海のロマンス 4

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

著者が乗船した帆船、大成丸

  • 四本マストのバーク型帆船
    ・総トン数:2439.97トン
    ・全長:277フィート(約92メートル)
    ・幅:43フィート(約14メートル)
    ・喫水:24フィート(約8メートル)
    ・総帆面積:27000平方フィート(約3000平方メートル)
    ・乗組員数:178人

第一章  さらば富士山

出帆前後

帆船乗りたちは、白い船体と高いマストを持っている練習船・大成丸を「花魁(おいらん)船」と呼び、品よく並んだ細いヤードを「かんざし」と言っている。
「越中島の子供」たちが喜んでうたう歌に

沖のカモメと商船校の生徒
どこのいずこで果てるやら

というのがある。

波に生まれて波に死ぬのは、あながち海のカモメばかりではあるまい。流れ藻に三月の春を知り、潮の香に錦繍(きんしゅう)の秋を知る、世の中で最も「男らしい生業」だと歌われている船乗りは、居住する場所すら定めていないカモメの、何ものにも拘束されることのない生活をこい願っている。

「カモメ」こそは、本当に「花魁(おいらん)船」にふさわしく、やさしい名前だ。花魁(おいらん)船は、今は多くの「カモメ」が群れつどい化粧したようになっている。

四百日余、四万海里の大航海の準備はすべて終え、大成丸は静かに品川埠頭に浮かび、
「さらば!」とばかりにほとばしる叫び声と、振られるハンカチと、輝くパラソルとを待つのみとなった。

今宵(こよい)は月もおぼろで、海風が涼しく、静かで心地よい夜だ。一人黙々と船首楼に立って、心ひそかに、一年半の後でなければ再び上陸できないわが品川に最後の別れを告げる。今宵に限って、とりわけて赤い品川の港の灯火と、とりわけて青黒い大盛りの山の影とを見つめていれば、知らず知らず熱い涙が目の縁を伝わってくる。

さらば情趣ある灯火の港、品川よ
さらば常に緑かぐわしき大森の松よ

そうして最後に、素朴なる品川の名物船頭、猪(い)のさんよ、

さらば、さらば、さらば!!

こうして「感慨の夜」は明け、はるか三海里の遠方から三百人の「越中島の子供」が、大成丸を見送るべくやってきた。十四隻のボートからあふれ出る大声の挨拶と、「ボンボヤージ」の歓声とに送られて、練習船・大成丸は七月六日午後二時半、、品川の海で抜錨し、同五時に無事に横浜に着いた。

ヨーロッパをカヌーで旅する 13

ジョン・マクレガー著

夏の航海計画を立てるのは楽しい。ブラッドショーの海外鉄道ガイドに読みふけるのは六月とか七月だ。このガイド本には他にも有益な情報は掲載されているのだろうが、どこへ行こうかと思案しつつ、ぼくは自分に興味のある「蒸気船と鉄道」のページだけを何度も読み返した。

こうした楽しみはすべて、次のような質問に対する答えが自分のなかできちんと出ているかにかかっている。気分転換したいのか、ゆっくりのんびり過ごしたいのか? 休息のために出かけていくのか、保養のためなのか、はたまた精力的に動きまわって夏を存分に楽しみたいのか?

とはいえ、誤りのないことでも有名なブラッドショーのガイド本にも、ぼくがカヌーについて知りたいと思っていることに対する答えは載っていなかった。自分で持ち運ぶボートについての旅行ガイドなんて、どこにも存在していないからだ。だから、どうしようかという悩みについては、フライバーグですぐに決着がついた。とにかく「ドナウ川の源流まで行ってみよう」と、単純明快に決心したのだ。

で、翌朝にはもうカヌーを荷車に載せ、例によってグレーの服を着用し、埃っぽいヘレンタールの通りを歩いていた。そのときのぼくは、体調もよく意気軒高で、うきうきと心も軽く、はつらつとして明確な目標も持っていたが、具体的に何をすべきか、何を見るべきか、誰に会うべきかわからないという状態なのだった。これをどう表現したらいいのだろう? こういうときには、とにかくうれしくて、簡単に「感謝の念に満ちた!」状態でいることはできる。

あれこれ思案しながら数マイルほど歩いていくと、イギリス人を満載した馬車が追いこしていった。やがて彼らとも道連れになった。外国でのイギリス人の評判は「他人行儀で、無口で、尊大で、陰気で、信用できない」だ! ぼくに言わせれば、それはとんでもない誤解だ。 非常に美しい深い峡谷を通っていく間ずっと、連れの女性たちはぼくのような者でもちゃんと相手をしてくれたし、ヘレンタール峠をこえるときは、荷車に載せたカヌーがぼくらの後ろからちゃんと運ばれてくるようにしてくれた。旅行者は汽車でスイスに向かうので、フライバーグの尖塔を車窓から眺めて感心する人は多い。が、この峠まで足を運ぶ人はめったにいない。

