スナーク号の航海(25) - ジャック・ロンドン著

ぼくらは広くて立派な芝生の上を、ロイヤルパームの並木のある通りまで歩いた。芝生はさらに続いていて、風格のある巨木の緑陰を歩いた。あたりには小鳥の鳴き声や、風にそよぐ大きなユリや燃えるような花の開いたハイビスカスの濃厚で暖かい芳香が満ちていた。何もなく絶えず揺れている海の上にずっといたぼくらにとって、ほとんどありえないような美しさだった。チャーミアンは手を伸ばしてぼくにしがみついた──言葉では言い表せない美しさに負けないようにするためだろうと思ったのだが、そうではなかった。ぼくは彼女を支えようと足を踏ん張った。が、ぼくらの周囲の花や芝生もよろめき、揺れ始めた。地震のようだったが、被害もなく一瞬で通りすぎた。こんなに大地が揺れていては、立っているだけでもかなりむずかしかった。警戒していると、何も起こらなかった。だが、注意をそらすと、地面はまたすぐに揺れ始め、周囲の景色すべてが揺れて持ち上がり、あらゆる角度に傾いた。一度さっと振り返ったのだが、ロイヤルパームの堂々とした並木も宙に弧を描いていた。しかし、それを目撃した瞬間に、穏やかな夢に戻った。

それから、とても見晴らしのいいベランダのある瀟洒な建物までやってきた。楽園で悠々自適の人の住居だ。風を入れるために窓もドアも大きく開けてあり、小鳥の鳴き声が聞こえ、あたり一帯にいい香りもただよっていた。壁にはタパ布がかけられていた。長椅子には植物を編んだカバーがかけられていた。グランドピアノもあった。子守歌よりうるさい音楽は演奏されたことがないように思われた。召使たち──着物を着た日本の女性──が音を立てずに蝶のように動きまわっている。すべてが、ありえないほどすばらしかった。ここでは恐ろしい海にいて燃え上がる熱帯の日差しに焼かれたりすることはない。あまりにもすばらしすぎて、本当のこととは思えなかった。現実ではなく、夢の世界の出来事なのだ。ぼくにはわかっていた。というのも、さっき振り返ったとき広々とした部屋の隅でグランドピアノが跳ねまわっていたのを見たのだ。ぼくは何も言わなかった。というのも、ちょうどそのとき、上品な女性、優美な白い服を着た美しい女主人から歓迎されているところだったからだ。女主人はサンダルばきで、ずっと前からの知り合いのように、ぼくらを迎え入れてくれた。

ぼくらはベランダのテーブルについた。蝶のようなメイドに給仕してもらい、見たことのない食べ物やポイと呼ばれるどろどろした汁を食した。しかし、夢はさめるものだ。世界は虹色の、まさにはじけようとするシャボン玉のように揺れ動いた。ぼくは緑の草地や風格のある木々やハイビスカスの花を見ていたのだが、いきなりテーブルが動き出したように感じた。テーブルと、テーブルの向こうにいる女主人が、ベランダが、緋色のハイビスカス、緑の芝生や木々が──すべてが持ち上がり、目の前で傾き、揺れ動き、巨大な波の谷間に沈んでいく。ぼくはひきつったまま椅子に手をやり、しっかりと握った。椅子にしがみつくのと同じように自分は夢にしがみついているとも感じた。波が押し寄せて、おとぎの国を水びたしにするのは驚くべきことではなかったし、自分がスナーク号の舵輪を持っていて、対数の勉強から何気なく顔を上げただけだとも思っていた。しかし、夢はさめなかった。ぼくは女主人とその夫をそっと見た。彼らはまったく動揺していなかった。テーブルの上の皿も動いていかった。ハイビスカスも木々も芝生もそこにあった。何も変わっていなかった。ぼくは飲み物をおかわりした。夢はさらに現実のものとなった。

「紅茶にアイスを入れましょうか」と女主人がたずねた。それから、彼女の側のテーブルがゆっくり沈み、ぼくは「はい」と四十五度の角度で見おろしながらこたえた。
「サメと言えば」と、女主人の夫が言った。「ニイハウに一人の男がいたんですがね──」 そして、その瞬間にテーブルが持ち上がって揺れた。ぼくは四十五度の角度で彼を見上げた。

昼食はさらに続いた。チャーミアンがあぶなっかしく歩く様子を見ていられなかったので、まだ座っていられることにほっとした。ところが、いきなり、不可解なおそろしい言葉がこの人たちの唇からもれた。「ああ、やっぱり」と、ぼくは思った。「ここで夢が消えていくんだな」 ぼくは椅子を必死につかもうとした。この桃源郷のかすかな名残りをスナーク号の現実に戻っても忘れないようにしなければと決意していた。すべてが揺らめいて夢が消えていくのを感じた。そのとき、不可解なおそろしい言葉が繰り返された。それは「マスコミだ」とも聞こえた。三人の男が芝生を横切ってやってくるのが見えた。なんと、記者連中だ! ということは、結局、夢だと思いこもうとしていたことは、誰もが認める現実だったのだ。光り輝く海面の向こうに、錨泊しているスナーク号が見えた。サンフランシスコからハワイまであの船で航海してきたこと、ここがパール・ハーバーであること、さらに、自己紹介して、最初の質問に「そうです。ぼくらはずっと素晴らしい天候に恵まれていたのです」と答えたことを思い出した。

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ドリーム・ハーバー

スナーク号の航海 (24) - ジャック・ロンドン著

これがスナーク号での最初の陸地視認の顛末だ──なんというランドフォールだったことか。ぼくらは二十七日間、何もない大海原にいたので、世の中にこんなに生命に満ちあふれているとは思いもよらなかった。頭がくらくらしてしまい、すぐには、すべてを受け入れられなかった。ぼくらは眠りからさめたリップ・ヴァン・ウィンクルみたいに、まだ夢を見ているようだった。こちらには波が打ち寄せる青い海があり、はるか水平線をこえて青い空まで続いていた。もう一方の側では、近づくにつれて隆起したエメラルド色の大波が砕け散って雪のように白いサンゴの浜辺に舞っていた。ビーチの向こうにはサトウキビを栽培する緑の大農場が山へ、急峻な斜面へと続いていた。その先は荒々しい火山の稜線となり、熱帯地方の夕立が激しく降り注ぎ、頂上には貿易風にたなびく途方もなく大きな雲がかかっていた。いずれにせよ、とても美しい夢ではあった。スナーク号は向きを変え、押し寄せるエメラルド色の波の方に船首を向けた。波に大きく持ち上げられたかと思うと、轟音とともにたたき落とされた。反対側には長く続く淡緑色の岩まじりの砂州が牙をむき出していて、恐ろしい光景だった。

