スナーク号の航海(30) - ジャック・ロンドン著

第7章

モロカイ島のハンセン病患者

 スナーク号がモロカイ島の風上側の沿岸をホノルルに向かって帆走していたとき、ぼくは海図を見て、低く横たわった半島とその向こうに見えている高さが二千フィートから四千フィートはありそうな一連の断崖を指さして、こう言った。「あそこが地獄だ。地球上で最も呪われた地だ」と。その一カ月後に自分自身が地上で最も呪われたその地の海岸に立ち、八百人ものハンセン病患者と一緒になってってはしゃいでいると知ったら衝撃を受けたはずだ。楽しむのは不謹慎だ、というのは間違っている。とはいえ、自分にとって、あの人たちの中に自分がいるというのは、少し前までだったら考えられなかったことだ。それまでと今とでは、感じ方がまったく違っているし、実際に楽しかったのだ。

たとえば、独立記念日の七月四日の午後、ハンセン病患者たちは皆、競技場に集まっていた。ぼくはレースの様子を写真に撮るため、監督官や医者たちから離れていた。面白いレースだった。ひいきをめぐって対抗心がめらめらとわいてくるのだ。三頭の馬が入場した。それぞれ中国人、ハワイの原住民とポルトガルの少年が乗っていた。三人の騎手はハンセン病患者だった。ジャッジも観客も同様だ。レースはトラックを二周する。中国人とハワイの原住民がまず抜け出した。二人は首の差だ。ポルトガルの少年は二百フィートも後方に置いていかれている。一周しても、ほぼそのままだ。二週目の半分あたりで、中国人の騎手が一馬身ほど原住民の騎手より前に出た。同時に、ポルトガルの少年も差を詰めてきた。が、追いつけそうにはなかった。観客の応援に熱が入る。ハンセン病患者たちは誰もが競馬が大好きなのだ。ポルトガルの少年が追い上げる。ぼくも声を張り上げた。ホームストレッチにさしかかった。ポルトガルの少年がハワイの原住民を抜いた。雷鳴のようなひづめの音、三頭の馬の競り合い、ムチをふるう騎手。観客は一人残らず声を張り上げ叫んでいる。差はじりじり縮まってくる。ポルトガルの少年が追いつき、追いこした。そう、追いこして、中国人を頭一つリードして勝ったのだ。ぼくはハンセン病患者の中に飛びこんだ。彼らは歓声をあげ、帽子を投げ飛ばし、つかれたようにおどりまわった。ぼくも同じだ。帽子を振りまわし、有頂天になって叫んでいた。「なんてこった、あの子が勝ったぜ! あの子が勝ったんだぜ!」

客観的に分析してみよう。ぼくはいわゆる「モロカイの恐怖」なるものの一つを確かに目撃していたのだ。そしてそれは、世間に広まっているような状況が本当であるとすれば、ぼくの行為は屈託がないというか、無邪気すぎて、恥ずかしいことでもあっただろう。それを否定はしない。次の競技はロバのレースだった。こいつも、とても面白かった。ビリだったロバが優勝したのだ。話を複雑にしているのは、騎手は自分の持ち馬ならぬ持ちロバに乗っているわけではないということだ。どういうことかというと、騎手たちは互いに別の騎手のロバに乗っていて、他人のロバに乗りながら、他の騎手が乗っている自分のロバと競争するのだ。当然のことながら、ロバを所有している者たちは、レース用に提供するロバについては、とても遅いのを選んだり、極端に御しがたいのを参加させたりするのだ。あるロバは騎手がかかとで腹をけると脚をすぼめてる座りこむよう訓練されていた。その場でぐるぐるまわろうとするロバもいれば、コースを外れたがるロバもいる。柵ごしに頭を外に突き出して足をとめてしまうのもいた。参加したロバ全頭がそんな具合だった。トラックを半周したところで、一頭のロバが騎手に抵抗しはじめた。残りのロバすべてに追いこされても、まだもめていた。結局、そのロバは騎手を振り落とし、なんと一着になった。千人ほどのハンセン病患者全員が腹をかかえて笑っ。ぼくと同じ場所にいた者たちは誰もがそれを楽しんでいたのだ。

というような出来事はすべて、巷間うわさされているモロカイ島の恐怖なるものが存在しないことを述べるための前振りだ。この居住地については、センセーショナルにあおりたがる連中、事実を見ようとしない扇動主義者たちがて繰り返し書きたてている。むろん、ハンセン病はハンセン病であるし、おそろしい病気ではある。だが、モロカイ島について書かれた話は誇張されすぎていて、ハンセン病患者たちも、治療に身をささげている人たちも、正しく扱われてはいないのだ。具体的な例を述べよう。ある新聞記者がいた。この居住区に足を踏み入れたこともないのに、監督官のマクベイについて、自分の目で見てきたように、こう描写した。草ぶきの小屋で床についたマクベイを飢えたハンセン病患者たちが取り囲み、夜ごと、飯をくれと責め立てている、と。この身の毛のよだつような記事は全米に報道され、それを読んで憤然として抗議し改善を求める多くの社説が書かれたものだ。ところで、今ぼくはこのマクベイ氏の草ぶきの小屋なるところに五日間寝泊まりしているのだが、まず小屋は草ぶきではなく木造家屋だし、だいたいこの居住地のどこにも草ぶきの家などないのだ。ハンセン病患者の声は聞こえているが、それは飯をくれというより、合唱のようにリズムに乗っていて、バイオリンやギター、ウクレレ、バンジョーのような弦楽器の伴奏もついている。他にもハンセン病患者のブラスバンドや二つある合唱団の歌声など、いろんな音が聞こえてくる。五人のすばらしい歌声も聞こえたが、記事や本に書かれているのとは違って、その歌声は、ホノルルへの出張から戻ったマクベイ氏のために、患者のグリークラブが歌っているセレナーデなのだ。

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モロカイ島、七月四日朝 全員ハンセン病患者だ

スナーク号の航海 (29) - ジャック・ロンドン著

波に乗ったり波と闘ったりすることでぼくが学んだ方法の一つは、抵抗しないということだ。なぐりかかってくる相手は、こちらからよけてしまうに限る。顔面をひっぱたこうとする波があれば、その下にもぐりこんでしまえばいい。足から先に海に飛びこみ、波には頭上を通過させるのだ。決して身構えたりしない。リラックスしよう。体を引きちぎられようとしたら、一歩譲ればいい。引き波につかまって、海の底で沖に持っていかれようとしたら、それに逆らってはいけない。逆らったところで、引き波の方が強いに決まってるのだから、おぼれてしまう。逆らわず、流れにそって泳いでいけば、体にかかる力が弱くなったように感じられる。そうやって流れに乗っていれば体を押さえつけられることもないし、海面に向かって少しずつ浮上していくこともできる。そうやって海面に出てしまえば、おぼれる心配はなくなるわけだ。

