スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (50)

元の社会へ

それからの二日間の航海についてはほとんど覚えていないし、ノートにも何も書いてない。快適な風景の中を川は安定して流れていた。青い服を着た洗濯女たちや青いシャツを着た釣り師たちが川岸の緑に変化をつけていて、この二つの色は、忘れな草の青い花と葉のようだった。忘れな草のシンフォニー。フランスの詩人テオフィル・ゴーティエなら、この二日間に見えた景色をこう描写しただろう。空は青く、雲一つなかった。川は平原をゆるやかに流れていき、なめらかな川面には空や岸辺が映っていた。洗濯女たちが大きな声でぼくらに笑いかけ、ぼくらはといえば、川を下る間ずっと、寝ぼけまなこで、とりとめもなく物思いにふけったりしていたが、その間も木々のふれあう音や川の音は伴奏のように聞こえていた。

川はまさに大河の風格でとぎれることなく流れていて、そのことはずっと念頭にあった。ここまで来ると川も終着点も近く、十分に決意をかためた成人男子のように、力強く、そしてゆったりと流れていた。ル・アーブルの砂浜では、波が音をたてて岸辺に打ち寄せていた。

ぼくはといえば、バイオリンのケースのようなカヌーに乗って、この動く大通りのような大河を移動していきながら、海を待ち遠しく感じはじめていた。文明化された人間にとって、遅かれ早かれ、文明に戻りたいと思う時が来るものなのだ。ぼくはパドルを漕ぐのにも疲れたし、人の生活の周辺で生きていくというのにも飽きてきた。もう一度、実社会に戻りたいと思った。仕事につき、自分の言うことを理解してくれる人々と、好奇の対象としてではなく同じ条件の人間として、会ってみたいと思った。

そして、ポントアーズで受け取った一通の手紙で、ぼくらは旅を終える決心をし、雨のときも日光が輝いているときもずっとぼくらを楽しませてくれたオアーズ川からカヌーを引き上げたのだった。長い距離を航海し、ぼくらと運命を共にしてくれたが、別れはいつか来るものだ。ぼくらは実社会から離れたところを旅してきて、今やっとなじみのある場所に戻ってきた。ここでは、人生そのものが激しく動いていて、パドルを漕がなくても人生という冒険の渦中に否応なく投げだされてしまう、そういうおなじみの世界に戻ってきたのだ。劇中の航海者のように故郷に戻ってきて、運命によりぼくらの周囲がどう翻弄されたのか、家に戻るとどんな驚きが待っているのか、留守中に世の中がどれほど、そしてどんな風に変わったのかを知らされる。カヌーは日中はずっと漕いでいられるが、夜になれば自分の部屋に戻ることになるし、ストーブの脇で愛や死が待っていたりするのだ。最も美しい冒険とは、ぼくらが探し求めて出かけていった先にあるものではないのだ。

[了]

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『スティーヴンソンの欧州カヌー紀行』は今回で終了です。
次回からは米国の作家、スティーヴン・クレインの『オープン・ボート』(新訳)をお届けします。
これはジャーナリストだった著者が実際にフロリダ沖で体験した船の沈没と救命ボートでの脱出をもとにしたフィクションで、ヘミングウェイは小説志望者の必読書として、16冊の作品リストの冒頭にこの作品をあげています。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (48)

以前、セーヌ・エ・マルヌ県の宿に滞在していたとき、旅芸人の一行がその宿にやってきたことがあった。父親と母親、それに夫婦の娘二人と色の黒い若者で、娘の方はどちらも歌をうたったり芝居をしたりしたものの、これで舞台に立つとは厚かましいと思えるレベルで、若者の方はどこか教師のようでもあり生意気な塗装工のようでもあるといった感じだったが、歌も演技も悪くはなかった。こういうお粗末な旅芸人の一行に芸達者という言葉を使ってよいのであれば、一座で一番の芸達者は母親だった。興行主の父親は、おかしな田舎者をうまく演じている妻をどうほめてよいかわからず、ビールで赤くなった顔をしてうなづきながら「ま、ご覧になってください」とだけ述べた。ある夜のこと、彼らは厩舎前の庭にランプをともして上演を行った。ひどく出来の悪い出し物で、村の観客たちも冷ややかに眺めていた。翌晩はランプが点灯されるとすぐに雨が激しく降ってきたので、彼らは大急ぎで荷物を片づけ、寝泊まりしていた納屋に避難しなければならなかった。体は冷え切り、びしょ濡れで、晩飯も抜きになってしまった。朝になり、ぼくと同じように旅芸人に好感を持っている親しい友人が連中をなぐさめようと少しばかりカンパを集めてきたので、ぼくが連中のところへ持っていくことになった。その金を父親に渡すと、彼は丁重に礼を述べ、台所で一緒にコーヒーを飲みながら、道路や観客について、また景気が悪いことなどについて話をした。

ぼくが戻ろうとすると、その旅芸人の親父は立ち上がって帽子を脱いだ。「すいません」と彼は言った。「ずうずうしいと思われるかもしれませんが、もう一つお願いがあるんです」 ぼくはとたんにうんざりしかけた。が、彼は「私らは今夜も公演をするんです」と語を継いだ。「もちろん、あなたやお友達からお金はいただきません。もう十分いただきましたからね。でも、今夜の出し物は本当にいいものなんです。あなた方に来ていただけると信じていますよ」 それから、肩をすくめて笑った。「おわかりでしょうけど、これも芸術家の見栄ってやつです!」 これだ! 芸術家の見栄! ぼくが人生についてそれほど捨てたものではないと感じるのは、こういうことがあるからだ。くたびれた服を着て、酒をちびちび飲んでいる、能なしの放浪者にも見えるような人間が、こうやって紳士然としてふるまい、芸術家としての見栄や矜持を持っているのだ。