黒い森という意味のシュワルツワルトがスイスへの入口になっている。森林や岩場が多くて不気味な場所だが、立派な道路が通っているし、ちゃんとした宿もあちこちにあった。村は森の中にあった。一軒おきに製材工場があるのではというくらい、せわしなく活力に満ちた音が響いてくるが、それにカッタンコットンと水車のまわる音がまじって、なんとものどかな感じだ。観光客が景色を眺めに来るのはそこまでだ。さらに進むと、暗い色をした大海原のような壮大な山岳地帯が広がっていた。家々は大きくなる一方で、その数は減っていく。ほぼすべての建物の脇に小さな礼拝堂があり、聖人の等身大の木像が破風の端に取りつけられていた。ある夜、ぼくはこうした巨大な建物の一つに泊まった。使用人やら農作業を終えた連中が戻ってくると、その半数はなかば歌うような調子で、小さな声だが節をつけて祈りを唱え、それから大盛りの夕食に挑むのだった。

馬車はさらにけわしい山岳地帯を登っていった。どちらの側も山に囲まれた渓谷の盆地のようなところで、頭上には巨大な老木がそびえている。こうした巨木はいずれ切り倒され、ストラスブールで見るような大きなイカダの一つに載せられてライン川を流れ下っていくのだろう。

ライン川のイカダは有名だからこまかい説明は省くが、広い水面に丸太が延々とつらなって浮かび、その上に小屋が立ち並び、陽気なイカダ師たちが大挙して乗っている。連結させた長大なイカダを操作しながら流すには五百人もの人手が必要で、その材木の値は三万フランにもなるという。

この峠の一番高いところが分水嶺だった。スイスのバールに宿をとり、カヌーも安全に保管してもらえるようにしておいてから、ぼくはカヌーを浮かべられる流れを探すため徒歩で遠くまで見てまわった。

ヨーロッパをカヌーで旅する 12

ジョン・マクレガー著

天気はまたすぐによくなって楽しくなった。というか、カヌーって狩猟もできるんだって感じになってきた。というのも、いかにもここは俺の縄張りだぞといいたげな野生のカモが浮かんでいたし、浅瀬を歩いていたサギは、ぼくらが近づくと、こわいこわいという風に遠ざかっていったりしたからだ。それで、相棒は銃を構えた。ぼくは猟犬になったつもりで、川の反対側からこっそり忍び寄り、パドルで獲物を指すという遊びをやったりした。

この遊びに、ちょっと夢中になりすぎてしまった。相棒の伯爵は岸に上がり、土手で腹ばいになった。ぼくらを小馬鹿にしている鳥の方へと前進していく。彼の射撃の腕は一流で、ウインブルドンの大会でも実証済みなのだが、いかんせん短銃でサギを撃つのは簡単ではなかった。

影が長く伸びてくると、この単調な川も美しく見えてきた。夕方、人気のないプールで水浴びをし、泳ぎ疲れるとまじりけのない黄色の砂場で横になって休んだ。ハーナウで宿泊することにした。

翌日のマイン川の川下りについては、とにかく楽しかったことだけは覚えているが、最後に大きな城に着いたことを除いて、ほとんど記憶がない。城のある場所で、一隻の船が停泊していた。明らかにイギリスのものだった。その船についてあれこれ探っていると、一人の男が皇太子の船だと教えてくれた。しかも、「いまバルコニーから君たちをご覧になっているよ」と言うのだ。ここはルンペンハイムにあるケンブリッジ公爵夫人の城で、フェリーを下車した四頭立ての馬車が、皇太子夫妻をこの川辺の城へとお連れしたところなのだった。そこからフランクフルトまでは、西の強風が吹いたので、必死でパドルを漕いだ。ルシーという宿で濡れた服を乾かした。ヨーロッパで最高級のホテルの一つだ。

翌日、フランクフルトのボート乗りたちは、イギリスからやってきたぼくらのカヌーが川を軽々と進んでいく様子に驚いていた。風を受けて川を飛ぶようにさかのぼったり、「地面が濡れているだけ」の浅瀬では、パドルを漕いで向きを自在に変えた。二人とも楽しいからカヌーに乗っているのだったし、カヌーに乗ってしまえば体重は関係ない。もっとも、ぼくらの乗っているカヌーには、二人一緒に乗って快適に漕げるだけのスペースはなかった4

原注4
ロイヤル・カヌー・クラブには、何隻か「二人用」カヌーがある。各艇に二人の漕ぎ手が乗るので、非常に速い。最近ではクラブは毎年のように、各艇に四人を乗せ、ダブルパドル*1を使ったレースも行っている。オークやヒマラヤスギやパイン材で作ったカヌー以外にも、皮や帆布、ブリキ、紙、天然ゴム製のカヌーも所有している。


脚注
*1:ダブルパドル - 両端に水をかく平たいブレードがついているパドル。ダブルブレードパドルとも呼ぶ。
カナディアンカヌーのようにデッキがないカヌーでは、片側のみのシングルブレードパドルを使うのが一般的で、その場合、一本のパドルを持ち替えて両舷を交互に漕ぐ。

日曜日、例のやんごとなき高貴な方々がフランクフルトにある英国国教会の教会に来場された。他の聴衆と同じように歩いて礼拝堂から出てこられたが、静かで上品なやり方で、派手な行進なんかするより親しみが持てた。