波乗りをおぼえたければ泳ぎが達者でなければならないし、海にもぐるのにもなれていなければならない。それができたとして、あと必要になるのは頑丈さと常識だけだ。大波のパワーは想像を絶する。めちゃくちゃにかきまわされるし、人間とボードは何百フィートも引き離されてしまう。サーファーは自分の身は自分で守らなければならない。救助に駆けつけてくれるサーファーがどんなに大勢いたとしても、それには頼れない。フォードやフリースがいてくれるという安心感のためか、大波にもまれたら、まず自分で泳いで脱出しなければならないということを、ぼくはつい忘れてしまった。そのときのことを思い出してみると、大波がやってきて、この二人はそれに乗ってずっと遠くまで行ってしまったのだ。彼らが戻ってくるまでの間、ぼくは何十回となくおぼれかけた。

サーフィンではサーフボードに乗って波の前面をすべりおりることになるが、そのためにはまず自分から滑りださなければならない。ボードとサーファーは、波が追いついてくるまで、陸に向かってかなりの速さで自分から進んでいかなければならない。波がやってくるのが見えたら、ボードに乗って向きを変えて波に尻を向け、全力で海岸にむかって漕ぐ。いわゆる風車みたいに腕をぐるぐるまわして漕ぐのだ。波の直前でスパートする。ボードに十分なスピードがついていれば、波がそれを加速してくれて、四分の一マイルもの長さの滑走が始まることになる。

沖ではじめて大波に乗れたときのことは決して忘れない。波が来るのが見えた。向きを変え、必死でパドリングした。腕がちぎれるかと思えるほどだ。ボードのスピードはどんどん増していく。自分の背後で何が起きているのか、わからない。風車みたいに漕いでいるときに振り返ったりはできないのだ。波が盛り上がり、シューシューという音や波がくずれる音が聞こえた。ボードが持ち上がり、放り投げられるように突進した。はじめのうちは何が起きたのか、さっぱりわからなかった。目を開けても何も見えない。白い波しぶきに埋もれていたのだ。だが、そんなことは気にならなかった。波をとらえたときの至福ともいえる喜びだけを感じていた。三十秒ほどで、物が見えるようになり、息もできるようになった。ボードの鼻先三フィートほどが空中に突き出しているのが見えた。体重を前にかけるようにしてボードの先端を下げた。そのとき、ぼくは荒々しく動いている波のど真ん中で静止していたのだった。海岸が見えた。ビーチの海水浴客たちもはっきり見えた。とはいえ、その波で四分の一マイルもサーフィンできたわけではない。ボードが波に突き刺さらないよう重心を後ろに移動させようとしたのだが、体重を戻しすぎて波の背面に落っこちてしまったのだ。

サーフィンをはじめて二日目だったし、自分がとても誇らしかった。四時間もサーフィンをして、終わったときには、明日もまた来よう、ボードに立って見せるぞと思っていた。だが、その思いは先延ばしになってしまった。翌日にはベッドに寝ていたのだ。病気ではない。どうにも動けなくて寝たきりだったのだ。ハワイの海のすばらしさを語ろうとして、ハワイの素晴らしい太陽のことを言いそびれてしまった。熱帯の太陽である。六月初旬なので、頭上に太陽がある。狡猾で二枚舌なやつだ。ぼくは人生で初めて、自分が日焼けしたことに気がつかなかった。両腕、両肩、背中は以前にも何度も日焼けしていて、いわば免疫はできていた。だが、下半身はそうじゃなかった。そして、サーフィンに熱中していた四時間というもの、足裏をハワイの太陽にまともにさらしてしまっていたのだ。裏側が太陽にさらされていたことは、サーフィンを終えてビーチに戻るまで気がつかなかった。日焼けすると、はじめのうちは熱を感じるだけだが、それがひどくなると水ぶくれができてくる。それに、皮膚にしわがよると関節も曲がらなくなる。それが翌日ずっと寝ていた理由だ。歩けなかったのだ。今日こうして原稿をベッドで書いているのはそのためだ。こうやってサーフィンができない状態におかれるより、サーフィンしてる方がずっと楽だ。明日になれば、そう、明日になれば、またあのすばらしい海に入って、フォードやフリースと一緒にサーフボードの上に立ってみせるさ。明日がだめなら、その翌日か、またその翌日に。ぼくは一つだけ決心した。自分が足に翼をつけて海の上を飛ぶようにサーフィンできるようになるまで、日焼けして皮のむけたマーキュリーになるまで、スナーク号でホノルルを出帆することはない、と。

スナーク号の航海(28) - ジャック・ロンドン著

ぼくは知識を前にすると、いつも謙虚になる。フォードには知識があった。彼はぼくにボードの正しい乗り方の手本を見せてくれた。それから、いい波が来るまで待ち、いまだというときに、ぼくを押し出してくれた。波に乗って宙を飛んでいるように感じるのは、すばらしい瞬間だった。そう、ぼくは百五十フィート(約三十メートル)も突っ走って浜辺にまで達したのだ。ボードを持って、フォードのところに戻る。このサーフボードは大きくて、厚さ数インチ、重さは七十五ポンド(三十四キロ)もあった。彼はいろいろ教えてくれた。彼自身は誰にも教わっていなかった。数週間かけて自分で苦労しながら学んだことを、ぼくに一時間足らずで教えてくれたのだ。ぼくの代わりに練習してくれていたようなものだ。そして、この半時間ほどの間に、ぼくも波に乗ることができるようになった。何度も何度もやってみたが、フォードはそのたびに褒めてくれ、助言してくれた。たとえば、ボードのもっと前の方に乗れ、ただし、あまり前すぎないようにしろ、といったことだ。だが、ぼくはそれよりずっと前の方まで行ってしまった。というのは、陸に近づいたとき、ボードが海底に突き刺さって急停止してしまってトンボ返りしたのだが、と同時に自分の体も投げ出されてしまった。ぼくの体は木くずのように宙に舞い、あわれにも崩れ落ちてくる波の下敷きになってしまったのだ。フォードがいなかったら、脳天をたたきわられていただろう。こういう危険も、このスポーツの一部なんだと、フォードは言った。ワイキキを去るまでに彼自身もそういう目に会うかもしれないし、そうなれば、スリルを追い求めている彼の思いも満たされることになる。

人殺しは自殺より悪いと、ぼくは固く信じているのだが、相手が女性の場合は特にそうだ。ぼくはあやうく人を殺しかけたが、フォードが救ってくれた。「自分の足を舵だと思ってみろよ」と、彼は言った。「両足をよせて、それで方向を決めるんだ」 数分後、ぼくは砕け波に突っこんでいった。そのまま波に乗ってビーチの方へ接近していくと、いきなり真正面に、仰向けになって浮かんでいる女性が出現した。乗っている波をどうやって止めろというのか? その女性はじっと動かなかった。サーフボードの重さは七十五ポンドあるし、ぼくの体重は百六十五ポンド(約七十五キロ)だ。両方を合計した重量の物体が時速十五マイルで突進していくのだ。ボードとぼくはミサイルのように突っこんでいく。この気の毒な女性の柔らかい肉体に加わる衝撃の大きさを計算するのは物理学にまかせるしかない。そのとき、ぼくは保護者たるフォードの「足で舵を切れ」という言葉を思い出した。足で向きを変えてみようと思った。両足を踏ん張って全力で向きを変えようとした。ボードは波の頂点で横向きになると同時に切り立った崖のように垂直にもなった。いろんなことが同時に起きた。波はぼくをひっくり返すと、軽くポンポンとたたくようにして行ってしまったが、その軽くたたかれただけで、ぼくはボードからはじき落とされ、波でもみくちゃになり、海に引きづりこまれて海底に激突し、何度も横転した。やっとのことで海面に顔を突き出して息をし、なんとか歩けるようになったのだが、目の前にその女性が立っていた。ぼくは自分がヒーローになったような気がした。彼女の命を救ったのだ。すると、彼女はぼくを見てげらげら笑った。恐怖にかられたヒステリックな笑いというのではなかった。自分が危機一髪だったなどとは、夢にも思っていないのだ。ともかく、彼女を救ったのは自分ではなくフォードだし、ヒーローのような気になる必要はないと、ぼくは自分で自分をなぐさめた。それに、なによりも足でボードをあやつれるというのに感激した。ぼくはさらに練習し、自分でコースを選び、泳いでいる人を避けながら進めるようになっていった。くずれる波の下ではなくて、波の上に乗り続けることができるようになったのだ。