とはいえ、この人よりもぼくの印象に残っている人がいるのだが、ヴォーヴェルサン氏という。最初に会ったのは二年ほど前だが、ぼくとしては、これからもまた再会できればと本気で願っている。ここで彼の最初の出し物を紹介しておこう。このプログラムは朝食のテーブルに配ってあったもので、楽しかった日々の思い出としてとっておいたのだ。

皆様
マドモアゼル・フェラリオとデヴォーヴェルサン氏が今夜歌う曲目をご紹介します。

マドモアゼル・フェラリオの歌う曲は「ミニオン」「小鳥」「フランス」「フランス人が眠っている」「青い城」「どこへ行きたいの?」です。

デヴォーヴェルサン氏の歌う曲は「マダム・フォンテーヌとロビネット氏」「馬に乗って」「不幸な夫」「おだまり、子供たち」「ちょっと変わった私の隣人」「このような幸せ」「私たちは間違っている」です。

彼らは食堂の隅にしつらえられた舞台で公演を行った。口に葉巻をくわえたデヴォーヴェルサン氏がギターをかき鳴らし、従順で忠実な犬のように、マドモアゼル・フェラリオから目を離さない様子は見ものだった! 公演の最後にトムボラという福引券を賭けた一種のビンゴゲームのような競売が行われた。ギャンブルの刺激すべてが織りこまれているが、夢中になったからといって恥ずかしいわけではないという、娯楽としては申し分のないものだった。というのも、皆が負けるのだ。デヴォーヴェルサン氏とマドモアゼル・フェラリオのために皆がポケットを探ってお金を出し、それを失うのを競いあうのである。

デヴォーヴェルサン氏は小柄で、黒々と豊かな髪をして、愛想がよく魅力的な雰囲気をまとっていた。歯並びがよければ、その笑顔の魅力はもっと増したことだろう。氏はパリのシャトレ座で役者をしていたのだが、舞台のフットライトの熱やまぶしさのため神経をいためてしまった。そういう舞台には向いていなかったのだ。そのとき、マドモアゼル・フェラリオ、つまり当時のアルカザール座にいたマドモアゼル・リタ嬢が旅芸人になることを選択した彼と人生をともにすることに同意した。「彼女の思いやりは忘れられません」と彼は言った。とても細いズボンをはいていて、氏を知る者の間では、それをどうやって脱いだり着たりするのかというのが問題になっていたほどだ。彼は水彩でスケッチを描き、詩を書き、辛抱強い釣り師でもある。宿の庭の隅を流れている澄みきった川で、魚を釣りもせずに、何日もずっと釣り糸をたらしていたこともある。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (47)

ぼくはこの騒動にひどく驚かされた。というのも、こういうフランスの旅興行の連中とはよく出会っていて、いつも楽しかったからだ。旅芸人の存在は、人生についてしっかり考えようとする者にとっては、それが会社とか商業主義に対する反抗でしかなかったとしても、人生は必ずしもぼくらが続けている普通の暮らしのようなものである必要はない、ということを思い出させるものとして大切なはずだ。ドイツの楽隊が森や草原をめぐる地方公演で早朝に町を出るというだけで、ぼくらの空想にはロマンティックな香りがもたらされる。三十歳以下の者で、ジプシーのテント小屋を見て心をゆり動かされない者はいないだろう。少なくとも「ぼくら全員が紡績業者みたいに経済にしばられているわけではない」し、そういう境遇に首までどっぷりつかりきっているわけでもない。まだいくらかは人間らしさが残っていて、金勘定の損得には拘泥せず、職を投げうってでもバッグ一つで放浪の旅に出ようという若者もいるのだ。

英国人には、フランスのアクロバティックな演芸パフォーマンスをする連中と交流するための特別な場がある。というのも、イングランドは体操の母国とでもいえる国だからだ。体にぴったりのタイツをはき、スパンコールのついた派手な服を着た連中であれば英語の単語の一つや二つは知っているはずだし、英語でいう「ハーフ・アンド・ハーフ」というビールと他の酒をまぜたものを飲んだり、イギリスの演芸場で公演した経験者もいるだろう。つまり、そういう連中は、職業的には、ぼくと同国人なのだ。ベルギーのボートクラブの人々のように、ぼくみたいな者に対しても自分と同じアスリートに違いないと思って仲良くしてくれるのだ。

もっとも、ぼくはプレシーで出会ったタイプの旅芸人はあまり好きではない。演目の構成全体に芸術を感じさせるところが少ないかまったくないし、志が低く地面をはいずりまわっているだけだし、そもそも魂などというものには依存していなくて、そのほとんどが高尚な発想というものにはほど遠いからだ。とはいえ、道化芝居にやっと出演できる程度の駆け出しの役者であったとしても、そういう生き方を選んだ者は、新しい考えにも柔軟に対応することができる。そういう人生を選択した者には、何かしら金勘定以外の考えるべきことが存在する。彼らは自分なりのプライドを持っているし、それ以上に重要なのは、自分では決して達成できないような目標を抱えていたりもするということだ。完璧な演技という目標を実現するまでは終わることのない、いわば生涯続く巡礼に出ているようなものなのだ。一日一日と上達していくこともあるだろうし、あるいはその望みを放棄することもあるだろうが、自分がかつてはそういう高い理想を掲げていたことや、輝くスターに恋こがれていたのを忘れることはないだろう。「恋をしないより、愛して失恋するほうがまだまし」なのだ。月の女神セレーネが美青年のエンデュミオンに一目ぼれせず、彼が普通の娘と結婚して豚を飼っていたとしても*1、月の女神に夢で恋したことのある彼のしぐさにはどこか優美なところが出てくるだろうし、高邁な理想を胸に抱いていたりもするのではなかろうか? 教会で出会う武骨な連中は彼の平凡な妻の方に興味をそそられるかもしれないが、エンデュミオンの心には高貴な思い出が残っていて、それがスパイスのように活力を与え高い矜持をもたらしてくれるのではあるまいか。

