ヨーロッパをカヌーで旅する 13: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第13回)


夏の航海計画を立てるのは楽しい。ブラッドショーの海外鉄道ガイドに読みふけるのは六月とか七月だ。このガイド本には他にも有益な情報は掲載されているのだろうが、どこへ行こうかと思案しつつ、ぼくは自分に興味のある「蒸気船と鉄道」のページだけを何度も読み返した。

こうした楽しみはすべて、次のような質問に対する答えが自分のなかできちんと出ているかにかかっている。気分転換したいのか、ゆっくりのんびり過ごしたいのか? 休息のために出かけていくのか、保養のためなのか、はたまた精力的に動きまわって夏を存分に楽しみたいのか?

とはいえ、誤りのないことでも有名なブラッドショーのガイド本にも、ぼくがカヌーについて知りたいと思っていることに対する答えは載っていなかった。自分で持ち運ぶボートについての旅行ガイドなんて、どこにも存在していないからだ。だから、どうしようかという悩みについては、フライバーグですぐに決着がついた。とにかく「ドナウ川の源流まで行ってみよう」と、単純明快に決心したのだ。

で、翌朝にはもうカヌーを荷車に載せ、例によってグレーの服を着用し、埃っぽいヘレンタールの通りを歩いていた。そのときのぼくは、体調もよく意気軒高で、うきうきと心も軽く、はつらつとして明確な目標も持っていたが、具体的に何をすべきか、何を見るべきか、誰に会うべきかわからないという状態なのだった。これをどう表現したらいいのだろう? こういうときには、とにかくうれしくて、簡単に「感謝の念に満ちた!」状態でいることはできる。

あれこれ思案しながら数マイルほど歩いていくと、イギリス人を満載した馬車が追いこしていった。やがて彼らとも道連れになった。外国でのイギリス人の評判は「他人行儀で、無口で、尊大で、陰気で、信用できない」だ! ぼくに言わせれば、それはとんでもない誤解だ。 非常に美しい深い峡谷を通っていく間ずっと、連れの女性たちはぼくのような者でもちゃんと相手をしてくれたし、ヘレンタール峠をこえるときは、荷車に載せたカヌーがぼくらの後ろからちゃんと運ばれてくるようにしてくれた。旅行者は汽車でスイスに向かうので、フライバーグの尖塔を車窓から眺めて感心する人は多い。が、この峠まで足を運ぶ人はめったにいない。

黒い森という意味のシュワルツワルトがスイスへの入口になっている。森林や岩場が多くて不気味な場所だが、立派な道路が通っているし、ちゃんとした宿もあちこちにあった。村は森の中にあった。一軒おきに製材工場があるのではというくらい、せわしなく活力に満ちた音が響いてくるが、それにカッタンコットンと水車のまわる音がまじって、なんとものどかな感じだ。観光客が景色を眺めに来るのはそこまでだ。さらに進むと、暗い色をした大海原のような壮大な山岳地帯が広がっていた。家々は大きくなる一方で、その数は減っていく。ほぼすべての建物の脇に小さな礼拝堂があり、聖人の等身大の木像が破風の端に取りつけられていた。ある夜、ぼくはこうした巨大な建物の一つに泊まった。使用人やら農作業を終えた連中が戻ってくると、その半数はなかば歌うような調子で、小さな声だが節をつけて祈りを唱え、それから大盛りの夕食に挑むのだった。

馬車はさらにけわしい山岳地帯を登っていった。どちらの側も山に囲まれた渓谷の盆地のようなところで、頭上には巨大な老木がそびえている。こうした巨木はいずれ切り倒され、ストラスブールで見るような大きなイカダの一つに載せられてライン川を流れ下っていくのだろう。

ライン川のイカダは有名だからこまかい説明は省くが、広い水面に丸太が延々とつらなって浮かび、その上に小屋が立ち並び、陽気なイカダ師たちが大挙して乗っている。連結させた長大なイカダを操作しながら流すには五百人もの人手が必要で、その材木の値は三万フランにもなるという。

この峠の一番高いところが分水嶺だった。スイスのバールに宿をとり、カヌーも安全に保管してもらえるようにしておいてから、ぼくはカヌーを浮かべられる流れを探すため徒歩で遠くまで見てまわった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 12: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第12回)


天気はまたすぐによくなって楽しくなった。というか、カヌーって狩猟もできるんだって感じになってきた。というのも、いかにもここは俺の縄張りだぞといいたげな野生のカモが浮かんでいたし、浅瀬を歩いていたサギは、ぼくらが近づくと、こわいこわいという風に遠ざかっていったりしたからだ。それで、相棒は銃を構えた。ぼくは猟犬になったつもりで、川の反対側からこっそり忍び寄り、パドルで獲物を指すという遊びをやったりした。

この遊びに、ちょっと夢中になりすぎてしまった。相棒の伯爵は岸に上がり、土手で腹ばいになった。ぼくらを小馬鹿にしている鳥の方へと前進していく。彼の射撃の腕は一流で、ウインブルドンの大会でも実証済みなのだが、いかんせん短銃でサギを撃つのは簡単ではなかった。

影が長く伸びてくると、この単調な川も美しく見えてきた。夕方、人気のないプールで水浴びをし、泳ぎ疲れるとまじりけのない黄色の砂場で横になって休んだ。ハーナウで宿泊することにした。

翌日のマイン川の川下りについては、とにかく楽しかったことだけは覚えているが、最後に大きな城に着いたことを除いて、ほとんど記憶がない。城のある場所で、一隻の船が停泊していた。明らかにイギリスのものだった。その船についてあれこれ探っていると、一人の男が皇太子の船だと教えてくれた。しかも、「いまバルコニーから君たちをご覧になっているよ」と言うのだ。ここはルンペンハイムにあるケンブリッジ公爵夫人の城で、フェリーを下車した四頭立ての馬車が、皇太子夫妻をこの川辺の城へとお連れしたところなのだった。そこからフランクフルトまでは、西の強風が吹いたので、必死でパドルを漕いだ。ルシーという宿で濡れた服を乾かした。ヨーロッパで最高級のホテルの一つだ。