「明日」と、フォードが言った。「もっと大きな波が立つところに連れてってやるよ」

ぼくは彼が指さした沖に目をやった。さっきまで乗っていた波がさざ波にしかみえないような、水けむりをあげている大波が見えた。この最高のスポーツをやる資格が自分にもあると思っていなかったら、どう返事をしていたのかわからないが、ぼくはさりげなくこう答えた。「いいぜ、明日、挑戦してみよう」

ワイキキビーチに押し寄せる波は、ハワイ諸島すべての岸辺を洗っている波と同じだ。とくに水泳には最高だ。寒さで歯をがちがちいわせることもなく、一日中でも泳いでいられるほど暖かいし、適度な冷たさもある。太陽や星々の下で、つまり、昼でも夜でも、真冬でも真夏でも、暖かすぎず冷たすぎず、常に一定のちょうどいい温度なのだ。すばらしい太古の海そのものであり、けがれもなく水晶のように澄みきっている。こういう海だということを思えば、カナカの人々が水泳競技で優秀なのも当然だ。

翌朝、やってきたフォードと一緒に、ぼくはこのすばらしい海に飛びこんだ。サーフボードにまたがるか、その上に腹ばいになり、カナカの年少の子たちが遊んでいるサーフィンの幼稚園を抜けて、さらに沖へと漕ぎだした。まもなく、大きな波しぶきがあがっている沖に出た。次々と押し寄せる波と格闘し、沖に向けて漕いでいくだけでも一苦労だ。波のパワーは強烈だし、それに負けないためには自分をよく知っている必要がある。つまり、押しつぶそうとする波との闘いで、相手のスキをつく狡猾さも必要になるということだ ── つまり、冷酷で無慈悲なパワーと知性との闘いでもある。少しだがコツはつかめた。波が頭上におおいかぶさってくる瞬間、エメラルド色の波の膜を通して日光が見える。そこで、頭を下げてボードを全力でつかむ。と、波の一撃がくる。浜辺にいる見物人には、ぼくが消えたように見えるだろう。実際には、ボードとぼくは巻き波のなかをくぐって反対側の波の谷間に出るのだ。体の弱い人や気が小さな人には、ちょっと勧められない。波は重くて、押し寄せてくる波の衝撃は砂あらしに巻きこまれたようだ。ときには次々と間をおかずに襲ってくる半ダースもの大波に四苦八苦することもある。じっとおとなしく陸にいたらよかったなと思えたり、新たに陸にとどまっているべき理由が身にしみてわかることにもなる。

沖で水しぶきとともに波が襲ってくるところで、第三の男、フリースがぼくらに加わった。一つの波をやりすごして海面に出て、頭をふって海水を振り払い、次にどんな波が来るかと前方に目を凝らすと、フリースが波に乗り、ボード上に立ったのが見えた。この若者はさりげなくバランスをとっていたが、たくましく日焼けしていた。ぼくらは彼の乗った波をやりすごした。フォードが彼に声をかけた。彼は乗っていた波から降りて、ボードが波にのみこまれないようにして、ぼくらの方に漕いできた。フォードと一緒になって、ぼくに手本を示してくれた。ぼくがとくにフリースから学んだことの一つは、たまにやってくる例外的に大きな波への対処の仕方だ。そういう波は本当に強烈なので、ボードの上にいてぶつかったら無事ではすまない。だが、フリースはぼくに手本を示してくれた。そういう波が自分の方にやってくるのが見えたときはいつでも、ボードの後ろから海中にすべりおり、両手を頭上にあげてボードをつかむのだ。こういう波ではよくあることだが、波は手からボードをもぎとってサーファーをぶんなぐろうとする。ところが、こうしておくと、波の一撃と自分の頭の間には一フィートの水のクッションができる。波をやりすごしたら、ボードによじのぼってまた漕ぐのだ。ぼくは、ボードが当たってひどいケガをした人を何人も知っている。

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波に乗る

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沖でのサーフィン

スナーク号の航海(27) - ジャック・ロンドン著

というわけで、実際の波乗りの原理についての話になるが、まず長さ六フィート、幅二フィートの細長い楕円のような形をした平らな板(ボード)を手に入れよう。そこにソリに乗った小さな子供のように腹ばいになり、両手でこいで海に出ていく。波が盛り上がりはじめているあたりまで行き、そのままボードの上で静かに待つ。次から次へと波がやってきては、自分の前後左右のいたるところで崩れながら、君を置き去りにしたまま陸へと押し寄せていく。波は立ち上がるにつれて勾配が急になってくる。その急激に立ち上がった波の前面で、自分がボードに乗っていると想像してみよう。じっとしていれば、坂を滑り落ちるソリに乗っているように、その斜面を滑り落ちていくだろう。「待てよ」と、君は異議を唱える。「波は動いているじゃないか」。その通り。だが、波を構成している水は動かないのだ。そして、そこに秘密がある。もし君が波の前面を滑りはじめれば、君はそのままその滑り落ち続けていくが、決して海底にぶつかることはない。冗談じゃないぜ。波の高さはたかだか六フィートしかないとしても、君はその分の高さを落下する間に四分の一マイルか半マイルも滑っていくことができるんだ。海底にぶつかることなく、ね。というのも、波は水の動揺や運動の力が次々に伝達されているにすぎないからだ。波を構成する水はたえず入れ替わり、新しい水が波と同じ速さで持ち上げられては波になっていく。君は波における元の位置を保ったまま、次々に盛り上がっては波に加わってくる水の上を滑り降りていくことになるわけさ。きっかり波の速さと同じスピードでね。波の速さが時速十五マイルなら、君も時速十五マイルで滑っていくんだ。君と浜辺までの間には四分の一マイルほどの海面がある。波が進むにつれて、この海の水が積み重なって波となり、後は重力の作用で下降していく。滑っていく間も、水が自分と共にずっと動いていると思うんだったら、もし滑りながら腕を水に突っこんでこいでみればいいさ。君は驚くほどの早く水をかかなければならなくなるだろうよ。というのも、そこにある水は君が前進するのと同じ速さで後方に落ちていくからだ。