芸術の世界の端っこでそれにふれているだけでも、人の表情には立派な刻印が残る。かつてシャトー・ランドンの宿屋で、ある集団と食事をしたことを思い出す。連中のほとんどは明らかに行商人で、他は裕福な農民だったが、一人だけブラウスを着た若者がまじっていて、その顔つきは残りの連中とは明らかに異なっていた。より洗練されていて生気がほとばしり、生き生きと表情豊かで、いろんな物事にも慣れているのがわかった。ぼくと相棒は、こいつ何者だろう、何をしてるんだろうといぶかったものだ。シャトー・ランドンで市場が開かれたときだった。出店を眺めながら進んでいくと、その答えが得られた。というのは、農民たちの踊りにあわせて、彼が情熱的にバイオリンを演奏していたからだ。彼は吟遊詩人のごとく各地を放浪しながらバイオリンを演奏していたのである。

脚注
*1: ギリシャ神話では、月の女神セレーネが山野で眠っている羊飼いの美青年エンデュミオンに恋をし、夜ごと彼の夢に入りこみ、五十人もの子をもうける、という展開になる。
エンデュミオンは人間でありながらセレーネの願いで眠ったまま不老不死の存在となるが、仮にセレーネと恋仲にならなくても、月の女神と愛し合ったという思い出だけで、その後の人生を気高くいきていけるのではないか、というのが若き日のスティーヴンソンの感慨。
ちなみに、美少女戦士セーラームーンは、このセレーネにまつわる神話が下敷きになっている。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (46)

プレシーと人形芝居

プレシーには夕方に着いた。このあたりの平原にはポプラが生い茂っていた。オアーズ川は夕日をあびて輝き、大きなカーブを描いて丘陵地帯のふもとを流れている。薄い霧がかかりはじめ、距離の検討がつきにくくなった。川沿いの牧草地のどこかから聞こえてくる羊の鈴の音と、丘を下っている長い道を進む一台の荷車のきしむ音の他には、何も聞こえてこない。庭に囲まれた館や通り沿いの店はすべて、前日に見捨てられたばかりのように思えた。静かな森の中にいるときのように、あまり音をたてずに歩かなければという気がしてきたほどだ。ところが、角を曲がると、いきなり芝生に囲まれた教会でクロッケーをしているパリジャン風の恰好をした娘たちに出くわした。娘たちの笑い声やボールとスティックの当たる乾いた音が、近隣に陽気に響いている。コルセットをつけリボンで飾ったスリムな娘たちを見てしまうと、ぼくらの心も揺り動かされた。パリの香りのするところまで来たという感じがした。プレシーが旅行先のおとぎの国ではなく、現実に生活の場所であることを示すように、ぼくらと同類の、クロッケーをしている人々がそこにいた。正直に言うと、農家の婦人たちは女として勘定に入れにくいし、そういう婦人たちが下着姿で畑を耕していたり料理をしている様子をずっと見てきたものだから、ちゃんとした服装でクロッケーをしている集団は異質で、のどかな風景から浮き上がっている感じがして、ぼくらもすぐにおばかな男子に戻ってしまった。

プレシーの宿屋はフランスで最悪のものだった。スコットランドでも、こんなひどい料理は食べたことがない。どちらもまだ十代のような兄妹がやっていた。妹の方が食事らしきものを作り、どこかで酒を飲んでいたらしい兄が、これもほろ酔いの肉屋を連れて入ってきて、ぼくらが食事をする間の相手をしてくれた。サラダには生ぬるい豚肉が入っていたし、シチューには正体不明の、形が変わる妙なものが浮いていた。肉屋はパリの生活はよく知っていると言っていたが、その話でぼくらを楽しませてくれた。その間、兄の方はビリヤード台の端に座って、不安定に倒れそうになったりしながら葉巻の残りをちびちび吸っている。そうやってわいわいやっている最中に、ドンという太鼓の音が家の前で鳴り、誰かのしわがれ声が何かの口上を述べはじめた。人形芝居の男が、その晩の出し物をふれまわっているのだった。

少女たちがクロッケーをやっていた芝生とは別のところにある、フランスでよく見かける市場用の壁のない屋根だけの小屋に舞台がしつらえてあり、ろうそくがともっていた。ぼくらがそこまで歩いていくと、興行主たちは客を迎える準備にかかっていた。

その場所では、なんともバカらしい問題が起きてしまった。興行側では一定数のベンチを並べていて、それに座った人は観劇料として二スー*1を支払うことになっていた。すぐに満席になり──とにかく人が多い──前には進めなくなる。興行主の女房が集金に出てくると、タンバリンの音が聞こえたとたん、客は座席から立ち上がり、ポケットに手を突っこんだまま素知らぬ顔で外に出てしまう。こんなことをされたら天使だって怒るだろう。興行主が舞台の上からどなった。俺はフランス全土をくまなくまわってきたが、どこでだって、そう「ドイツとの国境に近いところでだって」こんなひどい真似をする連中には出くわしたことがない、と。そうして彼は、この泥棒め、詐欺師め、悪党めと叫んだ! 集金にまわった女房も甲高い声で口論に応戦した。他の場所でも同じだったが、相手を侮辱する語彙が女にはどれほど豊富で、とんでもない毒舌を吐けるものかということを、ぼくはここでも述べておきたい。客たちは興行主の熱弁には愉快そうに笑っていたが、女の痛烈な攻撃に対してはむっとして叫び返した。男連中の痛いところをついたのだ。彼女にかかれば村の評判もかたなしだ。彼女に反論する連中の声が聞こえてはくるものの、すぐさま倍返しされていた。ぼくのそばにいた二人の老婦人はお金を払って着席していたのだが、顔を真っ赤にして憤慨し、こうした興行の下品な振る舞いについて、わざと聞こえるように声高に話しはじめた。すると、それを耳にした興行主の女房はその老婦人たちのところまでさっと下りてきて、お上品な奥様方から、この地元の人たちにもっと正直に行動するよう説得していただければ、あたしら芝居小屋の者も、もっとお上品にふるまえるんですけど、と述べた。老婦人たちはたぶんその晩は腹いっぱいの食事をしワインも飲んでいただろうし、芝居小屋の連中だって食事は好きだし、わずかな儲けをみすみす目の前で盗まれるようなことをさせるつもりはなかった。というわけで、興行主と若い観客との間でつかみあいの喧嘩になり、興行主は人形劇で人形が投げ飛ばされるように簡単に突き飛ばされ、どっと冷笑をあびた。


