スナーク号の航海 (20) - ジャック・ロンドン著

というわけで、ぼくがどうやって天文航法を独学したか簡単に説明しよう。ある日の午後ずっと、ぼくはコクピットに座り、片手で舵をとりながら、もう一方の手で対数の本をめくって勉強した。それからの二日間、午後二時間を航海術の理論、とくに子午線高度の勉強にあてた。そのうえで六分儀を手に持ち、器差を補正して太陽の高度を測った。この観察で得られたデータを元に計算するのは簡単だ。「天測計算表」と「天測暦」で調べるのだ。すべて数学者と天文学者が考え出したものだ。これは、よくご存じの利率表や計算機を使うようなものだ。神秘はもはや神秘ではなくなった。ぼくは海図の一点を指さし、いまはここにいると宣言した。それは間違っていなかった。というか、ロスコウとぼくがそれぞれ割り出した位置は一海里ほど離れていたのだが、同じ程度には正しかったということだ。やつは自分の位置とぼくの位置の中間にしようかとさえ言ってくれた。ぼくは神秘を爆破し消滅させてしまった。とはいえ、それはやはり奇跡ではあって、ぼくは自分の内に新たな力を感じてぞくぞくしたし、くすぐったくもあった。ぼくがかつてロスコウに現在の位置をたずねたのと同じように、マーチンがおずおずと、しかし尊敬の念をこめてぼくに現在の位置を聞いてきたとき、ぼくは最高位の司祭として暗号めいた数字で答えた。マーチンは敬意をこめた「おう」という声をもらしたが、それを聞くとぼくは天にも昇るような高揚感を感じた。チャーミアンに対しても、あらためて、どうだいと自慢したくなった。ぼくのような男と一緒にいるとは、きみはなんて運がいいんだという気にもなったが、むろん、そんなことは口にしなかった。

自分がやってみてわかったのは、どうしてもそうなってしまうということだ。ロスコウや他の航海士たちの気持ちがわかった。こういう力を持っているという思いが毒となってぼくにも作用していた。他の男たち、大半の男たちが知らないこと──果てしない大海原で天の啓示を得て進むべき道を指し示すこと──ができるということ、この快感を自分の力として一度味わってしまえば、もうそこから逃れられない。長時間にわたって舵をとりながら、その一方で神秘を勉強しつづけた原動力がこれだった。その週の終わりには、暗くなってからの測定もできるようになった。夜には北極星の高度を測定し、器差や高度改正などの補正を行って緯度を得た。その緯度は、正午に割り出した位置について進路と速度を勘案して求めた推測位置とも合致した。自慢してるのかって? 悪いが、もっと自慢させてもらおう。ぼくは九時に次の測定を行うつもりだった。問題点を検討し、どんな一等星が八時半ごろに子午線を通過するのかを知った。この星はアルファクルックス(アクルックス)だとわかった。この星のことは聞いたことがなかったので星図で調べた。南十字星を構成する星の一つだった。なんと、航海しながら夜空に輝く南十字星を知らなかったとは! なんたる間抜け! われながら信じられない。ぼくは何度も見直して確かめた。その夜は八時から十時までチャーミアンが舵をとってくれた。ぼくは彼女に、よく見てろよ、真南に南十字星が出てくるからと言った。そうして星々が見えるようになると、水平線近くの低い空に南十字星が輝いた。自慢かって? どんな医者でも高僧でも、このときのぼくくらい天狗にはなれないだろう。ぼくは聖なる祭具、つまり六分儀を用いてアクルックスを測定し、その高度から自分のいる場所の緯度を割り出した。さらに北極星も測定したが、それも南十字星で得られた値と合致した。自慢かって? そうさ、星のことならぼくに聞いてくれ。星の言うことに耳をすましていると、大海原で自分がどこにいるか教えてくれるのだ。
[訳注]
子午線: 赤道と直交し、北極と南極を通る大円。無数にありうるが、自分のいる場所を通る経線と同じ。

スナーク号の航海 (18) - ジャック・ロンドン著

第4章

到着

「でも」と、ぼくらの友人が異議を唱えた。「航海士を乗せないで、よく航海に出られるな? 君は航海術を知らないんだろ?」

ぼくは、自分が航海術を知らないこと、人生で一度も六分儀をのぞいたことがないこと、天文暦で緯度経度を割り出せるか自信がないことを告白しなければならなかった。連中がロスコウはどうなんだと聞いたとき、ぼくは頭を振った。ロスコウはそのことに腹を立てていた。彼は今度の航海用に持ちこんだ海図に目をやり、対数表の使い方を知っていて、六分儀も何度か見たことがあり、その用途も船乗りの必需品であることも知っているというのを根拠に航海術を知っているという結論を出していた。だが、そうじゃないと、ぼくは今でも言いたい。ロスコウは若いころに東海岸のメイン州からパマナのイスマス経由で西海岸のカリフォルニア州までやってきたのだが、それが陸が見えないほど離れた唯一の機会だった。航海術を教える学校に通ったことはないし、そういう試験に合格してもいない。まして、大海原を実際に航海したこともなければ、他の航海士から技術を学んだこともないのだ。彼はサンフランシスコ湾のヨット乗りなのだった。湾内ではどこにいても数マイル先に常に陸が見えていて、航海術が必要になることはないのだ。

