現代語訳『海のロマンス』129:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第129回)

あわれテラノバ

だれ言うとなしに、テラノバが入港したという。
テラノバが?! あの気の毒な、あの勇ましい、あの懐かしいテラノバが!!

四月二十八日である。
南半球の秋は今日もまた悲しげに曇っている。フラム号といえば、かのアムンゼンを連想するごとく、テラノバといえば直ちに、かの「南極の征服者」たるスコット大佐の、壮烈な男らしい最後をしのばずにはいられない。しかも、前者の連想の内には光をうけて輝く栄誉が漂っているのに比べて、これはまた何たる、暗い、悲しい、痛ましい影が付き添った追憶であろう! 南方の大海原に悲しく降る雨にむせび、骨身にしみる風に泣いている黒い帆の影には、痛ましくにじんだ涙の痕(あと)があろう!!

今年の二月、百十九日の恐ろしく長い非人情な旅の後、ケープタウンに入港したとき、まず第一にぼくらを驚かせたものは、南極における悲劇であった*。スコット大佐の壮烈なる最後であった。そして最後に、読む人をして必ず心ゆくばかり泣かせてしまうその遺書であった。

* ケープタウン寄港の項でもふれたが、大成丸の世界周航中の一九一二年、英国のスコット大佐率いる南極探検隊は、苦難の末に南極点に到達した。
が、わずか一ヶ月ほどの差でノルウェーのアムンゼン率いる隊に先をこされていた。
失意の帰途、探検隊は全員が死亡した。テラノバは探検隊を運んだ船の名称で、遠征プロジェクト全体の名称でもあった。Terra Nova ship by Herbert Ponting, 1911
極地で一九一一年に撮影されたテラノバ号 {PD}

昔の武士には相身互(あいみたが)いというものがあったという。現今(いま)の船乗り仲間にもまたこの観念がある。ケープタウン市長発起の義援金募集への加入も、セント・カテドラルの追悼会列席もみな、この観念の表現に他ならぬのであった。されば、高いパンダスカルの下(もと)に、黒い汚い三本マストのバーク型の帆船を見いだしたときも、初対面の人に対するような窮屈な気分は少しもなくて、同情し敬慕していたため、むしろ、ある程度まで打ちとけた姿に思えた。

テラノバの与えた情緒的な感動は深いものではあったが、実際に目にしたテラノバは、案外みすぼらしいものであった。巨船や軍艦がいたづらに幅を利かせる「中央海区」を、はるかにホタファゴ寄りに離れて、ションボリと遠慮げに碇泊(ていはく)し、補助機関を備えた彼女の姿は、揚子江の支流の秦淮(しんわい)河のほとりで恩ある主人に死別した騅(すい)がまとっているような寂味(さびしみ)を持つように見えた*。

* 騅((すい)は、中国・古代の伝説の英雄、楚(そ)の項羽(こうう)の愛馬で、一日に千里をとぶと称された。項羽は、四面楚歌(しめんそか)の語源ともなった戦いで敗れて死んだ。

さて船乗りは相身互(あいみたが)いである。南極からのさびしい冷たい航海を続けて、からくもここにたどり着いたテラノバにまず最初に訪れた者は、大成丸の若き船人(ふなびと)であった。岩のような顔をくずして船内を案内した水夫は、いろいろの探検用具を説明してくれた。スキーも橇(そり)もテントポストもみな竹であった。そうしてカモシカの皮でこしらえたスリーピングバッグを見ては、かつては偉大なる南極の殉死者を抱擁したのかと、ちょっと妙な暗い気分になった。それからというものは、毎日のようにテラノバの水兵がやってきた。水夫長(ボースン)のウイリアムソンという男は、一九一二年の捜索隊においてライト支隊に加わり、十一月二十日、まっさきに故大佐の死んだ場所を見つけた人だという。

マッケンジーというロンドン子(コックニー)が、太い毛むくじゃらな指を不器用に動かしながら、巧みにマンドリンで「ダニューブの流れ」や「ローリングホーム」を弾いた*ときは、心憎いほどゆかしく思った。この若い快活な放浪者(コスモポリタン)は心地よき交歓の後、図に乗って、無邪気にも、ダンスや舟歌(シャンチー)の真似や、スコット大佐の故郷であるデボン州の方言まで、すべてのご愛敬を演じつくした。ぼくは懐かしさのあまりこの男を胴上げしてやりたいと思ったが、その仁王のような頑丈な骨格を見て、とても手に負えんとひそかに遠慮してしまった。

* ダニューブの流れ  ダニューブは英語でドナウ川のこと。ルーマニアの作曲家イヴァノヴィチに「ドナウ川のさざなみ」という哀愁を帯びた有名な曲がある。ローリングホームは、民謡を含めて複数の曲があるため特定できない。

五月一日にテラノバは錨を抜いて、あと四十日の帰航に就(つ)いた。ぼくらはカッターを艤(ぎ)して最後の別離(ボンボヤージ)をシュガーローフ山の下で叫んだ。帆桁の先端につけたロープであるブレイスを握っていたマッケンジーは、舟歌(シャンチー)をやめて快く微笑んだ。その微笑みは、狂喜せる英国民が、プリマス埠頭(ふとう)に彼らを迎えるときの歓呼を暗示するがごとく見えた。ぼくも思わず妬(ねた)ましいような、うらやましいような、喜ばしいような気分になった。その現実の刹那(せつな)には、極地に窮死(きゅうし)したスコット大佐の犠牲も、エレバスとテラの二艘と共に、永劫の謎の最後を遂げたる故フランクリンの悲劇*も共に心頭に浮かばなんだ。しかり、彼マッケンジーといえどもまた……。

* スコット大佐の南極探検より半世紀以上前の一八四五年、英国はフランクリン海軍大佐を指揮官とする北極海遠征のためエレバス号とテラ号を派遣した。両船とも氷に閉ざされ、乗組員一二九人全員が消息を絶った。

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