と、ふいに陸地が、多彩なオリーブグリーンに満ちあふれた陸地から腕が差し伸べられ、スナーク号をすっぽり抱えこんでくれた。青い空の下で岩礁を抜けるときには、エメラルド色の波による危険はなかった──何もなかった。あったのは暖かくやわらかな大地と静かな礁湖、現地の日に焼けた子供たちが泳いでいる小さなビーチだけだ。大海原は姿を消していた。スナーク号から錨を落とすと、チェーンがガチャガチャ音を立てて錨鎖孔から出ていって、浅い平らな海底に食いこみ、船の動きがとまった。そこは、現実として受け入れることができないほど美しく、不思議なところだった。この場所は海図ではパールハーバー(真珠湾)と記載されていたが、ぼくらはドリームハーバー(夢の入り江)と呼んだ。

小さな船がやってきた。ハワイヨットクラブの人たちだ。心のこもったハワイ流のもてなしで挨拶と歓迎に来てくれたのだ。この人たちはごく普通の人間、血も涙もある人間で、ぼくらの夢をこわそうとする人種とは違っていた。ぼくらの記憶にある最後に会った合衆国本土の人間は保安官やうろたえた小金持ちの商売人たちだったが、煤塵や炭塵まみれで悪臭ふんぷんとしていて、薄汚れた手でスナーク号をなでまわしては、この航海をやめさせようとしたのだ。しかし、ぼくらに会いに来たこの人たちはクリーンだった。顔は健康的に日焼けし、札束に目をぎらつかせてもいなかった。というより、彼らはぼくらの夢は現実だと証明しにきてくれたのだ。不愛想だが、しっかりと受けとめてくれた。

そこで、ぼくらは彼らと一緒に穏やかな海から緑豊かな陸地へと向かった。小さな桟橋に上がり、夢はさらに強固なものとなった。二十七日間というもの、ぼくらは海に浮かんだ小さなスナーク号で揺られていた。この二十七日間、一瞬たりとも動きがやむことはなかった。この絶え間ない動きが体にしみこんでいた。体も脳も揺れていたが、この小さな桟橋に上がってからも揺れは続いた。当然のことながら、ぼくらはそれを桟橋のせいにした。よくあるパターンだ。ぼくは桟橋にそっておおまたで歩こうとして海に落ちそうになった。チャーミアンを見ると、彼女の歩き方もひどかった。桟橋は船の甲板と変わりがなかった。持ち上がったかと思うと傾き、うねりを受けて上昇しては沈んだ。手すりなどないので、チャーミアンとぼくは落ちないようにするので精一杯だった。こんな妙な桟橋は初めてだった。確かめようとするのだが、そのたびに横揺れは消えてしまう。ぼくが目をそらしたとたん、すぐにスナーク号みたいに揺れ出すのだ。世界がひっくり返るかと思うくらい派手に揺れた瞬間、長さ二百フィートほどの桟橋は巨大な向かい波に突っこんだ船の甲板のように見えた。

出迎えてくれた人たちの助けを借りて桟橋を渡りきり、ようなく陸に足をおろした。とはいえ、陸地も桟橋と似たようなものだった。足で踏んだその瞬間、地面は目の届く限りが一方に傾き、ゴツゴツした火山の稜線もはっきり見えたし、斜面の上には雲も見えた。大地は不安定で、がっしりした地盤がなかった。でなければ、こんなに揺れるわけがない。上陸した足元以外の場所はすべて現実のものではないようだった。夢だった。変化の激しいガスのように今にも消えてしまいそうだった。おそらく自分の方がおかしいのだろう。めまいがしているのか食当たりでもしたのだろうかとも思った。しかし、チャーミアンを見ると、彼女の歩き方も妙だったし、彼女がふらついて横を歩いていたヨット乗りにぶつかったのが見えた。声をかけると、彼女も「地面が変なのよ」とブツブツ文句を言っていた。

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じっとしていない桟橋

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熱帯の恵み

訳注
リップ・ヴァン・ウィンクル: 米国の作家ワシントン・アービングが1820年に発表した短編集『スケッチ・ブック』所収の同名短編(オランダ移民の、眠っているうちに二十年が経過してしまったという伝承譚)の主人公。森鴎外が1889年(明治22年)に「新世界の浦島」と題して訳出している(三年後に刊行された単行本『水沫(みなわ)集』では「新浦島」と改題)。

スナーク号の航海(23) - ジャック・ロンドン著

第五章

陸地初認

「海じゃ退屈するなんてことはないぜ」と、ぼくはスナーク号の乗員たちに保証した。「海には生き物がいっぱいいるんだ。数が多くて、毎日、新顔が現れてくれるんだ。ゴールデンゲート・ブリッジを通過してすぐ南に向かうとするだろ、そしたらトビウオが飛びこんでくるのさ。フライにして朝飯に食おうぜ。カツオやシイラも取れるだろうし、バウスプリットから丸い顔をしたイルカだって突けるぜ。おまけにサメも──サメは無限にいる」

ぼくらは実際にゴールデンゲート・ブリッジを通過して南へ向かった。カリフォルニアの山々が水平線に没し、太陽は日ごとに暖かくなった。だが、トビウオはおろか、カツオもシイラもいなかった。大海原から生き物が消えていた。ぼくはこれほどまでに見捨てられ荒涼とした海を航海したことはない。これまではいつだって、この緯度あたりまで来るとトビウオに遭遇していたのだ。

「がっかりするな」と、ぼくは言った。「南カリフォルニアの沖まで待ってようぜ。そうすればトビウオが捕まえられるから」

南カリフォルニアの沖、カリフォルニア半島南部、メキシコの海岸沖まで来たが、トビウオはまったくいなかった。何もいなかった。動いている生物がいないのだ。生物を見ないまま航海日数を重ねていくのは異様としか言いようがない。

「がっかりするなよ」とぼくは言った。「トビウオが飛びこんでくれば、他の魚もみんなとれるようになるはずだから。トビウオは海にいる他の生き物すべての生命の糧だから、トビウオさえ見かれば、他のもどっと登場するだろうよ」