脚注
*1: スーはフランス革命前の貨幣の単位(補助通貨)で、2スーは10サンチーム(1フランの10分の1)に等しい。なお現在、フランは欧州連合の成立にともないユーロに移行している。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (45)

しかし、クレーの教会には、愚かというよりもっと悪いものが掲示されていた。それまで耳にしたことはなかったのだが、リビング・ロザリオの会という団体があって、そこがやっていることだった。貼ってあるポスターによれば、この会は一八三二年一月十七日、グレゴリウス十六世の書簡によって設立されたという。教会の彩色されたレリーフに描かれているところでは、それとは別のあるとき、聖母マリアがロザリオを聖ドミニクに与え、幼児だったキリストが別のロザリオをシエナの聖カタリナに与えたことにより設立された、とある。聖母や救世主自身に比べると教皇グレゴリウスでは印象が薄くなってしまうが、事実としてはこっちの方が近いだろう。この教会が純粋に信仰上のものなのか、慈善行為を目的としているのかについては、はっきりとはわからなかった。少なくとも非常に組織化されていて、月当番の週ごとに担当として十四名の既婚婦人や未婚女性の名前が記入されていた。たいていは、そのグループの責任者として、先頭に既婚婦人一名の名前が記されていた。その協会の義務を果たすと、罪の全部または一部が許されるらしい。「ロザリオの祈りをささげると罪の一部は許される」「ロザリオの祈りを必要な回数だけとなえる」ことで罪の一部がすぐにも許される、というのだ。人々が自分の罪を消すため、預金通帳の残高を気にするように神に奉仕するというのであれば、そうした打算的な意識というものは必ずや人との接し方にも現れてくるだろうし、となれば人間の生活そのものが、なんとも悲しく、あさましいものになりさがってしまうのではないかと不安にならざるをえない。

とはいえ、もっとましなことも一つ書かれていた。「こうした罪の償いが免除されるという仕組み」は、すでに煉獄に入ってしまった人の魂にも適用できるらしいのだ。だったらお願いだから、クレーの婦人たちにはそのすべてをすぐに煉獄にいる魂に適用してもらいたい! スコットランドの国民的詩人だったロバート・バーンズは純粋な愛情で祖国に奉仕することを選び、晩年の詩については報酬を受け取らなかった。彼女たちは、生活のため収税吏を務めていたこの詩人の真似をしてみてはどうだろう。そうしたからといって煉獄にいる人々の魂の状態がさほど改善されるわけでもあるまいが、オアーズ川流域に住んでいるクレーの人々には、現世でもあの世でも今以上に悪い扱いを受けなくてすむ人が出てくることだろう。

航海中の日誌を元に原稿を書きながら、生まれも育ちもプロテスタントであるぼくが、こうしたポスターを理解し、その価値に見合う正しい対応ができるのかと問われれば、ぼくにはその資格はないと答えざるをえない。ぼくと同じように、こうしたことがカトリックの信者にとっても醜悪で侮辱的だと感じられるとは思えないからだ。このことは、ユークリッド幾何学の問題と同じくらいに明白だ。というのも、これを信じている人たちは弱いわけでも邪悪でもない。彼らは、まるで聖ヨセフがまだ村の大工ででもあるように、この聖人の使命を銘板に掲げ、「必要な数のロザリオの祈りをささげ」ていて、それであたかも神に対して誇れる仕事をしたかのように免罪を手にし、教会の外では、このすばらしい川の流れを平然とながめ、オアーズ川よりはるかに大きな川を集めたよりもずっと大きな宇宙の星々を胸を張って見上げることができているのだ。プロテスタントであるぼくの目には見えず、ぼくが夢見ているものより気高くて宗教的にも深い精神を持つ、ぼくとは違う人々が存在するのは間違いないだろう。

こうした人々は、ぼくのような人間に対しても同じように許しを与えてくれるだろうか! クレーの婦人たちのように、ぼくが寛容というロザリオの祈りをとなえれば、ぼくにもすぐに罪の許しが与えられますように。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (44)

昼食のために立ち寄ったクレーでは、水上に浮かんでいる洗濯台にカヌーを係留した。正午だったので、赤い手をした声の大きな洗濯女たちがいっぱい来ていて、彼女たちの遠慮のない冗談だけがこの地の記憶として残っている。読者が気になるのであれば、本を調べてこの地の歴史上の出来事を一つか二つ紹介することもできないことはない。イギリスとの長く続いた戦争でもよく出てきた町だからだ。とはいえ、ここでは、ぼくは全寮制の女子校のことを書いておこう。女子校ということでぼくらも興味があったし、生徒たちもぼくらに興味しんしんだった。少なくとも、校庭付近に少女たちがいて、ぼくらは川でカヌーに乗っていて、通過するときにハンカチを振ってくれたりしたのも一人や二人ではなかったということだ。そのことでぼくの胸は高鳴ったのだが、ぼくらがクロケットの試合か何かで出会ったのであれば、彼女たちもぼくらも互いにうんざりして相手にしなかったはずだ! ぼくは、こういう出会いが好きなのだ。二度と会うことのない相手に投げキッスをしたりハンカチを振ったりして、頭の中であれこれ想像をふくらませるのである。それは旅行者にとって刺激になるし、どこでもたえず自分は旅の者というわけではないこと、さらに自分の旅が現実の生活が進展していく途中の昼寝のようなものだということを思い出させてくれるのだから。