厳粛な場では、シンプルに徹することが真の威厳につながる。

その翌日、とにかく行動的で陽気な相棒は、ぼくと別れて帰国することになっていた。ウインブルドンではその腕前で年間最優秀賞を獲得していたのだが、彼はウインブルドンでの二週間の射撃練習だけでは満足していなかった。沼地や草地での狩猟の予定が詰まっていて、それとは別に仕事でも故国にいる必要があったためだ。相棒はライン川をケルンまで漕ぎ下った。途中で何度か、全速力で進んでいる蒸気船にロープのフックを引っかけてカヌーを引っ張らせるという離れ業を演じて見せたりもした5

原注5
アバディーン伯爵は、後年、ある帆船に乗っていて溺死した。卿の兄弟の故ジェームズ・ゴードン氏はプロのカヌーイストで、ロブ・ロイ・カヌーに乗って英国海峡を横断した最初の人である。現在の伯爵もロイヤル・カヌークラブの会員であり、物故されたがフランスの王位継承者だった方もこのクラブに所属し、四隻のカヌーを所有されていた。協会の会長は英国皇太子である。

一方、ぼくは自分のカヌーを鉄道でフライバーグまで運んだ。そこから、まったく新しい航海を始めるのだ。というのも、ここまでは知っている川だったが、ここから先は、ロブ・ロイ・カヌーでは未知の水域を漕ぐことになる。

海のロマンス 3 ルート&目次

海のロマンスの航海したルートと目次です。

世界周航の航海ルート

航海ルート_01

目 次

さらば富士山
     出帆前後
     砂とりと水泳
     練習生の船内生活
     水夫長と木工
 美しきサンゴの墓
     さらば富士山
帆船のロマンス
     総帆をひらいて
     船中の音楽と雌猫
     風下当番、舵手、見張り
     草の枕も結ばねば
     カツオ釣り
     霧中号角(むちゅうごうかく)
     陣風(じんぷう)
     ああ七月三十日
     帆つくろい
     七檎七縦(しちきんしちしょう)の妙計
     無線電信
     水の上で水の苦労
     小さきホーム
     人食い魚きたる
     海洋の変化
     けたたましき警鐘
     有人情と非人情
アンクルサムと彼の郷土
     サンディエゴ入港
     手紙とミカン
     お世辞しばり
     サンディエゴの名物
     船長、船に帰らず
     先帝をしのびたてまつる
     山田運転士の客死
     欣葬遙拝式(きんそうようはいしき)
     都市の飾り人形
     海軍士官の逃亡
     アメリカ女
     仮面の使人
     うぬぼれ挑発策
     ヘレン嬢の信仰
     邦人の懐郷病
     闘牛見物
     湖畔行き
     ミセス・ホラハン
     グラスカッター
     ローマランドの一日
     ラモナの話
     世界一のテントシティー
     サンディエゴ出帆
百十七日陸を見ず
     沿岸風帯より貿易風帯へ
     無風帯
     アホウドリを釣る
     赤道通過
     島物語
     咆哮(ほうこう)緯度   
     クリスマスイブ
     餅つき
     氷山の見張り
     南極の元旦
     海上の墓場
     ケープホーンからケープタウンへ
南アの南端
     ケープタウン入港の第一印象
     ロンドン行き中止
     予定航路の変更
     しゃくにさわるケープタウン
     テーブルマウンテン
     連邦下院参観
     やかましい選挙法案
     フルーツカー(セシルローズを思う)
     ケープタウン雑記
セントヘレナ
     セントヘレナまで
     五十年前の追憶
     物語の島
     奈良の妹から
     その土を踏んで
     南海の巨人
     セントヘレナ奪取法
     ミセス・ブリッチャー
     おそろしきローラー
     とり残された孤島
     ナポレオンの墓
     ロングウッドの館
     ナポレオン臨終の室
     館を振り返って
     ああ、ボナパルト将軍
     花雫せよ、沈黙の谷
     セントヘレナの決別
鹿と亀とカメレオン
     寂漠をなぐさめてくれる花と動物
     上甲板の鹿
     カメレオンの独り言
     荷物倉の亀
     南大西洋のサメ釣り
南米の美都
     世界三景の一
     港口の怪具足
     蛍貌の韻、訣舌の調べ
     雨のサンパウロ
     埠頭の浮浪者
     リオデジャネイロの美観
     オピドールのカフェ
     白川大路の美人
     美術館のまがい物
     活動写真と国民性
     富くじ合衆国
     事前救済の設備
     リオ市民の特性
     ペトロポリス行
     あわれテラノバ
     プレジデントメーカー
     下院議員の日給
     南米に向いている商品
     三十二億円の借金
     ブラジルは移民を欲す
惨憺たる航海を続けて
     南大西洋の秋
     時化(しけ)物語
     おそろしい一夜
     陣風と虹
     喜望峰付近の天候
     級友二人を失う
     フリーマントル
南洋より故国へ
     南洋の日没美
     美しい果実がみのる南洋の島
     赤道をこえて
     ほほえみて泣く
     あれ芙蓉峰が
     鏡ヶ浦の抱擁
     帰山の途
     土産話