というわけで、スナーク号は航海士を乗せずに長い航海に出たのだった。ぼくらは四月二十三日にゴールデンゲート・ブリッジをくぐり、カモメのように空を飛んでいけば二千百海里先にあるはずのハワイ諸島を目指した。結果よければすべてよし、というわけで、ぼくらは無事に到着した。懸念されたようなたいした問題もなく着いてしまった。つまり、大問題になるようなトラブルらしいトラブルはなかったということだ。初めから順に言うと、ロスコウは航海術では苦戦した。理論は大丈夫なのだが、それを実地に当てはめるのは初めてだったのだ。スナーク号の航跡が迷走しているのが、それを証明している。スナーク号の航跡はすっきりしていたとは言えない。海図上ではギクシャクした動きになっていた。軽風の日に、海図の上ではまるで強風で爆走したみたいに大きく移動していたり、快調に帆走した日にほとんど位置が変わっていなかったりした。とはいえ、時速六ノットで連続して二十四時間航海すれば、百四十四海里進んだことになるのは自明だった。海にも曳航測定儀にも問題はなかった。スピードについては目で見ればわかる。というわけで、大丈夫じゃなかったのは、海図上でスナーク号の位置を決めかねた人間の方だった。こういうことが毎日起きていたわけではないが、実際にあったことだ。そして、理論を初めて実地に応用しようとするときには、よくある話というわけだ。

航海術を知っているという意識は、人の心に微妙な影響を与えるらしい。たいていの航海士は航海術について語るとき、深い敬意が払うものだ。素人にとって、航海術は奥深く恐れ多い神秘に思えるが、そうした意識は、航海術に対する航海士の敬虔な態度や仕草に影響を受けてもいるだろう。率直で無邪気で謙虚な、太陽のように隠しごとをしなかった若者が、航海術を学ぶと、何か知的な偉業をなしとげたみたいに、すぐにもったいぶり尊大になってしまった。ぼくら素人には、なにか聖なる儀式をつかさどる聖職者のような印象を与えた。アマチュアのヨット乗りの航海士は、息を殺し、ぼくらにありがたく聖なるクロノメーターを見るよう促すようになった。というようなわけなので、友人たちは航海士を乗せないぼくらの航海に懸念を感じたのだった。

page-48_Charmian

船上でのチャーミアン

スナーク号の航海(17) - ジャック・ロンドン著

さらに「五フィート(百五十センチ)ちょっと」の小柄な男からの手紙がこれだ。「あなたが夫人と一緒に小さな船で世界一周されるという勇敢な計画の記事を読み、自分自身が計画しているみたいでとてもうれしくなりました。それで、コックか給仕のどちらかになれないか手紙を書いてみようと思ったのですが、ある事情があって、そうしませんでした。それから友人の事業を手伝うため、先月、オークランドからデンバーにやってきたのですが、状態は悪化し、まずいことになっています。でも幸いなことに、あなたは大地震のため出発を延期されました。それで、ついにどちらかの職につけないか申しこむ決心をしたというわけです。身長百五十センチの小男で非常に頑健というのではありませんが、とても健康だし、いろいろなことができます」

「私はあなたのお仲間に風の力をさらに活用する方法を伝授できると思うのですが」と、ある志望者は書いた。「軽風では普通の帆の邪魔にならず、強風のときにはそのすべての力を利用することが可能です。風が非常に強いときには通常の方法で使用される帆は取りこまなければならないかもしれませんが、私の方法ではフルセールを展開しておけます。この装置を取りつけておけば、船が転覆することはありません」

前記の手紙は一九〇六年四月十六日付で、サンフランシスコで書かれていた。二日後の四月十八日に大地震が起きた。それがこの大地震が嫌いになった理由だ。というのも、この手紙を書いてきた人は被災してしまい、一緒に行けなくなったからだ。

同志たる社会主義者たちの多くは、ぼくの航海に反対した。その典型的な理由は「社会主義の目的、さらに資本主義に抑圧された何百万もの同胞は、貴殿が生命をかけて奉仕することを要求する権利を持っている。とはいえ、貴殿が航海に固執するのであれば、溺死する寸前、口いっぱいに海水が入ってきたとき、少なくとも我々は反対したということを忘れないでもらいたい」というものだった。

一人の放浪者は「機会があれば異常な光景について、いくらでも話をすることができるのだが」と、何ページも費やして核心をつこうと努力した最後に次のようにしたためた。「これでもまだ自分があなたに手紙を書いている核心には触れていないのですが、あなたが二、三人で五、六十フィートの小舟で世界周航に出かけられるという記事を目にしたので、とりあえずご忠告しておきます。あなたのような才能や経験を持つ人がそのような方法で死を招くことにしかならないようなことをされるとは思いもよりませんでした。一時しのぎはできたとしても、そんな大きさの舟は絶えず揺れているし、あなたやご一緒の人たちはあちこちぶつけてケガをすることでしょう。クッションを当てていたとしても、海では想定外のことが起こるんですよ」 ご厚意には感謝するしかない。ありがとう、親切な人。この人には「想定外のこと」を語る資格がある。彼は自分自身について「自分は新米の船員ではなく、あらゆる海や大洋を航海した」と言っているのだ。そして、手紙を次のように締めくくっていた。「人を怒らせるつもりはないのだが、女性をそんな小舟で湾の外に連れ出そうとするだけでも狂気の沙汰だ」と。

だが、この原稿を書いている時点で、チャーミアンは自室でタイプライターに向かっている。マーチンは夕食をこしらえているし、トチギは食卓を整え、ロスコウとバートはデッキで作業している。スナーク号は誰も舵を持っていないが、波音を立てて時速五ノットで進んでいる。スナーク号にはクッションは積んでいない。

「予定されている旅行についての新聞記事を拝見しました。私どもには六名の優秀な若い船乗りがおりますが、そちらで腕ききの乗組員を必要とされているのか知りたいと存じます。全員アメリカ国籍を持ち、海軍を除隊するか商船を降りたばかりの二十歳から二十二歳の若者で、現在はユニオン・アイアン・ワークス社で艤装担当として雇用されていますが、あなたと航海したがっております」──自分の船がもっと大きかったらと後悔させるような、こんな手紙もあった。

そして、チャーミアン以外に、世界でただ一人、航海志願の成人女性がいた。「もし最適なコックが見つからなかったら私が志願します。私は五十歳で健康ですし料理も得意なので、スナーク号の乗組員のみなさんのお役に立てます。料理にはとても自信があり、帆船の経験も旅行の経験もあります。一年きりの航海よりは、十年も続くような航海の方が私にはぴったりくるのです。参考までに……」

