現代語訳『海のロマンス』41:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第41回)

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ヘレン嬢の信仰

アメリカという国は、イングランド人、スコットランド人、アイルランド人、ドイツ人、フランス人というように世界各国から集まってきている多民族国家だけに、宗教もまたすこぶる複雑で入り組んでいる。イスラム教や仏教やバラモン教はしばらくおき、キリスト教だけについて言っても、人口六万、周囲四里くらいの狭いサンディエゴ市のなかにさえ、ローマ・カトリックもあればプロテスタントもあり、後者だけでもピューリタンに長老会、ユニテリアンにメソジストとざっと十以上の宗派がある。なかには例の一夫多妻主義で名高いモルモン教の帰依者(きえしゃ)もあるらしい。頑固な日本でさえも信仰の自由は認められている。ましてや世界一の自由平等の国である。されば親と子が違った教会に行くくらいは平気なものである。

自分のところに先日「日本のガールは神の存在を認めるか云々(うんぬん)」と手紙をよこしたヘレンという十四になる女の子がある。この娘はローマ・カトリック教の信者で、例の父と子と聖霊との三位(さんみ)を認めている一方で、その母なる人はユニテリアン派の帰依者(きえしゃ)で、三位一体(さんみいったい)論を主張している。天を代表する父と、地の権化たる聖霊とによりキリストの特性は生まれ出でたものであるという説が、ミス・ヘレンが信じている説である。それのみならず、このお嬢さんはときどき大それたことを言う。日本人の信仰の大部分は祖先崇拝というが本当かと聞くから、そうだと答えると、それはおかしいと言う。なぜかと反問すると、祖先は愛慕(あいぼ)するもので崇拝(ワーシップ)するのもではないと、ませたことを言う。

最後の晩餐(ばんさん)にみずから弟子の足を洗った救い主の話や、磔(はりつけ)になった十字架上から異教徒の敵を許したペトロの事績をありがたそうに話すから、日本にも昔、光明皇后(こうみょうこうごう)という御后(おきさき)があって篤(あつ)く仏教に帰依(きい)され、四民平等という貴(たっと)い考えから、一日、ハンセン病者の膿(うみ)を吸いとっておやりになったと話したら、かわいい眼をみはって美しい貴女(グッドレディ)だと讃嘆した。

このヘレン嬢の案内で、ある日曜の午前にA街(エーストリート)のカトリック教会に行った。高いゴシック形の鐘塔(ベルタワー)と、カトリック式アーチ型の窓枠とは、日々練習船の上から眺めるとき、夕焼けに照らされて赤く燃えるように見える、おなじみの建物である。正門(フロントゲート)に濃い紫の陰影(かげ)を投げている胡椒(ペパーツリー)の木やゴムの木の葉をそよがせて、ゆったりした、調和的な諧調(メロディー)を有する鐘(ベル)の音がゆかしく善男善女の敬虔(けいけん)な心に響くころ、一人の聖童(アルターボーイ)が古風な長い棒の先で聖壇(アルター)を囲む百余の大キャンドルに一つ一つ点火していく。

入口でミス・ヘレンが講中の世話役風に待機している人に何事かささやいたと思ったら、「どうぞ、わが友よ」と、丁重に最前から二番目のベンチに導かれた。その好意に満ちた挨拶(あいさつ)に恐縮してふと見ると、一番前の列には、画や本でたびたびお目にかかるような品のよい尼さんが十人ばかり、黒紗(こくしゃ)で頭を包み、深い黒手袋に手をおおって粛然(しゅくぜん)と控えている。やがてパイプオルガンの響きとともに、会衆は一斉にひざまずく(ホリーニール)。歌の一節ごとに、言い合わせたように胸をうち額に十字を切る。旋風(つむじ)のように沈んだ堂内の空気を乱しそそのかすオルガンの高音(カントー)の合間に、尼さんの手の数珠がサラサラとゆかしい音を立てる。見渡すと、正面に三つの像を祭ったところがあって、半裸体の救い主(キリスト)と、いわゆる父と聖霊とみえる二人の男とが厳(おごそ)かに立っている。

聖書(バイブル)を手にしたヨハネの像を描いたアーチ式の雲母(きらら)の窓板を通して、朝の十一時ごろの明るい光線が青く赤く紫に、いろいろの縞(しま)をなして、堂内に流れこみ、左右に居並ぶ十人の聖童(アルターボーイ)の顔を美しく染める。永い永い御祈祷(おいのり)がすんだと思ったら、例の世話やきが白い粉をパラパラと群衆に振りかける。アーメンという感謝の声が起きる。

かくて数回のホリーニールと讃美歌との後、二人の聖童(アルターボーイ)が差し出す水と酒との二つの杯(さかづき)を受けとった僧正は、何か黙祷(もくとう)した後、ガブリと二つの液を飲んでしまった。仏様にお茶をさしあげる日本のとは少し違うようである。聖油(せいゆ)のいただきが終わり、一人の聖童(アルターボーイ)の讃美歌の独唱(ソロ)が終わり、僧正の長いご説教が終わって、ようやく放免となった。

ヤレヤレと肩の凝(こ)りをさすりつつ「神の御前(みまえ)に近づく」の讃美歌に歩調を合わせる群衆にまじって教会を出る。左の方にあった磔(はりつけ)になって殺された後の救い主(キリスト)を抱いて慟哭(どうこく)するマリヤの像と、右の方にあった十字架にはりつけになった救い主(キリスト)の像が人目を惹く。銘板に書かれていた「主はまず隣人に食をせんしたまえり」という言葉と、一人の聖童(アルターボーイ)がメキシコ人であったことを考えながら歩いていると、「どう思うか」とヘレンが聞く。「ありがたい。しかし、長い」と言ったら、まあといったような表情をしていた。

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