海のロマンス 2

米窪太刀雄(よねくぼたちお)著

[著者 はしがき の続き]

   (三)

 『海のロマンス』には、これぞと思う取り柄(とりえ)がない。

 ただあるとすれば、米の値段を知らない風来坊が、浮き世となんら関係のない極端な非人情のことを長々とのんきに書きまくった、その気楽さを味わうくらいである。二つの世紀と三つの内閣とを送迎した日本の「陸の人」から見れば、実にふざけた戯言(たわごと)であるかもしれない。しかし、僕はこれが『海のロマンス』の取り柄であると思う。読む人が、うらやましくて、ついよだれがという、そういう境遇ではあると思う。

百二十日、ほぼ四ヶ月の間、口から空気と麦飯とを放り込んで、手にブレースたこ*1をこしらえる以外に、浮き世の規範も情実も義理もヘチマも度外視した無刺激な生活!! 金の「か」の字も心頭にのぼってこない気楽な生活!! いまから考えてみると、こんな月日は二度と世界のどこにも、一生涯のどこにもあるまいと思う。

   (四)

東西の両朝日新聞*2に掲げられた断片的な『周航記』が一つのまとまった『海のロマンス』となったのは、まったく先輩の薄井秀一氏の友情ある犠牲的努力によるので、十月十八日に下船して、さらに十一月十六日に横須賀の砲術学校に派遣される……などと大騒ぎにせわしなかった自分のみであったならば、とうていこんな単行本はできなかったことと、心より感謝の念を捧げる。

   (五)

また、この機会を利用して、序文をくださった夏目漱石先生、渋川玄耳(しぶかわげんじ)先生、鳥居素川(とりいそせん)先生、杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)先生に甚大なる謝意を表する*3。

横須賀楠ケ浦寄宿舎において

米窪太刀雄(よねくぼたちお)

大正三年一月中旬

脚注
*1 ブレースたこ: 帆船で横帆をつるす帆桁(ほげた)をヤードと呼び、ブレースはその両端につけたロープを指す。
このブレース(ロープ)を引いて帆の角度を調節するため、手にたこができる。


*2 東西の両朝日新聞: 明治12年(1879年)に大阪朝日新聞が創刊され、その後、東京にも進出して東京朝日新聞が発行された。両者が「朝日新聞」として統合されたのは昭和15年(1940年)。


*3 序文: 連載1で、漱石の序文のみをご紹介しましたが、渋川、鳥居、杉村の三氏も当時の著名人で、序文を書いています。
この三氏の序文は、連載の最後に掲載する予定です。

ヨーロッパをカヌーで旅する 11

ジョン・マクレガー著

一日が長く、しかも楽しかった。とはいえ、何度か、にわか雨に降られた。あわやというところで土手に乗り上げたり、竹製のマストが折れたりもした。帆が垂れ下がってしまい、突風で傘が逆さになったみたいに、みっともなかったりもした。こんな状況ではあったが、心配は何もしていなかった。ケガもしていないし、文句をいうことでもない。ぼくは庭師のところに行って、マストの代用になる、もっと強いものを手に入れてきた。タチアオイの支柱として使われたりする、緑色に塗った長い棒だ。これは今度の航海で最後まで持ってくれたし、折れた竹は帆の下縁を張るブームに作り直した。

アバディーン伯爵は次に下る予定のナーエ川を下見に出かけたが、結果はあまりかんばしいものではなかった。ぼくも試験的に河口から漕いでさかのぼってみたが、非常に水深が浅かった。

汽船で別の場所に行こうという意見には同意するしかなかった。ぼくは重力という普遍的な原則を尊重し、それには逆らわないようにしているので、カヌーの旅で地球を味方にするには、川をさかのぼるよりは下る方がずっといいというわけだ。蒸気船や馬や人力を活用してカヌーを川の上流へと運び、重力の助けを借りて川を漕ぎ下るのが賢明なやり方だ。

相棒がイギリスに戻らなければならない期日が迫っていたので、ぼくらはマイエンヌまで行ってから、汽車でマイン川が流れているアシャッフェンブルクに向かった。カヌーを貨車で運搬する際には、例によって一悶着あった。エクス・ラ・シャペルのときのように、寛大な対応をしてくれる救世主みたいな人物は出現しなかった。小うるさい手荷物係と支払いの件で交渉した。ちょっとした悪気のない嘘もついたが、今回の航海でそんなことをしたのはこのときだけだ。

鉄道で乗り合わせた乗客の一人がぼくらの旅に非常に興味を抱いてくれた。ぼくらは事細かに説明した。後でわかったことだが、相手は、ぼくらが「二つの小さなキャノン(cannons)」を伴って旅をしているのだと思い込んでいた。フランス語の小舟(canots)をカノン(Canons)と聞き違え、さらに大砲という意味もあるキャノンだと思い違いしていたのだ。で、そのキャノンとは何だということで、彼はキャノンなるものの長さと重さについても聞いてきた。ぼくらの「キャノン」は長さが「十五フィート」(約4.5メートル)で重さは80ポンド(約32キロ)、しかも、そのキャノンを売るためではなく好きで運んでいるのだと聞いても平然としていた。ぼくらはキリンを運んでいるんですよといっても、彼は少しも驚かなかっただろう。