クレーの教会の内部には特に目立つものはなかった。窓のステンドグラスからあふれた派手な色彩が彫りこまれた悲劇が浮かびあがらせていた。ぼくをとても楽しませてくれたものが一つあった。運河を航行する船の忠実な模型が丸天井から吊り下げられていたのだ。クレーの聖ニコラス号を天国へと導きたまえという願いが書かれていた。その模型はよくできていて、水辺で遊んでいる少年たちがもらったら喜びそうなものだった。しかし、ぼくが面白いと思ったのは、それによって想起される危険の程度だ。大海原を航海する船の模型を吊るすのは問題ないし受け入れられもする。世界各地に航路を刻み、熱帯や極寒の地を航海して危険にさらされるというのであれば、大海原を航行する船の模型を吊るしてもよいし歓迎もされるかもしれない。熱帯や凍てつく極地を訪ねるのだから、ローソクやミサをささげる価値もあるだろう。だが、クレーの聖ニコラス号は、草が生い茂りポプラの枝が頭上におおいかぶさっているような運河をおとなしい馬に引かれて何十年もすごすのであって、船長は舵をとりながら口笛だって吹いていられる。しかもそうした航海はすべて、緑の陸地で展開され、航行中もずっと村の鐘楼から見えているのだ。なにも神様に願わなくても実現できそうなことではないか! おそらくは船長はユーモアを解する人だったか、ある意味の預言者で、このありえない奉納品で人々に人生の厳しさを思い出させようとでもしたのだろう。

クレーでは、ノアイヨンのときと同様に、律儀な聖ヨセフに人気があるようだった。日付も時間も指定できるからだ。祈りがタイミングよく報われた場合、それに感謝した人々はたいていは奉納額にその内容を書き記していた。時間が大切な願かけには聖ヨセフが適任というわけだ。この聖人の果たす役割は、ぼくの故国、イギリスの宗教界では非常に小さいので、こうしたフランスでの人気について興味深く感じた。だが、一方で、この聖人について、きっと願いをかなえてくれるとこれだけ強く信じられていると、この聖人の方でもこうした奉納額に感謝するよう求められているのではないかと危惧せざるをえない。

こういうことは、ぼくらプロテスタントには馬鹿げたことだし、いずれにしても重要ではない。自分に施された恩恵に対する人々の感謝が賢明に受けとられているのか、疑わしく表明されているのかは、結局のところ、人々が感謝している限り二次的な問題にすぎない。本当の無知というのは、自分が恩恵を受けたことを知らなかったり、自力で勝ちとったと思いこんでいる場合だ。自分の腕だけで成功したという者の自慢話ほど滑稽なものはない! 混沌の中に光を示すことと、都会の片隅で特許品のマッチでガスを点灯させるのとでは、明らかな違いがある。ぼくらが何をしようとも、ぼくらの手には、たとえ指だけであっても、必ず何かが施されているものなのだ。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (43)

オアーズ川を下る(続き) ── 教会の内で

まずコンピエーニュからポン・サント・マクサンスまで下った。翌朝、六時ちょっと過ぎに宿の外に出てみた。空気は刺すように冷たく、霜もおりているようだった。広場では二十人ほどの女たちが朝市に出された品物に群がって声を張り上げていた。値段の交渉であれこれ言いあう声が、冬の朝の雀のさえずりのように断続的に聞こえてくる。通行人はちらほらいたが手に息をはきかけて暖め、血行をよくしようと足踏みして木靴をがたがた鳴らしたりしている。街路はまだ冷たい影におおわれていたが、煙が出ている頭上の煙突には日が差し、黄金色に輝いていた。一年のこの季節に早起きすると、起床したときは十二月の寒さだったものが、朝食を食べるころには六月の陽気になっていることもある。

教会までの道がわかったので行ってみた。教会には、生きた礼拝者だったり死者の墓だったり、何かしら見るべきものがある。真摯な熱意や空虚な欺瞞に包まれていたりする。歴史的に由緒のあるものではないとしても、そこで暮らす人々についての情報が得られるのは確かだ。教会の内部は屋外に比べてさほど寒くはなかったが、どこか冷え冷えとしていた。白い祭壇のまわりは極寒の地のように見えた。人の気配も少なく、寒々として、英国国教会に比べて大陸側の派手なカトリックの祭壇はかえってわびしさを感じさせた。内陣に神父が二人座り、書物を読んだり告解者を待ったりしていた。祭壇から離れたところでは一人の老婦人が祈りをささげていた。健康な若い人々が寒くて掌に息をはきかけたり胸をたたいていたりしているときに、この老婆がロザリオを普通に扱っているのが不思議でもあった。それに気をとられたものの、それ以上に、ぼくは彼女の行動とその意味するものに何か失望を感じざるをえなかった。彼女は椅子から椅子へ、祭壇から祭壇へと動き、教会内をぐるっとまわっていた。聖廟の前まで来ると、どの聖人に対しても同じ数のロザリオで同じ時間だけ祈りをささげるのだった。経済の先行きにあまり楽観していない用意周到な資本家のように、彼女は安寧を願うあまり、さまざまな聖人やら守護神やらに分散投資して歎願しているらしかった。仲裁者を一人に絞って信用するというリスクをおかすつもりはないのだろう。一人と言わず聖人や天使すべてが最後の審判のときに彼女を擁護すべきだと思うように仕向けているのだった! それは、ぼくには、本当には信じきれていない、愚かな、無意識の、見え透いた偽善にしか思えなかった。