ハワイに行くにはスナーク号の進路を南西に向けるべきだったが、ぼくはまだ南下を続けた。どうしてもトビウオを見つけたかったのだ。ぎりぎりのところまで南下し、どうしてもハワイに向かわなければとなったら、進路を南ではなく真西に向ければいいと思っていた。北緯十九度まで来たところで、最初のトビウオを見た。一匹だけだ。ぼくは確かに見た。他の五人は目を皿のようにして、一日中、海を見張っていたというのに何も目撃しなかったらしい。トビウオは非常に少なくて、最初の一匹目を見つけるまで一週間かかった。シイラやカツオ、イルカや他の生物群にいたっては皆無だった。

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北東の貿易風を受け、ヒールして帆走

サメのあの不気味な背びれすら海面には見当たらなかった。バートはバウスプリットの下からステイにぶら下がって海水浴をした。そして泳ぎながら流れていくものを観察していた。というわけで、海の生物についてのぼくの面目は丸つぶれだった。

「サメがいるとしたら」と、やつは言ったものだ。「なぜ姿を見せないんだ?」

ぼくは、お前が手を離して流れていけば、連中はすぐにやってくると請け合った。これは、こけおどしだった。自分ですら信じていなかった。こんな状態が二日続いた。三日目に、風が落ちて凪になり、非常に暑くなった。スナーク号は時速一ノットほどで動いていた。バートはバウスプリットにぶら下がっていたが、異様な気配を感じて神経質にきょろきょろしていた。ぼくらは大海原を二千時間も航海してきて、一匹のサメも見なかったが、バートが泳ぐのをやめてから五分もしないうちに、サメの背びれがスナーク号の周囲の海面で円を描いてまわりだした。

だが、そのサメについては何か妙なところがあり、それが気になった。陸の近くにいるはずの種類が、こんな沖合にいるのは変だった。考えれば考えるほど、わからなくなった。しかし二時間後に陸地を視認したので、この不可思議な現象の謎が解けた。やつは何もいない深海からではなく、さっき見えた陸地から来ていたのだ。陸地初認の予兆、陸からの使者だったというわけだ。

サンフランシスコを出てから二十七日目に、ハワイのオアフ島に到着した。早朝に潮流に乗ってダイヤモンドヘッドをまわると、ホノルルの全景が飛びこんできた。そうすると、大海原にふいに生き物があふれ出てきた。トビウオはきらきら輝きながら編隊となって宙を切り裂いた。五分もしないうちに、それまでの全航海で目撃したより多くを見た。さらに大きな、さまざまな種類の魚たちもしきりに跳ねた。海にも陸にも、いたるところに生命があふれていた。港には帆柱や蒸気船の煙突が見えた。ワイキキのビーチにはホテルや海水浴客も見えたし、パンチボウルやタンタラスなど、火山から連なる斜面の高いところにある住宅からは煙が立ち上っていた。税関のタグボートはぼくらの方に突進してくるし、大量のイルカが舳先の下にもぐりこんで跳ねまわった。港の修理業者の船がやってきて料金を請求し、大きなウミガメが海面に甲羅を出したまま、ぼくらを眺めいたりした。これほど生命にあふれていたことはなかった。スナーク号の甲板には見知らぬ連中があふれ、聞きなれない声が飛び交った。世界中のニュースを満載した今朝の朝刊も持ちこまれていて刺激的だった。偶然にも、ぼくらはスナーク号の記事を目にしたのだが、それによれば、乗員全員が海で行方不明となったそうだ。スナーク号は耐航性のない船だということが実証された、とも。ぼくらがこうした記事を読んでいる間にも、ハレアカラ山頂では、スナーク号が無事に到着したことを告げる無線電信が受信されていたのだった。

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航海に出て最初の寄港地に停泊するスナーク号

スナーク号の航海 (22) - ジャック・ロンドン著

この文章を書いているとき、ふと顔を上げて海の方を見た。ぼくはオアフ島ワイキキの浜辺にいた。ずっと向こうまで青い空が広がり、低い雲が青緑色の海の上を貿易風に流されていく。近くの海はエメラルド色で、オリーブの葉のような明るい緑だ。その手前には岩礁があり、海水を通して赤い斑点まじりの粘板岩の紫色が見えている。さらに近くになると、もっと明るい緑色と茶褐色の岩礁が交互のしま模様になっていて、生きたサンゴ礁の間に砂地が散在しているのが見えている。こんなすばらしい色の重なりを通して、壮大な波のとどろきが聞こえてくる。さっきも言ったように、顔を上げると、こんな光景がすべて見えるのだが、砕け散る白い波の向こうに、ふいに黒い人影が立ち上がった。人の姿をした魚あるいは海神かと見まがうものが崩れ波の前面にふいに出現した。波頭は崩れ落ち、そのまま押し寄せて豪勢な波しぶきがあがる。下半身が波しぶきに包まれた瞬間、海神は海にとらえられてしまった。海岸から四分の一マイルほどのところだ。海神とは、サーフボードに乗ったハワイの先住民族、カナカだ。この文章を書き終えたら、ぼくもあの色彩に満ちたところへ行き、海に飛びこみ、砕け波を蹴散らし、あの海神たちのように海に飲みこまれてしまうだろう。生きるとは、彼らのように生きることではないか。この色彩豊かな海と、海を飛ぶように進んでいく海神たるカナカの姿は、若者が日の沈む海を超えて西へ、さらに西へと向かうもう一つの理由になるし、日の没する海をこえて西へと進み、再び故国へと至るのだ。

話を元に戻そう。ぼくがすでに航海術に通暁しているとは思わないでほしい。ぼくが知っているのは航海術の初歩にすぎない。ぼくにとって、学ぶべきことは非常に多い。スナーク号には、興味の尽きない本が二十冊もぼくを待っている。海図に避けるべき進行方向を記すための避険線に関するレッキーの危険角の本があるし、サムナーの本もある。これは、自分の位置がわからないときに、自分がどこにいて、どこにいないかをはっきり示してくれるものだ。大海原で自分の位置を見つける方法は何十とあり、それを完全にマスターするには何年もかかるだろう。

小さなことで説明すると、スナーク号の動きについて明らかに首をかしげたくなるようなことは何度かあった。たとえば、五月十六日の木曜日に、貿易風がなくなった。金曜の正午までの二十四時間、ぼくらは推測航法で計算すると二十海里も進んでいなかった。ところが、この二日間、正午に太陽の高度を観測して割り出したぼくらの位置はこうなっていた。