アシャッフェンブルクという、この長い名前を持つドイツの町の宿屋に宿泊していた客たちは、丁重な受け答えながらも大きな関心を寄せてくれたので、ぼくらとしても嬉しかった。ぼくらは二人ともカヌーに乗るときは灰色のフランネル地の服を着用するのだが、これが彼らをひどく驚かせたようだ。こういう服装についてびっくりされたり、なぜこんな旅をしているのか、どこへいくのかなどと聞かれるのは、海外でカヌーを漕いでいると日常茶飯事だ。

マイン川でカヌーを漕ぐこと自体に問題はなかったが、景色は可もなく不可もなくといったところだった。いい風が吹くと、ぼくらは帆を揚げ、カヌーをヨットのように帆走させようと苦心して時間を無駄にした。川では、追い風でない限り、そううまくいくものではない。う雨が激しくなってきたので、ランチタイムということにして、ぼくらはとある宿屋の一部になっている殺風景な離れのようなところに逃げ込んで昼食をとった。そこには古くなった黒パンと生のベーコンしかなかった。ずぶ濡れになって、この粗末な食事をとっている間も、風は音をたてて吹きつのり、雨音も激しくなった。ぼくらはレインコートを着たまま寒さに震えた。今度の旅でこんなひどい目にあったのは、このときだけだ。この贅沢な旅で、これほど過酷な状況というのは他になかった。

新連載 現代語訳『海のロマンス』開始

今年はじめの新連載として、口語訳『海のロマンス』(米窪太刀雄著)をお届けします。

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この本は、商船学校の学生だった米窪太刀雄(よねくぼたちお)が商船学校の練習船・大成丸に乗船し、二年間をかけて世界一周したときの航海記です。

これはまず朝日新聞に連載され、夏目漱石が激賞したこともあって、出版されるやベストセラーになりました。

とはいえ、賞賛すると同時に、漱石は自分が『吾輩は猫である』を書いたときの文章に似て作者が悪達者にも思えるので、あまり「玄人っぽくなりすぎないように」と親身な忠告も与えています。

著者の簡単な紹介は末尾に記載します。
まずは、夏目漱石の愛情あふれる序文からお読みください。

口語訳『海のロマンス』  1

米窪太刀雄 著

序文
 あなたの回航日記は、海を知らない人にとって、興味の深いものであります。また有益なものであります。私は『海のロマンス』という表題の下にこの回航日記が公にされるのを喜んでおります。

 概していうと、文筆は陸の仕事です。陸にいて海を書くコンラッドのような人はありますが、船にいて海の生活をその日その日に写していった人はあまりないと思います。それも暇のある人が道楽にならやれるかもしれませんが、あなたのように練習に忙しい身で、朝夕仕事に追いかけられながら、疲れた手にペンを持つことを毎日忘れずに何百日もやりとおすということは、とうていできる業ではありますまい。この点において、あなたの文章は他の人のそれよりもはるかに骨の折れた努力を示しています。この点において、たしかに世間に紹介される価値があると思います。

 あなたは普通の人にできないことをなすったのです。おかげで普通の人に知れないことを公にする機会を得たのです。今度の帆走は約四百日で三万六千海里(約6万4千キロ、地球を一周半できる距離)を走ったのだそうですが、この未曾有の回航中に含まれている暴雨だの時化(しけ)だの、波の山だの、雲の塊だの、陸では百年たっても見ることのできないものが、ただあなたの忍耐で握られたペンの先からのみ湧いて出たとすれば、あなたも嬉しいでしょう。陸にいるものも嬉しいのです。島国と名はついていても海の生活を知らない日本人はいくらでもいます。知らないで知りたがっている人もたくさんあります。あなたは、そういう人にケープタウンや、リオ・デ・ジャネイロやフリーマントルから、よい土産を携えて帰ってきたといわなければなりません。

 あなたの文章は才筆です。少しのよどみもなく、お手際はほとんど素人(しろうと)らしくありません。よくあの忙しい練習船のうちで、このくらいに念入りの文章が書けるかと思うと感服せずにはいられません。しかし、そこにあなたの弱点の潜んでいることを忘れてはなりません。あなたの筆は達者すぎます。あなたは才にまかせて書きすぎました。素人らしくないと同時に、少し玄人(くろうと)くさくなりました。私はあなたの文を読んで、なにゆえ延ばす一方にのみ走らないで、縮める工夫に少し頭を使わなかったかを遺憾に思うのです。あなたの文章は、私がむかし書いたものの系統をどこかに引いています。それが、私にはなおさら辛いのです。人の文章が自分の文章の悪いところに似ている。私にとって、これほど面目のないことはありません。私は「猫」を書いて何遍か後悔しました。そうして、その後悔の過半は「猫」らしい文を読んだときに起こったのです。あなたが私の文章を真似たといっては失礼です。しかし、私の文章の悪いところがあなたの文章にもあるということは疑いもない事実です。私はその後、自分の非を改めたつもりです。あなたも今度第二の『海のロマンス』を書くときには、どうぞ私の忠告を利用して、素人離れのした、しかも玄人じみない筆づかいで純粋なものを書いてください。