彼女は骨と皮だけの、死者と区別がつかないような老婆だった。彼女はぼくを一瞥したが、その目には表情というものがなかった。見るとはどういうことかの解釈にもよるだろうが、彼女はある意味で盲目といってもよかった。おそらく若いころには恋をし、子供も産んだことだろう。子供を育て、愛称をつけてかわいがったりもしたはずだ。しかし今となっては、そういったことすべてが過去のものとなり、彼女はその頃より幸福にもなっていなければ賢くもなっていないのだった。彼女が毎朝できる最善のことは、ここに来て、寒々とした教会の中で、来世の幸福を願うことだけなのだろう。ぼくは通りへと逃げ出し、すばらしい朝の空気を腹いっぱい吸わないではいられなかった。朝だって? 朝にこれほど厭世的であれば、どうやって夜まで過ごすというのだろうか! しかも、夜に眠れなかったりしたら、どうなるのだろうか? 七十歳までも生きた後で、自分の人生が間違っていなかったことを公衆の面前で示さなければならない人はさほど多くないというのは、幸運なことだ。こういう殺伐とした時代には、多くの人々は人生の最盛期に倒れ、どこか見知らぬ土地で自分の愚かな行動の償いをさせられるというのも、見方によれば幸運なことかもしれない。でなければ、病気の子供と愚痴ばかりのお年寄りを抱えて、人生そのものに嫌気がさしてしまうかもしれないではないか。

その日、カヌーを漕いでいる間、ぼくは自分の精神を立て直そうと努める必要があった。あの老婆のことが喉に刺さったトゲのように頭から離れなかった。とはいえ、やがて馬鹿になりきることができた。カヌーに乗って無心に漕ぎ、漕ぐ回数を数えつつ、それが何百になったか忘れたりしながら、それ以外のことは考えないようにした。ときどき漕ぐ回数が何百だったかをおぼえてべきだという不安にかられたりもしたが、そうなると楽しみが苦行になってしまう。そういう不安は漕いでいるうちに頭から消え、ぼくは自分が何をやっているのかもよくわからない状態でひたすら漕ぎ続けたのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (42)

ぼくらが強い関心を持っていた一つは、食べることだった。ぼくは食事に重きをおきすぎたかもしれない。料理のことをあれこれ考えていると、口のなかによだれがたまってきたのを覚えている。そうして夜になるずっと前から、それを食べたくてたまらなくなり、そうした食欲を抑えることが悩みの種になった。ぼくらはときどき並んで漕いだりもしたが、そうやって川を下っていきながら食事の話で互いを刺激しあった。ケーキとシェリー酒なんかは故国ではありきたりすぎるのだが、オアーズ川近辺では手に入らないので、そのことばかり考えながら何マイルも漕ぎ下ったりしたし、ヴェルブリーに近づいたころに、シガレット号の相棒が「牡蠣のパテにちょっと甘い白ワイン」なんてのを口にしたものだから、頭の中はそれを食べたいという思いばかりになったりした。

人生を楽しむうえで飲み食いがいかに重要かということを、誰もきちんと認識していなさすぎるのではないだろうか。ぼくらは食欲旺盛だったので、どんなひどい食事にも我慢できたし、パンと水だけの食事でもうれしかった。何も読むものがなればガイドブックの時刻表でも嬉々として読みふけっている活字中毒の人たちと同じだ。しかし、食べるということは、それだけにとどまらない。食事が大事だという人は、たぶん恋愛が大事だという人より多いだろうから、一般論として食べ物は景色などよりずっと関心をそそるものだと思う。ウォルト・ホイットマンだったらこう言うだろう──だからといって人間としての価値が減るとでもいうのかね? 物質主義を突き詰めていけば、自分の存在自体を恥ずかしいと思うようになる。人間の素晴らしさという点では、料理の隠し味にオリーブが使用されていると見極めることは、決して夕景の空の色に美を感じることに劣るものではない。

カヌーを漕いで川下りすること自体はむずかしくない。適切な傾きを保ってパドルを右、左と交互に川に突っこみ、スプレースカートの膝まわりにたまった水を捨て、水面にきらめく陽光から目を細めて守り、コンデのデオ・グラシアス号やエイモンの四人の息子号などの係留されているロープの下をくぐったりするのだが──それにはたいした技術は必要なくて、川に浮かんでいるときは筋肉が機械的に作業をやってくれるので、その間は脳のほうはお休みしている。ぼくらは周辺の景色をざっと見て把握し、半ば寝ぼけた状態で、岸辺の作業着姿の釣り人や洗濯をしている女たちを目でとらえたりした。ときどき、教会の尖塔や飛び跳ねる魚、あるいはパドルにからみついた川草を引っ張って投げ捨てたりするときに、寝ぼけ状態を脱したりした。とはいえ、それでも完全に目がさめるわけではなかった。無意識の状態から目をさましはするが、体全体が覚醒して反応するというのではない。神経の中枢、ぼくらが自我と呼ぶものは、巨大な政府の一省庁のように、そうしたことに煩わされず休んでいて、知性の大きな車輪はフライホイールのように、何も役に立つ仕事はせず、頭の中でゆっくりまわっている。ぼくは漕ぐ回数を数えつつ、何百になったかを忘れたりしながら、半時間も漕ぎ進んだことがある。獣でもこれだけ無意識の状態になることはあるまいと思うほどだ。なんとも気持ちのよいひとときだった! 無心に漕ぎ進むことで、心が寛大になってくる! この境地に達すれば、人のあら探しをすることもなく、人生において可能な神格化とでもいうか、いわば愚かさの頂点に達してしまい、威厳を感じさせる樹木のように長く生きた気がしてくる。