木曜日 北緯20度57分9秒
西経152度40分30秒
金曜日 北緯21度15分33秒
西経154度12分

この二つの位置の差は八十海里ほどもある。とはいえ、ご存知のように、ぼくらは二十海里しか進んでいないのだ。数字は確かだ。何度も計算しなおした。間違っていたのは測定値だった。正しい測定をするには、特にスナーク号のような小さな船では練習と技術が必要になる。船がたえず動いていることや観察者の視線が海面に近いことを考えれば、これは責められない。大波で船が持ち上がれば、水平線も大きくずれてくるのだ。

しかも、ぼくらの場合には、とくに混乱する要因もあった。季節の変化に応じて太陽が北回帰線に近づいてくると、太陽の角度も大きくなった。五月中旬の北緯十九度付近では、太陽はほぼ真上にある。弧の角度は八十八度から八十九度の間だ。真上は九十度になる。ほぼ真上にくる太陽と直角になる方向は一つではなかった。ロスコウはまず太陽から東の水平線までの角度を測ってしまったのだ。正午には太陽は真南の子午線を通過するという事実を無視して、だ。一方、ぼくのほうはといえば、太陽からおろす水平線を決めかねて南東から南西にかけてさまよってしまった。何度も言うが、ぼくらは独学なのだ。その結果として、ぼくが正午の太陽の高さを測定したときには、船上の時間は十二時二十五分すぎになっていた。二十五分のずれが地球の表面におけるぼくらの位置のずれの原因だった。これは経度でほぼ六度、距離にして三百五十海里に相当する。これでは、スナーク号は時速十五ノット(約二十七キロ)で二十四時間ぶっとおして走り続けたことになってしまう。暴風に吹き飛ばされたのでもなければ説明がつかないが、それはおかしいということに気づかなかったのだ。われながら、なんともおそまつな話だ。東方を見ているロスコウは、まだ十二時になっていないと言っていたし、海面を見て速さは二十ノットと言ったりもしていた。六分儀で水平線を探すときは太陽を一方の視野に入れておいて水平線を探すのだが、当惑するくらい地平線に近かったり、ときには水平線の上や下だったりもした。太陽高度を測るときに船が動きまわるために東を向いたり西を向いたりもしていた。太陽に問題があるわけではない──それはわかっている。というわけで、間違っているのはぼくらの方なのだった。その日の午後はずっと、ぼくらはコクピットにいて、本を調べたりして何が間違っているのか知ろうとした。その日の観測は失敗だったが、翌日はうまくいった。そうやって学んでいったのだ。

そうやって、だんだん上達していった。ある日の夕方、折半当直(午後六時からの二時間)のとき、ぼくとチャーミアンは船首付近に座ってトランプゲームのクリベッジをしていた。たまたま前を見ると、雲のかかった山々が海面から突き出ているのが見えた。ぼくらは陸地が見えたことを喜んだのだが、ぼくはといえば自分の航海術がお粗末だったことに落ちこんでもいた。かなり知識も増えているはずだった。正午の位置と帆走距離から計算すると、数百海里以内に陸なんかないはずなのだった。それなのに陸が存在していた。夜の闇に消えていこうとしている西日を受けた、陸地がそこにあった。これが陸地であることは間違いない。議論の余地はない。だから、ぼくらの航海術はまったく違っていたことになると思ったのだ。だが、そういうわけでもなかった。というのは、ぼくらが見た陸地は太陽の家と呼ばれる、世界でも指折りの死火山、ハレアカラの山頂だったのだ。この山は海抜一万フィート(標高3005メートル)もあり、百海里離れていても見えるのだ。ぼくらは夜どおし時速七ノットで帆走した。朝になっても、この太陽の家はまだ前方に見えていたし、船の側方に見るようになるまでさらに数時間かかった。「あの島はマウイ島だぜ」と、ぼくらは海図と照らし合わせながら語りあった。「次の突き出している島はモロカイ島。あそこには隔離病棟があるんだよな。その次の島はオアフ島だ。ほら、マカプウ岬が見えるぜ。明日はホノルルに着くだろう。ぼくらの航海術も捨てたもんじゃないってことだ」

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大波が来ると、水平線の位置がずれてしまう

[訳注]
海では一般に、距離は海里、速度はノットで表される。
1海里=1852m、1時間に1海里進む速度が1ノットで、1ノット=時速1.852km。
1海里を約1800mと考えると、60の倍数になり、緯度経度の60進法と親和性が高いため。
ちなみに、地球が完全な球体で1日24時間で1回転(360度)するのであれば、1時間のズレは経度15度に相当するが、実際の地球は下半分がふくれた洋ナシ形で、自転の周期も24時間+アルファになるため、正確に算出するには補正が必要になる。

スナーク号の航海(21) - ジャック・ロンドン著

自慢かって? ぼくは奇跡を行ったんだからな。本で独学するのがどんなに簡単だったか、もう忘れてしまった。すべての成果(すばらしい成果でもある)は、ぼくより前に先人たちが成し遂げたものだ。航海術を発見し、それを説明するために「天測表」としてまとめたのは、偉大な先人たち、つまり天文学者と数学者だったことも、もう忘れた。ぼくが覚えているのは、その奇跡がずっと続いたことだけだ──星の声に耳を傾けていると海上の道が指し示されたことしか覚えていない。チャーミアンは知らなかったし、マーチンも給仕のトチギも知らないことだった。だが、ぼくは連中に教えてやった。ぼくこそ神のメッセージを伝える者なのだ。ぼくは連中と無限の世界との間に立って、天体が告げていることを連中が理解できる普通の言葉に翻訳したのだ。ぼくらは天に導かれていたが、空の道標を読むことができるのはぼくだった! ぼくだ! ぼくなんだ!