大正二年十二月二十日

夏目漱石

太刀雄 様

はしがき

(1)

今年の秋十月、ともかくも無事「世界周航」なるものをすまして帰朝したとき、一人の男がたずねて、
「君はあんなものを書いたが、いったい船乗り生活が面白いのか」と。
たずねた男の鋭い眼光には「やせ我慢はゆるさないぞ」という閃きがあった。

ぼくは当惑した。大いに当惑したぼくは、
「いや大いに不平がある」を答えざるをえなんだ。
そうして黙っていればよいのに、生意気にも、
「船乗りは嫌いだが、海洋(うみ)は好きだ。人間は嫌いだが自然は好きだ。白いきれいな雲の往来と赤い雄々しい太陽の出没とを眺めくらして、蒼茫(そうぼう)たる大洋(うみ)の真ん中に首だけ出して見ていたい」
などと古くさいことを長々と付け足した。

こしゃくな! とばかりに、その男はカラカラと笑った。口が干上がるのをおそれながらも、なおデイドリームにあこがれエヤキャッスルを築く*1笑止な男だと心ひそかに笑ったのか、嘘をつけ、いまの船乗りの意識と情操とを濾過(ろか)してくる海洋(うみ)の景象に、海のロマンスというべきものがあるのかと笑ったのか、いまだにそれはわからない。

このはしがきを読んで、その男は今頃どこやらで、またはカラカラと声高く笑っているだろう。その笑い声を聞きたいようでもあり、また聞きたくないようでもある。

(2)

『海のロマンス』は、商船学校練習船大成丸乗り組みの一学生が、明治四十五年七月から大正二年十月にわたる十五ヶ月、三万六千海里の大航海の間に、感じたこと、見たこと、聞いたことを、船務の余暇にそこはかとなく書きつづったものである。
その昔ただ海洋美とか、雲濤美(うんとうび)とか、または海洋精気(オーシャンスピリット)とかにあこがれて美しい着物を着て喜ぶ小児のようにただわけもなく、うっかり入校したその男は、船乗り生活の苦しいつらい非情緒的現実的の将来を覚知すると同時にそろそろ不平や悲観や失望を味わうようになった。

この心理は彼が練習船の人となって二年間の海上生活を送るようになったときに至るまで、この正直な男の頭脳(あたま)を悩まし、心にたたった。

このとき、この男の手元へ一本の手紙がとびこんだ……船乗りは最も男らしい生業だとか……今度の航海は空前無比の世界的大航海だとか……いろいろの扇動的辞令があった。

「正直な男」は首をかしげて「なるほど、そんなものかなあ」とつぶやいた。そんなに偉い生業なら悲観するにもあたらない。そんなに偉い航海なら、こいつを一つ新聞に書いてさらにほめられてやろうとと決心した。

『周航記』が東京朝日に現れたのは、こんなつまらぬ動機からである。
「彼」とか「その男」とかいうのは、かく申す拙者(せっしゃ)である。

———————-
脚注
*1: デイドリームは白日夢や空想、エヤキャッスルは空中楼閣を意味する英語で、いずれも現実離れをしているという意味が込められています。作者はしきりに横文字を使いますが、よくいえば血気盛んな若者の意気込みの表れ、悪くいえば漱石のいう「達者すぎる/才にまかせて書きすぎる」ことにつながるのかもしれません。

米窪太刀雄(よねくぼたちお): 本名 米窪満亮(よねくぼ みつすけ)
1888年(明治21年)~1951年((昭和26年) 労働運動家で政治家
長野県生まれ。東京高等商船学校(東京海洋大学)卒業。在学中、訓練航海について書いた『大成丸世界周遊記』が朝日新聞に連載され、『海のロマンス』として単行本化されベストセラーに。日本郵船に入社。船長等を経て、船舶業務に従事する者の待遇改善運動から政治の世界へ。労働省の初代労働大臣。

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著作権について
2018年12月30日に環太平洋連携協定(TPP)が発効したことにより、日本の著作権保護期間は50年から70年に延長されました。

単純に考えると、「保護期間の50年は経過しているが、まだ70年にはなっていない2018年12月30日より前に著作権が切れていた」著作物はどうなるのかが問題になりますね。

有名な青空文庫などでは、半数近くがこれに該当するので注目されていましたが、結局、

この保護期間延長は、TPP11の発効日以降に50年の保護期間が切れる著作物にのみ適用され、発効日前にすでに著作権が切れていた著作物の「権利が復活することはない」ようです。