この没我の状態について、強さと呼んではいけないのであれば、ぼくは深さと呼びたいが、これには現実に奇妙な形而上学が伴っていた。精神が否応なく、哲学者が自我と非我、自己と客体と呼ぶものに向いてしまうのだ。この放心状態では自我が少なくなり、ふだん思っているよりも非我が多くなる。ぼくの心は、自分以外の誰かがカヌーを漕いでいるのを眺めている。自分以外の者が足を踏ん張っていて、自分の体についても、カヌーや川や川の土手以上に自分の心と親密な関係を持っているようには思えないのだった。それだけではない。ぼくの心の中にある何か、自分の脳の一部、自分の正しい部分の一部がぼくから抜け出て、それ自身のため、あるいはカヌーを漕いでいるぼくではない他者のために働いているのだ。ぼくは自分自身の内部で、隅っこの方に縮こまっている。ぼくは自分の頭蓋骨の中で孤立している。勝手に考えが浮かんでくるが、それはぼく自身の考えではなく、明らかに誰か他者の考えだったし、ぼくはそれを風景の一部のようにみなしている。要するに、ぼくは実際の生活に支障がでない範囲で、ちょっと解脱したような状態になっている感じだった。解脱というものがこういう状態なのであれば、ぼくは仏教徒を心から称賛したい。目から鼻に抜けるような利口さではなく、金儲けにもつながらないとはいえ、心穏やかで高貴であり、邪念がなく、物事に右往左往しない、なんとも気持ちのよい状態である。べろべろに酔ってはいるが精神はしらふで、その状態を楽しんでいるとでも説明しようか。屋外で仕事をする人々は日々の多くをこうした没我の状態ですごしているに違いない。彼らの落着きと忍耐力はそれで説明がつく。こういう風に、何も特別なことをしなくても至福の状態になれるのだから、ドラッグに金を使ったりする人の気が知れない。

こういう心の状態が今回の航海での大きな収穫だったし、それがすべてでもあった。ありきたりの言葉による表現とはかけ離れているので、ぼくの、この楽しく自己満足した状態を読者に共感してもらうのはむずかしいかもしれない。太陽光線の中で浮かんでいるほこりのように、いろんな考えが浮かんでは消え、たえず形を変えていく雲を通して、土手沿いの木々や教会の尖塔がときどき確固とした物のように立ち上がって注意を引いたり、水面に浮かぶボートとパドルのたてるリズミカルな音が眠りを誘う子守歌になったりした。デッキについた泥ですら、ときには耐えられなくなったり、逆に気にならなくなったり、考えを集中させる対象になったりした──その間も、川は常に流れていて、川岸も変化していき、ぼくはパドルを漕ぐ数をかぞえ、何百回だったか忘れたりしながら、フランスで最も幸福な動物になっているのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (41)

時間の移り変わり

それからの航海では、こうした霧は、ある意味で、晴れることはなかった。ぼくのノートにも霧が濃く立ちこめている。オアーズ川が田舎を流れる小さな川だったときは民家の近くを通っていたし、川沿いに住む土地の人々とおしゃべりすることもできた。しかし、今では川幅も広くなり、川岸に住む人々も遠くからぼくらを眺めているだけになった。立派な幹線道路と、集落を縫うように続いている田舎道の違いのようなものだ。このあたりまで来ると宿も市街地になるし、地元の人々から質問攻めにあうこともなくなった。いわば文明化された社会までやってきたわけだが、こういうところでは行きかう人々と挨拶することはない。田舎では人と出会うためにいろんなことをやったが、都会では他人と距離を保ち、人の足を踏んづけでもしない限り声をかけることもない。都会では、ぼくらはもう妙な渡り鳥のような存在ではなく、違う村からはるばる旅をしてきたのだと想像されることもなくなった。たとえば、リラダンにやってきた日の午後には、何十隻というプレジャーボートが走りまわっていて、ぼくらのくたびれた帆を別にすれば、本物の旅をしてきた者とちょっと近場で遊んでいるだけの者とを区別するものは何もない。実際に、あるボートに乗った連中はぼくを近所の誰かと思いこんでいたりした。これほどの屈辱は他にないのでは? とはいえ、旅というものはすべて、そうやって終わりを迎えるのだ。オアーズ川の上流域では、魚以外に川を航行している者などいないので、ぼくらのようなカヌーに乗った人間は、地元の者のふりをして人目を避けることはできない。すぐに風変わりな見慣れないよそ者だとばれてしまうし、逆に相手も好奇心にかられたりするので親しくなったりもした。この世界はそうした相手との相互関係で出来上がっているようなところがあり、そうした絆をどこまでもさかのぼっていけるわけではないが、ぼくらの前からずっと続いていることなので、こうした状態に決着がつくということもないのだ。自分が相手に興味を持てば、それに比例して相手もこっちに興味を持ってくれる。ぼくらが一種の奇妙な放浪者でいる限り、じろじろ見つめられたり、ほら吹きやサーカスの一団のように、ぼくらの後ろから地元の人がぞろぞろついてきたりして、それがぼくらにとって面白かったりもした。ところが、ぼくらが一般の人々と区別がつかなくなってしまうと、ぼくらが出会う人々も同じように魔法が解けてしまい、ぼくらへの関心を失ってしまう。平凡な人間にとって世の中が退屈な理由は山ほどあるが、これはその理由の一つである。

冒険航海に出た最初のころは決まって何かすべきことがあり、それに急かされるように行動していた。にわか雨が降ってくるだけで、そうした気持ちが復活し、脳が刺激されて退屈することはなかった。だが、ここまでやって来ると、川はもはや急流ではなくなったし、海に向かって滑るように、しかし、ゆっくりと流れていて、天気は相変わらず好天続きで、ぼくらは野外で激しい運動をした後の満足感にひたっているときのような、ある種の倦怠を感じ始めていた。一度ならず、こんな風な感覚にとらわれたことがあるし、そういう状態になるのも嫌いではなかったが、スリル満点でオアーズ川を漕ぎ下っていたときの快感はもうなかった。虚脱感が頂点に達したような感じだ。