翌日、フランクフルトのボート乗りたちは、イギリスからやってきたぼくらのカヌーが川を軽々と進んでいく様子に驚いていた。風を受けて川を飛ぶようにさかのぼったり、「地面が濡れているだけ」の浅瀬では、パドルを漕いで向きを自在に変えた。二人とも楽しいからカヌーに乗っているのだったし、カヌーに乗ってしまえば体重は関係ない。もっとも、ぼくらの乗っているカヌーには、二人一緒に乗って快適に漕げるだけのスペースはなかった4

原注4
ロイヤル・カヌー・クラブには、何隻か「二人用」カヌーがある。各艇に二人の漕ぎ手が乗るので、非常に速い。最近ではクラブは毎年のように、各艇に四人を乗せ、ダブルパドル*1を使ったレースも行っている。オークやヒマラヤスギやパイン材で作ったカヌー以外にも、皮や帆布、ブリキ、紙、天然ゴム製のカヌーも所有している。

 

脚注
*1:ダブルパドル - 両端に水をかく平たいブレードがついているパドル。ダブルブレードパドルとも呼ぶ。
カナディアンカヌーのようにデッキがないカヌーでは、片側のみのシングルブレードパドルを使うのが一般的で、その場合、一本のパドルを持ち替えて両舷を交互に漕ぐ。

日曜日、例のやんごとなき高貴な方々がフランクフルトにある英国国教会の教会に来場された。他の聴衆と同じように歩いて礼拝堂から出てこられたが、静かで上品なやり方で、派手な行進なんかするより親しみが持てた。

厳粛な場では、シンプルに徹することが真の威厳につながる。

その翌日、とにかく行動的で陽気な相棒は、ぼくと別れて帰国することになっていた。ウインブルドンではその腕前で年間最優秀賞を獲得していたのだが、彼はウインブルドンでの二週間の射撃練習だけでは満足していなかった。沼地や草地での狩猟の予定が詰まっていて、それとは別に仕事でも故国にいる必要があったためだ。相棒はライン川をケルンまで漕ぎ下った。途中で何度か、全速力で進んでいる蒸気船にロープのフックを引っかけてカヌーを引っ張らせるという離れ業を演じて見せたりもした5

原注5
アバディーン伯爵は、後年、ある帆船に乗っていて溺死した。卿の兄弟の故ジェームズ・ゴードン氏はプロのカヌーイストで、ロブ・ロイ・カヌーに乗って英国海峡を横断した最初の人である。現在の伯爵もロイヤル・カヌークラブの会員であり、物故されたがフランスの王位継承者だった方もこのクラブに所属し、四隻のカヌーを所有されていた。協会の会長は英国皇太子である。

一方、ぼくは自分のカヌーを鉄道でフライバーグまで運んだ。そこから、まったく新しい航海を始めるのだ。というのも、ここまでは知っている川だったが、ここから先は、ロブ・ロイ・カヌーでは未知の水域を漕ぐことになる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 11:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第11回)


一日が長く、しかも楽しかった。とはいえ、何度か、にわか雨に降られた。あわやというところで土手に乗り上げたり、竹製のマストが折れたりもした。帆が垂れ下がってしまい、突風で傘が逆さになったみたいに、みっともなかったりもした。こんな状況ではあったが、心配は何もしていなかった。ケガもしていないし、文句をいうことでもない。ぼくは庭師のところに行って、マストの代用になる、もっと強いものを手に入れてきた。タチアオイの支柱として使われたりする、緑色に塗った長い棒だ。これは今度の航海で最後まで持ってくれたし、折れた竹は帆の下縁を張るブームに作り直した。

アバディーン伯爵は次に下る予定のナーエ川を下見に出かけたが、結果はあまりかんばしいものではなかった。ぼくも試験的に河口から漕いでさかのぼってみたが、非常に水深が浅かった。

汽船で別の場所に行こうという意見には同意するしかなかった。ぼくは重力という普遍的な原則を尊重し、それには逆らわないようにしているので、カヌーの旅で地球を味方にするには、川をさかのぼるよりは下る方がずっといいというわけだ。蒸気船や馬や人力を活用してカヌーを川の上流へと運び、重力の助けを借りて川を漕ぎ下るのが賢明なやり方だ。

相棒がイギリスに戻らなければならない期日が迫っていたので、ぼくらはマイエンヌまで行ってから、汽車でマイン川が流れているアシャッフェンブルクに向かった。カヌーを貨車で運搬する際には、例によって一悶着あった。エクス・ラ・シャペルのときのように、寛大な対応をしてくれる救世主みたいな人物は出現しなかった。小うるさい手荷物係と支払いの件で交渉した。ちょっとした悪気のない嘘もついたが、今回の航海でそんなことをしたのはこのときだけだ。

鉄道で乗り合わせた乗客の一人がぼくらの旅に非常に興味を抱いてくれた。ぼくらは事細かに説明した。後でわかったことだが、相手は、ぼくらが「二つの小さなキャノン(cannons)」を伴って旅をしているのだと思い込んでいた。フランス語の小舟(canots)をカノン(Canons)と聞き違え、さらに大砲という意味もあるキャノンだと思い違いしていたのだ。で、そのキャノンとは何だということで、彼はキャノンなるものの長さと重さについても聞いてきた。ぼくらの「キャノン」は長さが「十五フィート」(約4.5メートル)で重さは80ポンド(約32キロ)、しかも、そのキャノンを売るためではなく好きで運んでいるのだと聞いても平然としていた。ぼくらはキリンを運んでいるんですよといっても、彼は少しも驚かなかっただろう。