お次は波乗りだ。規則には常に例外がある。波を構成する水自体が前へ進むのではないというのは本当だ。だが、いわゆる海に送られるという現象は存在する。走っていてつまづくと体が前に投げだされるように、立ち上がって勢いあまって巻き波になりかけた水は、なおも前進しようとする。崩れ落ちる波の下敷きになってしまったら、ものすごい力で打ち倒されて海中にしずめられ、息をしようと三十秒ほども口をぱくぱくやるはめにもなる。波の頂点にある水は下の方にある水の上に乗っかっている。が、下の方の波が海底にぶつかり動きが止まってしまっても、上の方の水はそのまま前進しようとする。下の波はもう支えることができない。そうなれば、上の方の波の下には空気しかないことになり、水は重力の力で落下していく。と同時に下の方の遅れた波とは離れて前方へ投げだされてしまう。この点が、サーフボードに乗るのとソリで斜面をおとなしく滑り降りるのとの違いだ。実際に、巨人のタイタンの手でつかまれて、浜辺に投げ飛ばされるような感じなのだ。

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腹ばいになったり、立ち上がったり

ぼくは涼しい木陰を出た。海水パンツをはき、サーフボートをかかえた。ぼくには小さすぎたのだが、だれも何も言わないし、気がつかなかった。ぼくは、浅いところで、カナカの少年たちに加わった。そのあたりは波も小さくて、いわば波乗り幼稚園といったところか。少年たちをじっと観察する。よさそうな波が来ると、彼らはさっとボードに腹ばいになり、足を必死にばたばたさせ、そのくだけ波に乗って岸までいく。ぼくも真似をしてやってみた。観察し、同じようにやってみたが、まったくうまくいかない。波はあっというまに通り過ぎてしまい、ぼくだけとりり残されてしまう。何度も何度もやってみた。連中の倍ほども足をばたばたさせたが失敗した。周囲には半ダースほどの子供がいた。みんな、いい波がくるとボードに飛び乗り、川を行き来する蒸気船のように足を動かして行ってしまい、ぼくだけみっともなく残される。

ぼくは丸一時間もやってみたが、波に乗って岸に向かうことはできなかった。そうこうするうちに、一人の友人がやってきた。何かわくわくするようなものを求めて、仕事で世界各地を旅行しているアレクサンダー・ヒューム・フォードという男だ。そして、ワイキキでそれを見つけたのだ。オーストラリアに行く途中で、波乗りがどんなものか体験しようと一週間ほど立ち寄るつもりが、そのとりこになってしまったのだ。彼はひと月のあいだ、毎日波乗りをしていたが、飽きた様子はなかった。その彼が厳かにこう言った。「そのボードから降りなよ」と。

「すぐに捨てろ。自分が何に乗ろうとしているかわかってんのか。そのボードの鼻先が海底にでも刺さったら、脳天かちわられるぜ。ほら俺のボードを使えよ。これが大人用のサイズってやつだ」

スナーク号の航海 (26) - ジャック・ロンドン著

第VI章

最高のスポーツ

それが、いわゆるロイヤル・スポーツ、地球上で生来の王たちが行っている最高のスポーツだ。ワイキキビーチでは、はてしなく広がる海から五十フィート足らずのところまで草が生え、木々も潮の気配が感じられるところまで枝を伸ばしている。ぼくはその木陰に腰を下ろし、海の方に顔を向け、波が音をとどろかせて浜辺に打ち寄せては足元にまで来るのを見つめている。半マイルも沖の岩礁では、波が砕けて白い水煙をあげ、ゆっくりとした青緑色のうねりは空に向かって隆起し、巻き波となって寄せてくる。一マイルもの長さの波が無限の海の軍隊のように次から次へとやってきては飛沫をとばす。ぼくは座ったまま、いつまでも続く咆哮(ほうこう)に耳を傾け、終わりのない光景を眺めているが、激しさは泡や音でも十分に伝わってくる。この途方もなく強大な力を前にして、ぼくは自分がちっぽけでもろい存在だと感じる。自分はとても小さいと感じるし、この海に立ち向かうと思っただけで、背筋がぞくっとするような不安、ほとんど畏怖に近いものを感じた。というのも、長さ一マイルもの雄牛のような口を持つこの怪物は何千トンもの重みがあり、それが人が走るより速く海岸まで突進してくるのだ。どんな生き残るチャンスがあるというのだろう? そんな機会はありはしない。委縮させられてしまう。腰をおろし、そうした光景を眺めながら、耳をすましている。そうするには草地や木陰はとてもよい場所だ。

遠くで大きな波しぶきが宙に舞い、白い泡まじりの波頭が大きく盛り上がる。そのままオーバーハングしつつ巨大な巻き波となり、と、そこに、ふいに海神のごときものが出現した。黒っぽい人間の頭だ。その人は押し寄せてくる白濁した波頭の前でさっと立ち上がった。よく日に焼けた肩、胸、腰、手足──そのすべてがいきなり視野に飛びこんでくる。ついさっきまでずっと遠くまで広がりをみせて轟音をとどろかせていた海に、いまはもう人間がいて立ち上がったのだ。混沌の極みのような海面で必死に戦っている風ではない。波にのみこまれることもなく、このパワフルな怪物にもみくちゃにもされず、その上に立ち、さりげなくバランスをとっている。足元は泡立つ波に埋もれているが、水しぶきで見えない足をのぞけば身体の他の部分はすべて空中に出ている。陽光をあびて輝きながら、波とともに飛ぶように滑っていく。いわば、ローマ神話の守護神メルクリウス、つまりマーキュリー、褐色のマーキュリーだ。かかとに翼がはえたように、海上をすばやく駆け抜けていく。本当のところは、海に浮かんでいて、波にあわせて乗ったのだ。轟音をとどろかせながら押し寄せてくる波は、しかし、その人間を自分の背から振り落とすことはできない。その人はあわてて手を伸ばしたりはせず、落ち着いてバランスをとっている。表には感情を出さず、何らかの奇跡によって深海からいきなり彫りだされた彫刻のように、立ち上がったまま微動だにしない。そうして、押し寄せてくる大波に乗ると、かかとに翼でもついているように、そのまま陸の方に向けて飛ぶように滑っていく。波は嵐のような音を立てて激しく泡立ちながら崩れ、浜辺まで寄せては消えていく。するとそこには、熱帯の太陽で見事に日焼けした一人のカナカが立っているのだ。数分前には四分の一マイル離れたところにいたはずだったが、「牛の口のような砕け波にかみつき」それに乗ってやってきたのだった。岸辺の木陰に座ったぼくと目が合う。すばらしい肉体を波に運ばせてきた腕前に誇りを持っているのが見てとれた。カナカ、この地の先住民だ──だが、それ以上に人間だ。波乗りを会得した、生物の長たる人間の一人なのだ。

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迫りくる波

ぼくは座ったまま、あの運命の日におけるトリストラムと海との最後の対決に思いをはせる。さらに、カナカはトリストラムがやったことのないことをやってのけたという事実、トリストラムが知らなかった海の喜びを知っているということも思う。思いはさらに続く。ビーチの涼しい木陰にこうして座っているのはとても気持ちのよいものだが、しかし、自分も生物の王たる人間の一人であり、カナカにできるのであれば、自分にもできるはずだ、と。さあ、行こう。この温暖な地では厄介物でしかない衣服は脱ぎ捨てよう。海に入り、海と格闘するのだ。技を身につけ、かかとに翼をはやし、自分のうちなるパワーで砕け波にいどんで勝利するため、王たる者がすべきこととして波に乗るのだ。