そしていま、少し冷静になってみると、天測の仕組みの単純さをしゃべりすぎたようだ。ロスコウや他の航海士、神秘の衣をまとった人々についても言い過ぎてしまった。というのも、彼らが秘密主義で、自尊心で思いあがっているのではないかと懸念していたからだ。というわけで、いまはこう言いたい。人並みの頭があり普通の教育を受け、学ぼうという気持ちが少しでもある若者なら、解説書と海図、計器を手に入れて独学でマスターできる、と。とはいえ、誤解されないようにつけ加えておくと、シーマンシップはそれとはまったく別のことだ。一日や数日で覚えられるようなものではなく、何年もかかる。また、推定航法で航海するにも長く勉強し実地に訓練することが必要だ。だが、太陽や月、星を測定して航海することは、天文学者や数学者のおかげで、子供でもできる簡単なことになっている。平均的な若者であれば一週間で独習できるだろう。また誤解のないように言っておくと、一週間独学を続けたからといって、それですぐに一万五千トンの蒸気船の責任者として毎時二十ノットで大陸間を航海できるようになるというわけではない。航海には好天もあれば荒天もあるし、晴れの日もあれば曇りの日もある。スケジュールとにらめっこで羅針盤の針を見ながら舵をとり、驚くべき正確さで陸地を見つけなければならない。何が言いたいかというと、前述したように人並みの若者であれば、航海術について何も知らなくても、頑丈な帆船に乗りこんで大海原を横断することはできるし、一週間もあれば自分の現在位置を海図で示すくらいのことはできるようになるということだ。かなりの精度で子午線を観測し、その観測結果に基づき、十分もあれば簡単な計算をして緯度経度を出すことができる。貨物や乗客を運ぶ必要がなく、予定通りに目的地に到達しなければならないというプレッシャーがなければ、気持ちよくゆっくり進めるし、自分の航海術に自信が持てず近くに陸があるかもしれない不安にかられたときには一晩中ヒーブツーで停船させて朝を待てばいいわけだ。

数年前、ジョシュア・スローカムは一人で三十七フィートの自作のヨットに乗って世界をまわった。彼がそのときの航海について、若者には同じように小さな船に乗り、同じような航海をしてほしいと本気で述べていたことが忘れられない。ぼくは彼の言葉をすぐに実行に移すことにして女房も連れ出したというわけだ。小さなヨットの航海からすればキャプテン・クックの航海も安直に思えてくるが、それよりも何より、楽しみや喜びに加えて、若者にとってはすばらしい教育にもなるのだ──いや単に外の世界、土地、人々、気候についての教育ではなく、内なる世界の教育、自分自身の教育、自分というもの、自分の心を知る機会にもなるのだ。航海自体が訓練であり修行である。当然ながら、そうした若者はまず自分の限界を知ることになる。次に、これも避けられないが、そうした限界を打ち破っていこうとする。そうして、そのような航海から戻ってくると、ひとまわり大きな人間、もっとましな人間になっているというわけだ。スポーツとしては王のスポーツだといえる。どういう意味かというと、自分以外に誰も頼るものがなく、自分の手で船を動かし、世界をぐるりとまわって最後には出発点まで戻ってくるのだが、宇宙を好転する惑星について自問しつつ沈思黙考し、達成できればこう叫ぶことになる。「やった、自分の手でやりとげたぞ。自転する地球を航海したんだ。自分はもう導き手の助けも受けなくても航海することができる。他の星に飛んでいくことはできないかもしれないが、この地球では自分自身が主人だ」と。

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闖入者

スナーク号の航海 (20) - ジャック・ロンドン著

というわけで、ぼくがどうやって天文航法を独学したか簡単に説明しよう。ある日の午後ずっと、ぼくはコクピットに座り、片手で舵をとりながら、もう一方の手で対数の本をめくって勉強した。それからの二日間、午後二時間を航海術の理論、とくに子午線高度の勉強にあてた。そのうえで六分儀を手に持ち、器差を補正して太陽の高度を測った。この観察で得られたデータを元に計算するのは簡単だ。「天測計算表」と「天測暦」で調べるのだ。すべて数学者と天文学者が考え出したものだ。これは、よくご存じの利率表や計算機を使うようなものだ。神秘はもはや神秘ではなくなった。ぼくは海図の一点を指さし、いまはここにいると宣言した。それは間違っていなかった。というか、ロスコウとぼくがそれぞれ割り出した位置は一海里ほど離れていたのだが、同じ程度には正しかったということだ。やつは自分の位置とぼくの位置の中間にしようかとさえ言ってくれた。ぼくは神秘を爆破し消滅させてしまった。とはいえ、それはやはり奇跡ではあって、ぼくは自分の内に新たな力を感じてぞくぞくしたし、くすぐったくもあった。ぼくがかつてロスコウに現在の位置をたずねたのと同じように、マーチンがおずおずと、しかし尊敬の念をこめてぼくに現在の位置を聞いてきたとき、ぼくは最高位の司祭として暗号めいた数字で答えた。マーチンは敬意をこめた「おう」という声をもらしたが、それを聞くとぼくは天にも昇るような高揚感を感じた。チャーミアンに対しても、あらためて、どうだいと自慢したくなった。ぼくのような男と一緒にいるとは、きみはなんて運がいいんだという気にもなったが、むろん、そんなことは口にしなかった。

自分がやってみてわかったのは、どうしてもそうなってしまうということだ。ロスコウや他の航海士たちの気持ちがわかった。こういう力を持っているという思いが毒となってぼくにも作用していた。他の男たち、大半の男たちが知らないこと──果てしない大海原で天の啓示を得て進むべき道を指し示すこと──ができるということ、この快感を自分の力として一度味わってしまえば、もうそこから逃れられない。長時間にわたって舵をとりながら、その一方で神秘を勉強しつづけた原動力がこれだった。その週の終わりには、暗くなってからの測定もできるようになった。夜には北極星の高度を測定し、器差や高度改正などの補正を行って緯度を得た。その緯度は、正午に割り出した位置について進路と速度を勘案して求めた推測位置とも合致した。自慢してるのかって? 悪いが、もっと自慢させてもらおう。ぼくは九時に次の測定を行うつもりだった。問題点を検討し、どんな一等星が八時半ごろに子午線を通過するのかを知った。この星はアルファクルックス(アクルックス)だとわかった。この星のことは聞いたことがなかったので星図で調べた。南十字星を構成する星の一つだった。なんと、航海しながら夜空に輝く南十字星を知らなかったとは! なんたる間抜け! われながら信じられない。ぼくは何度も見直して確かめた。その夜は八時から十時までチャーミアンが舵をとってくれた。ぼくは彼女に、よく見てろよ、真南に南十字星が出てくるからと言った。そうして星々が見えるようになると、水平線近くの低い空に南十字星が輝いた。自慢かって? どんな医者でも高僧でも、このときのぼくくらい天狗にはなれないだろう。ぼくは聖なる祭具、つまり六分儀を用いてアクルックスを測定し、その高度から自分のいる場所の緯度を割り出した。さらに北極星も測定したが、それも南十字星で得られた値と合致した。自慢かって? そうさ、星のことならぼくに聞いてくれ。星の言うことに耳をすましていると、大海原で自分がどこにいるか教えてくれるのだ。
[訳注]
子午線: 赤道と直交し、北極と南極を通る大円。無数にありうるが、自分のいる場所を通る経線と同じ。