アシャッフェンブルクという、この長い名前を持つドイツの町の宿屋に宿泊していた客たちは、丁重な受け答えながらも大きな関心を寄せてくれたので、ぼくらとしても嬉しかった。ぼくらは二人ともカヌーに乗るときは灰色のフランネル地の服を着用するのだが、これが彼らをひどく驚かせたようだ。こういう服装についてびっくりされたり、なぜこんな旅をしているのか、どこへいくのかなどと聞かれるのは、海外でカヌーを漕いでいると日常茶飯事だ。

マイン川でカヌーを漕ぐこと自体に問題はなかったが、景色は可もなく不可もなくといったところだった。いい風が吹くと、ぼくらは帆を揚げ、カヌーをヨットのように帆走させようと苦心して時間を無駄にした。川では、追い風でない限り、そううまくいくものではない。う雨が激しくなってきたので、ランチタイムということにして、ぼくらはとある宿屋の一部になっている殺風景な離れのようなところに逃げ込んで昼食をとった。そこには古くなった黒パンと生のベーコンしかなかった。ずぶ濡れになって、この粗末な食事をとっている間も、風は音をたてて吹きつのり、雨音も激しくなった。ぼくらはレインコートを着たまま寒さに震えた。今度の旅でこんなひどい目にあったのは、このときだけだ。この贅沢な旅で、これほど過酷な状況というのは他になかった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 10: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第10回)


翌日、乗客の荷物だとはっきりわかるようにカヌーを台車に載せて鉄道の駅まで運び、理をつくしてカヌーが手荷物であることを証明しようとしたが、ポーターたちは頑強にそれを認めようとはしなかった。が、一瞬にして、彼らの態度が一変した。理由はわからないが、あわててぼくらのところにやってくると、放置されていた二隻の「ボート」をひっとらえて貨物車まで大急ぎで運び、中に押し込んで扉をバタンと閉めた。汽笛が鳴り、汽車が動き出した――「連中が突然なぜ折れたのかわかるかい?」と、一人のオランダ人がきいた。彼は英語が話せた。「いや、まったくわかりません」と、ぼくらは答えた。「君らが英国首相の息子とラッセル卿の息子だぞと言ってやったのさ、私がね」

だが、鉄道での相手の対応は、エクス・ラ・シャペル(ドイツ語ではアーヘン)でまた元に戻ってしまった。ぼくらはなんとか説得しようとしたが、今度はこっちが折れるしかなくて、カヌーは「交易品」扱いにされてしまった。夜中にゆっくり運ばれて、「たぶん明日」には到着するだろうというわけだ。責任者だという男は、ぼくらのカヌーを自分の戦利品として分捕ろうとしているのではないかとすら思えたが、そいつが偉そうに声を張り上げているとき、乗客の荷物担当の「上司」が出てきて話を聞いてくれた。そうして、穏やかな口調で、ぼくらのために特別に覆いをつけた貨車を用意するよう命じてくれた。ドイツのケルンに着くと、貨物用の料金は「まったく支払う必要がなかった」3。

原注
*3: これは例外的なケースだ。イギリスに戻ってから、ぼくはその人にお礼状を書いた。こういう手荷物としての優遇措置がまた受けられると期待するのはもう無理だろう。カヌーを貨車に載せる場合、何かと扱いにくく場所もとるので、特別扱いには反対するのが当然だと思われている。フランスでは、鉄道の貨物車は他国の貨車より長さが短いし、関係者たちはカヌーは交易品と同じ扱いになると主張した。ここで述べたのは、ベルギーとオランダで起きたケースだ。ドイツでは、カヌーを手荷物として運ぶことについて問題はほとんど生じなかった。スイスでは、誰も異議をとなえなかった。だって、こいつイギリスからの旅行者だぜ、というわけだ。イギリスの鉄道関係者はどうかといえば、カヌーのような長尺で軽量の物品を好意的に判断してくれる人も多少はいて、カヌーを客車の屋根に載せて運んだりもできる。偉い人たちは、交易品としてカヌーに関税をかけても税収が増えるわけじゃないと思っていて、カヌーイストはポーターが運搬するときには必ず自分も手伝うので、手荷物か否かでトラブルが起きることは少ないだろう。カヌーを使ったこういう旅が現実に可能だと広く理解されるようになれば、いずれ各国の鉄道すべてで何らかの明確な規則が定められることになるだろう。結局、カヌーの旅は貨車で運んだりするため遅いものにならざるをえず、普通の交通機関を利用して観光して歩いたほうがずっと簡単ではある。

静かなところがいいと思って、ケルンでは対岸のドイツ地区にあるベルヴューホテルに行った。ある大きな合唱団体がそこでコンクールをやっていて、すばらしい歌や踊りが演じられていた。翌日の日曜日、この静かなはずのドイツ地区で、射撃祭が行われた。見事な腕前で射撃王に選ばれた男は、その妻とともにオープンカーならぬ幌のない馬車に乗ってパレードをした。二人とも正装して真鍮製の王冠をつけ、歓声を上げる群衆に会釈を返した。闇夜に青い光がきらめき、ロケット花火が打ち上げられた。