というわけで、ぼくはサーフィンを始めるようになった。そして挑戦し、最高のスポーツとして続けている。とはいえ、まずはこの現象を物理的視点から説明させてもらいたい。波とは動きが伝播されていくものである。波を構成している水そのものが動いて流れているわけではない。もし水自体が移動しているとすれば、小石を池に投げこむと波紋が円を描いて大きく広がっていく際に、その中心には移動した水の分だけ穴ができ、それが大きくなっていくはずだ。そうならないのは、波を構成する水自体は静止しているからだ。海の表面を微視的に見ることができれば、何千もの連続した波として伝達されてくる動揺に対して同じ水が何千回も上下動を繰り返しているのが見えるだろう。この動きが伝播されて陸の方へ向かうと想像してみよう。水深が浅くなるにつれて、波の下部の方がまず海底にぶつかり止められる。ところが、水は液体であり、波の上部は何にもぶつからず、そのまま動き続けて前へ進もうとする。波の上部は進み続けるのに、波の下方の海底に近い部分はそれより遅れるようになるが、そこで何かが起きるかというと、波の下部が前進する軍隊から脱落し、波の上部は落伍者を乗りこえて前へ進もうとして隆起し、巻き波となって轟音をとどろかせながら崩れ落ちていく。それがサーフだ。

とはいえ、スムーズな波のうねりから砕け波への変容は、海底が急激に浅くなっている場合を除き、いきなり発生するのではない。四分の一マイルから一マイルの間で徐々に浅くなっているとすると、この変容もそれに等しい距離をかけてなされることになる。そんな海底がワイキキビーチの沖にあって、それがサーフィンに適したすばらしい波を作り出しているのだ。サーファーはその崩れかけた波に乗り、そのまま陸の方へずっと、波が崩れてしまうまで乗り続けていく。

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リバイアサン号とスナーク号(左)

スナーク号の航海(25) - ジャック・ロンドン著

ぼくらは広くて立派な芝生の上を、ロイヤルパームの並木のある通りまで歩いた。芝生はさらに続いていて、風格のある巨木の緑陰を歩いた。あたりには小鳥の鳴き声や、風にそよぐ大きなユリや燃えるような花の開いたハイビスカスの濃厚で暖かい芳香が満ちていた。何もなく絶えず揺れている海の上にずっといたぼくらにとって、ほとんどありえないような美しさだった。チャーミアンは手を伸ばしてぼくにしがみついた──言葉では言い表せない美しさに負けないようにするためだろうと思ったのだが、そうではなかった。ぼくは彼女を支えようと足を踏ん張った。が、ぼくらの周囲の花や芝生もよろめき、揺れ始めた。地震のようだったが、被害もなく一瞬で通りすぎた。こんなに大地が揺れていては、立っているだけでもかなりむずかしかった。警戒していると、何も起こらなかった。だが、注意をそらすと、地面はまたすぐに揺れ始め、周囲の景色すべてが揺れて持ち上がり、あらゆる角度に傾いた。一度さっと振り返ったのだが、ロイヤルパームの堂々とした並木も宙に弧を描いていた。しかし、それを目撃した瞬間に、穏やかな夢に戻った。

それから、とても見晴らしのいいベランダのある瀟洒な建物までやってきた。楽園で悠々自適の人の住居だ。風を入れるために窓もドアも大きく開けてあり、小鳥の鳴き声が聞こえ、あたり一帯にいい香りもただよっていた。壁にはタパ布がかけられていた。長椅子には植物を編んだカバーがかけられていた。グランドピアノもあった。子守歌よりうるさい音楽は演奏されたことがないように思われた。召使たち──着物を着た日本の女性──が音を立てずに蝶のように動きまわっている。すべてが、ありえないほどすばらしかった。ここでは恐ろしい海にいて燃え上がる熱帯の日差しに焼かれたりすることはない。あまりにもすばらしすぎて、本当のこととは思えなかった。現実ではなく、夢の世界の出来事なのだ。ぼくにはわかっていた。というのも、さっき振り返ったとき広々とした部屋の隅でグランドピアノが跳ねまわっていたのを見たのだ。ぼくは何も言わなかった。というのも、ちょうどそのとき、上品な女性、優美な白い服を着た美しい女主人から歓迎されているところだったからだ。女主人はサンダルばきで、ずっと前からの知り合いのように、ぼくらを迎え入れてくれた。

ぼくらはベランダのテーブルについた。蝶のようなメイドに給仕してもらい、見たことのない食べ物やポイと呼ばれるどろどろした汁を食した。しかし、夢はさめるものだ。世界は虹色の、まさにはじけようとするシャボン玉のように揺れ動いた。ぼくは緑の草地や風格のある木々やハイビスカスの花を見ていたのだが、いきなりテーブルが動き出したように感じた。テーブルと、テーブルの向こうにいる女主人が、ベランダが、緋色のハイビスカス、緑の芝生や木々が──すべてが持ち上がり、目の前で傾き、揺れ動き、巨大な波の谷間に沈んでいく。ぼくはひきつったまま椅子に手をやり、しっかりと握った。椅子にしがみつくのと同じように自分は夢にしがみついているとも感じた。波が押し寄せて、おとぎの国を水びたしにするのは驚くべきことではなかったし、自分がスナーク号の舵輪を持っていて、対数の勉強から何気なく顔を上げただけだとも思っていた。しかし、夢はさめなかった。ぼくは女主人とその夫をそっと見た。彼らはまったく動揺していなかった。テーブルの上の皿も動いていかった。ハイビスカスも木々も芝生もそこにあった。何も変わっていなかった。ぼくは飲み物をおかわりした。夢はさらに現実のものとなった。

「紅茶にアイスを入れましょうか」と女主人がたずねた。それから、彼女の側のテーブルがゆっくり沈み、ぼくは「はい」と四十五度の角度で見おろしながらこたえた。
「サメと言えば」と、女主人の夫が言った。「ニイハウに一人の男がいたんですがね──」 そして、その瞬間にテーブルが持ち上がって揺れた。ぼくは四十五度の角度で彼を見上げた。

昼食はさらに続いた。チャーミアンがあぶなっかしく歩く様子を見ていられなかったので、まだ座っていられることにほっとした。ところが、いきなり、不可解なおそろしい言葉がこの人たちの唇からもれた。「ああ、やっぱり」と、ぼくは思った。「ここで夢が消えていくんだな」 ぼくは椅子を必死につかもうとした。この桃源郷のかすかな名残りをスナーク号の現実に戻っても忘れないようにしなければと決意していた。すべてが揺らめいて夢が消えていくのを感じた。そのとき、不可解なおそろしい言葉が繰り返された。それは「マスコミだ」とも聞こえた。三人の男が芝生を横切ってやってくるのが見えた。なんと、記者連中だ! ということは、結局、夢だと思いこもうとしていたことは、誰もが認める現実だったのだ。光り輝く海面の向こうに、錨泊しているスナーク号が見えた。サンフランシスコからハワイまであの船で航海してきたこと、ここがパール・ハーバーであること、さらに、自己紹介して、最初の質問に「そうです。ぼくらはずっと素晴らしい天候に恵まれていたのです」と答えたことを思い出した。

