米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第32回)
サンディエゴの名物
クラゲとガラガラヘビと火事は、ここサンディエゴの名物である。しかし、『名物にろくなものはない」という諺(ことわざ)は茫漠(ぼうばく)たる北太平洋を超えて、五千里離れたアメリカにおいてもなお、少なからぬ権威を持っている。
(上)クラゲ
サンディエゴ湾はわずか四町ないし六町*1の幅をもって、十二海里*2も奥に突入しているところであるから、一日四回の満潮干潮の際は、非常な速力で潮が流れる。だから小舟やボートなどは、よほど気をつけていないと、思わぬところに流されることがある。このボートでの上陸のつど、美しいと感じるのは、速い潮流のまにまに漂い流れているクラゲの大群である。中秋の空のような瑠璃(るり)色に光った帽子くらいの大きさのやつが、鉄色に濁った水の中でヒレを伸縮させながら続々と流れ去っていく。壮大にして秀麗な天然の一大(いちだい)象嵌細工(ぞうがんざいく)である。
*1: 町 - 長さの単位で109.09m。四町~六町はほぼ436~654メートル。
*2: 海里 - 長さの単位で1852m。十二海里は約22キロメートル。
高潮の際、はるかに見渡せば、目がさめるほどの瑠璃(るり)色の塊(かたまり)が潮に乗って流れ去る様子は、収穫時のスイカ畑に踏みこんだようである。この一見すると、すこぶるのんきで不器用な、浮世の風とは没交渉のようにみえる飄々(ひょうひょう)たる生物が、サンディエゴ湾によって生きている漁師や船乗りにとって、はなはだ大きな関係を持つのは、造化の妙とほめたたえるよりはむしろ、自他ともに生物界における望外の幸福といわねばならぬ。
なぜなら、クラゲ(ジェリーフィッシュ)なるものが、その運動方向によって満潮と干潮とを暗示するのみならず、その静止状態によって、船乗りは最も必要な停潮(ていちょう)時間を見て知ることができるからである。
(中)ガラガラヘビ
同県の友で諸岡くんという人がいる。有名なスイートウォーターダムの近くに、ささやかな宿舎(キャンプ)を建てて、苦労しながらも四千エーカーの菜園で野菜ものの栽培を試みている。
その諸岡氏が雑役に託して贈り物をくれたという。上甲板に出てみると、二箱のみかんの他に、怪しいビンが一本あった。そばに寄ってひそかに偵察してみると、ジンジンとスズムシのような音がする。
かぶせてある紙袋をのけてみると、いたわ、いたわ!! 三尺長さのニョロ長い先生が狭いガラスビンに入れられて、窮屈そうにとぐろを巻き、かしこまっていた。
瑠璃(るり)に映じる人影を見、甲板に落ちる足音を聞き、ガラガラヘビは決然として鋭角三角形の頭をもたげ、灰褐色の毒々しい舌をちらちらさせ、七連の節鈴(せつれい)*3を激しくビンも砕けよとばかり鳴り響かす。厄介な奇怪千万の贈物(プレゼント)である。チーク色の細かいアズキ紋の背皮から立ち上る陽炎(かげろう)は、瞬時の間にビン中の空気を有毒ガスに化せしむるかと疑われるばかり。
*3: 七連の節鈴(せつれい)-ガラガラヘビの尾の先端には節がある。これは脱皮したときの尾の先端の残りが角質の輪状になったもので、それがさやのようにつながっていて、これを振って音を出す。
この獰猛(どうもう)な鈴音を聞きつけたからでもなかろうが、ひょっこり医官(ドクター)が例の顔をして──顔によそ行きもとっておきもないから例に決まっているが──上甲板に出てくる。「ヤ。これは珍物!」と、考古学者が希代の埴輪でも掘り出したような讃嘆の声をもらす。さっそく剥製(はくせい)にするかアルコール漬けにしたいという。今にもよだれを垂らしそうな口調で、どこで誰がとって誰への贈物(プレゼント)かと聞く。スイートウォーターダム付近で諸岡氏が素手(すで)でとらえたというと、毒蛇中の毒王を生け捕りした手柄をたたえ、一等航海士(チーフメイト)への贈物と聞いてうなづいた。