いつかお金を稼いだあかつきには、志願者が一千人いても乗れるような大型船を建造しよう。そうした志願者は船で世界中を航海するための作業すべてをこなさなければならない。でなければ家にいることだ。そうした連中は持っている技術を駆使して船で世界中をまわるだろうと確信している。というのも、冒険は死にたえていないからだ。冒険についての一連のやり取りを通して、ぼくは冒険心は死に絶えていないと知ったのだ。

page-45_doldrum

赤道無風帯にて

スナーク号の航海 (16) - ジャック・ロンドン著

志願者の大半が少年だと思ってもらっては困る。逆に、割合でいうと少年は少数派だった。人生のあらゆる段階の人々、つまり老若男女の志願者がいた。内科医、外科医、歯科医も大挙してやってきたし、そんな専門家すべてがどんな役割でもやるし、自分の専門領域についても無償でいいと申し出てくれた。

経験のあるボーイや料理人、司厨長は言うまでもなく、同行したがった物書きや記者は引きも切らなかった。土木技師たちも航海に熱心だった。チャーミアンにとっては「女性」のお友だち志願者がたくさんいたし、ぼくの方には個人秘書志願者が殺到した。高校生や大学生たちも航海に出たがっていたし、労働者階級のあらゆる職業から志願者があったが、特に機械工、電気技師、技術者が熱心だった。ぼくは、辛気くさいオフィスで冒険の呼び声に心をゆさぶられた人々が多かったことに驚いた。さらに、年配で引退した船長たちに海に戻りたいと思っている人が多いということにも驚いた。若者たちは冒険したくてうずうずし、その数も増える一方で、いくつかの郡では学校の責任者も含まれていた。

父親たちも息子たちも航海に同行したがり、妻のいる多くの男たちも同様だった。若い女性の速記者は、こう書いてよこした、「私が必要ならすぐに返事をください。タイプライターをかかえて始発列車に乗ります」と。しかし傑作は──自分の妻に対する仕打ちときたら何をかいわんやだが……「旅行にご一緒する可能性について質問させていただくため立ち寄らせていただこうと思っています。二十四歳で、結婚していましたが離婚しました。このようなタイプの旅こそ求めていたものです」

考えてみれば平均的な男にとって、あからさまに自薦する手紙を書くのはかなりむずかしいことであるに違いない。手紙をよこした者の一人は、「これはむずかしいです」と、手紙の冒頭ではっきり語っていた。そうして自分の長所を披瀝しようとむなしく努力した後で「自分について書くのはすごくむずかしいです」と繰り返して締めくくっていた。とはいえ、自分を自画自賛する饒舌な者も一人いて、最後に、自分について書くのは非常に楽しかったと述べていた。

「でも想像してみてください。雇った給仕がエンジンを動かせて、故障したら修理できるとしたらどうでしょう。交代で舵も持てるし、大工仕事や機械工の仕事もこなせるのです。丈夫で健康だし勤勉でもあるのです。船酔いしたり皿を洗うだけで他に何もできない子供を選ぶつもりはないのでしょう?」 この種の手紙は拒絶しにかった。これを書いた人は独学で英語を覚えたそうで、米国滞在は二年にすぎず、さらに「生活費を稼ぐために同行したいのではなく、もっと学び見聞を広めたいのです」という。ぼくに手紙を書いた時点で、彼は大手のモーター製造会社の一つで設計者をしていて、海の経験も相当にあり、小型船の操作に人生をささげていた。

「申し分のない地位にあるのですが、自分としては旅行してみたい気持ちの方が強いのです」と、別の一人は書いている。「給料については、自分を見てもらって、一ドルか二ドルの価値だと思われたのであれば、それでかまいません。自分がそれにも値しなければ無給でも結構です。自分の正直さと品性に関しては、雇い主を喜んで紹介しますので、ボスに聞いてみてください。酒もたばこもやりませんが、正直に言うと、もう少し経験を積んだ上で、少し書き物をしたいと思っています」

「自分についてはまともだと保証します。他のまじめな連中は退屈だと思っています」と書いてきた男は、たしかにぼくに想像力を働かせたが、彼がぼくを退屈だと思ったのかな、どんな意味で言ったのかなと、ぼくは今でも戸惑っている。

「今より昔の方がよかった」と、経験豊富な船乗りは書いてきた。「とはいえ、それもずいぶんひどいものではあった」

次のような文章を書いてきた者には自己犠牲の意欲が感じられて痛々しかったので断るしかなかった。「僕には父と母と兄弟姉妹、仲の良い友人、実入りのいい仕事がありますが、それをすべて犠牲にしても、あなたのクルーの一人になりたいのです」

もっと受け入れがたかった別の志願者は、自分にチャンスを与えることがいかに必要かを示そうとした好みのうるさい若者で、「スクーナーや汽船など、ありきたりの船で出かけることは無理です」という。「なぜなら、ありきたりの船乗りたちと一緒に生活しなければならないからです。そういう生活は清潔というわけではないので」

「人間の感情すべての面を体験し」、さらに「料理からスタンフォード大学通学まであらゆることを行ってきた」という二十六歳の若者もいて、その手紙を書いている時点では「五万五千エーカー(約二万二千ヘクタール)」の放牧地でカウボーイ」をしているという。それとは対照的に「私には貴方様に検討していただけるような特別なものは何一つありませんが、万一にでも好印象を持たれたとしたら、少し時間をさいて返事を書こうという気になっていただけるかもしれません。ダメだとしても、自分の業界には常に仕事があります。期待はしていませんが希望はしています。お返事をお待ちしています」というのもあった。

「貴殿を知るずっと前に、私は政治経済学と歴史を融合させたが、その点で貴殿の結論の多くを具体的に推論していた」と書いてきた人がいたのだが、それ以来ずっと、その人と自分は知的に同類なのかなと頭を抱えている。