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ドリーム・ハーバー

スナーク号の航海(23) - ジャック・ロンドン著

第五章

陸地初認

「海じゃ退屈するなんてことはないぜ」と、ぼくはスナーク号の乗員たちに保証した。「海には生き物がいっぱいいるんだ。数が多くて、毎日、新顔が現れてくれるんだ。ゴールデンゲート・ブリッジを通過してすぐ南に向かうとするだろ、そしたらトビウオが飛びこんでくるのさ。フライにして朝飯に食おうぜ。カツオやシイラも取れるだろうし、バウスプリットから丸い顔をしたイルカだって突けるぜ。おまけにサメも──サメは無限にいる」

ぼくらは実際にゴールデンゲート・ブリッジを通過して南へ向かった。カリフォルニアの山々が水平線に没し、太陽は日ごとに暖かくなった。だが、トビウオはおろか、カツオもシイラもいなかった。大海原から生き物が消えていた。ぼくはこれほどまでに見捨てられ荒涼とした海を航海したことはない。これまではいつだって、この緯度あたりまで来るとトビウオに遭遇していたのだ。

「がっかりするな」と、ぼくは言った。「南カリフォルニアの沖まで待ってようぜ。そうすればトビウオが捕まえられるから」

南カリフォルニアの沖、カリフォルニア半島南部、メキシコの海岸沖まで来たが、トビウオはまったくいなかった。何もいなかった。動いている生物がいないのだ。生物を見ないまま航海日数を重ねていくのは異様としか言いようがない。

「がっかりするなよ」とぼくは言った。「トビウオが飛びこんでくれば、他の魚もみんなとれるようになるはずだから。トビウオは海にいる他の生き物すべての生命の糧だから、トビウオさえ見かれば、他のもどっと登場するだろうよ」

ハワイに行くにはスナーク号の進路を南西に向けるべきだったが、ぼくはまだ南下を続けた。どうしてもトビウオを見つけたかったのだ。ぎりぎりのところまで南下し、どうしてもハワイに向かわなければとなったら、進路を南ではなく真西に向ければいいと思っていた。北緯十九度まで来たところで、最初のトビウオを見た。一匹だけだ。ぼくは確かに見た。他の五人は目を皿のようにして、一日中、海を見張っていたというのに何も目撃しなかったらしい。トビウオは非常に少なくて、最初の一匹目を見つけるまで一週間かかった。シイラやカツオ、イルカや他の生物群にいたっては皆無だった。

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北東の貿易風を受け、ヒールして帆走

サメのあの不気味な背びれすら海面には見当たらなかった。バートはバウスプリットの下からステイにぶら下がって海水浴をした。そして泳ぎながら流れていくものを観察していた。というわけで、海の生物についてのぼくの面目は丸つぶれだった。

「サメがいるとしたら」と、やつは言ったものだ。「なぜ姿を見せないんだ?」

ぼくは、お前が手を離して流れていけば、連中はすぐにやってくると請け合った。これは、こけおどしだった。自分ですら信じていなかった。こんな状態が二日続いた。三日目に、風が落ちて凪になり、非常に暑くなった。スナーク号は時速一ノットほどで動いていた。バートはバウスプリットにぶら下がっていたが、異様な気配を感じて神経質にきょろきょろしていた。ぼくらは大海原を二千時間も航海してきて、一匹のサメも見なかったが、バートが泳ぐのをやめてから五分もしないうちに、サメの背びれがスナーク号の周囲の海面で円を描いてまわりだした。

だが、そのサメについては何か妙なところがあり、それが気になった。陸の近くにいるはずの種類が、こんな沖合にいるのは変だった。考えれば考えるほど、わからなくなった。しかし二時間後に陸地を視認したので、この不可思議な現象の謎が解けた。やつは何もいない深海からではなく、さっき見えた陸地から来ていたのだ。陸地初認の予兆、陸からの使者だったというわけだ。

サンフランシスコを出てから二十七日目に、ハワイのオアフ島に到着した。早朝に潮流に乗ってダイヤモンドヘッドをまわると、ホノルルの全景が飛びこんできた。そうすると、大海原にふいに生き物があふれ出てきた。トビウオはきらきら輝きながら編隊となって宙を切り裂いた。五分もしないうちに、それまでの全航海で目撃したより多くを見た。さらに大きな、さまざまな種類の魚たちもしきりに跳ねた。海にも陸にも、いたるところに生命があふれていた。港には帆柱や蒸気船の煙突が見えた。ワイキキのビーチにはホテルや海水浴客も見えたし、パンチボウルやタンタラスなど、火山から連なる斜面の高いところにある住宅からは煙が立ち上っていた。税関のタグボートはぼくらの方に突進してくるし、大量のイルカが舳先の下にもぐりこんで跳ねまわった。港の修理業者の船がやってきて料金を請求し、大きなウミガメが海面に甲羅を出したまま、ぼくらを眺めいたりした。これほど生命にあふれていたことはなかった。スナーク号の甲板には見知らぬ連中があふれ、聞きなれない声が飛び交った。世界中のニュースを満載した今朝の朝刊も持ちこまれていて刺激的だった。偶然にも、ぼくらはスナーク号の記事を目にしたのだが、それによれば、乗員全員が海で行方不明となったそうだ。スナーク号は耐航性のない船だということが実証された、とも。ぼくらがこうした記事を読んでいる間にも、ハレアカラ山頂では、スナーク号が無事に到着したことを告げる無線電信が受信されていたのだった。

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航海に出て最初の寄港地に停泊するスナーク号

スナーク号の航海 (22) - ジャック・ロンドン著

この文章を書いているとき、ふと顔を上げて海の方を見た。ぼくはオアフ島ワイキキの浜辺にいた。ずっと向こうまで青い空が広がり、低い雲が青緑色の海の上を貿易風に流されていく。近くの海はエメラルド色で、オリーブの葉のような明るい緑だ。その手前には岩礁があり、海水を通して赤い斑点まじりの粘板岩の紫色が見えている。さらに近くになると、もっと明るい緑色と茶褐色の岩礁が交互のしま模様になっていて、生きたサンゴ礁の間に砂地が散在しているのが見えている。こんなすばらしい色の重なりを通して、壮大な波のとどろきが聞こえてくる。さっきも言ったように、顔を上げると、こんな光景がすべて見えるのだが、砕け散る白い波の向こうに、ふいに黒い人影が立ち上がった。人の姿をした魚あるいは海神かと見まがうものが崩れ波の前面にふいに出現した。波頭は崩れ落ち、そのまま押し寄せて豪勢な波しぶきがあがる。下半身が波しぶきに包まれた瞬間、海神は海にとらえられてしまった。海岸から四分の一マイルほどのところだ。海神とは、サーフボードに乗ったハワイの先住民族、カナカだ。この文章を書き終えたら、ぼくもあの色彩に満ちたところへ行き、海に飛びこみ、砕け波を蹴散らし、あの海神たちのように海に飲みこまれてしまうだろう。生きるとは、彼らのように生きることではないか。この色彩豊かな海と、海を飛ぶように進んでいく海神たるカナカの姿は、若者が日の沈む海を超えて西へ、さらに西へと向かうもう一つの理由になるし、日の没する海をこえて西へと進み、再び故国へと至るのだ。