ケルンでは、アバディーン伯爵が蒸気船の切符を買いに行っている間に、カヌーを台車に乗せた。彼が前で引っぱり、ぼくは後ろから押して運んだ。川までの道すがら、みすぼらしい身なりの男につきまとわれた。荷物の運搬人として雇ってくれというのだ。断ると、ひどく腹を立てた。大きな石ころを拾い上げ、荷車の後を威嚇しながら追ってきた。あの石をカヌーにぶつけられでもしたら壊れるなと気が気じゃなかった。両手をカヌーから離すわけにもいかないので、近づかないよう足で蹴って遠ざけながら、小走りで急いだ。衛兵の一人がその様子を目撃していた。すぐに警官がそいつを捕まえ、ぼくのところに連れてきた。すると、そいつは怒るどころかガタガタ震えていた。「この辺では旅行者が被害にあってるんですよ」と、警官は処罰したそうな口ぶりだったが、ぼくは彼を罰しないようにと言った。この出来事について書いたのは、今度の航海でこういう目にあったのは、このときのたった一度だけだということを知ってもらいたいからだ。

ぼくらはカヌーを蒸気船に積みこみ、ライン川の川幅が広くなっているビンゲンまで運んだ。ここの景色はすばらしくて、ぼくらは川を存分に楽しんだ。絶好の風を受けて帆走したり、中洲に上陸したり、蒸気船の引き波を利用して波に乗って加速したりと、ヨットの航海にピクニック、それにボートレースをあわせて一度に楽しんだというわけだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 9: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第9回)


ライン川では、若者も少年たちもとても泳ぎが上手で、その多くは飛びこみもうまかった。ところどころに似たような構造の女性用プールもあった。水遊びするときは口数も多くなるので、そういうところでは、うるさいくらい元気な歓声が聞こえてきたりする。

川の近くにある駐屯地の兵士たちも規則正しく行進して水浴びに来ていたが、ある日、ぼくらは大勢の若い新兵が水浴びするために集まっているのを見た。

水につかっている者もいれば、射撃訓練で的を狙っている者もいた。的は三個あって、それぞれ厚紙でできていた。垂直に立てた板に取り付けてある。記録係は防弾用の盾で安全に保護されてはいたが、三つの的すべてがよく見えるように、的から非常に近いところに配置されていた。射撃する側は一人ずつ、それぞれの的に対峙して銃を撃つ。弾丸は厚紙を貫通して丸い穴を残し、弾丸自体は背後の地面にめりこんだ。掘り出してまた使うことができるわけだ。イギリスでは鉄製の的を使うので、弾丸は破裂して四方に散らばってしまい、記録係や周囲の人間にとっては危険きわまりない。

そんな感じで三人が射撃すると、太鼓と旗とラッパの合図で射撃がやむ。と、記録係が防弾用の盾から出てきて、それぞれの的にできた弾丸の痕を示し、紙を貼って穴をふさいだ。記録係が防弾盾の背後に戻ると、射撃が再開される。この安全な射撃訓練のやり方は、イギリスで最近まで軍隊の訓練で用いられていた方法に比べると、ずっとよかった。このフランス流の方法は、射撃の腕前がはっきり示されるという点でも非常に効果的だ。

川で、ある湾曲部を曲がると、牛の大軍が群れをなして川を渡ろうとしているところだった。ぼくはカヌーに乗ったまま、そのど真ん中に入り込んでしまい、牛が闖入者(ちんにゅうしゃ)にどのように反応をするのかを身をもって知るはめになった。ナイル川でカヌーを漕いだときに、朝や晩に黒い牡牛が川を泳いで渡るのを目撃したことがあるのだが、それは川から這(は)い出てくる「牝牛」についてエジプトの王が見た夢の一つを思い出させるものだった*1。創世記に出てくるこの逸話には子供心にも当惑したが、実際に川を渡る牛に遭遇してみると、そうおかしな話でもない。聖書は、牛が川を泳ぐということを明確に示した本でもある。真実は目ではっきり見たときに、より本当らしく思えてくるものなのだ。

夕方になって長い影ができるようになったころ、ぼくらはオランダのマーストリヒトの町の近くまでやって来た。ここには、ヨーロッパでも最も強固な要塞が築かれている。つまり、町は一世紀も前のアームストロング砲やホイットワース小銃に抗するため、まっすぐな高い壁に囲まれていた。

川は深くて流れは速かったが、暗くなってから近づいたのに、どこにも街の灯が見えなかった。林を抜けて、町の真ん中あたりまで来たはずだったが、家々の灯がどこにも見えないのだ。この町の家には窓がなく、明かりもつけず、ロウソクをともすことすらないのだろうか? そう、一つの明かりも見えないのだった!

川の両岸には巨大な高い壁が続いていた。右岸を調べたが門や港のようなものを見つけることはできず、この奇妙な場所の左岸沿いは崩れていた。

後でわかったのだが、交易や往来する船はすべて、そこからぐるっと回って、この古くて荒廃した要塞の上へと続く運河に向かうことになっていた。そのため、両岸の無愛想なレンガ造りの壁がぼくらを取り囲み、脇道にそれないようにしているわけだった。そのまま進んでいくと、闇の中で、頭上に橋がぼんやり見えてきた。そこに到着すると、橋の上にいたオランダの悪ガキどもが小石を雨あられと降らせて、ぼくらを歓迎してくれた。ヒマラヤスギの傷がつきやすいデッキの上で、小石は情け容赦なくぱらぱらと音を立てた。

ようやく壁をよじ登れそうな場所を見つけた。がれきが積み重なり、ちょっとした坂のようになっていて、そこには何もないのだが、そこからカヌーをなんとか堅固な要塞の上まで引き上げることができそうだった。そうやって、この眠ったような町にカヌーを運び入れた。門番がぼくら二人の顔をランプの光で照らし、いぶかしむように凝視したのも無理はない。灰色の服を着た二人のやせた男が運んでいるものは、二つの長い棺桶のように見えただろうから。門番氏は驚いていたが、話のわかる人で、ぼくらをホテルまで、暗くて人気のない通りを歩いて案内してくれた。