ここで、ぼくが受け取ったうちで上出来の短かい手紙の一つを紹介しておこう。「航海に関して契約した会社が翻意し、ボートやエンジンなどに通暁した者を必要とされる場合にはご一報ください」。短いものをもう一つ。「単刀直入にお聞きしますが、世界周航で給仕の仕事や船で他の仕事をする者が必要ですか。自分は十九歳で、体重百四十ポンド(約六十三キロ)、アメリカ人です」

スナーク号の航海 (15) - ジャック・ロンドン著

第3章

冒険

 いや、冒険は死んではいない。蒸気機関やトマス・クック・アンド・サンのような旅行会社ができる世の中であっても、だ。スナーク号の航海計画が公表されると、年配の男女は言うまでもなく、「放浪気質」のある若い男女たち大勢が志願してきた。ぼくの友人たちに、少なくとも半ダースは自分が現在は結婚して家庭を持っていることや結婚が目前に迫っていることを悔いていた。おまけに、ぼくが知っているあるカップルの結婚生活は、スナーク号のせいでうまくいかなくなってしまった。

「息苦しい町」で窒息しかけている志願者の手紙が殺到した。二十世紀のユリシーズは、出帆前に応募者に返信するため大量の速記者が必要になりそうだった。いや、たしかに冒険心というものはまだ死に絶えてはいないのだ──少なくとも「ニューヨーク市に住む一面識もない女ですが、このような心からのお願いについて……ことは疑いようがありません」というような手紙が届くうちは。さらに読み進めると、この見知らぬ女性の体重は九十ポンドしかないが、スナーク号の給仕役を志願しており「世界の国々を見てみたいと切望」しているのだ。

一人の志願者は、放浪を求める心中を「地理学に対する情熱的な愛情」と表現した。別の者は「私はずっと常に移動していたいと思ってきました。だからこうしてあなたに手紙を書いているのです」と書いてよこした。最高なのは、旅に出たくて足が鳴る、というものだった。

自分は匿名で、友人の名前を示し、その友人が適格者であると示唆しているのも何通かあったが、その類の手紙には何か腹黒い思惑があるように感じられて、その手の問題には深入りしなかった。

二、三の例外を除き、スナーク号のクルーを志願した何百人もの連中はすべて真剣だった。多くは自分の写真を同封していた。九十パーセントはどんな仕事でもいいと言ったし、九十九パーセントが給料はいらないと申し出た。「あなたのスナーク号の航海や」と、一人は書いている。「それに伴う危険のことを考えると(どんな役割でも)ご一緒することが自分の野心のクライマックスになるでしょう」 野心で思い出したが、「十七歳で野心的」で、手紙の最後に「でもどうかこの気概を新聞や雑誌には書かないでください」と書いてよこした者もいる。まったく別に「死に物狂いで働き、一銭もいりません」と書いた者もいる。連中のほとんどすべては、自分の志望がかなえられたら受取人払で電報を打ってほしいと望んでいた。多くの者が出帆日にはきっと行くと誓っていた。

スナーク号でどんな仕事をするのか、はっきりわかっていない者もいた。たとえば、ある者は「貴殿と貴殿の船の乗組員の一人として出かけ、スケッチや絵を描いたりすることが可能なのか知りたく、失礼ながらこの手紙をしたためさせていただきました」と書いてきた。スナーク号のような小さな船でどんな仕事が必要なのか知らず、何人かは「本や小説のために収集された資料を整理するアシスタントとして」お役に立ちたいと書いてよこした。それが多作の作家の流儀というわけだ。

「その仕事の資格を与えてください」と書いてきた者もいる。「ぼくは孤児で叔父と暮らしていますが、叔父は怒りっぽく、革命を目指している社会主義者で、冒険に赤い血をたぎらさないような男は生きているだけの布きれみたいなものだ」と。「俺は少し泳げるけど新しい泳法は知りません。でも泳法より大事なことは、水は俺の友達のようなものだということです」と書いてきた者もいる。「もし私が帆船で一人にされたら、自分の行きたいところにどこへでも行くことができるでしょう」というのが、志願者たる資格として三番目のものだった──とはいえ、次の資格よりはましだろうか。つまり「漁船が荷を下ろすのを見たことがあります」というのだ。とどめは、こいつにすべきだろう。こいつは世界や人生をいかに深く知っているかを遠まわしにこう伝えてきたのだ。「長く生きてきてもう二十二歳になります」

それから、単純かつ直截で、素朴で飾りっ気のない、表現の巧みさとは縁のない、本当に航海をしたいんですという手紙を書いてきた少年たちがいた。こういう連中の志願を断るのが一番つらかった。断るたびに、ぼくは自分がこの若い連中の顔をひっぱたいている気分になった。連中は本当に真剣に行きたがっていたのだ。「ぼくは十六だけど年のわりに大きいです」とか「十七歳ですが、体は大きく健康です」など。「少なくとも自分くらいの体格の平均的な少年くらいの強さはあります」と、明らかに体の弱そうな子が書いていた。「どんな仕事でもかまいません」というのが連中の多くが言っていることだった。金がかからないというところが魅力だったが、一人はこう書いてよこした。「ぼくは太平洋岸までの旅費は自分で払えます。だから、そちらにとっても受け入れやすいのではないでしょうか」と。「世界周航こそは私がやりたい唯一のことです」と一人が言ったが、同じ思いの者が数百人はいると思われた。「自分が出かけるのか気にかけてくれる人もいません」というのは、かわいそうな感じがした。自分の写真を送ってきて「私は地味ですが、いつも外見が大事だとは限らないでしょう」というのもいた。結局、ぼくは次のように書いてきたやつなら大丈夫だろうと確信した。「十九才ですが、かなり小柄な方なので場所をとりません。でも悪魔のようにタフです」 実は十三歳の応募者が一人いた。チャーミアンとぼくはその子が一目で気に入ったので、断るときには胸がはりさけそうだった。