ヨーロッパをカヌーで旅する 10

ジョン・マクレガー著

翌日、乗客の荷物だとはっきりわかるようにカヌーを台車に載せて鉄道の駅まで運び、理をつくしてカヌーが手荷物であることを証明しようとしたが、ポーターたちは頑強にそれを認めようとはしなかった。が、一瞬にして、彼らの態度が一変した。理由はわからないが、あわててぼくらのところにやってくると、放置されていた二隻の「ボート」をひっとらえて貨物車まで大急ぎで運び、中に押し込んで扉をバタンと閉めた。汽笛が鳴り、汽車が動き出した――「連中が突然なぜ折れたのかわかるかい?」と、一人のオランダ人がきいた。彼は英語が話せた。「いや、まったくわかりません」と、ぼくらは答えた。「君らが英国首相の息子とラッセル卿の息子だぞと言ってやったのさ、私がね」

だが、鉄道での相手の対応は、エクス・ラ・シャペル(ドイツ語ではアーヘン)でまた元に戻ってしまった。ぼくらはなんとか説得しようとしたが、今度はこっちが折れるしかなくて、カヌーは「交易品」扱いにされてしまった。夜中にゆっくり運ばれて、「たぶん明日」には到着するだろうというわけだ。責任者だという男は、ぼくらのカヌーを自分の戦利品として分捕ろうとしているのではないかとすら思えたが、そいつが偉そうに声を張り上げているとき、乗客の荷物担当の「上司」が出てきて話を聞いてくれた。そうして、穏やかな口調で、ぼくらのために特別に覆いをつけた貨車を用意するよう命じてくれた。ドイツのケルンに着くと、貨物用の料金は「まったく支払う必要がなかった」3。

原注
*3: これは例外的なケースだ。イギリスに戻ってから、ぼくはその人にお礼状を書いた。こういう手荷物としての優遇措置がまた受けられると期待するのはもう無理だろう。カヌーを貨車に載せる場合、何かと扱いにくく場所もとるので、特別扱いには反対するのが当然だと思われている。フランスでは、鉄道の貨物車は他国の貨車より長さが短いし、関係者たちはカヌーは交易品と同じ扱いになると主張した。ここで述べたのは、ベルギーとオランダで起きたケースだ。ドイツでは、カヌーを手荷物として運ぶことについて問題はほとんど生じなかった。スイスでは、誰も異議をとなえなかった。だって、こいつイギリスからの旅行者だぜ、というわけだ。イギリスの鉄道関係者はどうかといえば、カヌーのような長尺で軽量の物品を好意的に判断してくれる人も多少はいて、カヌーを客車の屋根に載せて運んだりもできる。偉い人たちは、交易品としてカヌーに関税をかけても税収が増えるわけじゃないと思っていて、カヌーイストはポーターが運搬するときには必ず自分も手伝うので、手荷物か否かでトラブルが起きることは少ないだろう。カヌーを使ったこういう旅が現実に可能だと広く理解されるようになれば、いずれ各国の鉄道すべてで何らかの明確な規則が定められることになるだろう。結局、カヌーの旅は貨車で運んだりするため遅いものにならざるをえず、普通の交通機関を利用して観光して歩いたほうがずっと簡単ではある。

静かなところがいいと思って、ケルンでは対岸のドイツ地区にあるベルヴューホテルに行った。ある大きな合唱団体がそこでコンクールをやっていて、すばらしい歌や踊りが演じられていた。翌日の日曜日、この静かなはずのドイツ地区で、射撃祭が行われた。見事な腕前で射撃王に選ばれた男は、その妻とともにオープンカーならぬ幌のない馬車に乗ってパレードをした。二人とも正装して真鍮製の王冠をつけ、歓声を上げる群衆に会釈を返した。闇夜に青い光がきらめき、ロケット花火が打ち上げられた。

ケルンでは、アバディーン伯爵が蒸気船の切符を買いに行っている間に、カヌーを台車に乗せた。彼が前で引っぱり、ぼくは後ろから押して運んだ。川までの道すがら、みすぼらしい身なりの男につきまとわれた。荷物の運搬人として雇ってくれというのだ。断ると、ひどく腹を立てた。大きな石ころを拾い上げ、荷車の後を威嚇しながら追ってきた。あの石をカヌーにぶつけられでもしたら壊れるなと気が気じゃなかった。両手をカヌーから離すわけにもいかないので、近づかないよう足で蹴って遠ざけながら、小走りで急いだ。衛兵の一人がその様子を目撃していた。すぐに警官がそいつを捕まえ、ぼくのところに連れてきた。すると、そいつは怒るどころかガタガタ震えていた。「この辺では旅行者が被害にあってるんですよ」と、警官は処罰したそうな口ぶりだったが、ぼくは彼を罰しないようにと言った。この出来事について書いたのは、今度の航海でこういう目にあったのは、このときのたった一度だけだということを知ってもらいたいからだ。

ぼくらはカヌーを蒸気船に積みこみ、ライン川の川幅が広くなっているビンゲンまで運んだ。ここの景色はすばらしくて、ぼくらは川を存分に楽しんだ。絶好の風を受けて帆走したり、中洲に上陸したり、蒸気船の引き波を利用して波に乗って加速したりと、ヨットの航海にピクニック、それにボートレースをあわせて一度に楽しんだというわけだ。