脚注
*1:  川から這(は)い出てくる牛 - エジプトの王(ファラオ)が繰り返し見たという、最初は丸々と太った牝牛七頭が、それからやせこけた牝牛七頭が川から出てきた夢のこと。
旧約聖書の創世記によれば、ユダヤ人の祖であるヤコブの子のヨセフが、その夢は「七年の豊作と七年の凶作が続く」ことを示す神のお告げだと預言したことから、ヨセフは王に重用され、イスラエル人をその後の飢饉から救うことになったとされる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 7: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第7回)


美しくて幅も広い川で、流れも早く水深もあり、しかも追い風が吹いているという状況では、帆走も楽ちんだ。通りすがりの小型の蒸気船に近づくと、舷窓ごしに小銭をくれたり、コップについだビールを差し入れてくれたりした。乗客たちはぼくらに驚き、笑ったり、あれこれ言いあったりしていたが、なかには、この、どうみても惨めな英国人を見て「笑ったりするのは不作法では?」と懸命にしかめっ面をしている人もいた。

今度の航海では、こうしたかぞえきれないほどの、ちょっとした出来事が次々に起きた。そういうことはすべて、岸辺での出会いとはまるで違っている。ウイという地名の砦まで来たところで一日目の予定が終了したのだが、絵に描いたような、まったく新しい体験はこうしてはじまったのだった。

カヌーは夜間には馬車置き場に保管してもらった。翌朝見るとカヌーに問題はなく、馬具をかける釘に引っかけて干していた帆はまだ半乾きだった。が、厩務員やその仲間の連中がどこにもいなかった。皆、ある偉大な音楽家の長い葬列に参加していたのだ。その音楽家の名前も、ウイという地名についても、それまで聞いたことがなかったのだが、死んだ音楽家はウイに住んでいて、五十歳だったという。ウイについては、巻末の地図に掲載してある。

はじめての川をのんびり下っていく楽しみというのは、なんとも独特で魅力的なものだ。少し進むごとに新奇なものが見えてくるか、わくわくするようなことが始まるのだ。こっちでツルが舞い上がったかと思うと、向こうではアヒルが羽をばたばたさせていたりする。カヌーの脇でマスが跳ねて水しぶきをあげたりするし、川の湾曲部を曲がるときには、岩場を流れ落ちる水音が用心するよう警告してくれる。いきなり水車用の水路が出現することもある。こうしたことすべてが――風景や川沿いに住む人々や天候に加えて、難所に出くわしても何とか先へ進もうと決意したり、カヌーを無人の原野に放置できないので、なんとか暗くなる前に人家のあるところまでたどり着こうと思ったり、昼食を入れるはずのバッグはずっと空っぽだったりという――こうしたことすべてが、馬車にゆられて百マイルの旅をしているときには居眠りしていびきをかいていたはずの旅人の心に緊張感をみなぎらせてくれるのだ。

人生という旅と同じように、悩みや困難も、それ自体がそれぞれ人生について教えてくれる。人生がすべて、一直線の運河で曳航される船に乗っているようなものだったら、どうしたって緊張感も失われるし、ボーッとしたまますごしてしまうだろう。カヌーの旅では、浅瀬や岩場や渦が魂をゆさぶるような試練となって襲いかかるので、波を受けて激しく上下動したりすることのない大型帆船の旅では、小さなカヌーでなんとか無事に港までたどり着けたときの、あの、ほっとした気持ちを半分も味わえないだろう。

川の流れはすぐに早くなり、生命があるようにリズミカルになった。必死で漕いだので、お腹もすいた。いきなり木々が前方に出現し、どんどん高くなってくる。が、実際には、ぼくの方から林に向かって突っ走っているのだ。川岸では、感じのよい村々が、ぼくに会いに来るように、ゆっくり動いている。夢のなかの絵のように、すべての生命が一つになって穏やかに滑っていく。はるか遠くで何か音がしているが、気になるほどではなく、ごみごみもしていない。突然に何かが起きたり、けたたましい物音が聞こえたりすることもない。自分が動いているのではなく、つねに他の物が動いているようだった。州都のリエージュに近づくにつれて、さすがに街の喧騒が聞こえてきた。そこでは高速船スラン号を見た。両舷で水をかいて推進していた。その蒸気船の引き波で、カヌーは激しくゆれた。その波は船着き場の中まで追いかけてきた。着くとすぐにカヌーを陸揚げし、庭のようなところに置いた。夜間はそこに保管するのだ。

リエージュは、いたるところ銃だらけだった。この地では、だれもかれもが銃を作ったり携帯したり発砲したりしていた。背中にライフルを背負った女性さえいたが、ライフル一丁の重さは十ポンドもある。市場にはたくさんの果物が並んでいたし、訪ねてみる価値が十分にある教会も存在しているものの、この地のイメージは結局は銃だった。

だが、旅で目撃した町々の様子をこと細かに表現することがぼくの目的ではない。リエージュについては何年も前に訪ねたことがあるし、実際にこの航海記で取り上げる町のほとんどは、はじめての場所ではない。だから、今度の航海の魅力がどこにあるかといえば、知らない土地に行くことではなく、すでに知っている土地を新しい視点で眺めてみるというところにあるのだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 6: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第6回)


シーアネスからドーバーまで鉄道でカヌーを運ぶことにした。機関車の燃料となる石炭を積んだ貨車の上に積むしかなかったが、土砂降りの雨が降りだし、風も強くなったので、蒸気機関から出る火花が大量にカヌーにも吹き込んでしまう。それで、カヌーは大型のスーツケースみたいなものだからと頼み込んで、なんとか貨物車に積むことができた。今度の長旅は、こんな風にして始まった。

ロンドン・チャタム・ドーバー鉄道会社は、この新種の「箱」を乗客の手荷物として取り扱ってくれたので、追加料金を支払う必要はなかった。ベルギーのオステンドまでの船旅でも、汽船会社は同じように寛大に取り扱ってくれた。というわけで、イギリスのカヌーイストが大陸に渡る際には「このコースがお勧め」だ。

