現代語訳『海のロマンス』93:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第93回)

南海の巨人

満々たる深い蒼波(そうは)の下には、どんな怪異(ふしぎ)や神秘が潜(ひそ)んでいるのだろうとは、東西(もの)も知らぬ幼児(こども)の時から、いわゆる「板一枚下は地獄の生業(しょうばい)」の今日に到るまで未解決の疑問であったが、深海といっても一万フィート(三千メートル強)に余る平均深度*を有するここ南大西洋の蒼い暗い海底には、南北にわたって縦横に跳梁(ちょうりょう)する一火山系のあるのは確かな事実である。

* 大西洋の平均の深さは太平洋やインド洋に比べるとやや浅くなっているが、それでも平均で三七○○メートル(ほぼ富士山の高さ)を超え、最深部はプエルトリコ海溝の八六〇五メートルである。

この火山系が、ある間隔を保って、呼吸(いき)をするクジラのごとく、その黒い醜(みにく)い頭を波の上にもたげている。北にあっては(セントヘレナの北西七百海里にある)緑豊かな火山島のアセンション島となり、南にあっては(セントヘレナの南西千三百海里にある)白雲をつんざく八○○○フィート(約2400メートル)の盾状(たてじょう)火山のトリスタン・ダ・クーニャ島となる。この中間に、標高二七○○フィート(818メートル)のダイアナ・ピークを有する南海の巨人セントヘレナが、しかっつめらしく、すっくと蒼波(そうは)の上に踏ん張っている……、いやどうも、お勇ましいことで……。

ところがどうも困ったことが出来(しゅったい)した。というのは、過去二、三世紀にわたって考古学やら地質学やらの偉い学者先生たちが、相次(あいつ)いでその頭をしぼり、セントヘレナ島が誕生した年代(クロノジカル)を考究し研鑽(けんさん)したが、どうもはっきりとしなかった。それも道理で、さすがの偉い博士たちがそろいもそろって年代学研究の唯一の手づるたる「化石」について、同島発見のものが絶対的に特異(とくい)なもので、いわゆる比較研究とやらができないのをつい失念しておったとは、なんのこった。

セントヘレナ島がいつ頃に波の上に噴火して、円錐形(えんすいけい)の島を誕生させたかの探求は、そういうわけで見事な失敗に終わったが、歴史という点では、すこぶる明確な記録が残っている。すなわち、十六世紀の初め、西暦一五〇二年の五月二十一日、あたかも当時インドから帰航(きこう)中であったポルトガル艦隊司令長官デュアン・デュ・ノバ・カステロの欲深い目に捕(つか)まって、せちがらい浮世(うきよ)の風にあたる動機(どうき)を与えられた。ところがちょうど当日は、かの歴史に有名な東ローマの傑出せるコンスタンチン大帝の生母ヘレナの方(かた)の誕生日だったとかで、それにあやかるようにと、カステロ君はさそく名義の無断借用をしてセントヘレナ(聖なるヘレナ)と命名したとのことである*。

* コンスタンチン大帝: ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世(生没年不詳、在位は四世紀前半)。
大航海時代以降、(西洋人にとって)新たに発見された島には、恣意的(しいてき)に命名されたものも多い。
いわく、ジェームズ・クックがクリスマスに到着したからクリスマス島、ゾウガメが多いからゾウガメ(ガラパゴス)の島など。
ハワイの旧称はサンドイッチ諸島だが、これはキャプテン・クックの上司たる海軍大臣サンドイッチ伯爵にちなんだもの。

当時は現今(いま)のはげ山や里山(さとやま)などとは違い、ゴムの木や色々の常緑樹(ときわぎ)が岩根(いわね)や狭間(はざま)を厭(いと)わず、うっそうと生い茂って濃い姿を深い水にひたしておったが、いやにちっぽけな島じゃないかぐらいに軽くみたデュアン・デュ・ノバ・カステロ君は、単に発見者という名誉のみに満足したとみえ、一五一三年まではなお依然(いぜん)として無人島の名前を冠(かぶ)っておった。

このセントヘレナに渡航した記録のある者にはフェルデナンデ・ロペズというポルトガルの貴族がいて、彼は同時にセントヘレナに島流しされる者の元祖となった。本国で何かよからぬことを働いたとみえる。

一六四五年にポルトガル人はこれを放棄(ほうき)し、オランダ人がこれを獲得したが、一六五一年に英人(東インド会社)に所有権が移転し、以後、数回のとったりとられたりを繰り返した後、ついに英人が一六八七年までこれを占有し、それからは英国の王旗(ロイヤル・スタンダード)が同島にひるがえり、一八三六年に王領植民地になった、という次第である。

同島の記録を見ると、上官に対する反抗(ミューティニ)とか反乱(ライオット)とかいう忌(いま)まわしい文字がたえまなく出現する。一例を挙(あ)げると、一六九四年に原住民が反乱を企(くわだて)てたが、その陰謀(いんぼう)は露見(ろけん)し、ラダーヒルにおいて二人の首領(しゅりょう)が梟首(きゅうしゅ)*にされ、三分の一は絞殺(こうさつ)されたとか、一七八三年のクリスマス頃に謀反(むほん)が発覚し、該当する九十九人に死刑の宣告があり、そのうちわずかに九人のみが刑を執行されたとか、血なまぐさいにおいに満たされている。専制的な総督の苛政(かせい)誅求(ちゅうきゅう)**のいかにひどかったか、原始的で野性的な性情を持った島民のいかに獰猛(どうもう)であったかをうかがい知ることができる。

* 梟首(きゅうしゅ): 斬首(ざんしゅ)し、その首を木などにさらして見せしめにすること。

** 苛政誅求(かせいちゅうきゅう): 苛政はきびしい政治、誅求は過酷な税金を取り立てること。
日本史でよく出てくる一揆(いっき)も原因は領主の「苛政誅求」であることが多い。

また同じ記録から同島の歴史の重大なるページを占める事件は、ナポレオンの配流と、ボア捕虜兵の抑留との二つであることがわかる。捕虜は合計四千六百余で、かの有名なボアの勇将(ゆうしょう)クロンジェルを含んだ五百の一隊を先発に続々と渡来し、デットウッドの収容所でテント生活を送ったが、彼らは島民と合同して商工業の施設に尽力し、現に西海岸の岩間の道路と岸壁も彼らが築いたとのことで、それは今も明らかに残っている。

一九〇〇年、勧業博覧会(かんぎょうはくらんかい)が島内で開かれたが、ボアの捕虜はこれにいろいろの細工物を出品して、木や金属や角類に対する彫刻とか、杖や宝石や、パイプに対する手工の卓越せる技能を示した。ぼくも柄(つか)に「StH1902」 (セントヘレナ、1902年)と銘のあるペーパーナイフを無理やり買わされた。

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