を起伏させてみえる。やがて死牛(しぎゅう)は二頭の鈴と花とにて飾られたる馬によりて牽(ひ)かれていき、群衆はぼうぜんとして場外に送り出される。空はよく晴れ、風はやわらかに、空気は澄んで、遠くメキシコの兵営から響き渡る、どこかのんきそうなラッパの音がのどかに聞こえる。

再び汽車に乗ったとき、夕顔の実を並べたような白い歯を赤黒い唇からのぞかした二人の黒人が、マンドリンとチェロとにて俗謡鄙曲(ぞくようひきょく)を面白く

When I down the town in evening, he kicked my dog around me,
夕方に街を歩いていたら、連れていた犬をあいつが蹴りやがった

と歌いつつ五銭十銭の恵みの金を乞(こ)うていた。

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