ベルギーに渡航する前、ドーバーに一日滞在した。必要な物資を買い入れ、カヌーで使うジブ(前帆)を腕の良い職人に仕上げてもらった。ドーバーでは、カヌーを緑色の海に浮かべ、埠頭の先端付近の、波が打ち寄せているあたりで試走を兼ねてカヌーを漕いでもみた。ベルギーのオステンドでも、押し寄せてくるうねりに乗ってみたり、巻き波や堤防の砕け波の近くで漕いでみたりもした。オステンドでは、風はドーバーほどではなかったが、引き潮が強くて波も高かった。浅いところでは、太った海水浴客たちがパチャパチャやっていた。アヒルのようにすいすい泳いでいる人もいた。妙な服を着せられ、波で体が上下するたびに泣き叫んでいる子供たちもいて、大人たちは大喜びしていた。そうした光景を横目で見ながら、幅が広くて直線上の運河で帆を揚げて静かに進んでみたりした。

そこからまた汽車に乗ったのだが、鉄道会社にかけあって事情を説明すると、カヌーを貨物車で運ぶことに同意してくれた。ブリュッセルまでの「超過貨物」分の料金として一フランか二フラン払った。ブリュッセルでは、カヌーを荷車に載せ替え、街なかを突っ切って別の駅まで運んだ。夕方にはナミュールに着いた。ここでは夜の保管場所として宿の主人が空き部屋を提供してくれたので、椅子を二つ並べてカヌーを載せておいた。

翌朝、ポーター二人に担いでもらって市街地を抜け、サンブル川でカヌーを漕いだが、漕ぎ下るというほどのこともなく、すぐにムーズ川*1に合流した。

きらめく川面に光輝く太陽、小さく可憐なカヌー、うきうきする心、積みこみ終わった荷物たち、速い川の流れ──こういうものを、だれが徒歩や鉄道や汽船や馬の旅と交換しようと思うだろうか?

こういう航海の最初の段階では、快適な流れがあれば、それで十分に満足できる。岩や急流の魅力についてはまだよくわかっていないからだ。川旅では、川にいるというだけで目新しいことの連続なのだから、初めのうちはこのムーズ川のように静かで、のんびりできる、ちゃんとした川を選ぶべきだ。川岸は水辺から見るとおとなしい感じだが、流れの中央に出てみると新鮮な景色がひろがっている。普通の旅行では車窓に見えている風景が、川の上では自分を中心に一気に拡大し、前方から押し寄せてくるのだ。川に浮かんで穏やかに揺れていると、景色はこっちでは大きくなり、あっちではまた新しくなって、次から次へと自分に向かって迫ってくる。

最初の浅瀬では、ぼくは慎重の上にも慎重を期した。カヌーから降り、手にかかえて渡ったのだ。それからひと月もすると、こういう浅瀬があっても平気で突っこんで舟底を小石でがりがりこすりながら突っ切ったりするようになってしまった。とはいえ、この最初の障害物に遭遇したときは心細くて、どうやって乗りこえようかと思案したものだ。そのとき、うまい具合に男が一人やってきて(ま、たいていはそうなるんだが)、二ペンス払うというと、喜んでカヌーを抱えて陸上を迂回するのを手伝ってくれた。それで、またカヌーに飛び乗ったわけだ。

脚注
*1 ムーズ川 - フランス北東部からベルギー、オランダを経て北海へとそそぐ全長950キロメートルの川(オランダではムース川ともいう)。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 5: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第5回)


帆を揚げて進んでいくと、だんだん川幅が広くなり、川の水も塩からくなってきた。ぼくはこの界隈の地形についてはよく知っていた。以前、ケント号という小さなかわいいヨットに犬を一匹乗せ、海図に方位磁石とヤカン一個を積んで、テムズ川の河口付近を二週間ほど航海したことがあったのだ。

蒸気船のアレクサンドラ号がやってきた。階段状になったアメリカ式の高いデッキには大勢の人々がいて、この小さなカヌーに歓声をあげてくれた。ぼくらの航海が新聞に掲載されていたのだ。もうここまで来ると、両岸は遠くかすんだ青色になり、川というよりは海という感じになってきた。ノールまで来ると、イルカの大群に遭遇した。悪さをするわけではなく、すばしっこく動きまわる愉快な連中だ。これまでイルカがこれほど近くに寄ってきたことはなかった。カヌーがあまりにも小さいので、シャイで利口なイルカたちにとっても、それほど警戒すべき相手とは見えないのだろう。カヌーは波を乗りこえるたびに揺れたし、イルカたちはパドルが届きそうなところまで何度も近寄ってきたが、追い払ったりはしなかった。連中に尾で一撃されれば、こっちの方がすぐにひっくり返ってしまうからだ。

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マクレガー本人が描いたセーリングカヌーでの航海の様子

サウスエンドまで快適なセーリングだった。それから豪雨になったので帆をおろし、シューバーイネスまでパドルを漕いだ。砲兵隊の野営地に数日滞在する予定にしていた。第一回の射撃競技のために全国各地から集結しているのだった。

英国陸軍砲兵隊は、ぼくらのようなこのイベントの志願兵を丁重に遇してくれた。将校の四分の一が砲兵隊の全国会議に出かけていて留守だったので、余計な気を使わずにすんだ。とはいえ、この野営地は低湿地に作られていて、あちこちぬかるんでいた。ヨークシャーやサマセットやアバディーンなどからやって来た、六十八ポンド砲を扱う頑健で背の高い男たちも、ぬかるみで苦労していた。彼らは分厚いブーツをはき、ユーモアもあった。小雨が降り続くなか、キャンプファイアを取り囲んで歌をうたったりした。翌日は標的に向けて砲撃した。彼らは正真正銘の志願兵だった。