ヨーロッパをカヌーで旅する 9

ジョン・マクレガー著

ライン川では、若者も少年たちもとても泳ぎが上手で、その多くは飛びこみもうまかった。ところどころに似たような構造の女性用プールもあった。水遊びするときは口数も多くなるので、そういうところでは、うるさいくらい元気な歓声が聞こえてきたりする。

川の近くにある駐屯地の兵士たちも規則正しく行進して水浴びに来ていたが、ある日、ぼくらは大勢の若い新兵が水浴びするために集まっているのを見た。

水につかっている者もいれば、射撃訓練で的を狙っている者もいた。的は三個あって、それぞれ厚紙でできていた。垂直に立てた板に取り付けてある。記録係は防弾用の盾で安全に保護されてはいたが、三つの的すべてがよく見えるように、的から非常に近いところに配置されていた。射撃する側は一人ずつ、それぞれの的に対峙して銃を撃つ。弾丸は厚紙を貫通して丸い穴を残し、弾丸自体は背後の地面にめりこんだ。掘り出してまた使うことができるわけだ。イギリスでは鉄製の的を使うので、弾丸は破裂して四方に散らばってしまい、記録係や周囲の人間にとっては危険きわまりない。

そんな感じで三人が射撃すると、太鼓と旗とラッパの合図で射撃がやむ。と、記録係が防弾用の盾から出てきて、それぞれの的にできた弾丸の痕を示し、紙を貼って穴をふさいだ。記録係が防弾盾の背後に戻ると、射撃が再開される。この安全な射撃訓練のやり方は、イギリスで最近まで軍隊の訓練で用いられていた方法に比べると、ずっとよかった。このフランス流の方法は、射撃の腕前がはっきり示されるという点でも非常に効果的だ。

川で、ある湾曲部を曲がると、牛の大軍が群れをなして川を渡ろうとしているところだった。ぼくはカヌーに乗ったまま、そのど真ん中に入り込んでしまい、牛が闖入者(ちんにゅうしゃ)にどのように反応をするのかを身をもって知るはめになった。ナイル川でカヌーを漕いだときに、朝や晩に黒い牡牛が川を泳いで渡るのを目撃したことがあるのだが、それは川から這(は)い出てくる「牝牛」についてエジプトの王が見た夢の一つを思い出させるものだった*1。創世記に出てくるこの逸話には子供心にも当惑したが、実際に川を渡る牛に遭遇してみると、そうおかしな話でもない。聖書は、牛が川を泳ぐということを明確に示した本でもある。真実は目ではっきり見たときに、より本当らしく思えてくるものなのだ。

夕方になって長い影ができるようになったころ、ぼくらはオランダのマーストリヒトの町の近くまでやって来た。ここには、ヨーロッパでも最も強固な要塞が築かれている。つまり、町は一世紀も前のアームストロング砲やホイットワース小銃に抗するため、まっすぐな高い壁に囲まれていた。

川は深くて流れは速かったが、暗くなってから近づいたのに、どこにも街の灯が見えなかった。林を抜けて、町の真ん中あたりまで来たはずだったが、家々の灯がどこにも見えないのだ。この町の家には窓がなく、明かりもつけず、ロウソクをともすことすらないのだろうか? そう、一つの明かりも見えないのだった!

川の両岸には巨大な高い壁が続いていた。右岸を調べたが門や港のようなものを見つけることはできず、この奇妙な場所の左岸沿いは崩れていた。

後でわかったのだが、交易や往来する船はすべて、そこからぐるっと回って、この古くて荒廃した要塞の上へと続く運河に向かうことになっていた。そのため、両岸の無愛想なレンガ造りの壁がぼくらを取り囲み、脇道にそれないようにしているわけだった。そのまま進んでいくと、闇の中で、頭上に橋がぼんやり見えてきた。そこに到着すると、橋の上にいたオランダの悪ガキどもが小石を雨あられと降らせて、ぼくらを歓迎してくれた。ヒマラヤスギの傷がつきやすいデッキの上で、小石は情け容赦なくぱらぱらと音を立てた。

ようやく壁をよじ登れそうな場所を見つけた。がれきが積み重なり、ちょっとした坂のようになっていて、そこには何もないのだが、そこからカヌーをなんとか堅固な要塞の上まで引き上げることができそうだった。そうやって、この眠ったような町にカヌーを運び入れた。門番がぼくら二人の顔をランプの光で照らし、いぶかしむように凝視したのも無理はない。灰色の服を着た二人のやせた男が運んでいるものは、二つの長い棺桶のように見えただろうから。門番氏は驚いていたが、話のわかる人で、ぼくらをホテルまで、暗くて人気のない通りを歩いて案内してくれた。

脚注
*1:  川から這(は)い出てくる牛 - エジプトの王(ファラオ)が繰り返し見たという、最初は丸々と太った牝牛七頭が、それからやせこけた牝牛七頭が川から出てきた夢のこと。
旧約聖書の創世記によれば、ユダヤ人の祖であるヤコブの子のヨセフが、その夢は「七年の豊作と七年の凶作が続く」ことを示す神のお告げだと預言したことから、ヨセフは王に重用され、イスラエル人をその後の飢饉から救うことになったとされる。