話を元に戻そう。ぼくがすでに航海術に通暁しているとは思わないでほしい。ぼくが知っているのは航海術の初歩にすぎない。ぼくにとって、学ぶべきことは非常に多い。スナーク号には、興味の尽きない本が二十冊もぼくを待っている。海図に避けるべき進行方向を記すための避険線に関するレッキーの危険角の本があるし、サムナーの本もある。これは、自分の位置がわからないときに、自分がどこにいて、どこにいないかをはっきり示してくれるものだ。大海原で自分の位置を見つける方法は何十とあり、それを完全にマスターするには何年もかかるだろう。

小さなことで説明すると、スナーク号の動きについて明らかに首をかしげたくなるようなことは何度かあった。たとえば、五月十六日の木曜日に、貿易風がなくなった。金曜の正午までの二十四時間、ぼくらは推測航法で計算すると二十海里も進んでいなかった。ところが、この二日間、正午に太陽の高度を観測して割り出したぼくらの位置はこうなっていた。

木曜日 北緯20度57分9秒
西経152度40分30秒
金曜日 北緯21度15分33秒
西経154度12分

この二つの位置の差は八十海里ほどもある。とはいえ、ご存知のように、ぼくらは二十海里しか進んでいないのだ。数字は確かだ。何度も計算しなおした。間違っていたのは測定値だった。正しい測定をするには、特にスナーク号のような小さな船では練習と技術が必要になる。船がたえず動いていることや観察者の視線が海面に近いことを考えれば、これは責められない。大波で船が持ち上がれば、水平線も大きくずれてくるのだ。

しかも、ぼくらの場合には、とくに混乱する要因もあった。季節の変化に応じて太陽が北回帰線に近づいてくると、太陽の角度も大きくなった。五月中旬の北緯十九度付近では、太陽はほぼ真上にある。弧の角度は八十八度から八十九度の間だ。真上は九十度になる。ほぼ真上にくる太陽と直角になる方向は一つではなかった。ロスコウはまず太陽から東の水平線までの角度を測ってしまったのだ。正午には太陽は真南の子午線を通過するという事実を無視して、だ。一方、ぼくのほうはといえば、太陽からおろす水平線を決めかねて南東から南西にかけてさまよってしまった。何度も言うが、ぼくらは独学なのだ。その結果として、ぼくが正午の太陽の高さを測定したときには、船上の時間は十二時二十五分すぎになっていた。二十五分のずれが地球の表面におけるぼくらの位置のずれの原因だった。これは経度でほぼ六度、距離にして三百五十海里に相当する。これでは、スナーク号は時速十五ノット(約二十七キロ)で二十四時間ぶっとおして走り続けたことになってしまう。暴風に吹き飛ばされたのでもなければ説明がつかないが、それはおかしいということに気づかなかったのだ。われながら、なんともおそまつな話だ。東方を見ているロスコウは、まだ十二時になっていないと言っていたし、海面を見て速さは二十ノットと言ったりもしていた。六分儀で水平線を探すときは太陽を一方の視野に入れておいて水平線を探すのだが、当惑するくらい地平線に近かったり、ときには水平線の上や下だったりもした。太陽高度を測るときに船が動きまわるために東を向いたり西を向いたりもしていた。太陽に問題があるわけではない──それはわかっている。というわけで、間違っているのはぼくらの方なのだった。その日の午後はずっと、ぼくらはコクピットにいて、本を調べたりして何が間違っているのか知ろうとした。その日の観測は失敗だったが、翌日はうまくいった。そうやって学んでいったのだ。

そうやって、だんだん上達していった。ある日の夕方、折半当直(午後六時からの二時間)のとき、ぼくとチャーミアンは船首付近に座ってトランプゲームのクリベッジをしていた。たまたま前を見ると、雲のかかった山々が海面から突き出ているのが見えた。ぼくらは陸地が見えたことを喜んだのだが、ぼくはといえば自分の航海術がお粗末だったことに落ちこんでもいた。かなり知識も増えているはずだった。正午の位置と帆走距離から計算すると、数百海里以内に陸なんかないはずなのだった。それなのに陸が存在していた。夜の闇に消えていこうとしている西日を受けた、陸地がそこにあった。これが陸地であることは間違いない。議論の余地はない。だから、ぼくらの航海術はまったく違っていたことになると思ったのだ。だが、そういうわけでもなかった。というのは、ぼくらが見た陸地は太陽の家と呼ばれる、世界でも指折りの死火山、ハレアカラの山頂だったのだ。この山は海抜一万フィート(標高3005メートル)もあり、百海里離れていても見えるのだ。ぼくらは夜どおし時速七ノットで帆走した。朝になっても、この太陽の家はまだ前方に見えていたし、船の側方に見るようになるまでさらに数時間かかった。「あの島はマウイ島だぜ」と、ぼくらは海図と照らし合わせながら語りあった。「次の突き出している島はモロカイ島。あそこには隔離病棟があるんだよな。その次の島はオアフ島だ。ほら、マカプウ岬が見えるぜ。明日はホノルルに着くだろう。ぼくらの航海術も捨てたもんじゃないってことだ」

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大波が来ると、水平線の位置がずれてしまう

[訳注]
海では一般に、距離は海里、速度はノットで表される。
1海里=1852m、1時間に1海里進む速度が1ノットで、1ノット=時速1.852km。
1海里を約1800mと考えると、60の倍数になり、緯度経度の60進法と親和性が高いため。
ちなみに、地球が完全な球体で1日24時間で1回転(360度)するのであれば、1時間のズレは経度15度に相当するが、実際の地球は下半分がふくれた洋ナシ形で、自転の周期も24時間+アルファになるため、正確に算出するには補正が必要になる。

スナーク号の航海(21) - ジャック・ロンドン著

自慢かって? ぼくは奇跡を行ったんだからな。本で独学するのがどんなに簡単だったか、もう忘れてしまった。すべての成果(すばらしい成果でもある)は、ぼくより前に先人たちが成し遂げたものだ。航海術を発見し、それを説明するために「天測表」としてまとめたのは、偉大な先人たち、つまり天文学者と数学者だったことも、もう忘れた。ぼくが覚えているのは、その奇跡がずっと続いたことだけだ──星の声に耳を傾けていると海上の道が指し示されたことしか覚えていない。チャーミアンは知らなかったし、マーチンも給仕のトチギも知らないことだった。だが、ぼくは連中に教えてやった。ぼくこそ神のメッセージを伝える者なのだ。ぼくは連中と無限の世界との間に立って、天体が告げていることを連中が理解できる普通の言葉に翻訳したのだ。ぼくらは天に導かれていたが、空の道標を読むことができるのはぼくだった! ぼくだ! ぼくなんだ!