スナーク号の航海(19) - ジャック・ロンドン著 

スナーク号の建造中、ロスコウとぼくとの間では、こんな合意ができていた。「教本や計器類を船に持ちこむから、今から航海術を勉強しておいてくれ。これから忙しくなるはずだから、ぼくに勉強する暇なんてないと思う。だから、海に出てから、お前が覚えたことをぼくに教えてくれ」と。ロスコウは喜んだ。前にも書いたように、ロスコウは率直で無邪気で謙虚なやつなのだ。だが、海に出ると、やつは聖なる儀式をつかさどる風を装うようになり、ぼくが感心するように見ていると、ちょっとした進路の変化をもったいぶって海図に書きこんだりしたものだ。正午に太陽の高さを測定するとき、やつの姿は神々しく光り輝いた。船室に降りて行って観察したデータに基づいて計算し、また甲板に戻ってきて現在地の緯度経度を教えてくれた。口調も一変して厳粛になっていた。とはいえ、問題なのはそういうことではない。やつは、ぼくらに伝えられない情報をいっぱい抱えるようになったのだ。つまり、スナーク号が海図上でいきなり瞬間移動する距離が大きくなるほど、やつの情報ではその理由を説明できず、位置情報が神聖で不可侵のものになっていったのだ。ぼくも自分で勉強すべきころあいかなと言ってみたのだが、気のない返事しかせず天測を教えようとはしなかった。最初に同意したことを守るつもりはさらさらないようだった。

だが、これはロスコウが悪いというのではない。どうしようもないことなのだ。やつは単に先人の航海士たちと同じ道をたどったにすぎない。天測で得られた数値が違っていたとしても、ま、それはわかるし許されもすることなのだが、やつは船の現在地を割り出して進むべき方向を決めるということの責任の重さを痛感しつつ、大海原で太陽や星を見て位置を判断する神のような力が自分に備わっているという体験を重ねていたのだ。ロスコウはそれまでの人生をずっと陸上で過ごしてきた。常に陸が見えていた。絶えず陸地が見えていて、目印となるものがあるため、たまに道に迷ったとしても、地上ではなんとか方向がわかったものだ。しかし、ここは果てしなく広がっている海の上だ。海の向こうには、どこまでも丸く広がる空があるだけだ。この丸い水平線はいつでも同じに見える。陸標などありはしない。太陽は東から上って西に沈み、夜には星々がずっとまわっていた。つまり、太陽や星を見て「いまいる場所はスミザースビルのジョーンズさんちの現金売りの店の西、四と四分の三マイルだ」とか「自分がいまどこにいるかわかっているさ。というのも、リトル・ディッパーがボストンは二番目の角を右に曲がって三マイル先だと教えているからね」などと、誰が言えようか。ロスコウが航海士としてやっていたのは、それと同じことなのだ。最初は自分がやってのけたことに驚いてもいたが、それにも少しずつ慣れてきて、畏敬の念を起こさせる仕草で奇跡のような妙技を披露するようになった。広い海面で自分の位置を割り出す行為は儀式となり、奥義を知らずやつに頼り切りのぼくら、大陸と大陸をつなぐ波だけで道標もない大海原で進路を教えて面倒を見てやっているぼくらよりも自分の方が優秀だと感じるようになっていったのだ。それで、やつは六分儀を用いて太陽神に敬意を表し、専門書と魔法のような符号表のページを繰り、目盛り誤差、視差、屈折といった呪文をつぶやき、聖杯と呼ばれる祈祷書──つまり海図のことだが──に神秘的な記号を書きつけ、追加し、移動させて、割り出した空白部分を指さして「現在地はここだ」と宣言するのだ。ぼくらがその空白部をのぞき「位置は?」と聞くと、彼は高貴なアラビア数字で答えるのだ「31─15─47北緯、133─5─30西経」と。そこで、ぼくは「ほう」感心することになる。

というわけで、はっきり言っておくが、これはロスコウが悪いのではない。やつは神の領域に近づき、ぼくらを掌に載せて海図上の空白のスペースを進ませてくれたのだ。ぼくはロスコウを尊敬した。この尊敬の念はますます大きくなり深くなっていったので、やつは「膝まづき、あがめよ」と命令するほどになった。ぼくは自分が甲板に座りこみ大声でそうたたえるべきだとわかってはいた。だが、ある日、ふと気づいたのだ。「こいつは神なんかじゃない、ロスコウだ」と。「ぼくと同じ人間だ。こいつにできたのなら、ぼくにもできるだろう。やつは誰に教わったんだっけ。独学だ。じゃあ、ぼくも同じようにすればいい──自分で勉強するんだ」と。そして、そこでロスコウと衝突したのだ。やつはもうスナーク号であがめられる司祭などではない。ぼくは聖域に侵入し、専門書と魔法の表と祭具、つまり六分儀を渡すよう命じたのだ。

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航海術の秘儀

スナーク号の航海 (18) - ジャック・ロンドン著

第4章

到着

「でも」と、ぼくらの友人が異議を唱えた。「航海士を乗せないで、よく航海に出られるな? 君は航海術を知らないんだろ?」

ぼくは、自分が航海術を知らないこと、人生で一度も六分儀をのぞいたことがないこと、天文暦で緯度経度を割り出せるか自信がないことを告白しなければならなかった。連中がロスコウはどうなんだと聞いたとき、ぼくは頭を振った。ロスコウはそのことに腹を立てていた。彼は今度の航海用に持ちこんだ海図に目をやり、対数表の使い方を知っていて、六分儀も何度か見たことがあり、その用途も船乗りの必需品であることも知っているというのを根拠に航海術を知っているという結論を出していた。だが、そうじゃないと、ぼくは今でも言いたい。ロスコウは若いころに東海岸のメイン州からパマナのイスマス経由で西海岸のカリフォルニア州までやってきたのだが、それが陸が見えないほど離れた唯一の機会だった。航海術を教える学校に通ったことはないし、そういう試験に合格してもいない。まして、大海原を実際に航海したこともなければ、他の航海士から技術を学んだこともないのだ。彼はサンフランシスコ湾のヨット乗りなのだった。湾内ではどこにいても数マイル先に常に陸が見えていて、航海術が必要になることはないのだ。