風がちょっとした嵐くらいに強くなってきたので、荒れた海域でカヌーの耐航性を徹底的にためしてみる絶好の機会のように思えた。ひっくりかえって岸に打ち上げられでもしたらカヌーは損傷するだろうし、ぼくも泳いだ上に服も着替えなければならなくなるだろう。

このロブ・ロイ・カヌーの浮力には、あらためて驚かされた。安定性が失われることもなかった。波と波の合間に、マストを立てて帆を揚げることもできた。この実験ではカヌーに荷物を積まなかったので、びしょ濡れになってもまるで気にならなかった。あらゆることを試し、あれこれやってみて、これなら大丈夫だと確信が持てた。

翌朝早く、出発した。向かい風だったので、サウスエンドまで大荒れの海でパドルを漕いた。着いてから服を乾かしたが、乾くまで水浴びを楽しんだ。水温はぬるかった。そこでカヌーを汽車に積みこみ、サウスエンドの埠頭からは列車の旅となったのだった。

テムズ川では、新しいのや古いの、豪華なものなど、いろんな種類の船を目撃することができるが、ぼくらのカヌーは驚くほど人々の興味と好奇心をかき立てた。その理由については特定できない。海に出ていく船としてはあまりに小さいことに驚く人々もいたし、パドルの漕ぎ方が従来の方法とは違っているので、それにびっくりする人もいた。帆を揚げていると、多くの人が面白がってくれた。ロブ・ロイ・カヌーの優美な形が気に入ったという人もいれば、ヒマラヤスギを張ったデッキや小粋な旗に感心する人もいた。多くの人は船長たるぼくの服装をじっと見つめ、「どこへ行くんだい?」と聞き、その後でもまだ、こっちをじっと見つめていたりしていた。ぼくもたいてい「本当のところ、自分でもよくわからないんですよ」と答えたりした。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 4: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第4回)


第2章

満潮を利用し、喜び勇んで出発した。ウェストミンスター橋をカヌーでくぐり抜け、あっという間にブラックフライヤーズ橋も通過した。よどみではカヌーに乗って波とたわむれた。実際のテムズ川は豆のスープのような色をしているが、このときは朝日をあびて、どこもかしこも金色に光っていた。

グリニッジ付近では、いい風が吹いた。さっそく新品の真っ白な帆に風を受けた。心が浮き立つような波きり音をたて、軽やかに帆走する。蒸気船や外航船、ごつくて小さいタグボートやずんぐりむっくりの大きな荷船で、テムズ川は活気にあふれていた。行きかう船の乗員たちと何度も会話をかわす。こうやって出発したからには、これからは来る日も来る日も、川で暮らしている人々と、英語やフランス語、オランダ語、ドイツ語や他のいろんな方言で話をすることになるだろう。

ユーモアという点では、荷船の連中は気さくで冗談好きだが、言葉づかいは乱暴だ。たいていは「よお、そこのお二人さん!」とか「ちっちゃい舟だな?」とか「保険に入ってるかい、大将?」という台詞(せりふ)ではじまるのだが、ぼくは誰にでも笑顔を見せてうなづくようにしていた。川や湖で出会った人たちは皆、親切だった。

パーフリート周辺はとてもきれいだったので、よく見ようと一、二回タッキング*1で方向転換し、そこにあるすてきなホテルに泊まろうと決めた。出発するならここからがおすすめだ。

カヌーに乗ったまま、うっとりしていると、一匹のアブが手にとまった。みるみるうちに腕が腫れあがってしまった。夜には腕に湿布をし、翌日は包帯で腕を吊って教会に行ったほどだったが、これは村の日曜学校でちょっとした話題になった。川や沼地ではカエルがよく鳴いているので、人なつっこい動物ではなく、餌になるようなハチやアブやブヨがたくさんいるだろうと予測はしていたものの、カヌーの航海で実際に虫に悩まされたのは、これがはじめてだった。

パーフリートの静かな小さい教会に入ると、一人の高齢の紳士が扉のところで倒れて死んでいた。何か悪いことの前兆だろうか。

パーフリートでは、コーンウォール感化院の船が係留されていた。岸辺を散歩している少年たちもいる。そろいの服を着て、礼儀正しかった。この興味深い船の船長が親切にもぼくを船に迎え入れてくれて、夕方の礼拝はいつまでも忘れられないものとなった。

古いフリゲート艦の主甲板には百人ほどの少年たちが列を作って座っていた。開いた窓の下には夕日に赤く染まった川面が見え、夕方の心地よい冷たい風が吹いている。少年たちはオルガンの伴奏で賛美歌をうたった。気持ちのこもった、いい感じの音楽だった。船長がこの雰囲気にぴったりの一節を朗読し、祈りが捧げられた。かつて路上生活をしていた、このかわいそうな少年たちのために力を貸して祈ろう。社会が意図的ではないにしても彼らを放置してきたことに比べれば、彼らが社会に対して抱いている感情はすばらしいとしかいいようがない。

翌朝、干し草保存用の屋根裏部屋からカヌーを下ろした。カヌーはそこで安全に保管されていた。これから先、ぼくのカヌーはいろんな奇妙な場所で保管されることになるだろう!