snark_37

志願者で最高の冒険者

スナーク号の航海 (14) - ジャック・ロンドン著

サンフランシスコのボヘミアン・クラブには、何人かのベテランのヨット乗りのうるさがたがいた。なぜ知っているかといえば、スナーク号の建造中に連中がケチをつけたと聞いたからだ。スナーク号には一つだけ致命的な問題があるということだった。これに関しては連中みなの意見が一致していた。具体的には、スナーク号は風下への帆走(ランニング)では使い物にならないということだった。連中によれば、スナーク号はあらゆる点で申し分ないが、強風の吹きすさぶ大海原でランニングさせることは無理だろう、ということだった。「ラインズだ」と、連中はもったいぶって説明した。「欠点は船型だ。単純に、あれじゃランニングできるわけがない。それだけだ」 スナーク号にあのボヘミアン・クラブのうるさがたのベテランが乗っていて、あの強風が吹きあれた夜の走りを体験してくれていたら、連中が口をそろえた致命的という判断はくつがえったはずだ。ランニングだって? それはスナーク号は完璧にやってのけたぜ。連中は、ランニングって言ったっけ? スナーク号はバウからのシーアンカーを引きづったまま、締めこんだミズンで風下に走ってくれた。ランニングは無理だって? ぼくがこの原稿を書いている時点で、ぼくらは北東の貿易風を受けて六ノットで風下に帆走しているところだ。ランニングでは、きわめて規則正しい波にうまく乗っている。舵は誰も握っていないし、舵輪を縛ってもいないが、スポーク半分ほどのウェザーヘルムをこなせるよう当て舵はしてある。正確に言うと、風が北東から吹いていて、スナーク号のミズンは巻き取り、メインセールは右舷側に出し、ジブシートは一杯に締めてこんでいる。スナーク号の進路は南南西だ。とはいえ、四十年もの海の経験があり、操舵せずに風下帆走できる船はないと思いこんでいる連中もいるのだ。連中がこの原稿を読んだら、ぼくを嘘つきと呼ぶだろう。スローカム船長が世界一周したスプレー号についてぼくと同じことを言ったときも、連中はそう呼んだのだ。

スナーク号を将来どうするかについては、まだ決めていない。わからない。ぼくにお金か信用があれば、ちゃんとヒーブツーできるような船をもう一隻建造したいところだ。とはいえ、ぼくの資金はほぼ尽きている。現在のスナーク号で我慢するか、ヨットをやめるか――やめることなどできない。となれば、ぼくはスナーク号を船尾を前にしてヒーブツーさせるようにせざるをえないと思う。それを試してみようと次の嵐を待っているところだ。自分ではうまくいくと思っているのだが、すべては船尾が波にどう反応するかにかかっている。そのうちに、ある朝、中国の近くの海で、年老いた船長が凝視し、信じられないように目をこすってまたじっと見つめて、風変わりなスナーク号に非常によく似た小さな船が船尾を前にしてヒーブツーして嵐を乗り切っているところを目撃することになるかもしれないぜ。

追伸 この航海を終えてカリフォルニアに戻ったとき、スナーク号の水線長は四十五フィートではなく四十三フィートだとわかった。これは、造船所がテープラインまたは二フィート・ルールという条件を教えてくれなかったためだ。
訳注
ウェザーヘルム: 通常の帆走で船が自然に風上方向に切りあがろうとする傾向のこと。逆はリーヘルムと呼ぶ。この場面では、船を狙った方向に進ませるため、舵輪をスポーク一本分だけ風下側にまわしてある(これを当て舵という)。

スナーク号の航海(13) - ジャック・ロンドン著

とはいえ、またも信じられない、ひどい事件が鎌首をもたげた。なんとも不可解で、ありえない事態だ。信じたくもない。メインセールをツーポンリーフし、ステイスルをワンポンリーフしたのだが、スナーク号はヒーブツーしてくれないのだ。ぼくらはドラフトが浅くなるようにメインセールをきつく張ったが、船の向きは少しも変ってくれない。メインセールを緩めてみても結果は同じだ。ストームトライスルをミズンに上げて、メインセールを取りこんでみるが変化はない。スナーク号は波の谷間で横揺れしているばかりだ。美しい船首はどうしても風の来る方向に向いてくれない。

次に、リーフしたステイスルも取りこんだ。スナーク号で展開している帆はミズンマストのストームトライスルだけになった。これで船首が風上の方に向いてくれればよいのだが、そうはならなかった。話を面白くするための下心丸見えの筋書きと思うかもしれないが、実際にそうだったのだから仕方がない。どうやってもうまくいかなかった。信じたくはないのだが、これが現実だ。頭で考えたことを言っているのではなくて、実際に見たことを言っているのだ。

というわけで、心やさしき読者よ、小さな船に乗り、大海原の波の谷間で翻弄され続け、トライスルを船尾に上げても船が風に立ってくれない場合、君ならどうする? シーアンカーを取り出せって? いまやったところだ。特許を受けた沈まないと保証つきのものを特注して用意していたのだ。シーアンカーとは、巨大な帆布製の円錐形の袋で、その口を広げるために鋼鉄の輪がついている。ぼくらはロープの一端をシーアンカーに結び、もう一方をスナーク号の船首に結びつけた。そうしておいてからシーアンカーを海に投下した。すると、すぐに沈んでしまった。引き綱をつけていたので、それを引いて回収し、浮き代わりに大きな木片をつけてから、もう一度放りこんだ。こんどは浮いた。船首に結んだロープがぴんと張った。ミズンマストのトライスルには船首を風上に向けようとする性質があるが、それなのに、スナーク号はシーアンカーを引きづって進もうとした。波の谷間でシーアンカーが船尾にまわってしまい、それを引きずる形になって具合が悪い。ぼくらはトライスルを下し、もっと大きなミズンセールを上げてから、平らになるようぴんと張った。するとスナーク号は波の谷間で挙動不審になり、やたらシーアンカーを船尾の方向に引きずりまわしてしまう。ぼくの言うことを信じてないな。自分でも信じられないのだから仕方がないが、ぼくは見たままを話しているだけなのだ。