ぼくらは何かを読んだりすることもなくなった。新しい新聞を見つけると、連載小説の一回分を読んで楽しむこともあったが、三回を超えると、もう耐えられなくなり、その二回目には失望していた。話の筋が見えてくると、ぼくにとって、その価値がすべて失われてしまうのだ。一つの場面だけ、あるいは連載の場合は一つの場面の半分だけが、その前後の脈絡もわからないまま夢の一部のように、ぼくの興味を引いたりした。小説全体の筋がわからないほど、その小説が好きになった。これは示唆に富んでいる。すでに述べたように、ぼくらはたいていの場合、何も読まずにすごした。夕食をすませると寝るまでの短い間は何も読まず地図を眺めてすごした。ぼくはずっと地図が見るのが好きだったし、地図上で極上の旅を想像して楽しむことができる。地名はそれだけで訪れてみたい気になるし、海岸線や川の輪郭には心を奪われてしまうものがある。そして、それまで耳にしていた場所を地図で見つけると、その歴史に新しい意味が見えてくる。とはいえ、航海もこのころになると、無関心なまま地図をめくっていくだけだ。どんな場所か、気にすることはなくなった。ぼくらは子供がオモチャのガラガラに耳をすますように、地図をじっと見つめ、町や村の名前を目にしてはいるが、すぐに忘れてしまう。ぼくらは地図の情報自体に思いを寄せているのではなかった。無我の境地、というか虚脱状態だろうか。ぼくらが地図を熱心に眺めているときに誰かがその地図を持ち去ったとしても、ぼくらは同じ熱心さでテーブルをそのまま眺めていたかもしれない。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (40)

ぼくはこの機械仕掛けの人形の動きがとても気に入ったので、鐘が鳴るときは見逃さないよう注意していた。シガレット号の相棒はそんなぼくを小ばかにしていたが、やつ自身もかなり気になっているようだった。オモチャの人形を建物の上で冬の厳しさにさらしているのは、あまりほめられたことではない。ニュルンベルク製の時計の前に、人形用のガラスケースでも置いたらどうだろう。とくに子供たちが眠りにつき、大人も布団にもぐりこんで高いびきをかいている夜間に、こうしたお菓子のジンジャーブレッドでできたような人形たちがウインクしたり、星や天をめぐる月に向かって鐘を鳴らしたするのは場違いな気がしないだろうか? 雨水を吐き出す部分の彫刻が猿のような頭を傾けていたり、磔刑場に向かうキリストの苦難を描いた古いドイツの版画の百人隊長のように国王が軍馬に乗ったりしているのはともかく、オモチャの人形たちは、朝になって子供たちが家の外でまた遊ぶようになるまで、綿にくるんで箱にしまっておくべきだ。

コンピエーニュの郵便局には、ぼくら宛の手紙がたくさん届いていた。郵便物について問い合わせると、このときばかりはとても丁寧な対応で手渡してくれた。

ぼくらの旅は、ある意味、コンピエーニュでこうした手紙を受け取った時点で終わったといえるのかもしれない。旅の途上という魔法がとけてしまったからだ。その瞬間から、なかば帰国したも同然だった。

旅に出るときは手紙を書いたりするものではない。書くのが大変ということもあるが、手紙を受けとってしまうと、休暇を楽しんでいる気分がだいなしになってしまう。

「自分の国と自分自身から離れてみよう」 そういう気持ちで、しばらくの間、それまでとは異なる新しい条件の別の生活に飛びこんでみたいのだ。その間、友人たちとは連絡を絶ち、自分の好きなものとも関係を持たず、出発するときには自分の心は自宅の机の中に置いてくるか、旅行カバンに詰めて終着点まで先に送っておく。友人からの手紙は、旅が終わってから、それにふさわしい気持ちで楽しみながら読むことになる。だが、これだけのお金をかけて、はるばるカヌーを漕いできたのは外国を旅するためだったのだが、手紙はずっと追いかけてきて、まだ自分の国にいるような気分になってしまう。手紙の主たちはぼくの足にひもをつけていて、ぼくは自分がひもでつながれた小鳥だと感じてしまう。手紙はヨーロッパ中を追いかけてきて、自分が放り出して逃げてきた、あれこれの小さな悩み事を思い出させてしまう。人生という闘いに「待った」がないのはよくわかっているが、一週間の休暇すら許されないのだろうか?

出発した日、ぼくらは六時には起きた。ホテルの人間はぼくらにほとんど注意を払わなかったので請求書にも書き忘れがありはしないかと期待したが、しっかり細かいところまで記載されていた。事務的に処理する職員に対し値切りもせずに支払いをすませると、ぼくらは誰の注意を引くこともなく、ゴム製のバッグを抱えてホテルを出た。気にかけてくれる人は誰もいなかった。小さな村で一番に早起きするのは無理だが、コンピエーニュほどの規模の町になると、朝はのんびりしたもので、町の人々がまだガウンとスリッパ姿でくつろいでいる間に、ぼくらは起床し立ち去ったのである。通りには玄関前を掃除している人しかいなかった。公会堂の上にいる人形の紳士たちの他に、正装している者は誰もいなかった。人形たちは露にぬれ、金箔もきれいになって光っていて、世の中というものを知りつくした、プロ意識による責任感に満ちていた。ぼくらが通りかかると、六時半の鐘が打ち鳴らされた。彼らなりの別れの挨拶だと感じた。日曜日の正午でさえも、こんなに上手に鐘は鳴らされなかった。

川に浮かんでいる洗濯台で衣服を洗っていた、早起きで──夜も最後まで仕事をしている──洗濯女たちを別にすれば、見送りは誰もいなかった。彼女たちはとてもにぎやかに、いつもの朝をすごしていた。腕をぐいっと川の中に差しこみ、水の冷たさも平気なようだった。自分だったら、こんなに朝早くから冷たい水で仕事するのは嫌だなと思った。とはいえ、ぼくが自分の生活を彼女たちと交換したいとは思わないように、彼女たちも自分の生活をぼくらの生活を交換したいとは夢にも思っていない風だった。彼女たちは洗濯台の扉のところに集まって、ぼくらが陽光を浴び川霧に包まれてカヌーを漕いでいくのを眺めていた。そして、ぼくらが橋を通過するまで、背後から大声で声援を送ってくれた。