医官(ドクター)の話によれば、先年に練習船が南米を訪問したときに、チリの一外人の家で同じくラットル先生*4を見つけて、くれと言ったけれど、さすが日本びいきのチリ人も縦に頭を振らず、撮影だけなら……と言ったそうだ。
*4: ラットル先生 - ガラガラヘビは英語ではそのまま rattlesnake (ラトルスネイク)という。
一時間ばかりもして行ってみたら、かの獰猛な毒蛇もクロロホルムのためにもろくも息絶えて、黄色いアルコールの中に浸(ひた)されていた。
(下)火事
アサクサノリに錦絵(にしきえ)、江戸紫(えどむらさき)に火事の花と、江戸名物のうちに数えられた旧幕時代の祝融(しゅくゆう)*5氏が、いまはこのサンディエゴに来て幅を利かしている。
*5: 祝融 -中国古代神話の火の神。
八月三十一日、日本船が入港してから、毎日ボーボーと牡牛のような警笛(ホイッスル)が三度以上聞こえないことはなかった。カラスの鳴かぬ日はあっても消防署の警笛(ホイッスル)の鳴らぬ日はないなどという比喩(たとえ)が歌われているかもしれない。例のアールさんの話によると、毎日平均四回の大火事小火事がある。そのたびに警報器は火事を消防本部へ伝え、従って警笛(ホイッスル)は無遠慮に六万の全市民の心臓を恐縮せしむべくボーボーと鳴る。この警笛(ホイッスル)にも鳴分(なりわ)けがあって、ボーボーボーと三長声の後の短声の数によって市の各区を略報することになる。
ある日のごときは意地悪い祝融氏の子分がこっそりと申し合わせたかのように、東西南北にくびすを接して続発し、消防隊を奔走させた。まず午後の三時ごろに北衛(ノースストリート)に突発し、蒸気ポンプの自動車や伸縮自在の火事はしごがコマネズミのように疾走するのを見かけたが、それが現場に着くか着かないうちにまたまた他のやつが西衛(ウエスト)に起こった。ソレ西衛(ウエスト)だッと思う間に、今度はきまぐれなやつが入江を飛びこえて、コロナドビーチで騒ぎ出した。炎々たるガスタンクのような火柱が血を塗ったようにせり上がったと思ったら、またまた中央区のグランドホテル付近に黒煙が舞い上がった。
いかに消防設備が完備し、出動準備がすぐにできても──警笛(ホイッスル)が鳴ると同時に吊り上げられてあった馬をつなぐ轅(ながえ)がガチャンと落ちる。おとなしく居眠りしておった馬がまっしぐらに駆けてきて、その前にピタリと止まる。眠っていたヘルメット帽子に金ボタン姿のトビの者が、階層の上下を縦に貫く真鍮柱を伝ってスラスラ降りる。その間に蒸気が沸き立つ。おどろくなかれ、これまでわずかに三十秒間の仕事である。──超自然力を持つと想像されるエホバの神様さえ六日の連続した仕事にはついにへたばってしまったそうである。まして、骨惜しみする、労働の切り売りの上手な米国人である。三、四回も続発されると、いい加減にへたばらざるを得ない。
だから屯所(とんしょ)に詰めるものは当番だけで、他の者はのんきに家庭(ホーム)で細君の膝枕(ひざまくら)に寝ておって、警笛(ホイッスル)におっとり刀で駆けだすところは、よく日本に似ている。
そこで誰しも不審がるのは、その理由である。火事の原因である。
ミスターアールは言う。降雨の貧弱な点において南カリフォルニアは北チリと世界の一対をなす。したがって、それがために家屋も乾枯(かんこ)してペラペラものとなるからだと。なるほどと答える。まだあると言う。この出火の大部分は火災保険会社が焚(た)きつけるという。ちょっと驚かされる。驚いた自分の顔を嘲笑的にながめながら、保険会社は火災の惨害と保険の安全とを目の当たりに熟知せしめんがために、ご苦労にも、この無鉄砲な大仕掛けの傍若無人の勧誘手段をとるという。「では、警察の権威(オーソリティ―)は?」と反問すれば、駄目だ(ナッシング)と言ったまま、哄笑(こうしょう)した。
さては、例の手で、天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして、しかして漏らしているだろうと、一方ならず大陸的な行政事務に感服した。
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