さて、ここで問題だ。ヒーブツーしたがらない帆船の話を誰か聞いたことがあるかい? シーアンカーを使っても駄目だった船の話さ。ぼくの短い経験でも、そういう話は聞いたことがない。ぼくは甲板に立ち、信じられない、とんでもない船、つまり、どうしてもヒーブツーしてくれないスナーク号をぼうぜんとして眺めているだけだった。嵐の夜で、とぎれとぎれに月光が差しこんでくる。空気は湿っていて、風上の方には雨を伴う突風の兆しがあった。大海原の波の谷間で冷たく無慈悲な月光を浴びて、スナーク号はやたら横揺れしている。ぼくらはシーアンカーを取りこみ、ミズンセールも下し、縮帆したステイスルを上げてから、スナーク号を風下に向けて帆走させた。そうしておいて下に降りた。暖かい食事が待っているというわけではなかった。キャビンの床は水びたしだし、コックと給仕は自分の寝床で死んだようになっていた。ぼくらはいつでも起きだせるように服を着たまま寝床に倒れこみ、船底にたまったビルジ水が調理室の床から膝の高さにまで達してピチャピチャいう音を聞いていた。

[訳注]

荒天時の帆船の対処法の基本は、
1.縮帆する
2.船首を風・波の来る方向に向ける(「風に立てる」と表現される)
の2点になる。

メインセールは数段階に帆の面積を減らせるようになっている。
ヨットでは一般に一段階目の縮帆(リーフ)をワンポン(ワンポイント)リーフ、さらに小さくする二段階目をツーポン(ツーポイント)リーフ(原文ではダブルリーフ)、、、と呼ぶ。

ステイスルは文字通りはステイ(支索)につける小さ目の帆のことだが、小型のヨットでは必ずしもステイに取りつけるとは限らない。メインセールの縮帆では追いつかないほどの強風では、メインセールを下し、ストームトライスルを上げる。

ジブセール(前帆)は何枚か用意しておいて、風の強さに応じて小さいものに取り替えることが多いが、以前にはジブも縮帆できるようになっているものがあった(現代は巻き取り式のファーラージブが普及している)。荒天用の特に小さく頑丈なものをストームジブという。

帆をすべて下してミズンセールだけ上げるというのは、現代でも釣り船や小型漁船が船を風に立てるのに使っているスパンカーと同じ原理だ。

船は構造や設計上、船首や船尾からの波には強いが、横から波を受けると、すぐに横倒しになってしまう。そのため、荒天では風や波に対して船腹を向けないようにするのがポイントになる。

シーアンカーは、頑丈な布製のパラシュートのようなもので、これを海中に投下すると、それが抵抗になって船首を風上の方向に引き戻してくれる。現代のヨットの航海記でも、シーアンカーの代わりにロープにタイヤをつけて流したりする様子がよく出てくる。ヒーブツーでダメなくらい風が強くなってしまうと、セールをすべて下し、シーアンカーを投入することになるが、これが抵抗になって船首が風上方向に向きやすくなる。これをライアハルとかライイングハルという。

シーアンカーは現代の釣り船でもおなじみで、潮に流されるのを遅くしたり船の向きを調整したりするために使用されたりもする。

本文にもあるように、ヒーブツーは陸から遠く離れた大海原での荒天対策の代表的な方法だが、船型によって反応が違ってくるので、特に帆が何種類もあり組み合わせも複雑な帆船では、その船に適した方法を見つけるには試行錯誤が必要になる。

ヒーブツーできないときは、ライアハル、それでもだめなときは、最後の手段として、本文にあるように風を受けて風下に向かって走るしかない。

速度調節や安定確保のため、船尾から長いロープを流したり、ドローグと呼ばれる抵抗物を流して引きづって走ることもある

スナーク号の航海(12) ジャック・ロンドン著

そこで、時間もお金もかけた、水密で頑丈なコンパートメントの出番なのだが──結局、これが水密ではなかったのだ。浸入した水は空気のように部屋から部屋へと移動した。おまけに、コンパートメントの背後から強いガソリン臭がしたので、そこに貯蔵していた六個のタンクのうちの一つか複数のタンクが漏れているのではないかと疑った。実際にタンクから漏れていて、それがコンパートメント内に密閉されていなかったのだ。さらに、ポンプとレバーと海水弁を備えた浴室だ──これも最初の二十四時間で故障した。ポンプを動かそうとすると、片手の力だけで頑丈なはずの鉄製レバーが折れてしまった。浴室はスナーク号で故障第一号になった。

スナーク号の鉄部は、材質はともかく、へにょへにょだと証明された。エンジンベッドのプレートはニューヨークから取り寄せたのだが、ぼろぼろだった。サンフランシスコから取り寄せたウインドラスの鋳物や歯車も同様だった。ついには、索具に使われている鍛鉄までも最初に負担がかかったときにあらゆる方向にちぎれてしまった。鍛鉄だぜ。それがマカロニみたいに折れてしまったんだ。

メインセールのガフ(斜桁)のグースネックが折れて短くなったので、ストーム・トライスルのグースネックと交換したが、二つ目のグースネックも使い始めて十五分で壊れた。いいかい、これって荒天用のストーム・トライスルのグースネックなんだ。嵐のときに頼りにしなきゃならないやつなんだ。グースネックの部分をぐるぐるに縛りつけてやったので、スナーク号は今はメインセールを折れた翼のようにひきづって帆走している。ホノルルでは本物の鉄が手に入ると思う。

