米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第122回)
美術館のまがいもの
リオ・ブランコ通りの美術館に入ってみると、さすがはラテン系の国だけあって、いかにもという一、二のアレゴリー式絵画(寓意画)を除いては、これはとその前に足を止めさせるものは多くは、パリのサロンを賑わした画(もの)か、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロやフランシス・ヴィエナの作(もの)であるが、惜しいかな、皆、模写である。まがいものである。
昼下がりのとろけるような柔らかい光線(ひかり)が、南欧の春をたっぷり浴びている一本のオリーブの木の間から、のぞいては微笑み、微笑んではまた隠れる明るい空気の中(うち)に、長春(ちょうしゅん)のようなふくよかな肉色を見せた女が、長椅子の上にうつ伏せになって安らかに寝ている。椅子から滑り落ちた右の手は白鳥の首のように白くしなやかに伸びて、蝋細工(ろうざいく)のごとく細くなったきれいな指の先で夢心地にウチワをまさぐっている。しとやかに半面をあらわした顔はいかにも静かに上品で、今にもスースーと穏やかで熟睡した寝息が聞かれそうであった。実にいい絵である。
もう一つはパリの夜会後の公園における小茶話会を描いたもので、一面に青い絵の具を大胆に使って夢幻的な夜の気分を巧みに薄く濃く印象せしめ、中央の机の上にささやかな卓上の洋灯(ランプ)を映りよく置いたもので、ちょっと青山熊次(あおやまくまじ)*氏の作品を偲(しの)ばせるようなものであった。この二つだけが素人のぼくを引きつけた例外の画(もの)で、他は皆かつて名前を聞いた欧州の大家たちの作品であった。
* 青山熊次(1886年~1932年): 兵庫県生まれの洋画家。
熊次は本名で、現在は一般に青山熊治が用いられる。当時、文展を中心に活躍する新進気鋭の画家だった。
その後、渡欧したものの、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦と重なり音信不通となって日本では忘れられた存在となっていたが、1926年に大作『高原』で復活する。
青山熊治『高原』(from Wikimedia, public domain、以下同じ)
階下の塑像室には絵や雑誌でおなじみのラオコーン*や、ミロのヴィナスや、瀕死のガウル人**や、桂(ローレル)を握れるアポロなどの、ローマやギリシャのまがい彫刻がしかつめらしく置かれてあった。
* ラオコーン: ラオコーンはギリシャ神話に出てくるアポロ神殿の祭司(さいし)。ここでは16世紀に発見されて美術界に大きな影響を与えたとされる、彼の逸話をめぐる群像彫刻を指す。
南カリフォルニアや南アフリカで見たのには、例の大切(だいじ)なところには柏(かしわ)の葉が当ててあるのに、ここはさすがに享楽御免(きょうらくごめん)の国柄のこととて、うやうやしく偉大なやつを奉呈してあるのみならず、ハーキュリース(ヘラクレス)やバルカンのは恐れ多くも半ばから欠損して雷火にうたれた松柏(まつがしわ)のようになっておったには閉口した。「ヴィナス」や「河の精女(ニンフ)」などの「優しい急所」には鉛筆の跡も黒々と無分別ないたずらがしてあったには思わず苦笑を禁じえなんだが、それを吹き消した形跡(あと)もなかったのには少なからず驚いた。
館内の一部は美術学校の入学試験場となっていると見え、三十人あまりの男や女の生徒が用器画*の受験をしておった。玄関を出るときバガモンド(浮浪者)らしい連中が三、四人集まってコソコソと何かを耳うちしておったが、その中の一人がつかつかと来て、突然パレブ・フランセイ・ウーアングレイ(フランス語ができますか、私は英語ができます)ときた。その熱心な口ぶりについ引っ込まれて少しはいけると答えたぼくをとらえて、今試験場でやっている問題を教えろときたには驚いた。用器画をやっているよと言ったら目を丸くして喜んでおった。やはり国民性なのか、一生の浮沈の決まるこの瀬戸際に立っても、なおもまがいものの試験で徹頭徹尾押し通す了見らしい。
* 用器画: 製図器具を用いて描く正確な幾何学図形。