現代語訳『海のロマンス』92:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第92回)

その土を踏んで

自分の内部で燃えている古今に例をみない破天荒(はてんこう)で大いなる覇気(はき)と大いなる野心(やしん)に耐えやらず、我(われ)とわが身を絶海の荒廃した島に焼きつくしたかつての英雄の、臨終(いまわ)の無念(むねん)の精霊(おもい)が通じないかとばかりに、醜悪(しゅうあく)な骨相(こっそう)を具備(そな)えた奇岩(きがん)絶壁(ぜっぺき)が水際(みずぎわ)からすっくと突っ立って、崩(くず)れるがごときその黒い陰影(かげ)は青黒く澄(す)む深い湾内の水にさらに一層のものすごさを与えている。

この青い深い海に玩具(おもちゃ)のようなボートを浮かべて最初のセントヘレナ上陸をやる。寄せては返す荒い波が天然の埠頭(ふとう)に砕(くだ)けるなかを、かろうじて上陸すると、花崗石(みかげいし)を積み重ねて築きあげた階段状の坂の、七百段ほどの石畳(ラダーヒル)が六百フィート(二〇〇メートル弱)の中空に向かってムカデのように伸びている。

セントヘレナ島(地図をクリックすることで拡大、移動可能です):ジェームズタウンは島の北西側にあり、島の中央部の Longwood (ロングウッド)とあるところがナポレオンの館があったところです。

振り返って乗ってきた船・大成丸を望むと、行儀(ぎょうぎ)よくならんだヤードを上に、フンワリと軽く水の上にすましているところは、青い池に浮かんだ白鳥のようである。事実、いい姿形(すがた)である。なんとなく背のすらりとした、なで肩で首の細い優艶(ゆうえん)で典雅(てんが)な美人の楚々(そそ)とした風情(ふぜい)に似ている。いままでその中で暮らしながら、それに気づかず過ごしてきた愚かさが嘲(あざけ)られるほどに、いい姿形(かたち)である。またとなく一段とよい眺めである。

しかし、普段から一緒に暮らしていていささか鼻につく女房殿も、正月の朝とか、よその家に招かれた席とかでは亭主自身もこれはと驚くほどに、ひとしおにその器量(きりょう)を上げるとのことであるから、ぼくがこのときに大成丸を美しいと感じたのは、あるいはこれと似た心の働きかもしれない。振り返ったぼくが「練習船のあの碇泊(ていはく)具合は荒涼(こうりょう)たるジェームズタウンに異彩(いさい)を与えるものだねえ」と言ったら、異彩(いさい)にも同彩(どうさい)にも、たった一つの船では張り合いがないとぶち壊した悪(にく)い友だちがあった。

いろいろと想像をめぐらせ語り合いながら、さて続いて上陸してみると、なるほど、どうにもこうにも「えらいところ」である。食料(エッセン)としては島から出る渋い梨と、バナナの豊富なるを除くの他は、すべて駄目(ナッシング)である。

石炭は英国の南大西洋艦隊が、その根拠地サイモンス湾と本国との往復に当たって長航海の補充用の練炭*が埠頭(ふとう)──名ばかりの天然岸壁──の左側に、すこぶる融通の利かぬげに、少しばかり積み上げられている。よくこんな島で、このだけの石炭を用意したものだと意外に思うくらいのものである。しかも、港内には煙突ばかりバカにひょろ長い、よぼよぼした小さな蒸気(こじょうき)船がたった二艘(そう)、苦し気に水の上をあえいでいる他は、見渡すところ、石炭の積み込みをより簡易により迅速に実行できる二十世紀の機械はまったく存在しない。

*練炭(れんたん): 石炭の粉などを固めて使いやすく成形したもの。

清水はといえば、前述した年代物の古風な小型の蒸気船が、いくども陸(おか)との間を往来してきてはコットンコットンと迫らず騒がず、いやに落ち着き払った原住民が二人、眠たげな手動(ハンド)ポンプの泰平な響きを伝えて、「移りたきゃ移れ、いやならよせ」というように、のんきに清水(みず)を積み込んでいる。練習船でも十七日に試験的に二十一トンほど積み入れたが、その仕事が朝の九時にはじまって午後の三時にようやく片づいたということだ。

夕飯の膳をにぎわすべく二百とそろって同じ海魚(さかな)が手に入らなんだと、衛生係の学生はこぼしておった。それどころではない。二日目に上陸したときには、絵葉書はすっかり種切れとなって、しかも郵便局では局長も、もう一人の助手(アシスタント)も局の外に遊びに行ってしまったため、切手が買えないと憤慨(ふんがい)していた者もあった。すべての滋養品(じようひん)は、たった三週間に一回の便船を待たねばならぬという。とにかく、すこぶる心細い次第である。要するに、この島は「物資の補給」ではできるだけ不便になるように念が入っている。

ましてや、風を資本とし、港湾(みなと)を生命(いのち)の避難所とする船乗りにとって、航海前に寄港地の状況ぐらいのことは徹底的に研究されてしかるべきである。世の中のことは何が幸いになるかわからぬもので、中途予定を変更してケープタウンに寄港(よ)ったからこそ、百二十日、一万二千海里(マイル)という前代未聞の大航海の後の唯一の休養地として、この大変な島を選択するという憂(う)き目に会わずに済んだというものである。

一八二一年、かの功名と野心の権化(ごんげ)たるナポレオン翁(おう)は五十一歳で逝去し、沈黙の谷(バレイ・オブ・サイレンス)に葬られた。一八六九年にスエズ運河の工事が完成して欧州とアジアを結ぶ新しい近道が開かれるようになってからというもの、セントヘレナの通商的価値はすっかり奪われてしまったが、それぐらいのことは、少しでもセントヘレナの近況に注目する者の否でも応でも気づくところであろう。

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