奴らはこうやってぼくらを裏切り、ザルみたいな船で大海原へと送り出してくれたってわけだ。ところが、神様はちゃんとぼくらのことに気を配ってくれていた。凪が続いていたのだ。船を浮かせておくために毎日排水ポンプにかかりきりになっていなければならなかったが、船上で見つかる巨大な鉄のほとんどよりも木の爪楊枝の方がずっと信頼できるということもわかった。たまにスナーク号の頑丈さと強さがかいま見えたりもしたので、チャーミアンとぼくはスナーク号のすてきな船首をますます信頼するようになった。他にそういうものがなかったのだ。これが、ありえない、とんでもない話のすべてだが、少なくともあの船首だけは期待を裏切らなかったということになる。そうして、ある晩、ヒーブツーを開始した。

どう説明したらいいんだろう? まずヨットに不案内な人のために説明すると、ヒーブツーっていうのは、強風に備えて縮帆し、帆の展開具合や向きを調整して、船首を風や波の方に向けておく操船術の一つだ。風が強くなりすぎたり波が大きくなりすぎたとき、スナーク号のような船はヒーブツーでしのぐことができる。そうしておけば、船上では何もすることがない。誰も舵を持つ必要はないし、見張りも不要だ。全員が下に行って眠るかトランプをやったっていい。

ロスコウにヒーブツーした方がいいかなと声をかけたときは、ちょっとした夏の嵐の半分ほどの風が吹いていた。夜が近づいていた。ぼくはほぼ一日、舵を持っていたし、下にいると船酔いするので、ロスコウ、バート、チャーミアンの全員がデッキに出ずっぱりだった。大きなメインセールはすでにツーポンリーフ(二段階縮帆)していた。フライングジブとジブは取りこんでいたし、フォアステイスルは縮帆し、ミズンセールも取りこんだ。この頃になると、フライングジブのブームは波をすくうようになり、折れてしまった。ぼくはヒーブツーするために舵を切った。その瞬間、スナーク号は波の谷間に転がりこんでいた。船は谷間で揺れ続けた。ぼくは舵輪を押さえつけた。船は谷間から動こうとしなかった(心やさしき読者よ、波の谷間とは船にとって最も危険な場所なのだ)。スナーク号は谷間で横揺れしているだけだ。風に対して九十度に向けるのが精一杯だった。ぼくは、もう少し風の来る方に船首を向けようとして、ロスコウとバートにメインシートを引きこませた。スナーク号は波の谷間から抜けられずにいて、両舷は交互に下になったり上になったりしている。
訳注

メインセール(主帆):メインマストの後ろ側についている大きな帆。
ミズンセール:ミズンマスト(後檣)の後ろ側についている帆。
ジブ(前帆):マストの前にある帆。
フライングジブ:複数のジブがある場合、一番前のジブ。
ストームトライスル:荒天用の面積は小さいが頑丈な帆。
ガフ(斜桁):四角形の帆を張るため帆の上縁にある円材。
ブーム(帆桁):帆を張るため帆の下縁にある円材。
グースネック:マストとガフやブームの先端の接続部。

スナーク号の航海(11) ジャック・ロンドン著

もっと悪いことに、スナーク号が告発されたのは土曜の午後だった。ぼくは弁護士や代理人をオークランドとサンフランシスコに派遣したが、合衆国の判事はおろか保安官も売主一同氏も売主一同氏の弁護士も見つけられなかった。週末なのでみんな出かけていたのだ。それでスナーク号は日曜の午前十一時になっても出帆していなかったのだ。小柄な老人が担当のままで、どうしても出帆に同意してくれなかった。チャーミアンとぼくは反対側の埠頭まで歩いていき、スナーク号の美しい船首を見て慰めあった。この船が強風や台風にも堂々と立ち向かう様子について考えるようにしたというわけだ。

「ブルジョアのいやがらせさ」と、ぼくはチャーミアンに言った。売主一同氏と連中の訴えのことだ。「商売人ならパニックになるところだが、なに、気にすることはない。大海原に出てしまえば、この問題は終わるからな」

結局、ぼくらが出帆したのは、一九〇七年四月二十三日、火曜日の朝だった。白状すると、出だしからつまずいてしまった。動力伝達装置が壊れているので、アンカーも手で揚げなければならなかったのだ。おまけに、七十馬力のエンジンはスナーク号の船底のバラストとしてしばりつけてある。だが、それがなんだというのだ? エンジンはホノルルで修理できるだろうし、船の他の部分は立派なものだ! テンダーのエンジンが動かず、救命ボートはザルのように水漏れするというのは本当だが、そんなものはスナーク号そのものじゃない。単なる付属品だ。重要なのは、水漏れしないバルクヘッド、継ぎ目の見えない頑丈な厚板、浴室の設備-こういうものがスナーク号なのだ。なによりすごいのは、気品があって風を切り裂く船首だ。

ぼくらはゴールデンゲートブリッジを通過して太平洋に出ると南下した。北東の貿易風を拾えるだろうと思ったのだ。すると、すぐにいろんなことが起こった。雇った若者たちはスナーク号の航海に向いていると思っていたのだが、三分の二は当てがはずれた。スナーク号には三人の若者がいた──エンジニアにコックに給仕だ。ぼくは船酔いを計算に入れるのを忘れていた。コックと給仕の二人はすぐに船酔いで寝台にもぐりこんだまま、一週間というもの、まったく役に立たなかった。そういうわけで、ぼくらは食べるはずだった暖かい食事にはありつけなかったし、船室もきれいに整頓されることはなかった、わかるだろ? とはいえ、そんなことはどうでもいい。というのも、すぐに、凍らせてあった箱詰めのオレンジが溶け出しているのを発見したのだ。リンゴの箱も腐りかけて台なしになっていた。木箱のキャベツは届く前に腐敗していたので、すぐに海に捨てなければなかった。灯油はこぼれてニンジンにふりかかるし、カブはしぼんで薪のようになっているし、ビートもだめだ。たきつけは枯れた木だったが、燃えやしない。きたないジャガイモ袋に入れて届けられた石炭は甲板に巻き散らかされ、排水口から押し流されていった。

