米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第101回)
ああ、ボナパルト将軍
ナポレオン夫人、マリー・ルイーズ皇后の肖像画(ルーブル美術館蔵)
François Gérard, Public domain, via Wikimedia Commons
一八一五年の八月十一日、愁(うれ)いをおびて静かなるドーバーの海を横切って北の方トーベイの港へと急ぐ英国軍艦ベルロフホン号の後甲板(こうかんぱん)に、新たに悲しき追憶の痛手に悩み、悲憤(ひふん)し懊悩(おうのう)する心持ちを包み隠すことができないまま、希代(きだい)の英雄たる大ナポレオンが立っていた。
心静かに、勝者も敗者もやがては春の夢のたけなわの頃に散る桜花(さくらばな)と悟(さと)り、吹き下ろす嵐(あらし)にしばし漂っている秋の山々にかかる雲だとみなせば、誰かを恨(うら)んだり誰を笑ったりするだろうか。されど、思えばついひと月あまり前には、名は一時代を画し、全欧州の権力を握り、帝王となり、超人的な最高主権者として、天下に最も強い者、最も力ある者、最も偉大なる者とうたわれた身の、一朝にしてワーテルローの決戦に敗れて地にまみれて以降、何度幽閉され何度窮地に陥ったことだろう。あげくに、ジョンブルと嘲(あざけ)り笑ったイギリスの船に囚(とら)われの身となるにいたったのは、人一倍名誉心に富み、人一倍虚栄心の強い彼、ナポレオンにとっては、どれほど口惜(くちお)しい限りであったろう。どうしてわだかまりもなく平気でいることができよう。
この日、ポーツマス港より来たノーザムバーランド号には、英国の使者たるロードキースと、ナポレオンを絶海の孤島セントヘレナに護送すべきサー・ジョルジ・コックバーン司令官が乗船していた。囚(とら)われのつらい境遇にあるナポレオンは、彼らを迎え入れるため、苦しい心をおさえて甲板(デッキ)に立った。
雪のように白いチョッキとズボンも、今日はただ寒そうで、赤い襟章(フェイシング)と黄金色の肩章(エポレット)が飾られた萌葱(もえぎ)色の上着には、昨日の栄華をなげくように名誉連隊星(めいよれんたいせい)勲章が光なく掛けられてあった。今はただボナパルト将軍として遇すべしと英国が議決した内命を受けた司令官は、この偉大なる囚人(めしうど)に近寄りざま How do you do, General Buonaparte? (ごきげんいかがですかな、ボナパルト将軍) と、なんども気安く挨拶した。
その意外な態度に驚きのあまりしばらく無言であったナポレオンの、三角形の前が立っている軍帽(シャッポ)はユラユラと痙攣(けいれん)するように震えた。口を極めて英政府の非情を激しく誹謗(ひぼう)したキース卿も、コックバーン司令官も、共に無言であったが、かたわらの一英士官が、「セントヘレナに護送されるのが嫌ならロシア皇帝に送るほかはない」と独り言のようにつぶやいたのを聞いたナポレオンは Dinn me garde de Russes(余は金輪際ロシアには行かざるべし)* と大声で叫んだ。
* Dieu me garde de Russes (God keep me from Russians) の誤記。
十一月十五日、コックバーン少将の指令旗をマストに高く掲げたたノーサーバランド号は、その名誉ある大切な客人を乗せてジェームズ湾の深い湾に錨を投げた。ボナパルト将軍の随員は次に掲げる人々であった。
元帥ベルトラン将軍および夫人と子供三人、同将軍の女使用人とその子、下僕(げぼく)一人、モントロン将軍および夫人と一人の子供、同将軍の女使用人、ド・フ・カーズ伯(回想録の著者)と十三歳の子、グルーゴー将軍、三人の従者(バレー)、三人の馬丁(フットマン)、一人の料理番(コック)、一人の取次人(アッシャー)、一人のラムピステ*、一人の執事(スチュワード)、一人の家令(かれい)で、都合二十六人。
* ランピステ: 英語でランプキーパー。照明の管理など家事・保守を担当する。
当時、サー・ハドソン・ローエはセントヘレナ総督に任命せられて急遽(きゅうきょ)赴任(ふにん)する途中だったから、一時、コックバーン少将は副総督として代理の職についたが、同島の警備はすこぶる厳重を極めたもので、ジャームズタウン港に出入の船舶があるたびに、警砲が音もとどろと砲台から発砲され、日没の時砲(じほう)以後、出入港は厳禁されたのはもちろん、停泊している各船といえども理由なく錨地(びょうち)を変更することは許されなかった。
ジェームズタウン港に上陸したボナパルト将軍の一行は、ロングウッドの館の修復が完成するまで、一時的に、ブライア・パビリオンでバルコムという商人の家族と六週間あまり共に寝起きした。
ナポレオンはセントヘレナ上陸の最初の夜を公立遊園(パブリックガーデン)の一角にある家の一室で過ごしたが、この室(へや)こそ、かのワーテルローの一戦いで彼に再起できない致命傷を与えた敵将ウェリントン公が、昔、インドから本国への帰途(きと)、仮の宿としたものである。
後年、この数奇なる運命の因縁について、同島の警備司令官たるマルコーム海軍少将がエリントン公に書き送った書簡に対し、公は「願わくばボニー(ボナパルトの愛称)に告げたまえ、今、自分はかつて彼の宮殿たりしパリのエリゼ宮を宿として快適に暮らしていることを。また彼も同様にセントヘレナのバルコムの家にいて快適であることを。このように吾々二人が互いの住居を交換していることは欧州の平和を保つ上で、なんと趣(おもむき)のある皮肉な結末であろうか――」と、すこぶる得意満々で傲慢(ごうまん)な返事をしている。
海洋(うみ)を渡っていく鯨であっても、砂上にあっては、おびただしいアリの群にあざけられるわけだ。人の世に生まれて、落ちぶれた悲しい境遇にだけは陥(おちい)りたくないものだ。