というわけで、スナーク号は航海士を乗せずに長い航海に出たのだった。ぼくらは四月二十三日にゴールデンゲート・ブリッジをくぐり、カモメのように空を飛んでいけば二千百海里先にあるはずのハワイ諸島を目指した。結果よければすべてよし、というわけで、ぼくらは無事に到着した。懸念されたようなたいした問題もなく着いてしまった。つまり、大問題になるようなトラブルらしいトラブルはなかったということだ。初めから順に言うと、ロスコウは航海術では苦戦した。理論は大丈夫なのだが、それを実地に当てはめるのは初めてだったのだ。スナーク号の航跡が迷走しているのが、それを証明している。スナーク号の航跡はすっきりしていたとは言えない。海図上ではギクシャクした動きになっていた。軽風の日に、海図の上ではまるで強風で爆走したみたいに大きく移動していたり、快調に帆走した日にほとんど位置が変わっていなかったりした。とはいえ、時速六ノットで連続して二十四時間航海すれば、百四十四海里進んだことになるのは自明だった。海にも曳航測定儀にも問題はなかった。スピードについては目で見ればわかる。というわけで、大丈夫じゃなかったのは、海図上でスナーク号の位置を決めかねた人間の方だった。こういうことが毎日起きていたわけではないが、実際にあったことだ。そして、理論を初めて実地に応用しようとするときには、よくある話というわけだ。

航海術を知っているという意識は、人の心に微妙な影響を与えるらしい。たいていの航海士は航海術について語るとき、深い敬意が払うものだ。素人にとって、航海術は奥深く恐れ多い神秘に思えるが、そうした意識は、航海術に対する航海士の敬虔な態度や仕草に影響を受けてもいるだろう。率直で無邪気で謙虚な、太陽のように隠しごとをしなかった若者が、航海術を学ぶと、何か知的な偉業をなしとげたみたいに、すぐにもったいぶり尊大になってしまった。ぼくら素人には、なにか聖なる儀式をつかさどる聖職者のような印象を与えた。アマチュアのヨット乗りの航海士は、息を殺し、ぼくらにありがたく聖なるクロノメーターを見るよう促すようになった。というようなわけなので、友人たちは航海士を乗せないぼくらの航海に懸念を感じたのだった。

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船上でのチャーミアン

スナーク号の航海(17) - ジャック・ロンドン著

さらに「五フィート(百五十センチ)ちょっと」の小柄な男からの手紙がこれだ。「あなたが夫人と一緒に小さな船で世界一周されるという勇敢な計画の記事を読み、自分自身が計画しているみたいでとてもうれしくなりました。それで、コックか給仕のどちらかになれないか手紙を書いてみようと思ったのですが、ある事情があって、そうしませんでした。それから友人の事業を手伝うため、先月、オークランドからデンバーにやってきたのですが、状態は悪化し、まずいことになっています。でも幸いなことに、あなたは大地震のため出発を延期されました。それで、ついにどちらかの職につけないか申しこむ決心をしたというわけです。身長百五十センチの小男で非常に頑健というのではありませんが、とても健康だし、いろいろなことができます」

「私はあなたのお仲間に風の力をさらに活用する方法を伝授できると思うのですが」と、ある志望者は書いた。「軽風では普通の帆の邪魔にならず、強風のときにはそのすべての力を利用することが可能です。風が非常に強いときには通常の方法で使用される帆は取りこまなければならないかもしれませんが、私の方法ではフルセールを展開しておけます。この装置を取りつけておけば、船が転覆することはありません」

前記の手紙は一九〇六年四月十六日付で、サンフランシスコで書かれていた。二日後の四月十八日に大地震が起きた。それがこの大地震が嫌いになった理由だ。というのも、この手紙を書いてきた人は被災してしまい、一緒に行けなくなったからだ。

同志たる社会主義者たちの多くは、ぼくの航海に反対した。その典型的な理由は「社会主義の目的、さらに資本主義に抑圧された何百万もの同胞は、貴殿が生命をかけて奉仕することを要求する権利を持っている。とはいえ、貴殿が航海に固執するのであれば、溺死する寸前、口いっぱいに海水が入ってきたとき、少なくとも我々は反対したということを忘れないでもらいたい」というものだった。

一人の放浪者は「機会があれば異常な光景について、いくらでも話をすることができるのだが」と、何ページも費やして核心をつこうと努力した最後に次のようにしたためた。「これでもまだ自分があなたに手紙を書いている核心には触れていないのですが、あなたが二、三人で五、六十フィートの小舟で世界周航に出かけられるという記事を目にしたので、とりあえずご忠告しておきます。あなたのような才能や経験を持つ人がそのような方法で死を招くことにしかならないようなことをされるとは思いもよりませんでした。一時しのぎはできたとしても、そんな大きさの舟は絶えず揺れているし、あなたやご一緒の人たちはあちこちぶつけてケガをすることでしょう。クッションを当てていたとしても、海では想定外のことが起こるんですよ」 ご厚意には感謝するしかない。ありがとう、親切な人。この人には「想定外のこと」を語る資格がある。彼は自分自身について「自分は新米の船員ではなく、あらゆる海や大洋を航海した」と言っているのだ。そして、手紙を次のように締めくくっていた。「人を怒らせるつもりはないのだが、女性をそんな小舟で湾の外に連れ出そうとするだけでも狂気の沙汰だ」と。

だが、この原稿を書いている時点で、チャーミアンは自室でタイプライターに向かっている。マーチンは夕食をこしらえているし、トチギは食卓を整え、ロスコウとバートはデッキで作業している。スナーク号は誰も舵を持っていないが、波音を立てて時速五ノットで進んでいる。スナーク号にはクッションは積んでいない。

「予定されている旅行についての新聞記事を拝見しました。私どもには六名の優秀な若い船乗りがおりますが、そちらで腕ききの乗組員を必要とされているのか知りたいと存じます。全員アメリカ国籍を持ち、海軍を除隊するか商船を降りたばかりの二十歳から二十二歳の若者で、現在はユニオン・アイアン・ワークス社で艤装担当として雇用されていますが、あなたと航海したがっております」──自分の船がもっと大きかったらと後悔させるような、こんな手紙もあった。

そして、チャーミアン以外に、世界でただ一人、航海志願の成人女性がいた。「もし最適なコックが見つからなかったら私が志願します。私は五十歳で健康ですし料理も得意なので、スナーク号の乗組員のみなさんのお役に立てます。料理にはとても自信があり、帆船の経験も旅行の経験もあります。一年きりの航海よりは、十年も続くような航海の方が私にはぴったりくるのです。参考までに……」