とはいえ、それがどうしたというのだ? そんなことは枝葉末節にすぎない。船があるし、それ自体にまったく問題はないじゃないか、そうだろ? ぼくはデッキを行ったり来たりしながら、ピュージェット・サウンド産の特注した美しい厚板材に一分間に十四もの継ぎ目を見つけてしまった。おまけに、甲板から水漏れした。それもひどくだ。ロスコウは寝台でおぼれかけたし、厨房の食料品がダメになったのはいわずもがな、機関室の工具も使い物にならなくなった。スナーク号の側壁からも水が漏れたし、船底も漏れているし、船を浮かべておくためにポンプで毎日排水しなければならなかった。排水して四時間もすると、厨房の床には船の内底から二フィートも海水が浸水し、厨房の床に立って冷たい食事にありつこうとすると、船室内で揺れ動く水に膝までつかるはめになった。

スナーク号の航海 (10) ジャック・ロンドン著

これはおそろしく厄介で、造船所ではなく海難救助業者の仕事だった。二十四時間に二度、満潮になる。夜だろうが昼だろうが満潮になるたびに、二隻の蒸気船のタグボートがスナーク号を引っ張った。スナーク号は水路と水路の間に沈み、船尾を下にして着底していた。この困った状況にある間に、ぼくらは地元の鋳造所に道具や鋳物を作らせて、エンジンからウインドラスまで動力を伝えた。例のウインドラスを使ったのは、このときが初めてだ。鋳物には割れ目があったため、バラバラになり、道具も壊れてしまって役に立たなくなった。ウインドラスが動かなくなり、その後で七十馬力のエンジンが故障した。このエンジンはニューヨークから運んできたのだ。土台になるエンジンベッドもそうだ。この台に傷が一か所あった。というか、たくさんの傷ができて、七十馬力のエンジンは土台から割れた。空中に跳ね上がり、接続部や締め具をすべて引きちぎって横倒しになってしまったのだ。それでも、スナーク号は水路の間に突き刺さったままで、二隻のタグボートはなんとか曳航しようと無駄な努力を続けていた。

「気にすることないわ」と、チャーミアンが言った。「船は一滴も水が漏れず頑丈だってことを考えましょうよ」
「そうだな」と、ぼくも答えた。「船首も美しいしな」
それで元気を取り戻すと、また作業に取りかかった。壊れたエンジンは、汚れた土台の上に固縛した。動力伝達装置の割れた鋳物や歯車は取り外し、保管しておいた──修理や新しい鋳物を作ることができるホノルルで、また取り出して使うつもりだった。はっきりとは覚えていないが、スナーク号の外側は一度白く塗っていた。日光の下ではっきり見えるようにするためだ。スナーク号の内部は塗装していなかった。逆に、グリースと、さんざん苦労させられたさまざまな技術者連中のタバコの唾が数インチも塗りこめられていた。気にしないようにしようと、ぼくらは言いあった。グリースや汚物は削り取ることができるし、いずれホノルルに着いたとき、本格的に修理し、塗装することもできるだろう。

奮闘努力した末に、スナーク号を難破状態から引きずりだし、オークランド市の埠頭に係留した。家から持ってきた衣類一式、本、毛布、各人の私物をすべて馬車で運びこんだ。それと一緒に、他のものもすべて船に持ちこんだりしたので、船上は大混乱だった──薪に石炭、水に水タンク、野菜、食糧、オイル、救命ボート、テンダー(足船)、友人たち、友人の友人たち、友人だと言い張る連中、乗組員の友人の友人の友人とでもいうほかない連中でごったがえした。おまけに、新聞記者やカメラマン、見知らぬ連中、変人、そうして極めつけは埠頭から流れてくる雲のような炭塵の煙。

snark_photo-p25

オークランド市の埠頭に係留

 

日曜の十一時に出帆する予定だった。すでに土曜の午後になっていた。埠頭には群衆が集まり、炭塵の煙も濃くなっていく。ぼくはポケットの一つに小切手帳と万年筆、日付スタンプ、吸い取り紙を入れ、別のポケットには一、二千ドル分の紙幣と金貨を入れていた。債権者が来てもすぐに対応できるし、こまごまとしたものの代金は現金で、大口は小切手で、というわけだ。あとは何カ月も作業を遅らせてくれた百十五もの会社の未払いの勘定書を持ってロスコウがやって来るのを待つだけだ。そうして──

それから、信じられない、ひどい話がまた起きてしまった。ロスコウが到着する前に別の男がやってきた。合衆国の保安官だ。スナーク号にはまだ未払債務が残っているという申し立ての通達を、埠頭にいる全員が読めるように、マストに貼りつけたのだ。スナーク号の管理人として小柄な老人を残し、保安官自身は行ってしまった。これで、スナーク号も、あの美しい船首も、ぼくにはどうしようもなくなった。この小柄な老人が今ではスナーク号の王であり主人なのだ。おまけに、ぼくはこの老人に管理料として毎日三ドルを支払うことになったらしい。ついでに言うと、スナーク号を訴えた男の名前も判明した。売主一同とある。債務は二百三十二ドル。この証書にはそれしか書いてない。売主一同だと! いやはや、売主一同だと!

とはいえ、売主一同とは誰のことだ? ぼくは小切手帳を調べて、二週間前に五百ドルの小切手をきっていた。別の小切手帳を見ると、スナーク号を建造している何カ月もの間に、ぼくは数千ドルも支払っていた。それなのに、なぜスナーク号を訴える代わりに、わずかな未収金を回収しようとしなかったのだろう? ぼくは両手をポケットに突っこみ、一方のポケットから小切手帳と日付スタンプとペンを取り出し、別のポケットからは金貨と紙幣を取り出した。このわずかな金の問題を解決する機会は何度もあったし、それに必要な金もあったのだ──なぜ、ぼくに支払うチャンスを与えてくれなかったのだろう? 説明はなかった。これがとんでもなくひどい話でなくてなんなんだ、というわけだ。