グレーブスエンドで必需品を積み込み、カヌーを川面に浮かべた。潮に乗り、タバコを一服する。ようやく出発したんだなという実感がわいてくる。ここから不思議な魅力的でもある自由と目新しい体験が始まったが、これは航海の最後までとぎれることなく続いた。

リュックサックを背負ってはじめてどこか遠くへと足を向けるときや、一人でヨットに乗って長距離航海に出かけるときに、こういう感覚を感じることがある。

だが、徒歩の旅では海や川に出くわすと、そこで行きどまりだ。ヨットで航海したとしても、浅瀬や岸辺には近づけない。そこでカヌーの出番になる。カヌーは漕いでよし、帆走してよし、陸にあげて運搬してもよしというわけで、陸からでも海からでもローマに行けるし、本人が希望すれば香港にまでだって行けてしまうのだ。

脚注
*1:タッキング - ヨットで帆に風を受ける向きを右舷から左舷へ/左舷から右舷へ変える方法の一つ。船首を風上に向け、風軸(風の吹いてくる方向)をこえることをタッキング(略してタック)、船首を風下に向けて帆走しながら方向を変えることをジャイビング(略してジャイブ)という。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 2: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第2回)


ここで紹介するのは、そういったカヌーを使った旅の最初のものだが、ほかにも多くの人々が後に続いている。ロイヤル・カヌークラブが刊行している「カヌーイスト」には、そういう人々の一覧が掲載されている。このクラブの会長は英国皇太子で、世界中に六百名の会員がいる。

ぼくが名づけたロブ・ロイ・カヌー*1はオーク材で作ってあるが、デッキ部分にはヒマラヤスギを使った。大きさはドイツの鉄道の貨物車に搭載できるサイズに抑えた。つまり、全長十五フィート(約四・五メートル)、幅二十八インチ(約七十一センチ)、高さ九インチ(約二十三センチ)で、重さは八十ポンド(約三十六キロ)だ。三カ月の旅に必要な荷物は、三十センチ四方で深さ十五センチの黒い袋一個にまとめた。パドルは長さ七フィート(約二・一メートル)で、両端に水をかくブレードがついている。帆走用の帆は四角形の縦帆(ラグセイル)と三角の前帆(ジブ)の二枚。装飾といえるのは、きれいなブルーの絹でできた英国国旗だけだ(原注1)。

この小さなカヌーを手に入れてから、これでどこへ行けるのか、どの川を漕ぐことができるのか、景色がきれいなところはどこなのかを調べるのは、けっこう大変だった。

ロンドンで調べてまわったが、ろくな成果はなかった。パリのボートクラブですら、フランスの川のことについて何も知らなかった。むろん連中はライン川のことは知っているのだが、それはそこがドイツとの国境だというだけのことで、ライン川から先では、ぼくの旅は未知の発見をする航海になるはずだ。だから、この旅が休暇をカヌーに乗ってすごそうという多くの人々にとってのよい刺激になればと思うのと同時に、似たようなカヌーの旅をする人が遭遇するであろうトラブルを減らすことにつながればとも願っている(原注2)。

とはいえ、何も川下りの「ハンドブック」を作ろうってわけじゃない。楽しいことをしようという意欲にあふれた者は、地図にちゃんと載っている川や水路図誌が整備された運河だけを旅することからは、いずれ足が遠のくんじゃないだろうか。たとえば『モーゼル川上流域案内図』から抜粋したものを次に引用するが、こういう、こと細かにびっしり書きこまれた案内書に黙々と従うのではなく、過酷な荒野で、夏でも快適にすごせる装備を持ち、自由きままな旅を夢見てはどうだろうか。その手のガイドブックから実際に引用してみると、

(一) 「右に曲がり、小川を渡り、幅が広く急な森の小道をアルバースバッハの集落まで登る(約40分)。集落は緑濃い草原にある。5分もすると十字路に着く。そこからは「I**」に通じる道を進むこと。10分で低地にある「r**」に着くが、そこに製粉工場がある。さらに10分進み、「r**」へのゲートを抜けると、3分で「I**」に至る踏み分け道になるが、それは礼拝堂に通じている。15分もすると、森へと続く砂利道は登りになる」
(某ライン川ガイドブック、94ページ)

むろん、この手のガイドブックをバカにして笑うつもりはない。旅人にとってはしっかりした道案内として役に立つし、作家にとって有益なこともあるだろう。旅をはじめたばかりのころは、すべてをスムーズに楽に行いたいものだし、荷物を蒸気船や汽車で運搬し、イギリスからの客が多いホテルに宿泊して馬に乗ったり歩いたり、あなたが何を食べたいのか何を見たいのか、何をしたいのかをよく知っている人々と一緒になって移動していくためには、そういうガイドブックが必要だし親切でもあるのだから。


原注1: 今回の航海を終えた後、筆者はもっと短くて幅も狭い改良型を作った(名前は同じロブ・ロイだ)。そのカヌーでスウェーデンやノルウェー、デンマーク、ドイツのホルシュタイン地方や各地の河川を航海した。

 

その旅の記録は『バルト海の航海』(未訳)にまとめてある。こういうカヌーの改良についても、木版画の挿絵とあわせて、その本に記載しておいた。三隻目のカヌーは六カ月間の航海中にカヌーの内側にもぐりこんで眠れるようにしたが、それについての詳しい説明は『ヨルダン、ナイル、紅海、ゲネサレでのロブ・ロイ』(未訳)に記載した。これはパレスチナやエジプトおよびダマスカスの河川や海でカヌーを漕いだ旅の記録である。四番目のカヌーは、オランダのゾイデル海や周辺の島々、フリースラントの海岸で使用した。一番新しいロブ・ロイ・カヌー(七隻目)は、スコットランドの北にあるシェットランド諸島やオークニー諸島、それにスコットランドの湖で漕いでみた。

 

原注2:ドイツやオーストリアの最良の地図にも誤りがあった。川ぞいにあるとされた村を、ぼくは一マイルも離れた森の中で見つけたし、自分のボートから離れないぞと決意した者には(立派な決心だ)役に立たなかった。

 

訳注*1:ロブ・ロイはロバート・ロイの略称で、ジョン・マクレガーが故郷スコットランドの英雄のロバート・ロイ・マグレガー(こちらはマグレガーとにごる)にちなんで名づけたとされる。

robroycanue筆者自身の挿絵から

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