いつかお金を稼いだあかつきには、志願者が一千人いても乗れるような大型船を建造しよう。そうした志願者は船で世界中を航海するための作業すべてをこなさなければならない。でなければ家にいることだ。そうした連中は持っている技術を駆使して船で世界中をまわるだろうと確信している。というのも、冒険は死にたえていないからだ。冒険についての一連のやり取りを通して、ぼくは冒険心は死に絶えていないと知ったのだ。

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赤道無風帯にて

スナーク号の航海 (16) - ジャック・ロンドン著

志願者の大半が少年だと思ってもらっては困る。逆に、割合でいうと少年は少数派だった。人生のあらゆる段階の人々、つまり老若男女の志願者がいた。内科医、外科医、歯科医も大挙してやってきたし、そんな専門家すべてがどんな役割でもやるし、自分の専門領域についても無償でいいと申し出てくれた。

経験のあるボーイや料理人、司厨長は言うまでもなく、同行したがった物書きや記者は引きも切らなかった。土木技師たちも航海に熱心だった。チャーミアンにとっては「女性」のお友だち志願者がたくさんいたし、ぼくの方には個人秘書志願者が殺到した。高校生や大学生たちも航海に出たがっていたし、労働者階級のあらゆる職業から志願者があったが、特に機械工、電気技師、技術者が熱心だった。ぼくは、辛気くさいオフィスで冒険の呼び声に心をゆさぶられた人々が多かったことに驚いた。さらに、年配で引退した船長たちに海に戻りたいと思っている人が多いということにも驚いた。若者たちは冒険したくてうずうずし、その数も増える一方で、いくつかの郡では学校の責任者も含まれていた。

父親たちも息子たちも航海に同行したがり、妻のいる多くの男たちも同様だった。若い女性の速記者は、こう書いてよこした、「私が必要ならすぐに返事をください。タイプライターをかかえて始発列車に乗ります」と。しかし傑作は──自分の妻に対する仕打ちときたら何をかいわんやだが……「旅行にご一緒する可能性について質問させていただくため立ち寄らせていただこうと思っています。二十四歳で、結婚していましたが離婚しました。このようなタイプの旅こそ求めていたものです」

考えてみれば平均的な男にとって、あからさまに自薦する手紙を書くのはかなりむずかしいことであるに違いない。手紙をよこした者の一人は、「これはむずかしいです」と、手紙の冒頭ではっきり語っていた。そうして自分の長所を披瀝しようとむなしく努力した後で「自分について書くのはすごくむずかしいです」と繰り返して締めくくっていた。とはいえ、自分を自画自賛する饒舌な者も一人いて、最後に、自分について書くのは非常に楽しかったと述べていた。

「でも想像してみてください。雇った給仕がエンジンを動かせて、故障したら修理できるとしたらどうでしょう。交代で舵も持てるし、大工仕事や機械工の仕事もこなせるのです。丈夫で健康だし勤勉でもあるのです。船酔いしたり皿を洗うだけで他に何もできない子供を選ぶつもりはないのでしょう?」 この種の手紙は拒絶しにかった。これを書いた人は独学で英語を覚えたそうで、米国滞在は二年にすぎず、さらに「生活費を稼ぐために同行したいのではなく、もっと学び見聞を広めたいのです」という。ぼくに手紙を書いた時点で、彼は大手のモーター製造会社の一つで設計者をしていて、海の経験も相当にあり、小型船の操作に人生をささげていた。

「申し分のない地位にあるのですが、自分としては旅行してみたい気持ちの方が強いのです」と、別の一人は書いている。「給料については、自分を見てもらって、一ドルか二ドルの価値だと思われたのであれば、それでかまいません。自分がそれにも値しなければ無給でも結構です。自分の正直さと品性に関しては、雇い主を喜んで紹介しますので、ボスに聞いてみてください。酒もたばこもやりませんが、正直に言うと、もう少し経験を積んだ上で、少し書き物をしたいと思っています」

「自分についてはまともだと保証します。他のまじめな連中は退屈だと思っています」と書いてきた男は、たしかにぼくに想像力を働かせたが、彼がぼくを退屈だと思ったのかな、どんな意味で言ったのかなと、ぼくは今でも戸惑っている。

「今より昔の方がよかった」と、経験豊富な船乗りは書いてきた。「とはいえ、それもずいぶんひどいものではあった」

次のような文章を書いてきた者には自己犠牲の意欲が感じられて痛々しかったので断るしかなかった。「僕には父と母と兄弟姉妹、仲の良い友人、実入りのいい仕事がありますが、それをすべて犠牲にしても、あなたのクルーの一人になりたいのです」

もっと受け入れがたかった別の志願者は、自分にチャンスを与えることがいかに必要かを示そうとした好みのうるさい若者で、「スクーナーや汽船など、ありきたりの船で出かけることは無理です」という。「なぜなら、ありきたりの船乗りたちと一緒に生活しなければならないからです。そういう生活は清潔というわけではないので」

「人間の感情すべての面を体験し」、さらに「料理からスタンフォード大学通学まであらゆることを行ってきた」という二十六歳の若者もいて、その手紙を書いている時点では「五万五千エーカー(約二万二千ヘクタール)」の放牧地でカウボーイ」をしているという。それとは対照的に「私には貴方様に検討していただけるような特別なものは何一つありませんが、万一にでも好印象を持たれたとしたら、少し時間をさいて返事を書こうという気になっていただけるかもしれません。ダメだとしても、自分の業界には常に仕事があります。期待はしていませんが希望はしています。お返事をお待ちしています」というのもあった。

「貴殿を知るずっと前に、私は政治経済学と歴史を融合させたが、その点で貴殿の結論の多くを具体的に推論していた」と書いてきた人がいたのだが、それ以来ずっと、その人と自分は知的に同類なのかなと頭を抱えている。

ここで、ぼくが受け取ったうちで上出来の短かい手紙の一つを紹介しておこう。「航海に関して契約した会社が翻意し、ボートやエンジンなどに通暁した者を必要とされる場合にはご一報ください」。短いものをもう一つ。「単刀直入にお聞きしますが、世界周航で給仕の仕事や船で他の仕事をする者が必要ですか。自分は十九歳で、体重百四十ポンド(約六十三キロ)、アメリカ人です」