そしていま、少し冷静になってみると、天測の仕組みの単純さをしゃべりすぎたようだ。ロスコウや他の航海士、神秘の衣をまとった人々についても言い過ぎてしまった。というのも、彼らが秘密主義で、自尊心で思いあがっているのではないかと懸念していたからだ。というわけで、いまはこう言いたい。人並みの頭があり普通の教育を受け、学ぼうという気持ちが少しでもある若者なら、解説書と海図、計器を手に入れて独学でマスターできる、と。とはいえ、誤解されないようにつけ加えておくと、シーマンシップはそれとはまったく別のことだ。一日や数日で覚えられるようなものではなく、何年もかかる。また、推定航法で航海するにも長く勉強し実地に訓練することが必要だ。だが、太陽や月、星を測定して航海することは、天文学者や数学者のおかげで、子供でもできる簡単なことになっている。平均的な若者であれば一週間で独習できるだろう。また誤解のないように言っておくと、一週間独学を続けたからといって、それですぐに一万五千トンの蒸気船の責任者として毎時二十ノットで大陸間を航海できるようになるというわけではない。航海には好天もあれば荒天もあるし、晴れの日もあれば曇りの日もある。スケジュールとにらめっこで羅針盤の針を見ながら舵をとり、驚くべき正確さで陸地を見つけなければならない。何が言いたいかというと、前述したように人並みの若者であれば、航海術について何も知らなくても、頑丈な帆船に乗りこんで大海原を横断することはできるし、一週間もあれば自分の現在位置を海図で示すくらいのことはできるようになるということだ。かなりの精度で子午線を観測し、その観測結果に基づき、十分もあれば簡単な計算をして緯度経度を出すことができる。貨物や乗客を運ぶ必要がなく、予定通りに目的地に到達しなければならないというプレッシャーがなければ、気持ちよくゆっくり進めるし、自分の航海術に自信が持てず近くに陸があるかもしれない不安にかられたときには一晩中ヒーブツーで停船させて朝を待てばいいわけだ。

数年前、ジョシュア・スローカムは一人で三十七フィートの自作のヨットに乗って世界をまわった。彼がそのときの航海について、若者には同じように小さな船に乗り、同じような航海をしてほしいと本気で述べていたことが忘れられない。ぼくは彼の言葉をすぐに実行に移すことにして女房も連れ出したというわけだ。小さなヨットの航海からすればキャプテン・クックの航海も安直に思えてくるが、それよりも何より、楽しみや喜びに加えて、若者にとってはすばらしい教育にもなるのだ──いや単に外の世界、土地、人々、気候についての教育ではなく、内なる世界の教育、自分自身の教育、自分というもの、自分の心を知る機会にもなるのだ。航海自体が訓練であり修行である。当然ながら、そうした若者はまず自分の限界を知ることになる。次に、これも避けられないが、そうした限界を打ち破っていこうとする。そうして、そのような航海から戻ってくると、ひとまわり大きな人間、もっとましな人間になっているというわけだ。スポーツとしては王のスポーツだといえる。どういう意味かというと、自分以外に誰も頼るものがなく、自分の手で船を動かし、世界をぐるりとまわって最後には出発点まで戻ってくるのだが、宇宙を好転する惑星について自問しつつ沈思黙考し、達成できればこう叫ぶことになる。「やった、自分の手でやりとげたぞ。自転する地球を航海したんだ。自分はもう導き手の助けも受けなくても航海することができる。他の星に飛んでいくことはできないかもしれないが、この地球では自分自身が主人だ」と。

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闖入者

スナーク号の航海 (20) - ジャック・ロンドン著

というわけで、ぼくがどうやって天文航法を独学したか簡単に説明しよう。ある日の午後ずっと、ぼくはコクピットに座り、片手で舵をとりながら、もう一方の手で対数の本をめくって勉強した。それからの二日間、午後二時間を航海術の理論、とくに子午線高度の勉強にあてた。そのうえで六分儀を手に持ち、器差を補正して太陽の高度を測った。この観察で得られたデータを元に計算するのは簡単だ。「天測計算表」と「天測暦」で調べるのだ。すべて数学者と天文学者が考え出したものだ。これは、よくご存じの利率表や計算機を使うようなものだ。神秘はもはや神秘ではなくなった。ぼくは海図の一点を指さし、いまはここにいると宣言した。それは間違っていなかった。というか、ロスコウとぼくがそれぞれ割り出した位置は一海里ほど離れていたのだが、同じ程度には正しかったということだ。やつは自分の位置とぼくの位置の中間にしようかとさえ言ってくれた。ぼくは神秘を爆破し消滅させてしまった。とはいえ、それはやはり奇跡ではあって、ぼくは自分の内に新たな力を感じてぞくぞくしたし、くすぐったくもあった。ぼくがかつてロスコウに現在の位置をたずねたのと同じように、マーチンがおずおずと、しかし尊敬の念をこめてぼくに現在の位置を聞いてきたとき、ぼくは最高位の司祭として暗号めいた数字で答えた。マーチンは敬意をこめた「おう」という声をもらしたが、それを聞くとぼくは天にも昇るような高揚感を感じた。チャーミアンに対しても、あらためて、どうだいと自慢したくなった。ぼくのような男と一緒にいるとは、きみはなんて運がいいんだという気にもなったが、むろん、そんなことは口にしなかった。

自分がやってみてわかったのは、どうしてもそうなってしまうということだ。ロスコウや他の航海士たちの気持ちがわかった。こういう力を持っているという思いが毒となってぼくにも作用していた。他の男たち、大半の男たちが知らないこと──果てしない大海原で天の啓示を得て進むべき道を指し示すこと──ができるということ、この快感を自分の力として一度味わってしまえば、もうそこから逃れられない。長時間にわたって舵をとりながら、その一方で神秘を勉強しつづけた原動力がこれだった。その週の終わりには、暗くなってからの測定もできるようになった。夜には北極星の高度を測定し、器差や高度改正などの補正を行って緯度を得た。その緯度は、正午に割り出した位置について進路と速度を勘案して求めた推測位置とも合致した。自慢してるのかって? 悪いが、もっと自慢させてもらおう。ぼくは九時に次の測定を行うつもりだった。問題点を検討し、どんな一等星が八時半ごろに子午線を通過するのかを知った。この星はアルファクルックス(アクルックス)だとわかった。この星のことは聞いたことがなかったので星図で調べた。南十字星を構成する星の一つだった。なんと、航海しながら夜空に輝く南十字星を知らなかったとは! なんたる間抜け! われながら信じられない。ぼくは何度も見直して確かめた。その夜は八時から十時までチャーミアンが舵をとってくれた。ぼくは彼女に、よく見てろよ、真南に南十字星が出てくるからと言った。そうして星々が見えるようになると、水平線近くの低い空に南十字星が輝いた。自慢かって? どんな医者でも高僧でも、このときのぼくくらい天狗にはなれないだろう。ぼくは聖なる祭具、つまり六分儀を用いてアクルックスを測定し、その高度から自分のいる場所の緯度を割り出した。さらに北極星も測定したが、それも南十字星で得られた値と合致した。自慢かって? そうさ、星のことならぼくに聞いてくれ。星の言うことに耳をすましていると、大海原で自分がどこにいるか教えてくれるのだ。
[訳注]
子午線: 赤道と直交し、北極と南極を通る大円。無数にありうるが、自分のいる場所を通る経線と同じ。